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5話 迫りくる影、鎮座する不条理Ⅱ

「せーんぱいっ。今日もまたあのカフェに行きましょうよー」


 翌日、夢の世界に来るとすぐに玲奈が駆け寄ってきた。昨日のデートが余程楽しかったのか、今まで見たことないくらいご機嫌だ。


「ダメだダメだ。昨日も結局敵が現れたじゃねえか。今日こそ気を引き締めるぞ」

「えー何とかなりますよー」


 知能を持つ敵だったり、昨日の急襲だったりと夢の世界で不可解なことが頻発しているので油断できないのだが、昨日のデートが楽しかったこともまた事実なのでどこか断り切れない俺がいた。いつもの合流地点に移動しながらも煮え切らない会話が続く。


「義務に追われてばかりじゃつまらないですよー。もっと楽しみましょう」

「それはそうなんだが……」

「……なにデレデレしてるの、カズ君」

「あ」


 振り返ると不機嫌そうな晴香がいた。


「べ、別にデレデレなんてしてないぞ」

「カズ君が鼻の下伸ばしてるからって私には関係ないよ? 何を慌ててるの?」

「い、いや……」


 晴香は口でこそすましたことを言っているが、その後ろにはバトル漫画の如く般若のようなオーラが出ている。俺は後ずさってしまった。


「むふー、やっぱり先輩は私の可愛さにメロメロなんじゃないですか? 昨日もかわいいって言ってくれましたし」

「言った記憶ないんだが⁉」

「あ先輩ひどーい。昨日はあんなに甘い言葉をささやいてくれたのに……、満足したらそれで捨てるんですね」

「捏造するな! そんなことをした覚えはない!」

「カズ君、違うならそんな必死に否定する必要はないんじゃないかな。それとも、うしろめたいことでもあるの?」

「な、ない! 俺は潔白だ! 昨日は何もなかった!」

「ふーん」


 口では納得したように言いつつも、晴香は絶対零度の視線を向けてくる。それだけでぞわりと鳥肌が立った。


「実は先輩って女泣かせの才能があるんじゃないですか?」

「本当にそう思うのか?」

「しくしく、だって私は泣かされましたし……」

「そのわざとらしいウソ泣きをやめろ」

「カズ君……」晴香の視線が突き刺さる。

「俺が何をしたというんだ!」

「……お前ら何してんだ?」


 晴香の後ろからやってきた翔が呆れた目でこちらを見ていた。


「兄さんは黙ってて。これは私たちの話なんだから」

「翔君はあっちいってて。カズ君に訊かなきゃいけないことがあるから」

「……なあカズ、なんで二人とも怒ってるんだ?」

「知らねえよ……」


 これ以上は立場が危うくなるだけなので、翔と一緒ににこそこそ鳥居の下へと逃げ出す。俺たちはため息とともに街を見下ろした。オレンジの明かりに包まれた街は暖かそうで、現実逃避にはちょうどいい。


 しかし、そんな美しい街並みの中に一つの火煙が昇っていた。家の倒壊で火事でも起こしたのだろうか。


「翔、あれ……。翔の家の近くじゃないか?」


 俺が指をさすと、翔も気づいたらしい。


「煙、だな。敵か」

「来る途中異変はなかったのか?」


 俺が御神木の前から夢の世界に接続しているように、翔も自宅からこちらの世界に来ている。神社に来るまでに気づきそうなものだが。


「いや、敵はいなかった。腐臭もしなかったし変だな」

「またイレギュラーか……」


 知能のある敵、謎の昏睡事件に加えて突然出没する敵だ。おかしなことが重なりすぎている。


「もう精霊がやられてるかもしれねえ。オレは先に行ってるからカズは晴香を連れて後から来い」

「え、一人で行って大丈夫か? 強いかもしれないぞ」

「オレの加速度付与ならなんとか逃げ切れるだろ。それより一匹でも被害を抑えるほうが重要だ」

「……まあ、そうか」


 異常事態で内心パニックになっている俺とは違い、翔の判断は冷静だ。一人で行かせるのは心配だが、口論の暇もないので翔を信じることにする。


「気をつけろよ」

「いつも死んでるお前に言われたくねえな」


 そう言うと翔は石段を駆け下りていった。翔の得意な加速度付与は、自身と自身が触れているものに加速度を与えるという魔術。直線距離ならば、以前のように俺を飛ばすよりも自分で行った方がはるかに速いのだ。


 翔の単騎特攻に後ろ髪をひかれながらも俺は女子二人の下へ駆け寄って現状を説明する。


「晴香! 敵が出てきた。行くぞ」

「わかった。ごめん玲奈ちゃん行ってくるね」

「はあい。くっそー、こんなすぐに出てこなくてもいいのにー」


 さすがに戦闘態勢となれば玲奈もワガママを言えない。


 俺は身体強化を使って晴香をお姫様抱っこした。気恥ずかしいが、二人で行くのならこれが一番速いのだ。


 イレギュラー続きの最近なので、今回も何が起こるかわからない。俺は大きく息を吐いて気を引き締め、翔の背中を追うように石段を下りて行った。


「翔君、大丈夫かな」

「まあ、死にはしないだろ……多分……」


 今は信じるしかない。


 そのまま走ること三分、ようやく敵が見えてきた。


「なっ……‼」

「何これ……」


 俺たちがやってきたのは雪代家のすぐそば、高級住宅街の真ん中だ。道幅こそ広いものの人の往来は少なく、本来は閑静であるべき場所。だが、そこには昨日と同じトンボ型モンスターで溢れていた。地上から一メートル近くのところでホバリングしているため、ブンブンと気味の悪い羽音が耳を叩いてくる。虫であふれ返ったこの光景は、人によってはそれだけで卒倒ものだろう。


