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読んでくだされば幸いです

『切る、斬る、素KILL』 

「よう、おはよう東雲」

 眩しい朝日の中で、葛城が片手を上げていた。

 僕は朝一からふわふわとした心持ちになり、自分の席に座る。

 あの日から葛城司は変わった。否、元に戻った。

 指定のYシャツのボタンをきっちり上まではめ、薄いがどこか毒々しかったメイクももうしていない。髪も染め直し、さらさら漆黒だ。

 中学時代の雑誌モデルのように『格好いい』、彼女に戻っている。

 が、どうしてか一つだけ中学時代と決定的に違うところがある。

「今日さ、数学があるだろ? 私休んで訳判らなくなっているんだよね」

 そう言うと彼女は、僕の椅子の半分に強引に座ってくる。

 葛城と僕との距離感がいままでと全く違う。 

 恐らく長い間あんな『犯罪者集団』と一緒にいた反動で、微妙に人との距離が判らなくなっているのだろう。

 心細かったんだね? 葛城。

 しかし、僕に数学を、勉強を聞くのはヤボってもんだ。

「そうかー、東雲わからないのかー、やっぱり」

 やっぱり? なら何故聞く、僕を辱めているのか? 興奮するだろ葛城。それに気付いていないようだけど、僕の右肘にちょっと胸が当たっているぞ。

 胸ちょんはちゃんと付き合ってからだぞ。しかし注意しようにも、僕の鼻孔は葛城の纏う石鹸の匂いで満たされ、頭脳は半分溶けていた。 

「うふふふ」

 そんな自分のとんでもない失敗に気付かない呑気さんの葛城は、僕の顔を横から覗いて機嫌良さそうに笑う。

 びゅっと空を切る音がしたのはその時だ。

 ばちん、と葛城は何でもないように腕を振るう。

 金属の高い軋んだ音が床から鳴った。

 視線を転じると、いつぞやも大活躍したぎらぎら輝く銀のコンパスが落ちている。

「うえ!」

 振り返ると、えりすが目を尖らせて睨んでいた。

「このバカ拓生、ドスケベ女にダマされて」

 しかし悪態を聞いていられない、葛城がぐっと両手で僕の頭を挟んで向きを変えたのだ。

「さあ、あんなイヤな女は放っておいて、二人で問題解こう」 

 葛城、何て豪毅な女だ。あのえりすに負けていない。しかも背中にも目があるのか、彼女の攻撃もかわした。

 ―やっぱり格好いいなあ……。

 改めて葛城司の魅力を思い知った。

 いつの間にか机が陰っていた。

 う? と顔を上げるとノートを胸に抱いた天城さんが、ぼー、と突っ立っている。

「けいさんと……ちがう……」

 彼女は表情を消してじいっと見つめてくるが、何のことか判らない。

「計算と違います、拓生君、そんな急に葛城さんと……計算し直さないといけないじゃないですか!」

 なんだか怒られた。

「え、ええっと、ごめん」

 訳が分からないが、謝るのだ。

 そうしないといけないような……今日の天城さんはそんな迫力がある。

「何? 天城」

 僕が場を収めようとしたのに、まだ尖っていたころのクセが抜けていないのか、葛城が不機嫌な声を出す。

 ―あれ?

 その時になってようやく気付いた。今日は教室が静かだ。いつもなら友達とダベっているはずのクラスメイト達が、皆俯いて息を潜めている。

 ちらちらとこちらを見てくるので、不安になった。

 ―もしかして、僕ら煩いのかな?

 同級生に迷惑をかけるのも忍びない、僕は机の前に立つ天城さんを見上げる葛城に囁いた。

「なんだかみんなに迷惑かけているようだよ」

「別にいいのよ、そんなこと」

 ばち、言葉の終わりに彼女はまた腕を鞭のようにしならせ、えりすが投げた百科事典を床に落とす。

 うわー、百科事典を生まれて初めてみた。本当にこの世のありとあらゆることが記されていそうな厚さで、しかもえりすのは装丁が焦げ茶の革で成されている。きっと読むととても頭が良くなるのだろう。鈍器として使われると頭が無くなるだろうが。

 が、そんな凶器を葛城は涼しい顔で打ったし、その後も手を痛めた様子もない。

 確か『アイアンボディ』とか言った。痛みを感じなくなる能力だ。

 目を上げると、葛城の瞳は嬉しそうに輝く。

「計算と違います!」

 珍しく天城さんは激して、僕の机をばしんと叩いた。

 わわ、とどん引きした。

 良く理解できないけど、どうやら三人は仲が悪いらしい。えりすはしょうがないとして、天城さんは他人に迷惑をかけるような子じゃない、葛城だってもう更正したはずだ。

 ―どうして仲が悪いのかなあ?

