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14 解氷

 ピンチになればヒーローが駆けつけてくれる。そんな夢物語を信じるような年齢はとっくに過ぎている。そもそも男だ。男ならば危機的状況などひとりで解決できなくてはならない。残念ながら、社会というものは決して優しくないのだから。

 そう信じて、そう肝に銘じて、生きてきた。時に勝手だと、時に非情だと、時に傲慢だと、誰かに囁かれながら。

 だから。ビル群に差し込む夕陽の光に照らされて細川の腕を締め上げている海斗の姿が、庵にはあまりにも。あまりにも、眩しくて。あまりにも、心強くて。

 目尻がほんの僅かに、潤った。

「痛ぇよてめぇ!! 何しやがる!!」

「何しやがる、じゃないだろ」

「……っ」

 細川は無闇に大声で叫ぶことで威圧するつもりだったのだろうに、海斗の冷えきった声が一瞬で空気を変えた。

 海斗のこんな声は庵も初めて聞いた。夕暮れの教室で唇を交わしたあの日ですら、ここまで怒りを含んではいなかった。そもそもあの日は、怒りではなく……。

「未成年をホテルに連れ込んで性的暴行をさせようだなんて。品性の下劣を極めたいのか? ドラッグの使用まで示唆してさ」

「べ……別に、そんなことしようとしてねーし!」

「言っておくけれど、さっきまでのきみの言動はぜんぶ動画に撮ってある」

「へ……!?」

「きみごと警察に突き出しても良いんだぞ」

「てめぇ……ぶん殴るぞ!」

「それは無理だろうな」

「あいててててて!!」

 傍目にはわからないが海斗は更に力を入れたのだろう。細川が苦悶の表情を浮かべた。冬場だというのに額には脂汗まで滲んでいる。

「さっさと石館くんから手を離せ。社会的に死にたくないなら」

「て、てめぇこそ……それは脅迫罪になるぞ!」

「もしもきみが今、この光景の証拠となるものを撮っているならば……な」

「……っ!!」

「それに、もし仮に撮られていたとしても。僕も何らかの罪に問われようとも。……彼を守るためだ、構うものか」

 観念したのか、細川が庵の腕を解放した。

 それを見て海斗も細川の拘束を解いてやる。よほど痛めたのか細川は肩口を押さえていたが、海斗は見向きもせずすぐに庵のもとへと駆け寄った。

「大丈夫!?」

「あ、ああ……」

 さっきまでとは打って変わった、心配そうな海斗の声。細川に向けていたものとはまったく違う。海斗の表情にも不安の色が濃い。

「て、てめぇ……」

「まだいたのか」

 それでいて、細川の声が聞こえるなり海斗はまたすぐにほの暗く険しい空気を纏う。明白な、敵意。

「調子に乗んなよ!」

「最上……!」

 性懲りもなく海斗に殴りかかってきた細川の姿に庵は慌てたがそれはすぐに杞憂に終わる。

 単調な細川の攻撃を軽やかな身のこなしで難なく避けた海斗はがら空きの細川の背中に手刀をいちど繰り出す。そしてすぐに庵の手を取り、地に伏した細川を置き去りに大通りに向けて走りだした。

「行くよ、石館くん。きみ走るのは苦手だろうけどね」

「あ……」

 前を走る海斗の姿に、規則正しく跳ねる海斗の鮮やかな黒髪に、庵は懐かしい光景を思い出す。

 あれは運動会の時だった。借り物競走の時、わざわざ運営本部にまでやってきた海斗。あの時もこうして、海斗は庵の手を取った。少しだけ、強引に。あの時もこんなに優しかったかまでは、あいにくと庵は覚えていないが。

 大通りにまで出れば車の通りも多く、人も行き交っている。海斗はそのまま足を止めることなく庵と共に雑踏に紛れ込んだ。

 細川が追ってくるような気配はない。海斗は駆けるのをやめて少しずつ歩みへと転じていった。

「もう……大丈夫かな。石館くん、どこか……行く用事とかは?」

「いや、……別に、ない……」

「なら……ここを、離れよう」

 男ふたりして息を切らせていることに周囲の人間たちの何人かが少しだけ訝しんではすぐに素通りしていく。そんな視線も構わず、ふたりは歩き続けた。

 誘導されているのは同じなのに。今は手まで掴まれているというのに。相手が海斗であるというだけで、こんなにも自分の中に満ちている安心感に、庵はどこか切なくなった。






 この公園に来るのも数ヶ月ぶりだ。文化祭の道具の買い出しをしたあの日以来。時刻はあの日とほぼ変わらないというのに、空はすっかり黒く染まり星が煌めいていた。

 ベンチに座りコートの前を合わせていると、海斗が庵のもとへと戻ってきた。

 海斗の両手にはそれぞれ小さなペットボトル。そのうち海斗が庵に差し出したのは緑茶のものだった。

 庵がそれを受け取ってみると、ペットボトルはとても温かい。海斗が好みを覚えていた、そんな些細なことにも気持ちが緩む。蓋を捻り、ゆっくりと茶を飲んで体の内から暖を取ると、庵はようやくそこでひと息ついた。