「い、いくらなんでも多すぎないか?」

「うん……それに翔君はどこに行ったんだろ」


 一匹ずつでは雑魚だろうが、五百を超えるであろうこの数は絶望的とさえ思える。辺りを見回してみても翔の姿が見えないということは、単独で突っ込んでいったのだろうか。胸の奥にじわりじわりと不安が広がっていく。


 ……いや、考えても仕方ない。幸い昨日と違って晴香がいる。できることを着実にやっていくだけだ。


「虫型だ。晴香、頼むぞ」

「うん、任せて」


 晴香は頼もしい返事をすると、火縄銃を手に走り出す。俺はその後方を守るように後ろ走りをしながら刀を抜いた。


「ファイアーーーーーー‼」


 奴らの一メートル手前まで近づくと、銃先から火が噴き出した。火炎放射だ。晴香の温度調節によって極限まで高められた青い炎が、ポンプ車の放水のような勢いで奴らを焼き殺していく。


「――――――――‼」


 いくつも重なり合う断末魔がごうごうと広がっていく猛炎にかき消される。ほんの数秒のうちに地獄と化した住宅街。幻想的ともいえる青い炎に包まれた一帯は、焼け落ちた虫けらであふれかえっていた。


 これが晴香の最も得意とする戦術。銃口を通して極限まで熱せられた炎を吐き出すことにより、迅速に雑魚処理を行えるのだ。


 欠点としては、見た目に反してキルタイムが長いため、やけくそで突っ込んでくる相手には通じないことだ。炎に焼かれた体で体当たりをされようものならこちらが致命傷になる。今回のように防御力が極端に低い虫系統でなければ使いにくい大技だ。しかし。


「決まればすごい威力だな」


 一瞬にしてフィールドが変貌してしまった。加速度付与や身体強化のように使い勝手はよくないものの、温度調節も使いこなせば切り札になりえる。俺は万能感に思わず笑みがこぼれた。


「――っ、カズ君!」


 晴香の叫びでハッと気づき上空を見上げると、炎を逃れたトンボたちが真上からこちらに突っ込んできていた。火炎放射を真上に向けると重力で使用者まで焼かれてしまうので、使えないと踏んだのだろう。


「バカめ。対策済みだ」


 俺が大きく刀を振って奴らを遠ざけると、次の瞬間には晴香の弾丸が奴らを貫いだ。俺が稼いだ一瞬で火炎放射から弾丸へと切り替えたのだ。再び降下してくる虫どもを同じような連携で丁寧に始末する。


 火炎放射で殲滅し、残った奴らを刀と弾丸で仕留めていく。たとえ上空に飛ばれても、真上でなければ炎で対処できるので怖いものなしとばかりにどんどんと歩を進めていった。


「うん、ここら辺は全部倒したかな」


 さらりと言ってのける晴香の通り、いつの間にか一帯を制圧していた。途切れずに揺らめき続ける炎を、晴香の温度調節で消火しながら前に進む。巧みに炎を操る晴香はまるで魔術師のようだった。





 あれだけ絶望的な数的不利をとっていたはずなのに、その後も晴香無双で奴らを蹴散らしてしまった。俺はたまに奇襲してくるトンボから晴香を護衛していただけだ。さすがに魔力の使い過ぎで疲労困憊なのか座り込んで肩で息をしている晴香だが、この成果を見て文句を言うやつは誰もいないだろう。


 惜しむらくは、俺たちがやってくる前に相当な数の精霊がやられていたこと。奴らの発生から駆け付けるのが遅かったのだ。火炎放射で焼け野原になった元高級住宅街のど真ん中に寝っ転がり、俺は思わずため息をつく。


「あれ? そういえば翔君は?」ふと、晴香がつぶやいた。

「……確かに。どこ行った?」


 夢の世界にスマホはないので連絡手段がない。仕方ないので二人立ち上がって大声で叫ぶことにした。


「おーい! 翔! 今どこにいる!」

「翔くーん!」


 戦いの余韻に浸っている静かな夜に二つの大声がこだまする。だが、帰ってきたのは耳が痛くなるほどの静寂だけだ。


「やられたのか?」


 夢の世界で死ぬと死体が残らない。俺たちが到着する前にやられたのか、それとも晴香の火炎放射でうっかり焼いてしまったのか……。後者だったら申し訳ないな。熱かっただろう。


「明後日にお礼言っとかなきゃな。うん、あいつはいい奴だった」

「もしかしたらまだ生きてるかもしれないよ」

「ないだろうなあ……」


 こういうとき、楽観はほぼ当たらない。夢の世界で死んでも本当に死ぬわけじゃないので大丈夫だろう。翔に対して多少の申し訳なさと多分の感謝を胸に抱きつつ、俺らは朝を迎えた。



 × × ×



 昼休み、予想通り翔は学校に来なかった。仕方ないので晴香と二人で屋上に上がり、弁当を食べることにする。


「気に病むなって。翔が来なかったのは脳に狂気が入り込んだからだ。晴香の火炎放射で死んだのなら寝込まない。もとはと言えば、夢の獣が前触れもなくいきなり現れたのが悪いんだ。事故だよ事故」


 昨日から何度もそう言い聞かせているが、晴香はずっと肩を落としている。誰かがやられると何もかもを自分のせいだと責める性格なのだ。昼休みは半分を過ぎたというのに、晴香の弁当はほとんど減っていない。食べるのが大好きでいつもおいしそうに弁当を頬張っている晴香だというのに……。