「そこの三人」

 悩んでいると虎狼院みやが大股で近寄り、彼女達を指さした。

「拓生君が困っているよ、喧嘩するなら他の場所でしろ、それとも僕が拓生君の近くから追い出そうか?」

 みや、あのいつもにこにこしている彼だが、今日はやはり虫の居所が悪いのか、妙に挑戦的な物言いをする。

「やってみたら?」

 葛城はすぐに応じた。えりすも白っぽい目を向け、天城さんはノートに何か書き始めた。

「そうか……どうやら君たちは僕を侮っているようだね?」

 みやは微笑む。まるで女の子のような艶のある笑みだ。

 教室が突然寒くなった。夏が近づいているというのに、真冬のように感じられる。 

 数秒、静寂が辺りを支配する。

 僕は理解が追いつかなくて、ただ葛城、天城さん、えりす、みや、の順で見回すだけだ。

 がらら、と不意に前の扉が開かれ、担任の細井先生が現れた。

「うわ!」

 彼は何か酷く顔色が悪くなっている。いきなり冬に逆戻りしたのだ、春物の服ではきついのだろう。

「運が良かったね」

 みやはにっこりと自分の席へと戻っていき、葛城は最後に僕に笑いかけると腰を上げる。

何か言いたいことが計算できない程ありそうな天城さんも、踵を返した。 

 ただ呆気にとられてそれぞれを見送る。額に生ぬるい感触があった。

 触れてみると汗だ。いつの間にか僕は体中に汗をかいていた。

 ―こんなに寒いのに。

 人間の体の神秘に、思いを馳せる。


 数時間後、僕はすっかり疲れていた。

 そんな一連の遣り取りが、休み時間になるたびに繰り返されたから、いつのまにか気疲れしていた。

 昼休みになるのを見計らい、教室から抜け出した。

「逃げるのか? 東雲」と僕をゴミ虫として見ている隣の席の女の子が悲鳴を上げたが、逃げるも何も、何かに追われてはいない。

 ―彼女は何を勘違いしているのだろう?

 たしかに居づらい気もするが、それは気のせいという奴で、逃げるとかそう言うのではなくて、前向きな脱出なのだ。後のことは見てないから知らないのだ。

 とにかく教室を出た僕の目に、とんでもない物が飛び込む。

 ちちが揺れていた。

 音にするならば、ぷるんぷるん、とちちが揺れている。  

 お父様ではない。

 乳だ。

 あまりのことに固まっていると、ぷるんぷるんは近づいてきて、僕の前で止まり微かに上下する。

「あら、後輩君」

 ―雛森先輩、こんにちは。

 と、本来ならば挨拶せねばならないのだろうが、僕の目玉は雛森先輩の胸部に釘付けにされ、弛緩した口は「ち……ち」と唱えるだけだ。

「何? またっ、もう!」

 雛森先輩は怒ったようにしかし神経質ではなく、子供を窘めるような口調になる。

「ダメだよ、後輩君」

 と雛森先輩は胸を腕で押さえながら、やや屈む。

「女の子は意外と視線に敏感なんだから、見ているところ、すぐにバレるんだからね」

 僕はよろめいた。

 やよいの困ったような微笑みが、あまりにも眩しかったのだ。

 前述したが雛森先輩はこの学校のアイドルで、皆が憧れるマドンナで、男子生徒なら必ず想像の世界で夜半に世話になっているビーナスだ。

 背中当たりまで伸びた濃い茶色の髪はなだらかにウェーヴしていて、それに包まれた小さな顔は陶磁器のように白い。故に長い睫の下の大きな黒目がちの目がよく映え、鼻は嫌味にならないくらいに高く、艶やかな唇は健康的に紅い。彼女の何もかもが好印象に残り、何もかもが魅力的だ。

 アイドル、マドンナと呼称されるのが当然と言えた。

 しかし、当人は「もう、からかって!」とそんな賞賛の言葉に真っ赤になって照れるほどで、気取った所も、偉そうな所もない、誰にも優しい笑みを向けてくれるまさに天使のような存在だった。

