19 ジレンマ
修学旅行が終わるとすぐに夏がやってくる。
温暖化の影響で夏日は年々増えていき、体育祭も過ぎれば気温30度超えの真夏日となることも珍しくない。
「ここは以前も履修しただろう、何度間違うんだ!」
賑やかな昼休みの教室に響き渡った怒声。シ……ン、と静寂があたりを包み、うだるような暑さが瞬時に冷えた。……ような気がして、教室にいたすべての学生が声の元へと視線を向けた。
そこには、教科書とテストの答案を広げて頭を抱える海斗と、そんな海斗を叱り付ける庵の姿があった。
周囲が驚愕、あるいは困惑していることをわかっているのかいないのか、ふたりは構わずに言葉を交わしていた。
まず泣き言を洩らすのは海斗。
「だから、僕は本当に日本史が本当にダメなんだってば!」
その泣き言にすかさず異議を申し立てるのは庵。
「世界史はそうでもないだろう! だったらその言葉は言い訳にすぎない!」
「日本人の名前ってややこしいし時代が進むに連れて登場人物も事件も用語も増えていくじゃないか!」
「だから、それは世界史でも同じことだと」
「はーいはいはい! ストップお二人さん!」
庵と海斗の言い争いに待ったを掛けるべく駆け寄ってきたのはちょうど購買部から戻ってきた駿。
そこでようやくクラスメイトたちは、やれやれと人騒がせなふたりを放っておいて談笑に戻った。
海斗と庵は同時に視線を駿へと向ける。
「藤波くん助けてー……」
「藤波、お前からも最上に言ってやってくれ。気合いを入れろ、と」
「おーおー、わかった、わかったから。石館も珍しく根性論出すのちょっと待て、な」
このふたりを宥めることができるのは駿ぐらいのものだ、と。クラスメイトのあるいは同情の眼差しを向け、あるいは目線で声援を送るのだった。
「どうしたんだよ石館。海斗が日本史ダメダメなのはわかってたことだろ?」
「ああ、わかっていた。だが中間テストで間違えたところをまた間違えるのが俺には我慢ならない」
駿の登場だけで庵の怒りがそうやすやすと収まるわけはなく。庵はもういちど海斗に向き直った。
「どうしてお前は日本史に関してだけは『反省』『復習』という言葉を欠如させるんだ!」
「うぅ……」
言葉だけの謝罪など何の示しにもならないとわかっているのか、海斗はおとなしく項垂れている。
そんな海斗の姿がさすがに哀れになったのか、庵は少しだけ態度を軟化させた。
「他の教科を見れば、最上の地頭は絶対に悪くないはずなんだがな……。……日本史はそもそも好きじゃないか?」
「うーん……どうかな。好きでもなく、嫌いでもなく」
「他の科目は?」
「好きでもなく、嫌いでもなく」
緩んだはずの庵の剣幕が険しくなった。
「最上……」
庵の声が低くなったことで慌てた海斗が首を必死に横に振る。
「ちがっ……、日本史だけを特別軽視してるわけじゃなくて……っ!」
「じゃなくて、なんだ? ん?」
「いや……その……っ」
海斗がうろたえているのを助けるつもりだったのか、そんな意図ではなかったのか。ふたりを見守っていた駿は緩やかに腕を組んで言ってみた。
「じゃ、泊まり込みでもして石館に徹底的に教えてもらえば?」
やはり冗談も含まれていたのだろう、駿が笑いながら述べた提案に思いのほか食い付いたのは、なんと庵だった。
「それだ!」
珍しく満面の笑みまで浮かべている庵の姿に驚いたのは海斗はもちろんのこと、駿だけではなく近隣にいたクラスメイトたちもだ。
海斗はおそるおそる声量を落として問い直す。
「い……石館くん。それだ、って……?」
「最上、夏休みに俺の家に泊まりに来い! みっちり勉強を、特に日本史を見てやる!」
「ええ!?」
「もちろん、お前の予定は考慮する。あ……いや、そもそも各々の家庭の事情もあるか。お前の家は外泊は許されていないか?」
「そんなことはないよ……ないけど……」
「だったら決まりだな! 日取りはまた夜にでも通話で話し合おう」
「ま、待ってよ石館くん」
「なんだ?」
「いや……その……」
海斗の表情が浮かない。庵はそこでようやく、自分の勇み足に気が付いて罰が悪そうに眼鏡の位置を整えた。
「す、すまない最上。勝手なことを言った。お前に無理強いをしたかったわけじゃないんだ、すまない」
「ちがう。僕は嫌とかじゃないんだよ」
「……本当に?」
「本当だよ。……ただ……」
海斗の歯切れの悪さが庵には珍しく、小首を傾げるのみで先を促した。
「きみは……良いの? 本当に」
「……? 良くなければこんな誘いをするものか」
「う、うん……そうか、そうだよね」
駿の提案であったとはいえ、誘ったのは間違いなく庵からだ。海斗が何を心配しているのか、庵にはわからない。
庵のなかの疑念が拭えず、考え込みそうになったところで、海斗はあっさりと表情を晴れやかなものにした。
「じゃあ、お邪魔しようかな。詳細は夜に、だね。きみも、両親に予定を聞かなければいけないだろう?」
「あ……ああ、そうだな。それじゃあ、またあとで」
そこで昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。庵は次の授業の支度をするべく海斗と駿に背を向けた。
残された海斗と駿は庵の背を見守っていたが、すぐに駿が海斗の方を見下ろしてため息を吐いた。
「……なぁ、海斗。お前、あいつに本当にキスしたのか?」
「したはずなんだけどなぁ……。もう半年くらい前だけどさ」
「伝わってないんじゃないか? それか完全に忘れられてる?」
「どっちにしても……意識はされてないってことだよね」
「そうだな」
はっきりとした駿の肯定が海斗の心を見事に刺したが、海斗も薄々予想していたことゆえに苦笑するしかない。
「まぁ、今はそれでも良いよ」
「そうなのか?」
「石館くんが、他ならぬ僕のために何かをしようとしてくれているんだよ。これは間違いなく進歩だと思う」
「気長だな、海斗は……」
「あれ以来、僕も積極的に迫れていないし。だから一概に彼だけが悪いわけじゃないんだよ」
「ほう……ほうほう」
中学時代からの旧友が恋愛に対して存外慎重すぎるきらいがあるのは新鮮で、それならば今回の件はある意味では良い機会だと、駿は思うのだった。
「じゃ、急接近してみろよ」
「でも……大切にしたい」
「横から誰かにかっさらわれても良いのか?」
「良くない」
「そこまで言うならよ……」
「頭ではわかってる。わかってるんだよ、本当に……。でも、安易に体の関係なんて持ちたくないんだよ、僕は。……キスしておいてなんだそれ、ってきみは思うだろうけど」
海斗が人生で初めての難題にぶつかっている。駿はそう確信した。
駿とてまともな恋愛というものはしたことがない。だからどうしたって海斗の助けにはなれないし、的確な助言もできない。それが駿にはもどかしくもありつつ、ぜひとも海斗には己にとっての人生の良き先輩になってほしいとも期待してしまっている。
項垂れてしまった海斗と、そんな海斗の頭を無造作に撫でくり回して笑う駿を、遠くの席から庵は密かに見ていた。




