16 修学旅行(1)
修学旅行。長いようで短い3年間の学生生活を彩る、一大イベント。
飛行機の中で、庵は窓から青い空を眺めていた。
よく晴れている。
誰もが楽しみにしている行事。天候は何よりも心配されていたが、誰かしらの徳でも高かったのか、見事な晴れ。眼下に見える白い雲のさらに下では、もしかすると雨が降っているのかもしれないが。
「石館くん、飴あげるー」
「ん、ありがとう」
クラスの委員長の女子生徒が快活な声で飴を手渡してきた。彼女はこうやって、クラスの誰かしらに異変がないか、見える範囲でだけでも気を配っている。キャビンアテンダントを信用していないわけではないが、つまりは彼女は気配り屋なのだ。
1年前であればこんな些細な交流ですら煩わしいと感じたであろうし、気配り屋たる委員長ですら声は掛けてこなかっただろう。
庵は飴の包みを開き、球体のそれを口に含んで、ハッカの清涼感を楽しんだ。
この期間は、教科書も参考書も自宅でお休み。
沖縄の地に到着したのは昼過ぎ。カラリと暑かった。ここからは全体で資料館や公園を巡る。
戦時という、どこか空虚な、それでも確かに現実としてあった事実を見聞きする。各々が何を思ったのか、誰も熱弁はしない。平和への思いも、将来への展望も、各々が静かに思考した。
宿泊施設にたどり着いたのは夕方。割り振られた部屋に行き、荷物を簡単に整理すればすぐに夕食となる。
思ったよりも慌ただしい。限られた時間の中でいかに効率よく、いかに多くの人間を動かすか。あまりに綿密に練られたスケジュールは、必要なこととはいえゆっくり寛ぐという行為からはかけ離れていて。
就寝の間際でようやく落ち着けた。
「怒涛だな……」
「そうだね……」
同室になった庵と海斗は、他のクラスメイトと共に部屋に布団を敷いていた。
「明日はマリンアクティビティか」
「そう、楽しみだなぁ!」
「……そうなのか」
ついさっきまでの疲弊した表情はどこへやら、海斗の顔が嬉々としたことに庵は驚いた。
「海、楽しみにしてたんだよ。修学旅行が沖縄だって聞いた時からずーっと」
「好きなのか」
「うん」
「まぁ……名前にも海の字が入っているくらいだしな、お前は」
「石館くん、僕の下の名前きちんと把握してくれてたんだ」
「俺をどういうやつだと思ってるんだ」
「じゃあ藤波くんの名前は……?」
「…………。…………、……あ。そう、駿だ」
「おい石館! 明らか思い出すまでに間があったろ!」
端で聞いていた駿が庵に向けて枕を投げ、やわらかなそれは見事に庵の顔に埋まった。
「……、……良い度胸だ、藤波!」
「投げ返すってことは……やるしかねぇよなぁ!」
勃発した、枕投げ大戦。騒ぎを聞き付けた近隣の部屋の男子生徒たちも加わり、1日の大半を移動で費やし疲労したとはとても思えない体力を駆使した結果。
庵は、学生生活で初めて、そして生まれて初めて、教師から生活指導を受けたのだった。
次の日。バイキング形式の朝食を楽しみ宿泊施設を出発して、一同はマリンアクティビティへと向かった。
運動がそれほど得意ではない庵は、修学旅行のスケジュールが発表された当初こそ憂鬱でしかなかった。しかし当日になっていっそう海斗が嬉しそうにするものだから、自然と気持ちが切り替わる。
クルーズ船に乗って出港し、少ししたところですでに海斗は歓喜していた。
「潮風気持ち良いー!」
「そうだな」
庵は冷静に、船からの光景をスマートフォンのカメラに収めていく。快晴の空の青と広大な海原の碧は庵の目にも新鮮だ。楽しくないわけがない。しかし。
「最上、あまり乗り出すなよ」
「あ、うん」
海斗があまりにも危なっかしい。普段はあんなにも冷静なくせに。海斗が海を相当好いているのは明白で、だからこそハラハラする。
自然と海斗を子ども扱いしてしまっていることに気付いて、庵は苦笑した。仕方ないのだ、実際に海斗があまりにも幼子のように楽しんでいるから。
庵はそっとスマートフォンを海斗の方へと向けて。海斗がレンズを直視するタイミングでシャッターを押した。
すぐに少しのあいだきょとんと目を瞬かせた海斗はされたことを理解して慌てた。
「石館くん、いま撮ったよね!?」
「ああ、良い顔だった」
「ちょ、ばか、消してよ!」
「石館、その写真くれ」
「良いぞ、藤波」
「こらー!」
「あ、イルカ」
「え!?」
誰かの声で、すぐさま海斗は庵や駿に構うのをやめて海の方へと目線を向けた。
海原にイルカの背びれが覗いている。
海斗はそれを見て手すりからさらに身を乗り出しそうになって、庵に引き戻された。
「見てごらんよ石館くん、イルカ!」
「わかった、わかったから。危ないから下がれ、落ち着け」
「だってほら、あんなにも! 1頭は小さいな、親子かなー」