 僕との運命に等しい縁は、噂の先輩目当てに剣道部に仮入部した折、全くセンスもやる気もない僕の手を熱心に取ってくれたことからだ。

 雛森先輩以外に目的がない僕は、違う先輩(特に男)が怖くて仮入部に止まったのだが、それから彼女は僕を「後輩君」と名付けて、時々話しかけてきてくれた。

 本当のことを言うと「後輩君」ではなく「拓生君」とか「拓生さん」と呼んで欲しいのだが。否、いっそのこと「私の拓生」と所持を表明してくれても良い。

 人の掃けた武道場で胴衣と袴姿の雛森先輩が、いつも通り背筋をぴしっと伸ばして正座をしている。

「やあ、先輩、どうしたんです? こんな所に呼び出して」

「こら! 拓生くん、神聖な道場を『こんな所』なんてダメでしょ」

「す、すみません」

「い、いいのよ、あなたなら、私の拓生くん……所で今日来てもらったのには、その、聞きたいことがあるの」

「なんです? 僕の先輩、あなたの疑問には何でも答えられる、僕はそんな男です」

「じ、実は……私たちの発展的な未来のことなんだけど……」

「未来?」

「もう、惚けないでよ! 私の拓生くんたら、こういう事はちゃんとしておいた方が良いのよ」

「でも、確か噂では先輩は尾澤先輩と付き合っていると聞きましたが」

「違うわよ! それは信頼できない噂、本当はあなたと付き合いたいの……私の拓生くん」

「ははあ」

「……て、また胸ばかり見て! ……まあいいわ、そうね、私の拓生くんには隠し事するのはおかしいもんね」

「ああ、先輩! どうして胴着を脱ぐんですか? 袴も」

「秘密はなし、おしえっこしましょう」

「そ、そうですか、判りました、いろいろ教えて下さい! いただきマース!」

 雛森先輩の瞳が、じっと僕を見つめていた。

「……何か妄想していない?」

「うはあ」とピンクワールドにいた僕が、強制的に現実に帰還させられる。

「もう」とやよいはため息をついた。くんくん嗅いでみると出来たてのパイのような、甘い匂いだ。

「あのね後輩君、イケナイ妄想ばかりしていると脳が溶けちゃうぞ」

 どぎまぎする僕にウインクすると、雛森先輩は何やら思いついた顔になる。

「そう言えば、尾澤君、知らない?」

 不意の残酷な質問に、背筋が凍る。

 ―尾澤……やっぱり尾澤先輩と……。

 その反応で答えに気付いたのか、雛森先輩は力無く肩を落とす。

「そう……どこに行ったのかなあ……」

 気付くと、彼女は弁当の包みを大事そうに持っていた。 

「そ、それって」

 思わず質問してしまう僕に、雛森先輩は頬を赤らめる。

「う、うん、ちょっと自分で作ってみたんだけど……尾澤君、食べてくれるかな?」

 奈落だ。その瞬間足下がパカリと開いて、ねっとりとした闇の中に落ちていく。

 ―やっぱり……噂通り、付きあってんジャン!

