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2 契機

『当然』の結果に称賛が『不必要』だというのならば、『当然』が瓦解した時には『不必要』だった事柄の存在意義そのものはどうなるのだろう。

 今の庵に、そんなことを考える余裕はなかった。

 代わり映えのしない毎日。朝起きて、学校に来て、勉強をして、帰宅して、勉強をして、眠る。それを繰り返していただけの日々は余りにも平穏で、少し退屈すら感じていた。そんな矢先に舞い降りた、不測の事態。

 期末考査。もうすぐ夏休みになる。そんな時期に訪れた『想定外』に、庵は初めて『驚いた』

 掲示板の前で庵は呆然としている。

 1番上にあるはずの自分の名前が、ない。見付けたのは、上から2番目。

 2位。こんなことは初めてだ。

 どこでミスをしたのだろうか。テスト用紙の返却が待ち遠しい。早くそこを徹底的に復習したい。いや、それよりも。

 庵の気持ちは逸る。目線を少しだけ上に向け、そして。庵の名前の上に表記された名前をぽつりと読み上げた。

「最上……海斗……」

 どこのどいつだ。知らない。

 当然だ。庵は周囲の人間に興味を抱かない。だから知るわけがない。

「最上ー!」

「……っ!」

 思ったよりも近くで意中の名前が聞こえ、庵は素早く振り返った。

 他ならぬ庵のクラスの教室が賑わっている。

 庵がゆっくりと教室に戻ってみると、ひとりの男の周囲にちょっとした人集りができている。

「すげーな!1位じゃん」

「いや……たまたまだよ」

「謙遜するなって日本史ダメ海斗!」

「分かってるなら言うなって!」

 中心で友人たちからの称賛浴びながら、揶揄すらも簡単に笑い飛ばしているのは。

 烏の濡れ羽色を思わせる黒髪を持つ中性的な顔立ちの男。切れ長の目が確かに知的な印象を与えるというのに、周囲の人間への対応は快活。身長は庵よりも高く、細身。担任の木村とどこか雰囲気が似ているような気もしたが、海斗はそれとは何かが違った。

「おいおい、いつそんなに勉強してたんだよ裏切り者め」

「いや、普通だから。みんなと同じ」

「それでトップとかイヤミか!」

 あいつが最上、だったのか。

 庵は記憶を引きずり出した。今にも消えそうな小さな小さな記憶ではあるが、それでもどこか眩い、鮮烈な記憶を。






 あれは初夏に開催された体育祭でのことだった。

 進学校であるからには体を積極的に動かすような行事なんて必要ないだろうに。

 庵は心からそう思いながら、体育祭の実行委員に自ら立候補した。

 運動は得意ではない。高校生活最初の体育祭を何としても盛り上げたかったわけでもない。ただ、実行委員としての雑務をこなしている方がクラスメイトと必要以上に関わる時間が減らせると、そう思っただけだ。

 思惑通り、実行委員ともなればやることが山積みであった。先輩たちはここぞとばかりに庵に雑務を押し付けてきたが、庵にとっても好都合でしかなかった。勉強のための時間が取れなくなるほどでもなく、問題はない。誰かから内申点も上がると聞いたが、それは庵にとってはおまけでしかなかった。

 そして迎えた体育祭の当日。その日も庵は淡々と雑用をこなしていた。

 先輩たちにとっては体の良い小間使いなのかもしれないが、それでも構わなかった。馴染むことのないクラスメイトの渦中にいるよりは何倍も落ち着く。ミーハーな先輩たちは率先して実況をやりたがったが、庵はむしろそんな役回りでなくて感謝していた。

