17 修学旅行(2)
消灯時間をしっかりと守れば良いだけのこと。そんな簡単なことが思いのほかできていない事実が、目の前の鏡の中にあった。
庵は涙袋にうっすらと浮かび始めたほの暗さを確かめて眉を潜め、水が滴る顔をタオルに埋め込み吸水させた。
修学旅行3日目。今日は班単位で分かれての行動となる。あらかじめ班の連中でどこを巡るかの予定は立ててあり、教員に引率されない気ままな観光ができる機会。
朝食を摂り支度を済ませ、一行は沖縄観光へと向かった。
庵たちがまず向かったのは中城城跡。標高約160メートルというほどよい丘の上を目指して一行は進む。朝食後の適度な運動として最適な場所だ。
「ぜぇ……はぁ……ぜぇ……はぁ……」
「最上、お前……そんなにバテるのか」
「だっ、て……きつくない……?」
「いや……」
坂道であるとはいえ、勾配は緩やかでさして大した時間を登っているわけでもない。この程度の運動で息を切らせている海斗の姿は庵にとって驚きだった。
「……そう、いえば……石館くんは……スタミナは……あるんだったよね……」
「お前は腕力は強いくせにこっちは空っきしなのか。なぜだ、海ではあんなにスイスイ泳いでたじゃないか」
「だって……水には、浮力ってのが……ある……」
「まぁそうだが」
「飛びたい……浮きたい……」
「ほら、あまり喋らずに歩け。ますます体力を消耗する」
思わぬ海斗の弱点。
庵はいつぞやに海斗に手を引かれ全速力で走った日のことを思い出す。あれだけの距離だったからまだしも、もっと長い距離を走れば海斗の方が先に音をあげていたのかもしれない。
庵が苦笑して海斗に手を差し伸べると、海斗はすがるようにそれを掴み、のろのろと坂道を登る。
「そういえば、1年3学期の冬のマラソン大会ではお前を見なかったな」
「当たり……前、だよ……ほぼほぼ……最後尾……だったん、だから……」
「足自体はお前の方が断然速いのにな。なるほど、短距離走向きか」
「正門……まだ……?」
「まだだ。というか、他の連中はもう着いてるぞ」
「うそだろ……」
「お前のそのスタミナの無さの方が信じがたい」
あまりに遅いので心配されたのか、いちどは正門まで辿り着いた駿が戻ってきてくれ、庵が事情を説明すると駿は盛大に笑った。なんでも海斗の体力の無さは筋金入りとのことだった。
幸いなことに時間はまだ余裕だという。
すでに体力のほとんどを使いきった海斗を伴って正門までたどり着き、記念撮影後に中に入ってみて階段の多さにまた海斗はげんなりしていた。
それでも嫌だ、帰りたい、と言わないのが海斗の律儀さでもある。
荘厳で美しく、時の流れをひしひしと感じる遺産を楽しみ、そして丘の上からの大パノラマの大海原を見て、ようやく海斗の苦労は報われることとなった。
次にやってきたのは水族館。一行は涼しい館内で珍しい生き物を堪能した。
海斗の興奮のしようときたら、普段の学校生活の中ではまず見せないようなもので、班員の誰もが目を見張るほどだった。
海斗は小児のように大はしゃぎするようなことはまず無くとも、ひとつひとつの水槽を眺める眼差しは真剣そのもので、時折歓喜の声を出す。その声の理由として、生き物の珍しい仕草なのだという説明を受けてから改めて観察し、班員たちは思わぬところで知識を深めることができた。
ひととおり回り終え、土産物の店に入り、庵は両親への土産を見繕っていた。
水族館の生き物をモチーフとした沖縄銘菓以外は、ハンドタオル、文房具、食器類と、どこにでもある、さして珍しくもない物の数々だが、庵は思い出として購入したくなる気持ちも今でこそ理解できるような気がした。
そんな中で、ふと庵は海斗が店の隅の方で棚を見つめたまま突っ立っているのを見付けた。
海斗の手に何もないことがどうも気になる。あれだけ海を愛しているのに。
庵は海斗のもとへと歩み寄った。
「何も買わないのか?」
「ああ、石館くん……。んー……」
「欲しいものがないのか?」
「ありすぎて困ってる」
「なるほどな」
海斗からすればこの土産物店すべてが宝の山なのだろう。