 ここがもし誰もいない深夜の屋上だったら、「うがーん!」と叫んでいたろうし、夕暮れの海ならば「ばかやろー!」と大海原に喧嘩を売っていただろう。

 しかし人の多い昼休みの学校の廊下なので、呆然と立ちつくすだけだ。

「あ、そうだ、後輩君」

 魂が口から抜けかけている僕に、雛森先輩は真面目な口調になる。

「お友達、大丈夫だった?」

 辛うじて現世に踏みとどまる。そう言えば、葛城のことについて雛森先輩に相談して、背中を押して貰ったのだ。

「は、はい! ありがとうございました、先輩のお陰で、葛城を助けることか出来ました」

 それは本心からの謝辞だ。

 雛森先輩がいなかったら、踏ん切りがつかなかったに違いない。そしたらあの最低な『刃苦怨』の中で、葛城がどんな目にあったか。

 いつも朗らかな雛森先輩だが、相談事だと鋭く正しい事を教えてくれる。否、本当は判っているのに避けていた部分を指摘してくれる。

 実に頼りになる先輩なのだ。

「そうよかった、また何か悩みがあったらいつでもお姉さんに頼りなさいね」

 ぽよよん、と雛森先輩は胸を張った。チチが揺れた。釘付けだ。 

「こら! 後輩君たら」

 雛森先輩は僕の目線に気付き、軽く握った拳を振り上げる。

「全く、エッチなんだから……んじゃあね」

 ぶちぶちと呟きながら彼女は去っていく。恐らく尾澤先輩を捜しているのだろう。

 女性らしいなだらかなシルエットを見送りながら、がっくりと肩を落とした。

「パンかお」

 しばしそこで悲しみに暮れていたのだが、すれ違う生徒達にちらちらと見られる異端者になっていたので、絶望の顔を指で直して、昼食に無理矢理心を向けた。

「おい」

 声をかけられたのは歩き出そうとした、瞬間だ。

「はい?」

 振り返ると壁があった。否、壁のように背の高い男子生徒だ。

 猛禽の嘴のような高い鼻に、パイナップルのような髪型、この季節に不自然な日焼け顔だが、妙に様になる整った容姿の男子生徒だ。

 男に全く興味のない僕も、この生徒は知っていた。

 尾澤一馬。この学校の女子生徒から最も熱視線を向けられている、二年ながらバスケ部主将だ。

 そして、先程雛森先輩が探していた、彼女とつきあっ……。

「ててててて」僕はその先に思い至りたくなくて、バグッた。

「な、なんだ? お前」

 尾澤……尾澤先輩は僕の奇行に眉を潜めている。

「い、いえ、何でしょうか? 尾澤先輩」

「俺を知ってんのか?」

 尾澤先輩は薄い唇をつり上げて笑うと、猫科の肉食獣のような均整の取れた肉体を誇示するかのように胸を突き出す。

「少し話しがあるんだ、ちょっとこいよ」

 正直男の話なんか聞いてられない、特に尾澤……尾澤先輩のようないかつい容姿のモテるヤロー何て嫌いだ。失せろ! 

 しかし、高校と言うところは学年により絶対的なヒエラルキーがある。先輩が「来い」と言うならば行かねばならない。

「……はい」 

 僕は最後の抵抗として、少し顔を俯き加減にした。

 尾澤先輩が腹ぺこの僕をわざわざ連れてきたのは、バスケ部の部室だった。

 運動部の部室は部室練という部室が横に集合している所の一角にある。そこまでの道のり、僕は密かに前を行く尾澤先輩の後頭部辺りを睨んでいた。

 確かに体格でも外見でも負けている。だが……そう、若さなら勝っているじゃないか。ビバ! ヤングマン。

「ここだ」と尾澤先輩は鋭い視線で辺りを見回すと、バスケ部の部室の扉を開いた。

「さあ」と促され、何も考えず入る。

「!」

 言葉も無く驚愕したのは、部室の中に数人の男子生徒がいたからではない。

 そいつらが一見してマトモな青春を謳歌していると思えない世紀末的ルックであり、さらに片腕を包帯で吊った№1が歪んだ笑みを口元に貼り付けていたからだ。

「え?」僕が事態に気付く前に、尾澤先輩……尾澤のクソヤローは扉を閉めた。


「まあ緊張するなよ」

 尾澤は嘲るような口調で、棒のような僕をなぶった。

「ここでお前を潰す、とかそういうんじゃねえんだ」

 さり気なく脅される。

「ただなあ、俺たちはさ、一応メンツってモンがあるからな、このままにはしていられないんだなあ」

 僕は尾澤のヤローが何を言っているかさっぱりだ。

「つまりだ」

 お節介な№1が……いや、コイツはもうムカツク奴№1ではないのか? どうやらその座は尾澤に……否、面倒だから№1は№1、尾澤はムカツクチャンピオンにしよう。

 とにかく説明してくる。

「この間の礼ってことだよ」

 僕のような脳を走る電流の少ない人間も、そこで全て理解した。

 №1はバスケ部だ。葛城にやられた後、学校では見なかったがこんな所に隠れていた。そして、じゃらじゃらとごっついアクセを決めている周りの男子生徒達もバスケ部員、尾澤はその主将。

 前に№1が自慢していた。どうしてか怪我する対戦相手。

 何のことはない、この学校のバスケ部が『刃苦怨』の一部だったのだ。考えてみれば天城さんに葛城、二人ともこの学校の可愛い子だ。ピンポイントに狙われていたという事実から、学校内に疑いの目を向けても良かった。大分手遅れだが。

「西山のバカは、女なんかに恥かかされやがってよー」

 もはや荒んだ口調を隠さない尾澤が、舌打ちする。

「超ダルいが、俺たちの……なんつーか、ネーミングライツ? にもそれなりの影響が出るだろ? だからきっちり仕返ししとかないと行けないんだな、判るだろ?」

 全然。

「ぼ、ぼ、僕をどうする気だ?」

 ああ、また膀胱がふんにゃりする。過日の殴る蹴るの地獄が蘇り、生唾を飲み込んだ。

「心配すんな、あ?」

 尾澤は馴れ馴れしく僕の肩を叩いた。三滴漏らしたね、だが三滴で済ませた僕、スゴくない?