「……、……あ、すまない。小銭……」

「今日はいいよ」

「そうはいかない」

 しばらく呆けていた庵は慌てて財布を鞄から取り出し、硬貨を摘まんで海斗に差し出した。

 こんな時でもあまりの真面目ぶりに海斗は困ったように、それでも優しく笑って手を差し出して庵から硬貨を受け取った。その時。

「つめたっ!」

「あ、ごめん。冷えてるよね」

「お前っ……! まさかこんな時期でもアイスコーヒーなのか!?」

「冬だけは猫舌じゃなくなる、なんて都合よくはいかないからねぇ、人体ってやつは。あー寒いなぁ」

「……呆れたやつだ」

 寒いと言いながら呑気に冷えた飲み物を口にする海斗に、さっきまでの鋭利な気迫はない。この中性的でどちらかと言えば細身の男が、人ひとりを簡単にあしらえるなど誰が想像できただろうか。

 庵はもういちど温かな緑茶を飲んで喉を潤した。

「……落ち着いたかい?」

「ん……ああ……」

 海斗の穏やかな声による問い掛け。庵は素直に頷くもののそのまま俯いた。

「最上……なぜ、あの場所に……?」

「偶然だよ。きみが連れ込まれるのが見えたから追っただけ」

「……本当に?」

「うん。ちなみに動画のくだりはハッタリ」

「え……」

「咄嗟のブラフとはいえ、上手く誤魔化せたな。細川くんがあんまり賢くない人で助かった」

「知ってるのか? 細川のこと」

「知らない。名前だけさ」

「そうか……」

 海斗なりに機転を利かせながら細川と対峙していたのだろう。言葉よりも腕ずくによる実力行使の方が効いていたようにも思えたが。

「お前……あんなに強かったのか」

「クラスの藤波くん、知ってるでしょ。僕と同じ中学でさ、これでも藤波くんに付き合わされて色々やったんだ。おかげで腕にはそこそこ自信があるけれど、傷害罪にはなりたくないし……でも、まぁ今日のぶんなら正当防衛だろう。目撃者もきみしかいないし、今回の件の諸々で後ろめたいのは細川くん側だ。彼が警察に行くこともないさ」

「そういう状況はよく見てるんだな。……、……いや、そうじゃないな。ありがとう……最上。助かった……」

「本当に、きみに怪我とかなくて良かった」

「…………」

 今ならば海斗がどういった意図で庵を助けたのか、庵にも理解できる。できるからこそ、より深い確信を得たくなる。臆病な己に嫌気が差すのは必至だとしても。

 庵は顔を上げて海斗を見詰めた。

「なぜ俺を助けた。偶然見かけたとはいえ、俺はあんなにも……お前にひどいことを言ったんだぞ。放っておくことも……できたはずだ」

「え、ずるいなぁ。今それを僕に訊くの?」

「…………」

 海斗は苦笑いしつつも庵から目線を外さない。

 今、自分はどんな顔をしているのだろう。きっとひどい顔だろうに、こいつはどこまでも、どこまでも真っ直ぐだ。

「きみを放っておけるわけがない」

 本当に自分は、卑怯だ。こんな形でこいつに言葉にさせて。自分からは何も言わないくせに。それなのにこの男は自分を責めない。それで心が落ち着くならば、安心するならば、と。この男は何もかもを許してしまうから。

 庵は再度こみ上げそうになる涙を押さえるべく目を強く閉じて眉間に皺を刻んだ。

「……すまない、最上。悪かった……。心配してくれたお前に……俺はあの日、ひどいことを……」

「ううん。僕の方こそ、いきなりあんなことをしたりして……そのうえ避けたりして、ごめん」

「お前というやつは……」

 非礼の多くはこちらにあるというのに。

 庵はそれでも海斗が離れずにいてくれたことに深謝し頭を下げた。






「石館くんはさ、どうしてそんなにも勉強を頑張るの? いや、勉強するのが良いことなのはもちろんだけどさ、年末あたりは特に入れ込んでたよね。あ、でも今はちゃんと目の隈も薄くなって……いや、むしろ赤い……あれ、泣いた?」

