8.本当に、
───バレていた。
頭では解っていても脳裏を駆け巡る、「何故」の言葉。
それでも。脳と同期するかのように混迷する身体に鞭を打ち、息を、姿勢を整え、魔力を捻り回しながら前を見据える。
近づいてくる。悪夢が。この三年間を、人生を懸けた計略を、覚悟を一瞬で破壊した妖艶が。
(悪夢ならどんなに───っ)
目に映る現実を受け入れられず、今にも逃避せんとする思考を無理やり引き戻す。逃げなければ。捻れる魔力は加速する。
近づいてくる。恐慌する我が子を微笑ましげに、愛おしげに眺める麗しき母が。
逃げなければ。逃げなければ。逃げなければ。逃げなければ。
距離に反比例して膨張する焦燥感。加速し続ける体内魔力。脳が、理性が、本能が、思考が、直感が、そして身体でさえもが警鐘を鳴らす。「逃げろ」と。
なのに。
なのに。
動かなかった。───動けなかった。
交錯する。シャロンと同じ、深青の瞳。
───動けなかった。
愛おしげに見下ろすその瞳が、心做しか私を見ているような。そんな、願望紛いの錯覚に囚われて。
どこか懐かしい温もりが全身を包む。
一筋の熱が、頬を伝って落ちていく。
「シャロン。世界が、国が、……私が、怖い?」
どこか緊張を滲ませる声が鼓膜を揺らす。
意図せずも少し力む私。そんな私に母は少しの寂しさを感じさせる声色で静かに、言い聞かせるように言葉を繋ぐ。
「……そっか。
───でも、でもねシャロン。あなただって本当はわかっているはずよ。この国は……この世界はそんなに怖いものじゃない、って。」
分かっていた。判っていた。解っていた。
転生者にとってこの世界は、この国は。決して恐ろしい場所などではないのだと。
転生者だからといって殺されることなど、ありはしないのだと。
───転生者の中身だけを駆逐することなど、ありはしないのだと。
───返せない。
自責の念が心を炙り、口を衝く。
「わたし、は、ひとごろし、だから」
抱きしめる力が僅かに強まる。次の言葉を遮るように。愛する娘を繋ぎ止めるように。
「奪って、しまった。身体を、心を、……未来を。」
───私が、転生なんてしなければ。
「!? 違う……!違うのよ、シャロン。奪ってなんかない。あなたは何も奪ってない……!」
驚いたように慌てて言い縋る母。
「転生者かなんて関係ない、シャロンは、愛する娘はあなただけで……!」
抱きしめる力が、更に強まる。
───必死な声色が、焦がれる心に沁み渡る。
「わたし。私は───」
慎重に。確かめるように。ゆっくりと母の背中に手を伸ばす。
抱きしめる力が更に強くなる。
……とめどなく溢れ出す涙。
もしかしたら。
もしかしたら。私は、本当に───
本当に、
「───ここにいても、いいのかな」
「なにを、今更……!」
冷たい鎖が頬を伝い、地に堕ちて消えていった。