「お前は小物だから見逃してやろうと思っている」

 嫌な予感がする。こんな連中の猫なで声が良い兆候の訳がない。

「だが、葛城、とか言う奴はちょっとダメだな」

 ほーら。

「後、俺たちは天城とかいうお前のクラスの奴にも興味がある、だから」

 ぐっと尾澤は僕の肩を掴んだ。スゴイ握力だった。肩が引きちぎられそうだ。四滴いったね。

「だから、あいつらと仲いいお前を『特別枠』で『刃苦怨』に入れてやろう、と思っている、あの二人を疑われることなくおびき出す役でな」

「へ?」

 僕の反応がツボだったのか、周りの男達がぎゃはぎゃはと笑う。

「だから、お前もこれからは栄えある『刃苦怨』の一人だ、どうだ? 悪くないだろ?」

 僕は沈黙した。するしかない。尾澤はそれを思案と勝手に判断する。

「いいぜー『刃苦怨』は、ウザい奴を片っ端からぶちのめせる、いい女も選び放題だ」

「…………」

「あ、そうだ、お前やよいの事が気になってんだろ? 雛森やよい、俺はもうすぐアイツを落とせそうなんだ、まあ今回は時間がかかったが、今日無理にでもモノするさ、俺たちが飽きたら回してやってもいいんだぞ、どうする? ルーキー」

 どうするもこうするも、すでに有望新人にされている。

 だが、だが、僕は震えた。

 怖いのではない、いや、怖いよそれは、だけどその時はその時だけは震えた。怒りに。

「ふざけるな!」

 怒声がバスケ部の狭いコンクリ部屋に響き渡る。

「僕はイジめるよりイジめられるほうが燃える体質なんだ! だれが他人を傷つけるお前らなんかの仲間になるか! 葛城と天城さん? 冗談じゃない、あの二人に何かしてみろ、いや、雛森先輩も含めて何かしてみろ」