「でも、これで翔君の出席が足りなかったら……」

「いやいや、あいつはちゃっかり授業に出てるぞ。なんやかんや死亡率は低いからなあ」

「そうなんだけど、なんだか嫌な予感がするの。まるで、このまま翔君がどっかに行っちゃうような」

「そんなわけないだろ。心配しすぎだよ」

「だって、最近何かおかしいよ。今日もクラスで五人ぐらい無断欠席してたし。何か良くないことが起こってるんじゃ……」

「……偶然だろ」


 そう言ってみるも、やけに多い休みのことは俺も気になっていた。昨日の夜に精霊が多くやられてしまったことが関係あるのだろうか。わからないのがもどかしい。俺たちを取り囲んでいる不透明な何かが煩わしくて仕方がない。


 そのまま二人とも口を開けず、屋上に気まずい沈黙が流れる。どこまでも続くどんよりとした雲が、世界を圧迫するように覆いかぶさっていた。


 ブルル。


 そこで俺のスマホから着信音が流れた。重苦しい空気から解放されたことに安堵しつつ、ポケットから取り出して応答する。画面には親父の名前が表示されていた。


「どうした?」


 昼間、親父は神主として近所の幼稚園や小学校に行くことが多く、電話をかけてくることなんてほとんどない。何かあったのだろうか。


『一守、ニュースを見たか?』

「ニュース? 朝のテレビは見たけど」

『昼の記事だ。今すぐネットでローカルのところを見てみろ』


 俺は通話をそのままにニュースアプリを開き、一面を確認する。そこには――


「春野で再び昏睡事件……?」


 俺のつぶやきが気になったのか晴香も覗き込んでくる。記事の詳細を確認すると、前回よりも多くの人が病院に搬送されているらしい。さらに加えて最悪なのが、昏睡事件に付け込んで強盗事件まで起きている。昏睡した四人家族の旦那を殺害後、百万以上を盗まれたらしい。夢の獣の狂気にあてられての犯行なのか?


「なんだよ……これ……」


 いつもと変わらない曇り空の下、住み慣れた街で大変なことが起きていると言われても現実感がない。どうしようもない不安が俺の体を侵食していく。


『どうやら春野中学付近で昏睡する人が多いらしい。教師のほとんどが出勤できずに休校になったそうだ。原因はわからないが、夢の世界絡みなら無視はできない』

「ちょ、ちょっと待ってくれよ。今までこんなことなかったんだろ? 確かに昨夜は結構精霊がやられちまったが、ここまで大ごとになるほどミスを繰り返したわけじゃない」


 一般人が昏睡するほどの狂気は数日では蓄積しない。運悪く同じ人が何度も夢の獣にやられたとしても、時間が経てば狂気は抜けていく。ここまで事態が大きくなるのは明らかにおかしい。


 無意識のうちに責任逃れを望んでいるのか、俺の語気は強くなる。


『わからない。わからないが、私は可能性は高いと踏んでいる。過去の例がいつも未来に適用できるとは限らないからな』

「…………」

『とにかく、事態は一刻を争う……というわけではないが、できることなら桜木の娘と雪代の息子を連れて今から神社に帰ってこい。話したいことがある』

「授業サボってか? それに、翔は寝込んるぞ」

『今から来れる奴だけでいい。とにかく、頼むぞ』


 親父はそこまで言うとプツンと通話を切ってしまった。こちらの都合を一切無視した言い方は、それだけ焦っているということだろう。


「お父さん、なんて?」

「よくわからんが、今から二人で神社に来いってさ」

「い、今から⁉」

「午後の授業はさぼることになるな」

「私はいいけど……カズ君は大丈夫なの? 出席日数足りてる?」

「再試の点数はいい感じだったし大丈夫だろ。いざとなったら補習を受けるよ」


 晴香は釈然としない様子だったが、もしこれで親父の言葉を無視したら後でどんな目にあわされるか分からない。俺たちはこそこそと荷物を取り、学校を抜け出して下校道をたどる。


「レストラン、閉まってるね」


 昏睡事件によりスタッフが足りなかったのだろう。帰り道にあるレストランは臨時休業の札がかかっていた。ここだけでなく、家に近づくにつれてどんどん人通りが少なくなっていき、どこのお店もシャッターが下りている。春日神社の付近はもともと人が多い地域ではなかったが、これではまるでゴーストタウンだ。緩やかに吹いてくる冷風が不気味な静けさを運んでいる。


「何が起こっているんだ……」


 無意識のうちに早足になる。山道に差し掛かり、スタスタと石段を上っていくと、鳥居の下で親父が難しい顔をして仁王立ちをしていた。その眼は街を見下ろしている。


「親父、何してるんだ。風邪ひくぞ」

「来たか。確かに外は寒いな。中に入ろう」


 俺と親父はそろって居間に入り、こたつを挟んで向かい合う。後から申し訳なさそうについてきた晴香は居心地悪そうに俺の隣に座った。親父がずっと険しい顔をしているので腰が引けるのだろう。


「それで、調査しているとか言ってたが、事件の原因は分かったのか?」

「結論から言うとわからない。精霊がやられたことが原因だと推測しているが、全くもって証拠がない」

「どうしようもないじゃねえか」

「一応、前回の昏睡事件のときに色々と医者に訊いてみたが、今のところは原因不明だそうだ。毒物や薬物も検出されていない。そうなれば、これが私たちの管轄というのは自然な流れだろう」

「……まあ、そうだな」


 春日神社はこの春野という町を何度も守ってきたという伝承がある。その歴史を継ぐ者として、親父は使命感に駆られているのだ。


「というわけで、まず情報を整理しよう。一守は最近夢の獣が強いと言っていたが、他に変わったことはあるか」

「変わったこと、か。夢の世界がらみではたくさんあるな」


 隣の晴香も同意してうなずく。


「そんなにか?」

「ああ。前も言ったように、敵の知能が高いってのも一つ。俺らを無視して精霊を襲い始めたんだよ」

「それだけでも不可解だな。私のときにそんな奴はいなかった」


 夢の獣からすれば、邪魔者の俺らさえ倒せれば夜明けまで精霊を攻撃し放題なので、最優先で俺らを殺そうとしてくる習性がある。それは親父から習った夢の獣における大原則のはずなのだが……。