「石館くんはたくさん買ってるね」
「せっかく来たからには、な。そうだ、どうせならば揃いの物でも買うか?」
「え!?」
海斗は目を見開いた。庵からこんな提案が出されるとは思ってもみなかったから。
「嫌ならいいんだがな」
「嫌じゃない嫌じゃない! むしろ嬉しい」
「そうか」
事も無げに進む展開に海斗は内心で悶々してしまう。庵はどんな気持ちで今の言葉を告げたのだろうか、と。
1学年の3学期、海斗はふとした切っ掛けで庵に告白をした。いや、正確には段階を飛ばして口付けを交わした。しかしそれに対する庵からの返答は、まだ正式にもらっていない。
返答を催促するような状況でもなくて。和解してからは自然と安穏とした日々を過ごして。いつの間にか返事をもらう機会を失していた。いまさら何ヵ月も前のことを改めて問うのも気恥ずかしさが勝った。
庵とはあくまでも『良き友人』のまま、今に至る。
「どれにする?」
「これとか、可愛いよね」
海斗が指で示したワゴンにはシーサーの着ぐるみを着たペンギンのぬいぐるみ。となりのワゴンには同じ型のカワウソのぬいぐるみもみっちりと陳列されていて、どれもがつぶらな瞳で客を見つめてくる。
「ぬいぐるみとは意外だな」
「冬とか寒いからさ、ひとつぐらい欲しいなー、って思ってたんだ。でもどっちにしようか悩んでたんだよ。ペンギンもカワウソも可愛いじゃん」
「じゃあ……俺、ペンギン」
「じゃ、僕はカワウソを」
庵の買い物カゴにペンギンのぬいぐるみが、海斗の手元にカワウソのぬいぐるみがやってきた。
「ありがとう、石館くん」
「大したことじゃない。他に欲しいものはないのか?」
「だから、ありすぎて困ってる」
「やれやれ。いっそ俺が見立てようか」
「本当に!?」
「あ、いや……」
軽口にここまで海斗が食い付くとは思わなかった。庵はすぐさま冗談だと弁明しようとしたが、海斗があまりにも期待を込めた眼差しで見詰めてくるものだから言葉を失う。
そして、観念して庵は海斗と共に店内をじっくりと物色してみた。
「イルカのグッズ、たくさんあるぞ」
「ここは……っ、あえて見ないように避けてたエリア……!」
「良いじゃないか、イルカだぞイルカ。ほら、ほら、ほら」
「意地悪……!」
やはり自分ではとうてい選べないと宣う海斗の姿が面白くおかしく、ひととおり海斗をからかってから庵は商品棚を眺めた。
そして、商品の中から庵はひとつの箱を手に取り、海斗に渡した。
「これとか」
「あー……振り子のイルカオブジェ……これは、これは揺らぐ……!」
「あ、このルームライト良いな」
「お目が高い!」
「店の回し者か、お前は」
とはいえ、あまりに大掛かりなものを買わせて荷物をかさ張らせるのも海斗に悪い。ただでさえ、ぬいぐるみを購入してしまっているのだから。
そこでふと、イルカをモチーフが揺れるキーリングが目に留まった。
庵は自分のセンスに呆れて苦笑う。キーリングなどさして珍しいものでもない。ただイルカのモチーフが付いているだけ。
選択肢から外そうとしたところで、海斗がその商品を覗き込んだ。
「いいな、それ」
「これが、か?」
「うん。いつまでも使えるし、デザインも過度に女性らしくないし、それで僕の好きなものだし。ありがとう、石館くん」
「俺は……なにも……」
「気になってたんだろう?」
「まぁ……」
相変わらず観察眼の鋭い海斗に見抜かれて、庵は目を逸らした。
海斗は嬉しそうにキーリングをフックから取り、そしてその奥にあった色違いのキーリングにも目を付けて手に取った。
「ふたつ買うのか?」
「片方壊れたら嫌だから」
「なるほど」
「うん、良いものを選んでくれてありがとう、石館くん。買ってこようっと」
「あ、おい……っ」
意気揚々と会計に向かってしまう海斗の後ろ姿を見て、庵は疑念を抱く。海斗の家族には何も買わなくて良かったのだろうか、と。だが土産物を買う機会はまだある。その時に買うのかもしれない。
問うほどのことでもない。庵も土産物の精算へと向かい、班員全員と集合ののちに宿泊施設へと帰還することになった。