 そんな具合で、プログラムを確認しながら先輩が読むべき台本や出場登録されている選手の名簿を整理していた。まさにその時だった。

 ひとりの男が、実行委員の本部にまでやってきて庵の手を引いたのは。

「石館くん、来て!」

「……!?」

 庵にとっては青天の霹靂だった。

 有無を言わさず捕まれた手。サンシェードが作る心地良い日陰の本部から、陽光の眩いトラックに引かれた時に感じた、あの熱。

 庵の手を引き走る男は競技中に庵を見ることはなかったが、眩しい光の中で跳ねる鮮やかな黒髪がとても印象的だった。

「い、石館くん! もうちょっと……もうちょっとだけ、速く走れないかな!?」

「無理を、言うな……!」

 あまりに呆気に取られていたので庵自身も忘れていた。突然の運動で体が驚き、既に息が切れていることを。

 庵は運動が不得意ではないが、得意でもない。それを世間的には不得意と呼ぶのだと、本人は知らない。

 庵のクラスの連中が集まっている場所からおどけた笑い声が聞こえる。結果は惨敗。完全に笑い者だ。

 ゴールを駆け抜けた後、庵は肩を激しく上下させながらいつまでも手を掴んでいる男の手を強く振り払った。そして今の競技が借り物競走であることを思い出す。

「お前、な……っ! お題は……、っ……何だったんだ……!」

 息も絶え絶えといった掠れた声で男に問う。ようやくその男が庵と向き合った。

「眼鏡をかけた人」

 呼吸が荒いのは庵と変わらないが、その男は平然と笑いながら、お題が書かれた紙を庵に見せてきた。

 なるほど、確かにその通りのお題が書かれている。だからこそ、尚更。庵は怒りを隠せなかった。

「だったら………………クラスにそんなやつ、ごまんと、いるだろう! わざわざ、遠い……本部まで、来やがって……!」

 そうすればこの男は勝てていたかもしれないのに。そうすれば自分もクラスの連中から笑われずに済んだだろうに。

「え? あー……そうだったか。うん、確かにそうだね。でも……」

 男は少しだけ悪びれるように自分の頬を指腹で掻いて苦笑い、どこかのクラスの方角を一瞥しただけですぐに庵の方へと向き直った。

「石館くんのことしか頭になかったんだ」

 あまりに迷いなく。あまりに真っ直ぐに。

 そんな言葉を宣うものだから、庵の呼吸は文字通り数秒制止する。

 負けたというのに、あまりに晴れやかな彼の笑顔はさっぱりとしていて、爽やかで。暑苦しいわけではなく、むしろそいつの纏う空気は冷静なくらいで、負けてしまったことなどまったく意に介しておらず、庵を責め立てたりもせず。

 選手退場のアナウンスが流れるなり、庵は一目散に本部の方へと駆けて戻っていった。

 あのただただ目障りで不快な男に、これ以上関わりたくなかった。自分とまったく違う世界の住人が、煌びやかすぎた。

 だから庵は知らない。あの男が誰だったのか。どこのクラスの者なのか。なぜ庵のことを知っているのかすら。

 知りたくも、なかったのだ。






 あいつが最上、だったのか。

 体育祭での鮮烈な出会いがあったというのに彼を今の今まで認識していなかったのは、庵自身が無意識に認識を拒否していたからなのだろうか。

 わからない。わからないが。

 今後は、そうはいかない。

 スポーツの分野は庵の専門外だ。海斗がそちら側の人間だというのならば、関わらなければいいだけのこと。しかし、勉強の分野ともなれば話は違う。

 いちばん上の場所は、そこだけは。おいそれと誰かに譲るわけにはいかないのだ。

「ねぇ、最上くん。間違ったところ教えてよ」

「あ、私もー!」

「はぁ? 俺らが優先だっつの!」

「最上くんは男女差別なんかしませーん」

「分かったから、みんなに教えるから争わないで」

「最上くん、やっさしー!」

「あ、でも僕、日本史は教えられないよ。選択問題ばっかりだったからほぼほぼ勘で答えただけだし」

「勘だけで何点取れるんだよあり得ねぇ!」

 あんなやつが、クラスメイトだったのか。

 最上海斗はこんなにもみんなから慕われている。改めて、住む世界がまるで違うと庵には思えた。

 海斗は容姿に恵まれ、トップになれるだけの知力もあり、人望も厚い。己と比べるしかなかったのは、庵には他に比較対象が思い当たらなかったから。そして。

 無性に、腹立たしかった。

 あんなにもただ安穏と日々を過ごしているだけの男が、簡単に自分を追い越した。ヘラヘラと勘頼りに回答したやつが、必死に研鑽を重ねてきた自分をあっさりとこき下ろした。

 庵は悔しさで拳を握りしめた。

 みんなから慕われたいなどと思わない。自分にはそんなものは向いていない。あんな風に誰彼構わず愛想笑いなど振り撒けないし、したくもない。ただ。ただ。

 成績だけは、負けられない。

 庵は着席するなり、いまだ休憩時間ながら教科書を取り出してはテスト範囲の復習を開始するのであった。

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