「他には匂いを出さずに現れる敵だな。昨日の奴らは突然現れたから間に合わずに被害が大きくなってしまったんだ」

「突然? お前らが腐臭を嗅ぎ落としたのではなく?」

「いや、近くを通った翔も気づかなかったらしい。間違いない」

「ふむ」


 親父はさらに難しい顔をして考え込むように背中を丸めた。


「あとはシンプルに敵の数が多かった。晴香のおかげで殲滅できたが、数だけで言えば五百以上いたぞ。相性が悪ければやられるのはこちらだったかもしれない」


 もしあれが虫ではなく人面犬なんかであれば五分と持たずにやられていただろう。


「それと以前に翔君が謎の敵に奇襲されてましたね。ほら、骸骨と戦った日に」


 ずっと黙っていた晴香も思い出したように言った。俺が神術で翔の傷を塞いだ日だ。たしかに、あの時は翔が混乱していたので敵の正体を聞けなかったが、あれは結局何だったのだろう。直前に腐臭もしなかったはずだ。


 目の前に並びたてられた謎を前に、俺と晴香はそこから何も進めることができなかったが、やがて黙っていた親父が口を開いた。


「なるほど。……まだ確証は持てないが、今回の事件には高い確率で人が関わっているだろうな。言い換えれば、首謀者が存在する」

「人が? 強盗はわかるが、夢の世界で起きた異変はみんな夢の獣関係のことだぞ」

「これは医者が言っていたんだが、昏睡して運び込まれた患者の脳波に作為的な動きが見られたらしい。脳機能の一部が欠損しているらしいから夢の獣が関係していることは間違いないんだが、彼は『何者かが患者の昏睡を目的とした魔法をかけているような動きをしている』と言っていた」


 親父の言葉も歯切れが悪い。なにも証拠のない現状では何を言っても妄想の域を出ないのだ。


「一番気になるのは雪代の息子に対する奇襲だ。あいつはかなり腕が立つ。逃げることも助けを求めることもせずにやられるというのはおかしな話だ」

「確かに……。翔君があそこまで深手を負わされるって変だよ。御神木の付近は暗いから敵の姿が見えなかったのはしょうがないとして、でもあんないきなりやられるかな? 普通、私たちに助けを求めるために叫ぶと思う。まるで敵にいきなり斬りつけられたみたいだよ」

「斬りつけられた?」親父が不思議そうに訊いた。

「はい。胴を剣で斜めにざっくりと斬られてました」

「それも妙だ。通常、夢の獣は剣を使えるほどの知能がない。せいぜい棒をぶん回すぐらいだ」

「ですよね。ということは……」

「雪代の息子を襲ったのは人間だろうな。少なくとも自然現象ではないだろう」


 あの時、玲奈も晴香も俺の目の前にいた。翔の傷口もきれいに斬られていたので、自作自演も考えにくい。そうなると、本当に第三者がいることになる。


「俺ら以外で夢の世界に行ける奴っているのか?」

「お前らがいつも使ってるスーツを着れば誰でも意識を持ったまま夢の世界に行ける。だが、あの時はすでに三着使われていたはずだ」

「新しく作ることは?」

「雪代家ならできるだろうが、一着で家が建つほど高価なものだ。軽々しくは作らないだろう」


 そこまで言った親父の眉間にしわが寄った。


「つまり、その気になれば可能ってことか」

「……」


 親父と翔の両親は戦友だと聞いている。仲間が犯人である可能性に気づいて複雑なのだろう。


 ありえない話ではない。むしろ、その方が納得できる。翔が襲撃されたとき、犯人の姿を見ていないのではなく、自分の親に罪がかぶさることを避けたのではないだろうか。そうなると、襲撃について翔を問い詰めても答えが返ってこないばかりか、かえって犯人に情報が洩れるリスクになる。


「ええと……もし、もし仮に翔君の両親が犯人だとして、なんでそんなことするんですか?」


 場が重くなるのを避けてか、晴香が話題を進めた。


「そうだ、理由がない。自分の息子を襲ってまでやることなどないはずだ」


 親父の言葉は自分に言い聞かせているようだ。感情に流されるのは親父らしくないが、同期を犯人だと思いたくない気持ちはわからなくもない。


「今回の事件で一番得をしたのは火事場強盗だな。夢の世界を経由して昏睡させ、現実で堂々と金を盗むってはありえそうじゃないか?」


 俺の推理に親父は首を振った。


「雪代の家は私たちが想像もできないほどの名家だ。たかだか百万ぽっちのために他人の家に乗り込み、ナイフで首をかっさくなどとリスクの高い行動はとらないだろう」

「じゃあ、本当にただの火事場強盗か。ちなみに襲われたのってどこの誰なんだ?」

「鈴木先生だよ。メッセージが回ってきたもん」


 そう言って中学時代の仲間のグループチャットを見せてくる晴香。そこには鈴木の訃報が書かれていた。


「そうだったのか。鈴木も災難だったな」


 正直、俺は鈴木が嫌いだったので哀しみの余地はない。それよりもいつの間にか中学の同窓会グループが出来上がっていたことにショックを受けた。俺には全く連絡が来なかったのに……。