「泣いてない! ジロジロ見るな、バカ者」

 心配されているのは重々承知していても、顔を覗き込もうとしてくる海斗を庵はやんわりと押し返した。

 互いに謝罪をしたとはいえ、あの日の接吻を彷彿させる行為はさすがに慣れるものではなく、照れ臭い。

 そして、庵はぽつりと話し始めた。

「……俺には、成績しかないんだ」

「え……」

「取り柄、自分の価値、意義。そういったものを証明するものが、な」

「…………」

「薄い人生だと、自分でも思う。それでも、俺には誇れるものがそれしかないんだ。それすら誇れなくなったら、俺は……何のために生きているのかわからない」

 海斗の想いを知っている以上、己の生きざまを否定されることはないという確信のもとで行われる、吐露。

「だから……誰にも負けたくなかった。それだけ……そう、本当に、それだけなんだ」

「…………」

 しばらく沈黙が流れた。

 すっかり暗くなってしまった公園にもう人影はない。子どもたちは帰宅してしまっている。犬の散歩をしている人すらもいない。庵の告白を聞くのは隣にいる海斗と、多くの落ち葉だけ。

 心置きなく、庵は自嘲ができた。

「もうわかるよな? 1学期の期末考査の結果が出た時から、俺はずっとお前を意識していたんだ。お前は……俺のことなんてどうでも良かっただろうがな」

「……!?」

 気持ちを思いのまま吐き出させてやろうとひたすらに黙っていた海斗だったが、ここにきて庵から聞き捨てならない言葉が聞こえてしまい驚いて目を見張った。そして次に、吹き出し笑った。

「石館くん、本気? きみ、僕を意識していたって言う割にはニブいんだな」

「な、なんだと」

 心外だと言いたくて海斗を見た庵は、そこでもやはり、どこまでも優しい海斗の眼差しを受けることになった。気恥ずかしくなってしまい庵は素っ気ない振りをしてそっぽ向く。

「僕がいつからきみを見ていたと思ってるの」

「…………。……わからない」

「えぇ……」

 海斗は心底残念そうに落胆してしまった。

 庵がかねてより意識していたのは海斗の成績だけだった。海斗の人間性も、ましてや海斗の気持ちも、庵にとっては興味の対象ではなかったのだ。海斗がいつから庵を慕っていたのかなど、考えたこともなかった。それ以前に、己が慕われている可能性を考えることが一瞬たりとてなかった。周囲からあんなにも好かれている海斗が自分のような矮小な存在を特別気に留めているはずがない、と。無意識に庵はそう信じて疑わなかったのだ。

 申し訳ないと思いながら、庵は少しだけぶっきらぼうに問う。

「で……いつなんだ」

「教えない」

「なんだと」

 思わず海斗の方へと向き直ってみれば当の海斗は余裕綽々といった具合にペットボトルのコーヒーを飲み干し蓋を閉めた。

「だってなんか悔しいじゃん」

「悔しいのは俺だ!」

「いやいや僕だからね!?」

 しばらくふたりの間には、言え、言わない、そっちは? 言わない、の応酬が続いた。

 いつしか笑い声が混じり合うようになり、そしてやがて、どちらからともなくひとしきり笑い合った。

「帰ろうか、石館くん」

「ああ、そうだな」

 散々な休日ではあったが、最後の最後にこうして笑うことができた。庵はそれだけで救われた気持ちになる。

 いつから、などと。今はそんなこともどうでもいいとすら思えるほどに。そう、謂わばスッキリした。

「細川くんはちょっかいかけてくることはないと思うけれど、いちおう週明けの登校時には気を付けて」

「わかった」

「あ、家まで送ろうか?」

「いいから早く帰れ」

「でも……」

「過保護だぞ」

「うぅ……ちゃんと寝るんだよ?」

「わかってる」

「勉強ばかりしないでよ?」

「お前……お節介なやつだったんだな」

 頑として庵を家の近くまで送ると言い張る海斗を説得し帰宅させるのにそこそこの時間を使ってしまった。






 週明けの賑やかな朝の教室。いつもと変わらないはずの光景。誰もがそう思っていたのだが。

 朝練を終えた黒田が教室に来てみればまだ施錠がされていたという。いつもならば庵がとっくに来ているのに。

 珍しい。いや、それどころかこんなことは恐らく初めてだ。

 クラスの誰もが怪訝に顔をしかめていると、予鈴の5分前ほどに庵が教室に入ってきた。

「おはよう……田所、浜掛」

「え、石館!? おまっ……え、今日遅くね!?」

「寝坊……」

「寝坊!?」

 ふたりが驚いたのは庵のまさかの寝坊という事実だけではない。

 庵はのんびりと視線をさ迷わせ、自分を見ていた海斗と目線が合うなり間延びした微笑を浮かべた。

「おはよう、最上」

「おはよう、石館くん」

 そうして自分の席に着いた後も、庵は周囲の生徒たちと談笑を開始する。

 庵にとっては、ただ少し寝過ごしてしまっただけの、他には何もないいつもの朝でしかない。

 海斗にとっても、庵がようやくぐっすりと眠れたのであろう事実に嬉しくなった朝の時間。

 いつもと明らかに違うと感じたのは、その他の者たち。

 庵がみずから誰かに挨拶をし、みずから進んで会話に参加する。1学年も終わりかけたこの時期になって、それらすべてが初めての出来事だったのだ。

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