「そうかもしれないな」
時折海面上にまで姿を見せてくれるサービス精神旺盛なイルカの親子の姿に海斗は何度も歓声をあげ、スマートフォンを出そうとポケットに手をやりかけて、そしてやめた。レンズ越しではなく、肉眼でしっかりとイルカを眺めたかったから。
そんな海斗の姿を見て、代わりに庵が隣で密かに写真を撮っておく。
結構な枚数を撮ったが、画になるほどの出来のものは1枚しかなかった。素人の腕前ではこんなものだろう。1枚だけでも良い写真ができてよかった。
そのたった1枚を、庵はメッセージアプリを使って海斗のスマートフォンへと送信しておいた。
シュノーケリングは地元に海でもない限り、そして海が好きでもない限りそうそう体験するものではない。
クラスの、いや、修学旅行参加者の誰もがシュノーケリングなど初体験のなか、海斗だけは準備が円滑だった。
誰よりも先に準備を終えた海斗が、インストラクターと共に多くの生徒たちの準備を手伝ったこともあり、庵の班はいちばん乗りでシュノーケリング体験に臨むことができた。
海に潜る。レジャーとして楽しむ上でもっとも細心の注意を払わなくてはならない。水の事故に遭遇したことはなくても、テレビでの痛ましい報道を見るたびに庵は気の毒になったものだ。
そんな庵の心配をよそに、海斗は早く潜りたくて仕方がないといった様子だ。
「大丈夫だよ、石館くん。僕がついてるから」
「…………」
心配をしているのはこちらだというのに。それを怯えと取られてしまうのは不本意ではあるものの。
庵は悪い気持ちにはならなかった。他ならぬ海斗からの言葉であるからこそ、安心できた。信頼してもいい、と。
浅瀬でのインストラクターの指導と指示のもと、適切な潜り方を肝に銘じ、そして班の全員でいよいよ海に潜った。
「…………!」
庵は初めて見る海の中の光景に目を見張った。
澄んだ水の色も、珊瑚礁も、群れで泳ぐ魚も、何もかもが本やテレビの映像でしか知らなかったもの。実際にこの目で見ることができるなんて思わなかった。
インストラクターの誘導ジェスチャーがあり、しばらく惚けていた庵は少し慌てそうになったが、そこで誰かに優しく背を押され手を引かれた。
水流で髪型が乱れゴーグルをしていても、それが海斗だとすぐに分かる。
ここにいる誰よりも、海の中の光景に恍惚としていたから。
まるで海に愛されているようだ、と。錯覚すらしてしまいそうなほどに。
2日目の日程も無事に終了し、宿泊施設に戻ってきて、夜。
庵が部屋でゆっくりと寛いでいると、海斗がやってきた。
「石館くん、イルカの写真ありがとう。すごく良い写真でビックリした」
どうやら海斗は昼間に送っておいた写真を確認したのだろう。
「どういたしまして。上手く撮れたのが1枚だけで悪いが」
「いやいやいや! イルカを上手く撮るのはプロでも難しいんだから。それなのにこんなにも良い写真をもらえてさ、本当にありがとう」
「ああ」
こんなにも喜んでもらえるとは思わなかった。それならばなおさらもっと多くの写真を撮りたかったものだが仕方ない。
「元気だな、最上は」
「石館くんは少しお疲れ?」
「ここまで過密スケジュールだとさすがにな。大多数の集団行動においては仕方のないことだが。……俺たちはこうして休めているが、班長は今も会議に出ているわけだし、教員に至ってはどうだろうな」
「きみって人は……」
「最上は、楽しめたか? 今日」
「うん、もちろん! はぁー、本当なら毎日でも潜りたいよ」
「そうか」
海斗が笑うとまるで自分のことのように嬉しくなる。庵は昼間に見た海の中の壮大で優美な景色を思い返した。
「確かに、すごかった。……もっと気の利いた感想が言えたら良かったが……うん、そうだな。すごかった」
「本当、すごかった」
成績でトップ争いをしているふたりとは思えない語彙力の無さに、どちらからともなく笑ってしまう。
「おーい、今日もやるか! 枕投げ」
「だめだ藤波。毎日そうやって先生の手を煩わせるわけにはいかない。高校生ならば節度ある行動をしなくては」
「えー……」
枕投げが良くないことであるのは確かなのだが。
庵の優しさと微妙にずれたノリですらも、海斗にとってはただの新しい発見でしかない。
「じゃあ、今日はUNOやろーぜ」
「それなら構わないぞ」
「……石館くん、本当に良いの?」
「カードならば騒がしくならないからな」
「…………」
数時間後の展開が容易に予想でき、それはあまりに浅はかだ、とはあえて言わない海斗であった。
そして海斗の予想通り、カードゲーム大会は大いに白熱し、消灯時間を過ぎても部屋からの大声や絶叫は絶えず、やはり見回りの教員に見付かっては全員でお叱りを受けることになったという。
修学旅行の前半は、こうして終わる。