「こいつか……。恨まれても仕方ない奴だな」


 親父も渋い顔をする。保護者にも鈴木の悪評は広まっていたのだ。学校の経費を使い込んだとか、生徒に体罰を振るっただとか。


 その後もしばらく話し合ったが、解決の糸口は全く見つからなかった。


「――まあ、なんにしろ証拠を探さないことには仕方ない。話し合いはこれくらいにして、あとは足で調査するしかないな」


 親父はそう言って立ち上がり、こきこきと首を鳴らした。


 外を見ると、雲の隙間から赤い空が見えている。すっかり夕暮れ時になっていた。


「桜木の娘もそろそろ帰らないとだろう。一守、送ってやれ」

「え、いいですよ。まだ遅い時間じゃないし、このぐらい一人で帰れます」

「いいや、桜木の娘。街には強盗が出ている。女の子を一人で歩かせるわけにはいかない」

「そういうわけだ。おとなしく俺に送られろ」

「う、うん……」


 渋々といった風の晴香を連れて家を出る。


 色々なことがありすぎたせいか、帰り道で晴香はほとんど口を開かなかった。





 その夜、戦いの前に仮眠をとろうにも寝付けなかった俺は久しぶりに映画を見ていた。こういった娯楽は高校に入って忙しくなってからほとんど触れておらず、新鮮な気分だ。失った思い出に浸るようで、言葉にできない感情が胸を詰まらせる。


「お前もヒーローもの好きだな」


 ちょうど風呂からあがったらしい親父が半裸で話しかけてきた。中学時代の俺は、映画を見ているときに邪魔されるとブチ切れていたが、今となっては作品に対してそこまで執着がない。集中力も情熱もなく、ただ暇つぶしのために見る映画はどこか空虚だった。


 だから、ふとこんなことを思ってしまう。


「なあ、なんで主人公は無条件でみんなを助けるんだ?」


 口にしてから、自分が作品を純粋に楽しめなくなっていることに気づいた。高校に入ってからオタク文化に触れる機会が少なく、「好き」を失ってしまったのだろう。


 だが、この馬鹿らしい問いに対して親父は真剣な顔をした。多分それは、俺の問いが俺自身に向けられていると気づいたから。


 俺たちはこの町を守るために戦いの義務を押し付けられた。そのせいで学業はおろそかになり、人並みの青春すら送れない。晴香をも戦場に駆り出してしまう。


 これらの理不尽に対して納得できる理由が欲しい。俺が戦い続けるべきそのワケを。


「ふむ、難しい問題だな。最近の映画はその疑問に焦点を当てるものも多くなっている。脚本家も皆悩んでいるのだろう」

「そうなんだ」


 俺の持っているDVDは一昔前の物ばかりなので知らなかった。


「ああ。それらの映画で語られるのはノブレスオブリージュ、『力ある者はそれに見合った義務がある』という考えだ」

「なんか、釈然としない答えだな」

「ほう。なぜそう思う」

「だってよ、せっかく努力をして力を手に入れたのに、それを人のために使えだなんて、おかしな話じゃないか? 多分、助けられる民衆はヒーローの努力なんて知らないんだぜ。そんなの努力損じゃないか」


 俺がどんなに頑張っても、この町の人間は誰も称賛してくれない。報われない虚しさに理由が欲しかった。


「だろうな。アメリカは努力できるのも才能のうちという考えが強い。才能は神様からもらうという価値観もある。日本人のお前に合わないのは当然だろう」

「神様、か……。そんなもん、いねえのにな」

「神社の跡継ぎがなんてこと言うんだ」

「神様がいたら、あんな悲劇は起こらねえだろ」


 俺はテレビを消して窓の外を見る。曇が空を覆う今夜は月が見えなかった。


「それは仕方ない。神様は人間を平等に作らないからだ。福沢諭吉だって平等は嘘だと言いきっている。お前が過酷な青春を強いられたように、彼女が悲劇を押し付けられたように、人生にはどうしようもない不平等が降ってかかる」


 親父がふと視線を向けた先には、俺の母親の写真が飾ってあった。俺が物心つく前に逝ったので、その死因を知らない。親父に訊いても「戦死した」とだけしか答えてくれないのだ。夢の世界で戦っても現実では死なないのでおそらくそれは嘘だろう。だが、夢の世界に関連する何かが原因だったというのは容易に推測できる。


 親父が真実を隠したがる理由はわからないが、戦死したと言うのは親父なりの自戒なのだと思う。俺の母はもともと夢の世界に対して縁もゆかりもない一般人。親父と結婚したことで巻き込まれてしまった被害者だからだ。その責任を今でも感じているのだろう。


 ずいぶんと酷な話だ。親父だって、戦いたくて戦っていたわけではないだろうに。こんな宿命がなければ、今頃母さんと三人で暮らせていただろうに。


「……やっぱ、人生ってクソだ」


 生まれたときから悲劇が決定されているなんて、不条理にもほどがある。


「中二発言ではあるがそれは真実だ。でも、だからこそ、ヒーローが必要なのだ。人生に襲い掛かってくる不条理をぶっ潰す、みんなのヒーローが。……私はなれなかったがね」


 空を拳で切り裂く親父。口はきつく結ばれ、その双眸はどこか遠くに向けられている。


「でも、ヒーローに人を助けるメリットはないだろ。みんなの期待を押し付けられて努力損をさせられるヒーローがかわいそうだ」

「ああ。ヒーローが頑張るメリットはない。だが道理は通っている」

「そうかあ? 理不尽だろ」

「簡単な話だ。世界と私は同じもの。だから、ヒーローは己を愛するように、世界を愛している。ただそれだけだ。目の前にある景色が全て幸福であってほしいという、理想論だよ」