「どうなるんだ?」

 尾澤の口調はむしろ嬉しそうだ、だが目はは虫類のように濁っている。

「こうだ!」

 僕はやおら振り返ると、狙いを定めて尾澤にスーパーグレートパンチを見舞った。

 さっとかわされ、逆にハンマーのような拳を腹に叩き込まれる。

 おえ、その時ばかりは胃に何も入れていなかった事を感謝した。

 こんな奴らの前でゲロを吐いたら情けない。

 しかし、残念なことに僕の抵抗はここまでだ。尾澤の一撃の痛みがじんわりと広がり、どうしたのか意識に靄がかかりだした。

 一発で気絶させられた、と知ったのは後で聞いてからだ。


 はっと目覚めると、僕はヒモらしき物でぐるぐる巻きにされていた。

「起きたぜ」

 バスケ部の誰かがそれに気付き№1に告げ、僕の視界に見慣れた、もう見たくない革靴が入ってくる。

「まず、お前に礼がある」

「?」

 №1、やっぱり頭が残念な方向なのか? この態勢で礼とは。

「よく尾澤さんの誘いを断ってくれた」

 ここで革靴が加速し、僕の胸を突き刺した。

「ぐはぁ」と肺の中の空気が強制的に口から漏れる。

「悲鳴を上げても誰も来ないぜ」

 №1は何度も唇をなめ回していた。

「俺は、お前なんか小物、すぐに『刃苦怨』の看板に飛びつくと思ったんだ、そしたらよう、借りが返せないだろ? こないだの、な!」

 革靴が今度は喉を打った。

 形容しがたい苦痛と共に一瞬呼吸が途切れ、ごほごほと僕は咳き込んだ。

 また周りが爆笑している。

「さて、このバカにそろそろ制裁を下そうか」

 楽しげに№1が宣言すると、バスケ部連中は色めき立った。

「俺が右腕をへし折る」

「なら俺は左腕」

「右足は俺が踏みつぶす」

「左足の関節は俺がダメにする」

「なら、俺はこいつの目を少しばかり暗くしてやろうかな」

 どこまでも非道な連中だ、が、僕はもう泣いていたが後悔はしていない。

 ―天城さんに葛城、二人を巻き込まなくて済む。

 №1は僕の諦念と満足に気付いたようだ。

 不機嫌そうに眉を上げる。しかし、すぐに何か思い出してにやりとした。

「おい、尾澤さんがいないぞ、どうしてだ?」

 不意に問われ、僕は微かに体を揺らした。それしかできなかったし、大体№1の言葉の意味が分からない。

 答えたのは違うバスケ部だ。

「へへ、雛森やよいをモノにしに行ったんだ」

 僕の目の前で何かがスパークした。絶望も輝くモノなんだね。

「いいなあ、いまごろ」

 バスケ部はイヤラシイ手つきで、雛森先輩のバストをエア揉みする。

「ああ、後で回されてくるのが楽しみだ」

 僕の暗い表情に溜飲を下げたのか、「さて」と指を鳴らし出した。

 体が使い物にならなくされる。

 だが、僕が考えるのは雛森先輩のことだ。

 あのちち……否、あの優しい先輩が尾澤、『刃苦怨』ごときに傷つけられるなんて耐えられない。

 葛城の時も親身になって相談してくれた……先輩。

 僕の目からまた涙がどばっと噴出した。

「おい、コイツ泣いているぜ?」

 気付いた№1が舌を出して嗤い、他のバスケ部の爆笑が部室に反響する。

「だがもう遅い、まず右腕だ」

 最初の革靴が僕の腿の部分を強く蹴った。

 骨に達する痛みで、じんわり感覚が消える。

 が、僕は雛森先輩の笑顔だけを思い浮かべていた。

 ―どうしたらいいんだ? どうしたら……。

 もう何も考えられない。

 僕は己の無力と酷薄な現実に耐えられなくなって、つい叫んだ。危なくなったとき、叫ぶ名前。

「みやー!」

「あ?」と誰の声が何を誰何したのだろうか、動けない僕には判らなかった。

 ただ、どさり、と何かが落ちる、倒れる音を聞いた。

「な、なんだ? どうした竜一」

 №1は呆然としたような声で、誰かに声をかけた。

「なんで、倒れてんだ?」

「おい、コイツ……ヤバいぞ、痙攣している」

 僕の背後で騒ぎが起こり出す。何が何だか、の僕のすぐ近くに一人の少女、いや胸がない、少女に限りなく近い少年がいつのまにか立っていた。

「君たち、僕の拓生君を痛めつけたね?」

 虎狼院宮みやだ。

「え?」

 一番驚いたのは僕だ。みやはどこから現れたのだ。そしてどうしてこんな場所に来たんだ?

「みや、逃げろ!」

 呼んでおいて何だが、僕は叫んだ。

「僕を心配してくれるのかい? ありがとう拓生君」

 みやは頬をバラ色に染めて喜ぶ。

「でも、大丈夫だよ、少し待ってて」

 僕とみやが話している間に、№1……『刃苦怨』メンバー達は冷静さを取り戻したらしく、

「なんだてめぇ?」

 とケダモノのように吼える。

「僕は、拓生君の友達」みやは僕が五滴ちびったのに全く動じず、むしろ笑った。 

「そして虎狼院流暗殺術五段、虎狼院みや!」

「はあ?」

 №1はオーバーに呆れてみせる。

「何ほざいているんだ? コイツ? まあヤローのようだけど顔は綺麗だから、いろいろ使えるかな」

 相変わらず『刃苦怨』は最低だ。節操がなさすぎる。

 ―両刀かよ!

