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1 プロローグ

 合格を示す受験番号を掲示板に見付けても、特に感慨はなかった。石館(いしだて)(いおり)は後にそう語る。

 驚きも喜びもあまりにも希薄で、少しの安堵はあったかもしれないが、『こんなものだろう』とどこまでも冷めていた。

 屈指の名門高校への入学など、庵にとっては目標に届くまでのひとつの通過点でしかない。

 だから理解できない。大きな歓声も、嬉しさで涙することも、誰かとその喜びを分かち合い抱擁することも、はたまた悔しさで奥歯を噛み締めることも。

 庵は自分の合格を疑わなかった。自信があった。受験問題があまりにも低レベルにさえ思えた。『当然』の『結果』がここにはあった。

「やったね、やったね茜!」

「うん……っ、ありがとう志穂……!」

「よくやったなぁ! お前は俺の誇りだ!」

「父さん、ちょっと静かに……」

「……くそっ、なんで……お前だけ……」

「陽輝……」

 悲喜交々。そんな雑踏に庵は背を向け立ち去っていく。人混みを抜けた瞬間、図ったように一陣の風が庵の緩やかに波打つ金髪を撫でた。

 後日、入学式における新入生代表の挨拶を高校側から依頼された際にも、庵の心が揺さぶられることはない。それが何を意味するのかを理解していても。

 原稿を執筆する庵の手付きに淀みはなかった。辞書は不要だった。半刻程度でできあがった原稿は見直され、書き損じのないそれはすぐに封筒へと仕舞われていった。






 掲示板の前で、庵はそんな合格発表の日のことを回顧していた。

 あの日そのものは特に印象深い思い出でもないが、ベニヤ板に貼られた紙を眺めるという行為に既視感があっただけ。

 庵は迷いなく最上部に表記された自分の名前を見付ける。総合点までは表記されていないが、そこに名前があることが確認できた、それだけで充分。

 驚きも喜びもなく、今回に関しては安堵すらもなかった。『当然』の『結果』に、どこか幻滅にも似たような感情が発芽する。

 名門の進学校とてこの程度か。

 周囲の人間たちも何も変わらない。ある者は喜び、ある者は嘆く。今後の定期考査のたびに目の当たりにするであろう、日常の光景だ。

 庵は掲示板前からすぐに離脱した。

「石館」

「何でしょう、木村先生」

 喧騒を抜けた先で庵に声を掛けてきたのは、庵のクラスの担任である木村だ。背の高い細身の男。体つきだけを見ればおおよそアウトドアを好みそうにはない。表情は柔和そのもので、その人柄に違わぬ授業内容はクラスの者からも人気だ。

 悪い教師ではないのだが、世間話を交えた授業は間違いなく少しずつ遅れとなっていき、年間を通せばどこかで皺寄せとなるだろう。庵からの木村への不満はそこだけだった。

 庵は掛けている眼鏡のずれを正した。

「すごいな、高校生活最初の中間考査は見事に1位じゃないか」

「特別なことではありません」

「さすが、入試成績トップの貫禄は違うな!」

「で、何の用でしょうか」

「…………」

 庵は相手の言葉を捕まえてはくれない。ただ打ち返すのみ。強くもなく、弱くもなく。淡々と。

 木村は少しの沈黙の後に苦笑いし、弾ませていた声を穏やかなものにした。

「……石館、クラスには馴染めたか?」

「いいえ」

「そうか……」

「用はそれだけですか?」

「ん、ああ……」

「では、失礼します」

 庵は機械的に返答を連ね、木村の脇を通りすぎていく。

 庵は木村を嫌っているのではない。あくまでも訊かれたことに答えただけ。『当然』の事象に称賛が与えられる『必要性』を感じなかっただけ。

 あまりに冷ややかな庵の態度は木村の憂いとなる。しかしそれすらも庵には到底預かり知らぬことであり、クラスメイトとの交流の『必要性』もまた、感じることはなかった。

 そんな庵の心中を悟ってしまっただけに、木村は困り果てる。一度きりの高校生活、なんとか充実したものにしてやりたいと思うものの、それすらも庵には大きなお世話なのかもしれない。実際、進学校においては勉強こそが何よりも大事なものであり、友人との交流など二の次でも構わないというスタンスの教師もこの学校には何名か散見される。しかし木村にとってはそうではない。

 教室に入るなり率先して丁寧に黒板の文字を消していく庵の姿を見つめながら、木村は腕を組んだ。

「木村先生」

「……おっと、最上(もがみ)か」

 背後からの声に木村が振り返ってみると、最上と呼んだ者の風貌に目を見張った。

「何でまた泥だらけなんだお前は」

 そこにいたのは美しかったであろう黒髪をすっかり乱してしまった長身の男。名を最上(もがみ)海斗(かいと)という。木村のクラスにいる生徒のひとりだ。

 そんな海斗の制服の所々には赤茶けた埃が付着してしまっている。顔や髪にこそ目立った汚れは見受けられないものの、この分では恐らく細かい土だらけなのだろう。

 木村の非難を海斗はまったく気にするでもなく、照れ臭そうに笑っては頬を指腹で掻いた。

「いつもの、です。あ、でもちゃんと土は玄関で払ってきましたよ。払いきれない分もありますけど」

「まったく……。ブレザーは早めにクリーニングに出しておくんだぞ」

「はい」

 軽い調子でふざけているような応対にも思えるが、海斗の返事はとても切れが良くさっぱりしている。声が澄んでいてよく通るのも特徴だ。

 優秀なやつだ、と木村が考えだした矢先にすぐに海斗が続けてきた。

「さっき、石館くんといましたね」

「ん? ああ……そうだが」

 海斗が庵の名前を出したことは木村にとっては意外だった。普段から仲良くしている様子は特段、見受けられなかったからだ。

「……相変わらずだな」

 教室の中を廊下の窓から覗き込んだ海斗の言葉に、木村はきょとんとして目を瞬かせる。庵がどんなことをしているのかと気になり海斗の目線を追おうとしたが、授業開始を知らせるチャイムの音によってそれは阻まれた。

「おっと、いかんいかん。お前ら教室戻れー、授業は始まってるぞー!」

 木村は海斗も含めた掲示板前に集っている多くの生徒たちに呼び掛け、各々を教室に戻らせるために奮闘し始めた。

 海斗は木村を一瞥してから教室に戻り、自分の席に座る。既に海斗の居場所から遠い窓際の席に座っている庵の様子を数秒だけ眺めてから、まずは次の授業の支度を整えた。

「おい、最上」

「なに、田所くん」

「今度エロ本読む?」

「間に合ってるよ」

「はぁー!?」

 担当教師が来るまでの短い時間、隣の席に戻ってきたクラスメイトとの他愛のない談笑を楽しみながら。海斗は時折、庵を盗み見ていた。

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