「……ああ、なんとなくわかったよ」

「でも、実際にそんな強い奴はいない。みんな自分だけで精いっぱいだ。お前も、私も。他人を助ける余裕なんてない」

「…………」


 脳裏をよぎるのは晴香の顔。力を持たない俺が晴香を助けようとするから、力及ばずやられてしまうのだろうか。


親父はそんな迷う俺のすべてを見透かしたように目を合わせ、しかしすぐににっこり微笑んだ。


「お前はヒーローと呼べるほど強くない。努力は認めるがまだまだガキだ。だからみんなを守るヒーローになれとは言わない。…………でもな、一守。愛した女の一人ぐらいは守らないといけない時が来る。世界そのものは愛せなくとも、愛した女は守り通してみせろ」


 親父は淡々と俺に告げる。その言葉には、確かな熱が込められていた。


 俺は返す言葉が見つからず口を閉ざす。沈黙の下りた部屋には、凍てつく夜風が窓を叩く音がガタガタと響いている。


「……親父、ちょっと表出ないか? 久しぶりに模擬戦でもやろうぜ」

「ちょうどいいな。私も、お前を鍛えたくなったところだ」





「――甘い!」


 しんとした夜の森に響く親父の力強い大喝が俺の心臓を叩く。威圧だけで子供を殺せそうなほどの鬼気迫る表情をした親父は、コンマ一秒の隙を逃すことなく俺の横腹に竹刀を打ち込んだ。


「ぐ……」


 夢の世界と同じスーツを着ているのである程度衝撃は軽減してくれるものの、それでも腹を突きぬけていく痛みに耐えきれず声を漏らす。体勢も崩れ、危うく転びそうになるが何とか踏みとどまれた。すぐに来る追撃の上段振り下ろしを竹刀でブロックしようとするも、力負けして今度こそ尻を地についてしまう。俺よりも二回りは大きい親父が見下ろしてきた。


「お前は攻撃のことしか考えていないだろう。攻撃は最大の防御だが、防御もまた最大の攻撃。特にお前はチーム戦だ。生き残っているだけで相手にプレッシャーをかけ続けられる」

「でも、さっさと攻撃して片付けた方が結果的にイレギュラーも少なくなって安全じゃないか」

「お前はバランスが悪すぎる。もっと相手を、そして周囲を見ろ。周りを頼れ」

「……」


 俺は横腹を抑えつつ立ち上がる。やはり、普段から鍛えているだけあって剣の腕は俺よりも数段上だ。長年夢の獣の狂気にあてられて脳機能は大分衰えているらしいが、そんなものを全く感じさせない。心なしか、いつもより感情の起伏も大きく感じる。


「こうした一対一のときも相手と自分のバランスを意識しろ。敵を倒すまでの明確なチャートを頭の中でたててみるんだ」

「……なるほどね。おーけー、次いくぞ」

「来い」


 俺は再び親父から距離を取り、竹刀を脇に構えて突撃する。


現実では肉体の制約が大きく、夢の世界ほどうまく体が動かない。だがそれは親父も同じ。人間の反応速度限界を考えると、神速で振るわれる一撃を防ぐ術はないはずだ。


「うおおおおおおおおおおおおおおお!」


親父に気迫負けしないように雄たけびを上げる。それだけで全身の筋肉がほぐされたような気がするのだから、人体というのは不思議だ。


カァン!


交差した竹刀が乾いた音を響かせる。必殺に思えた初撃を難なく防がれた驚愕をぐっと胸の奥に押しとどめ、すくい上げる二撃、振り下ろす三撃を繰り出していく。――だが、その全てがあっけなくはじかれてしまう。


