11 変転の時
うだるような暑さだった夏期はあんなにも日が長かったというのに。
勉強に打ち込み、ただただ数式や活字と向き合うだけの毎日を送るうちに、すっかり陽が沈むのが早くなっていた。
そういえば、あの文化祭の時期はどうだっただろうか。庵は覚えていない。
ただ、ふと。
気まぐれのように不意に集中力が途切れ、窓の方へと目線をやって、庵はそこで初めて茜色の空を見ただけ。それだけだ。
もうすぐこの図書室も閉めてしまう。庵は勉強道具を片付け次々と鞄に入れていったが、そこで1冊の参考書が無いことに気が付いた。
どうしても必要というわけでもないが、あったならあったで心強い逸品。所在の心当たりは自分のクラスの教室の机の中しかない。庵は図書室を後にし、職員室に向かい教室の鍵を借りた。
廊下に差し込む夕日の光がいつもよりも、赤い。冬場でこの赤色は珍しい。湿度が高めなのだろうか。
庵はそんなことを考えながら教室に向かい、鍵を使って中に入った。さすがに室内は暗い。教室の半分だけ電気をつけ、鍵は念のためにきちんと壁のフックに掛けておく。そして自分の机へと歩み寄り机の中を確認してみて、副教科の教科書に混じって目当ての参考書があった。
参考書を手に取り、表紙を見詰めたまま庵はその場に立ち尽くした。
校庭から多くの生徒たちの掛け声が聞こえてくる。部活だろう。
庵は参考書を鞄の中に入れ、教室を出ずに窓の方へと歩いていった。そして、電気がついていない側にまで歩き、とあるひとつの机のもとで立ち止まった。
「……何をしているのだろうな、俺は」
机に少し触れてみて、ぽつりと吐き出された疑問。誰に対してなのかも意識していない。ただ口をついて出た。
「俺は……どうしてこんな……。……あいつは……」
声にしてしまいたい気持ちが確かに何かあるはずなのに、上手く言語になってくれない。それが庵にはもどかしい。
疲労の蓄積が顕著に庵の精神と感情を乱していた。
「……石館くん?」
「……っ!?」
突如背後から聞こえてきた声に庵は素早く振り返った。そこには、今いちばん会いたくない人物。
「最上……どうしてここに……」
「いや、通り掛かったらうちのクラスの電気がついてたから覗いてみただけ」
「……そうか」
慌てるようなことでもないのに。いつも通りでいればいいのに。
いったい、何が『いつも通り』だっただろうか。それすらももう庵には思い出せない。冬休み明けのあの日から徹底的に庵は海斗を避けてきたから。
こんなにももどかしくてたまらないのに、海斗は当たり前のように歩み寄ってくる。庵がどのような気持ちでいるのかなど、知りもしないで。臆することなく、距離を詰めてくる。放課後、たったひとり海斗の机のもとに立ち尽くしている庵を見て、果たして海斗はどう思ったのだろうか。
「石館くん。あの、さ……」
「何だ……珍しく歯切れが悪いな」
少しの躊躇はあったが、海斗は意を決したのかしっかりと庵を見詰め直した。
「余計なお世話だとはわかってる。それでも少し休むべきだ」
「前にも……そんなことを言っていたな。それで俺の成績をより下げるのが目的か?」
「そんなわけないだろ!」
海斗の激昂はもっともだ。そう、海斗はそんな低俗なことを思うような男ではない。そんなことは庵も頭ではわかっているのに。
溢れた劣等感が、庵の口を止めてくれない。
「そもそもお前はこんな時間まで何をしていたんだ?」
「え、いや……校舎裏の猫と……」
「……猫、か」
庵は俯き冷笑した。それは海斗にではなく自分に向けたものではあったが、海斗にはどう捉えられただろうか。いや、海斗にどう捉えられたとて構わなかった。
「呑気なものだ。真の天才は動物を愛護していても余裕なんだな」
「…………」
「しかも、クラスのはみ出し者を心配する余力まであるとは」
「石館くん、僕は」
「楽しいか、自分の下で踠いている人間を眺めるのは! 善人面して、心配するふりをして、いつまでも2位に甘んじている男を嘲笑うのは愉快か!」
「違う!」
「だったらなぜ俺に構う!?」
庵は顔を上げない。それは海斗への不当な八つ当たりに対する後ろめたさに他ならなかった。だから庵は海斗を見ることができない。海斗からの視線を、痛いほどに感じていても。
「俺でなくてもいいだろう……。お前には……他にも多くいるじゃないか。お前を慕うやつも、お前を頼りにするやつも、お前を目標とするやつも……!」
現状、どう見ても愚かなのは己だと庵は自覚できているからこそ、苦しい。