 心底ドン引きだ。 

 他の数人、残った四名ほどのバスケ部員兼『刃苦怨』構成員達も同様の意見らしく、いやらしく唇を歪めてみやを反包囲する。

「みや!」

 僕は足掻いた。縛られているから何も出来ないが、このまま唯一の友人を失いたくはない。

 が、彼の姿はもう無い。

「は」

 誰かが息を吐いた。そしてバスケ部員の厳つい奴が真ん前にぶっ倒れる。

 そのデカい体がドミノの齣のように倒れると、背後にみやの姿が現れる。 

「な、なんだぁ」

 №1は頓狂な声を出す。そりゃそうだ。みやは突然消えて突然現れる。その度誰かが倒れていくのだ。

「ぐぎぎぎ」みやにやられたバスケ部員が口から泡を吹いてびくびくしている。

「虎狼院流暗殺術の起源は戦国時代にあってね、まあいわゆる忍者の技の先祖なんだ」

 静まりかえる部室に、みやの説明だけが流れた。

「君たちはもしかして、この世で自分が一番強い、なんて思っていたの?」

 楽しげに軽やかに、みやは№1達を打擲する。

「て、てめえ」

 しかし、勝負はもう着いていた。№1以外のバスケ部が力無くぐにゃとコンクリ床に沈んでいく。

 すでに彼等を打ちのめしていたようだ。

「これが僕の技、虎狼院流暗殺術(ひそかにやっちゃえ!)、だよ」

 残った№1は目に見えて動揺した。彼はそれでなくとも葛城にやられて片手を吊っているのだ。そんな状態で、否、どんな状態でも虎狼院みやは倒せない。

「待てよ!」

 見苦しく№1は残った手を振る。

「俺、ほら怪我人だし……そう、もうそいつに危害はくわえねーからさ、そうだ! お前『刃苦怨』に来いよ、俺より上に行けるって、何だったら尾澤さんに」

 ぶつり、と№1の舌は止まった。

 みやの人差し指と中指が、彼の喉元に突き刺さったのだ。

「拓生君、無事かい?」

「がががが」と白目向いてばたばた痙攣する№1など気にもかけず、みやが僕を縛っていたロープを解いてくれる。

「ううう、みやー!」

 感激に思わず抱きしめると、彼はかっと耳まで赤くなる。

「ありがとう、みやー、怖かったよう」

「よしよし、もっと早く呼んでくれれば良かったのに、君の声なら僕はどこでも聞き逃さないんだよ」

 だがすぐはっとする。みやに頭を撫でられている場合じゃないのだ。

「た、大変だ!」

 脳裏で輝くのは雛森先輩の笑顔だった。

「先輩が危ない……こいつらの仲間の尾澤が」

 小首を傾げるみやに説明したかったが、あまりにも焦っていたので舌が上手く回らない。

「みや、ここの後かたづけを頼めるかな? 先生にコイツらのことを説明してくれ、警察にも」

「う、うん」

 僕の勢いに、みやは戸惑いながら頷いた。

「じゃあ、後で!」

 全てをみやに任せて僕はバスケ部部室を出た。

 驚く。どのくらい気絶していたのか、空が暮れだしていた。

 が、感心してはいられない。

 校舎へと走り出しながらスマートフォンを取り出す。

 電源を切っていたから気付かなかったが、葛城と天城さんと……えりすから合計三二〇回も電話を受けていた。

一瞬、何か恐怖のような物を感じたが、今はどうでもいい。

 懸念の一つ、『刃苦怨』に狙われている人物の無事を確かめたい。

 だが雛森先輩の番号は分からない……ならば!

 履歴から発信すると、相手はすぐ出た。

「葛城!」

『おい東雲! 何してたんだっ、昼休みから急に消えて、私がどれだけ心配したか判る? もうっ!』

「いやそれよりも」後半の葛城らしくない口調に突っ込むのを忘れ、今までの経緯を一息に話した。

『なんだって? 『刃苦怨』? 尾澤先輩が……? そうか、バスケ部って』

 葛城はさすがに頭の回転が速い。

『今どこにいる? 東雲』

「校舎C棟の一階渡り廊下近く」

『すぐ行く』

 僕は葛城の声を聞いて安心したのか、自分が酷く息切れしていることに気付いた。

 校庭の端の部室練から全力疾走したのだ、運動不足の僕には酸素が必要だ。

 はあはあ、と内心焦りながら息をついていると、葛城はもう姿を現した。

「東雲! 大丈夫か?」

「僕はいい! それよりも、先輩が、先輩が尾澤に……」

「わかった」葛城はそれ以上僕の心肺に負担をかけないためか、色々丸飲みしてくれた。「だけど、それは学校なのか?」

 僕の考えを見越し、彼女は校舎を見上げる。

 予感、あるいは推理だ。

 尾澤が雛森先輩に何かするとなれば、人目の着かない所、そして今の時間ならそれが学校の建物の中、天城さんではないが図式は間違いなさそうだ。

「……葛城、お前にこれ以上頼むのは気が引けるけど、一人じゃ無理っぽいんだ、手伝ってくれないだろうか?」

「当たり前でしょ」と彼女は即答する。

「『刃苦怨』の罪は私にも関わりがある、それにあんたの大切な人でしょ?」

「すまない」

 僕は葛城に謝辞を述べると、素知らぬ顔を決め込んでいる学校をふり仰いだ。

「こうしてみると意外に大きいな……そうだな、僕は一階から探す、お前は三階から下に向かってあたってくれ、知っている人だ、雛森やよい先輩、もしくは……『刃苦怨』の尾澤一馬だ」