 そして親父は俺の刹那の硬直を見逃すことなく、弾くように横払いを食らわせてきた。


「へぶっ」


 俺は情けない声とともに一メートル以上吹っ飛ばされて腰を強打する。竹刀に叩かれた左腕と合わさってすさまじい痛みが襲ってきた。


「何も変わっていないじゃないか」親父が呆れたように言う。

「く、くそ……」


 その後、十二時になるまで何度挑んでも親父にはただの一太刀もあびせられなかった。





「……なんで先輩はすでに死にそうになってるんですかね」


 夢の世界へ出勤するころにはヘロヘロだった。夢の世界と現実の肉体は別なので痛みはないのが幸いだ。鳥居の下に着くや否や座り込んだ俺を見て玲奈が呆れた声を出す。


「ちょっと修行をな……久しぶりに親父とやったらぼこぼこにされたよ」

「先輩のお父さん、怖そうですもんね」

「別に顔が怖いだけで中身は普通なんだが……まあ、竹刀を握ると三倍増しで威圧的だな。鬼師範代になるし」


 俺は剣の修練を中学の頃からやらされ始めたのだが、最初の方はその厳しさに泣きそうになったものだ。


「先輩は気合が足りませんよ。いっつも眠そうな顔をして、だるそーに歩いてますもん。そんなんだから晴香さんにフラれるんですよ。気合を入れましょう!」

「体育会系のノリを押し付けるな……」


 俺はもともとただのオタクだ。厳しい修練とか、気合を入れるなんて言葉は似合わない。むしろ玲奈はなぜそんなに陽キャオーラをふりまけるようになったのか。


「そうでなくても、先輩はもう少し青春を謳歌した方が良いと思いますけどね。先輩はちゃんと友達いますか? 見てたら心配になりますよ」

「翔と晴香がいるだろ。そもそも、謳歌しようにもそんな暇はない」

「そんなんで毎日楽しいですかー?」

「悪い人生じゃないと思ってるよ。友達は少ないけど、俺は人の縁に恵まれた。……もちろん、玲奈との縁もだ」

「え、わ、私ですか」


 俺の言葉が予想外だったのか、顔を真っ赤にしてあたふたする玲奈。思わず笑ってしまったが、これを機にちゃんと感謝を伝えておきたいと思い言葉を続ける。


「ああ。俺は玲奈に出会えてよかったと思ってるよ。玲奈のおかげで、文芸部が少し楽しくなった」

「すぐオタクを卒業したくせに」

「それは、まあ、仕方なかったんだ」

「はあ。まったくこの先輩は……」


 玲奈は苦笑して肩を落とす。そしてしばらく悩むように地面を見つめていたが、笑顔で顔を上げた。


「私も先輩に出会えてよかったですよ。先輩が私を受け入れてくれたから、今の私がいるんです」

「そうか。そりゃよかった」


 そこまで言ったものの、お互い急に気恥ずかしくなって笑ってしまった。


 二人して笑っていると、不思議そうな顔をして晴香が石段を上ってきた。


「なんか楽しそうだね、二人とも」


 晴香は穏やかな笑みを浮かべている。まだ寝込んでいる翔はもちろんいない。


「晴香さん! 私はいつでも楽しいですよ。元気も体力もあり余ってます!」

「ほんと、元気だよな」

「そう言うカズ君は楽しそうだけど疲れてるね。何してたの?」

「ああ、ちょっと親父と修行をな」


 といっても数時間だけなので修行と呼べるか怪しいが。


「お、じゃあ今日の戦いは楽しみだ」

「そんなすぐ成果が出るものじゃないけどな」


 今日は翔がいないので、厳しい戦いになりそうだ。


「あまり敵は出てきてほしくないな……」

「平和が一番だよねえ」


 そう願っても現実はうまくいかない。腐臭を発生させない夢の獣がいるかもしれない以上、積極的なパトロールが必要になってくる。


「あ、そうだ、カズ君。今回の事件は人が犯人かもしれないって言ってたよね」

「なんですか? それ」


 事情を知らない玲奈が首を傾げた。容疑者に玲奈の親が挙げられているので説明をためらったが、そこだけを隠しつつ端的に説明した。


「私の知らない間にそんなことが……」

「だから今日からは油断できないんだ。悪いな」


 玲奈とデートなんてもうできないだろう。


「それで聞きたいんだけど、犯人は夢の世界に来てるよね」

「ああ。夢の獣の強化とか大量発生に関与してるのならな」

「夢の獣を操作してるってことだよね。どうやってやったと思う?」

「神術を使ってできないことはない。もちろん、そんなことをすればとんでもない代償を要求されるけどな。精神にかかる負担も相当だろ」

「じゃあさ、対抗して神術を使って犯人の名前を教えてもらうのはできないの?」

「情報を得るために必要な代償は情報だ。それは神の言語を使って、神の知らないことを差し出さなきゃいけない。無理だ」


 神術の代償は神の価値観に基づいて決定されるため、こういった不条理もよくある。


「うーん、ダメか。いい案だと思ったんだけどね」

「神術は万能じゃないからな。仕方ない。それじゃさっさと見まわりに行くぞ」

「うん。玲奈ちゃん、行ってくるね」

「はーい」


 玲奈に見送られて俺たちは街へと歩く。もし仮に腐臭がなく夢の獣が発生するとしたら、今この瞬間に目の前から出現するかもしれないのだ。緊張してしまう。


 大通りまで来ると、現実とは違って閑散としている違和感から一層肩に力が入ってしまった。以前のように午前二時を過ぎても敵が出るのなら、これを夜明けまで続けないといけない。


「あまり現実的じゃないな……」


 夜の間ずっと張りつめていたならば、すり減った精神が現実生活に影響を出してしまう。疲れ果てた状態で日中に起きていられる自信がない。早くこの事件を解決しないと厳しいな……。


 それからゆっくりと時間は流れていき、夜明けまであと僅か。恐ろしいほど静かな夜に大きな違和感を抱きつつも、敵は一体も現れないままだ。少し拍子抜けした感覚に思わず気が緩んでしまう。


 ――その時だった。


 死を予感させる風切り音が聞こえたかと思ったら、次の瞬間には黒くうごめくものが俺の懐に飛び込んできており、鋭い一閃が――


「くっ!」


 だが、思考よりも先に体が動いてくれたおかげで、間一髪居合で防ぐことができた。


 刀を振るった勢いのまま俺と晴香は大きく後退する。


「…………」


 それは黒い怪物だった。人型に見えるが、全身を漆黒のオーラのようなものが包んでいるため、シルエットしかわからない。右手には武骨なレイピアが握られている。目があるのかも口があるのかもわからないが、構える俺たちを睨んだまま無言で直立不動だ。こいつも夢の獣なのだろうか。


 ……いや、夢の獣は剣を振るわない。もしかするとこいつは。


「もしかするとあんた、雪代の父親か」

「……」


 黒の人は動かない。もしこの中身が意識のある人だとすると、この黒のオーラは留守番をしている玲奈の目を盗んで神術で作り出したのだろうか。こんなことなら玲奈に御神木の監視を命じておけばよかった。


 しばらく向かい合っていたが、しびれを切らしたのか突如レイピアを構えて突撃してきた。雪代家らしく加速度付与が得意なのか相当速い。年を考えると体力は衰えているだろうが、ベテランの技術をつい先ほど見せつけられたばかりだ。俺はかっと目を見開いた。


「はあっ――‼」


 キン!