「それ以外に、お前みたいなやつがどんな対象として俺を……俺なんかを望むんだ! 戯れに笑い者にするのに俺が都合が良かったのならば、もう……充分だろう……!」
こんなことしか言えない己が、あまりに醜く煩わしい。惨めになるとわかっていても、止められない。
「石館くん」
「……っ!」
庵の耳が周囲の音を拾うのを一時的にやめた。海斗の両手が、庵の両耳のすぐ横の壁を強く叩いたからだった。
逃げ場を失った庵が顔を上げると、そこにはかつてないほどに真剣な、それでいて怒気を孕んだような海斗の姿があった。
当然だ。あれだけのことを言ったのだから。いくら誰にでも優しいこいつとて、さすがに。
そこで庵の思考は止まった。
海斗の顔が、近い。近すぎて焦点が合わない。そして、唇に当たるやわらかさ。あれだけの怒りを湛えていながら、ひどく優しい、優しいだけの触れ合い。
長いような、短いような。
海斗が身を引き、接吻の最中に閉じていた瞼が開かれると、そこにはやはり怒りのようなものを携えた鋭利な眼差しが茜色に染められていた。
「これでもわからないか?」
「…………」
いつにない、海斗の低めの声。
口付けの意味。そんなものを問われてしまえば。
庵は咄嗟に海斗を突き飛ばし、駆けて教室を後にした。
強く押し退けられバランスを崩した海斗はひとつの机と椅子を巻き込んで床に尻餅を突き、庵を追わずに座り込む。
速い足音が遠ざかっていき、やがて聞こえなくなったところで、海斗はひとり、横倒しになった椅子に体を凭れさせ天井を仰ぎながら目元を手で覆った。
「あー……やってしまったな……」
身体能力以上の負荷をかけて駅前まで走ってきたので心臓が強く脈打っている。ロータリーの柱のひとつに手を突き肩を上下させ、庵はそこで思考の整理を開始した。
いったい俺は、何をされた? あれの、意味? 理由だと?
考えてみても、思い付く答えなど庵にはひとつしかない。打算や謀略で唇を交わせる人間もこの世には多くいるということを、庵は知らない。たとえそれを知っていたとしても、海斗がそういう人間なのだとは無意識にでも信じはしなかっただろう。
答えがひとつしかない以上、庵の心は戸惑い、掻き乱れる。自分が海斗にとってどんな対象で見られていたのかを知ってしまった。
彼にそんな素振りはあっただろうか。心当たりはない。海斗は常に優しかったがそれは誰に対しても同じことだった。誰かを特別な気持ちで見ているような気配はなかった。しかもその対象が他ならぬ自分だとは夢にも思わなかった。
明日からどうすればいい?
いや、どうともできない。顔を合わせるのはとてつもなく気まずいが、よもや学校をサボるなどという愚行は犯せない。
心拍数が上昇したまま治まらない。全力で走ってきただけにしては、回復が遅すぎる。
理由なんて、わからない。いや、考えたくなかっただけなのかもしれない。
庵はまだ少しよろめきながらも駅に入り改札を通過した。
次の日、いつものように庵は誰よりも早く登校しては教室を整えた。
自分の机に座り1時限目の授業の予習を開始する。
昨夜はまったく勉強に集中できなかった。何かをしようとしても、何もしていなくても、海斗のあの鋭く細められた真剣な眼差しが忘れられなかった。奪うではなく、愛おしむような口付けが忘れられなかった。
学校に来たことで余計に思い出してしまった。
そういえば、昨日は教室をそのままにしてしまった。海斗に戸締まりをさせてしまったのだろう。酷いことも多く言ってしまった。せめて謝らなくてはならない。顔を合わせづらいなどという甘言は通用しない。
そんなことばかりを考えてしまい、予習も頭に入らない。誰かが登校してくるたびに気になって扉の方を見てしまう。クラスメイトに挨拶され、それに応えるたびに安堵と落胆が同時にやってくる。
こんな感覚は、初めてだ。
だがいつまで経っても海斗は来ない。欠席なのだろうか、と庵が危惧していると、予鈴ギリギリになって海斗が教室に入ってきた。
「……っ、も、最上……」
庵はすぐに海斗に声を掛けようとし、立ち上がった。しかし、海斗は庵の席を露骨に避けるように歩いて窓際の海斗の席へと向かってしまった。
「…………」
避けられた、と感じるのは果たして庵の気のせいだろうか。
いや、俺は昨日、海斗に何を言った? 体を心配してくれているだけの海斗にどんな言葉を投げかけた? むしろこの態度は当然の産物ではないか。
庵は拳を握りしめると自分の席に座り直して参考書と教科書を眺めた。
知識になど何もならない、無意味な時だけが、ただ流れていた。