 大きな三日月を描くように刀を振るい奴を近づけさせない。武器が交差する金属音が戦闘開始の合図とばかりに甲高く響いた。


 しかし、奴も相当戦闘慣れしているのかすぐに次の一歩を踏み込んでくる。レイピアの軽さを生かした怒涛の連撃。それを俺は後退しながら刀で弾き、なんとか防ぎきる。


「ぐ……」


 強い。俺はレイピアの知識がないのでこの敵の技術についてはわからないが、目を見張るのは圧倒的スピードだ。軽やかなステップから繰り出される左右の斬り払い多段攻撃に反撃の糸口が全く見つからない。


 このままでは後手後手だ。一歩引くか、踏み込むか。……いや、なまじ引くという選択肢があるから迷うのだ。俺は相手の間合いに入る恐怖をぐっとこらえ、無理やり一歩踏み出した。


 俺の行動は想定外だったのかわずかに奴の反応が遅れた。その隙を逃さず奴の脇腹めがけて斬りかかる。


 生々しい肉の感覚。直後に空を舞う鮮血。だが、浅すぎる。奴はダメージにひるまず、体勢が崩れた俺の左肩に向かって閃光のようなひと突きを放った。


「――――」


 晴香の前なので必死で声を抑えるも、焼けるような痛みが肩を襲う。スーツに血が染みて重くなっていくのも煩わしい。ぞわりと脳が侵される感触に意識を持って行かれそうになる。だが、これは刹那の油断が勝敗を分ける真剣勝負だ。精神的干渉を気合で乗り越えて刀を構えなおす。


 なんとかタイミングを合わせて追撃をはじく。僅かにでもタイミングがずれていたら心臓を貫かれていただろう可能性に恐怖する暇もなく、再び剣先が交差した。


 このような密着状態では誤射が怖くて晴香も援護射撃ができない。形式的には人数有利だが、これではタイマンと同じだ。それにいら立っているのか、横目に見える晴香は苦々しい顔をしている。


「く――」


 晴香に対する一瞬の迷いのうちに奴の剣が鼻先をかすめた。つんと刺激する血の匂い。動揺に声が漏れてしまった。


 多分、それで俺の弱点を見抜かれてしまったんだろう。何かに気づいたように大きく後退した黒の人は、しかしその直後に猛然と晴香の方へと駆け出した。


「わ、わたし⁉」


 晴香を狙われてパニックになった俺は、条件反射的にその背中を追う。だが、奴のそれはフェイクだった。突如足を止め、振り向きざまに繰り出された一撃に俺は反応できなかった。


「がふっ」


 ギリギリ心臓を避けその真横、肺を貫かれた。黒のベールに包まれて表情の見えないその顔が、確かにほくそ笑んだ気がする。勝利を確信した笑いだ。


 ――だが、まだだ!


 肺を一つ潰された程度で人は死なない。実際のところはわからないが、そう思い込むことで俺は力を振り絞り、刀を捨て、刹那に静止した奴の右腕に両手でつかみかかる。


 肺から押し寄せてくる狂気が脳に達するまでに決着をつける!


「晴香ぁ!」

「ファイアー‼」


 逃げられなくなった奴の横腹を蒼の銃弾が貫いていく。揺れる黒の体躯。


 しかし、崩れ落ちるかと思われた体は、次の瞬間には両の足でしっかりと地面に立っていた。


「化け物め……」


 俺が悪態をつくと同時に奴の左手が俺の首に伸びる。そのあまりのスピードに、俺はあっさりと首輪を許してしまった。


「か……」


 ふとその時、ヤギの吐しゃ物のような味が口内を支配した。狂気が脳の感覚器をつかさどる部分に達したのだ。絞められた首と貫かれた肺が相まって呼吸困難になる。


『縺ゅ縺ッ縲縺上繧捺ュサ縺ャ繧』


 意味不明な幻聴も聞こえてきた。おぞましい声は頭の中で反響して俺を逃がさない。


「ファイアー‼」


 晴香の弾丸が奴の手首を吹っ飛ばして俺は解放された。だが致命的なほど脳に酸素が渡っていない。もはやまともに立つので精いっぱいだった。


『繧医繧上繧医繝シ縺』

「あ……あが! ああ……」


 うまく声が出せない。


「あ、ああ! あああ!」


 深海で溺れているようだ。どれだけもがいても空気は見つからず、真っ暗な世界では敵を視認できない。


 どすり、と腹を何かが貫通する音が聞こえた。すでに満身創痍の心と体。折れた心は訪れる脱力感に体を委ね――


「カズ君!」


 しかし聞こえるはずのないその声は手放しかけた俺の意識をつなぎとめた。


 そうだ俺には守るべき人がいる。正直なところ精霊なんてどうでもいいが、彼女だけは守らなくては。


 五感のほとんどを失い、思考もぼんやりとしている中、俺は立ち上がって刀を構えた。勝機は薄いかもしれない。だが、もはやそれすらも些事とみなすほどに、俺の思考力は低下していた。


 ふわふわと揺れる地面。希薄な現実感。それでも両の足で立ち上がることに意味がある。

 自分の雄たけびすらも聞こえない。自分の場所さえわからない。でも肌に刺さる空気のとげで直感的に二人の場所を把握できた。


 レイピアを構えて突進してくる黒の人。見えていないはずなのに、その一挙一動が手に取るようにわかる。


 視覚、聴覚、味覚が狂ったことにより、触角が鋭敏になっていたのだ。


 そこからの勝負は一瞬だった。繰り出されたレイピアを最小限の動きで弾き、返しの太刀で奴の首を刎ねる。奴が崩れ落ちる音が決着の合図だった。


「おわ……った……」


 俺はゆっくりと刀を鞘に納める。


 ふいに背中が暖かいものに包まれた。晴香に後ろから抱きしめられていると気づくまで、たっぷり三秒ほどかかってしまった。何か言っているような気もするが、その声は俺に届かない。


「はる……か……」


 うまく声が出ない。肺を貫かれたのだから当然だろう。むしろ意識ある今の状況がおかしいほどだ。


「けが……ないか?」


 晴香は何かを叫んでいるが、何も聞こえない俺は抱きしめ返すことしかできない。


「心配……すんな。俺は、最強だからな……」


 そうして、世界は朝を迎えた。

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