 どうしてか葛城の目元が少し陰る。やはり『刃苦怨』には近づきたくないのだろう。

「雛森……そっか、あの胸の大きな、可愛い人か……」

「そうだけど、どうした? 葛城……そうだ! 尾澤を見かけても危険だから近づかないでくれ」

「それはそっちだけど」

「へえ?」

 葛城は不本意そうに唇を尖らせる。

「あのねえ、私の強さはあんたも見たでしょ? 今更、男の一人くらいどうにでもなる……けど、あんたはねえ」

「うえ?」

「だから……まあ、もうっ、ここで言い争っていても仕方ない、でも危険なことはするな、東雲」 

 葛城の有無を言わさぬ口調に、「う、うん」と首肯することしかできない。

「じゃあ」と、しかしまだ心配そうに一度振り返ると、彼女は健康的な二段飛ばしで階段を上がっていった。

 葛城を見送った僕は、不意に『刃苦怨』バスケ支部で腿の部分を酷く蹴られていたことを思い出した。

「いててて」

 激痛が電気のように右側の脚に流れ、そのまま固い床に蹲りそうになる。

 ―ダメだ!

 僕は己の弱さを叱咤した。

「先輩が、危ないんだ」

 口にすると胸の奥が冷たくなる。もしかしてもう手遅れで、雛森先輩は致命的に傷つけられたかも知れない。

「ま、まだ、きっとまだ間に合う、まだ」

 震えながら願望を繰り返し、僕はC棟に寄り添うA棟の一階の教室一つ一つを覗き始めた。思っていた以上に時間は経過していたらしく、もう生徒の姿はない。

 ―全く見当違いじゃないか? もしかして尾澤は雛森先輩を学校の外におびき出したんじゃないか?

 絶望的な考えが脳に閃いたのは、三つ目の無人の教室を見回したときだ。

 難しい事じゃない、尾澤を信じている雛森先輩なら簡単にだませるだろう。だが、そうすると手の打ちようがない。

 悲観的になる僕の腿がびびびと震えた。また痛みか、と一瞬勘ぐったがのだが、ポケットに入れた携帯が鳴っているとすぐに気付く。

「東雲!」 

 出ると葛城だった。切迫した彼女の声が僕の耳朶を叩く。

「今すれ違った先輩に聞いた! 尾澤を保健室近くで見たらしい、もちろん雛森先輩も一緒だ!」

 言葉が雷鳴のように轟いた。保健室、だとしたら、だとしたら。

「こっちからは遠い! 私はB棟の三階だ、だけど……」

 そう、だけど。

「こっちはビンゴだ」

 僕はむしろ呆然としてしまった。

 この短時間で一番離れたB棟の三階まで行った葛城は凄いが、保健室は一階のA棟。つまり僕の目と鼻の先だ。

「神様」と僕はスマホを片手に声を出していた。まさに神がかったような強運だ。

「葛城、ありがとう!」

 まだ何か受話器の先で彼女は言っていたが、それを無理にポケットにねじ込むと、走り出した。

 まだ足は痛むが、どうでもいい。

 保健室のプレートはすぐに見えた。すぐに近づいた。

 そして、中の不穏な空気、時折鳴る音、金属が軋み、女子生徒らしい悲鳴が漏れていることも、察知した。

 間違いはなかった。

 躊躇なく保健室の扉を開き突入すると、尾澤一馬に組み伏せられている雛森先輩の姿が何よりも先に、何よりも鮮明に飛び込んだ。

「後輩君!」

 半ばYシャツを脱がされた彼女が、大きな目に涙を溜めて僕を呼ぶ。

 目眩に襲われた。

 尾澤の神をも恐れぬ手が、神聖不可侵たる雛森先輩の片胸を握っているのだ。それは大人になってからデショ!

 まだブラの上からだ、というのが救いだが、それでも尾澤一馬に対する判決は一つ。

 ―お前、死刑。

「た、助けて! 私、こんな……のイヤ」

 雛森先輩が尾澤の胸の下で泣き出した。本当は顔を覆いたかっただろうが、両手首を一掴みでまとめられていて、それもままならない。

「お、尾澤」

 保健室には養護教諭はいない。恐らく放課後故に職員室へと引き返したのだろう。

 だから、そこには尾澤と裸に近い雛森先輩、そして僕だけしかいなかった。

「離して!」

 ベッドの上で雛森先輩が暴れ、白いカーテンがレールから外れた。

「お前、何でここにいる?」

 力ずくで雛森先輩を組み伏せながら、尾澤一馬が怪訝な顔になった。

「先輩を離せ!」

 質問に答える必要を感じなかった僕は、叫んでただ突進した。

「うわ!」と勢いに驚き、尾澤の大きな手が雛森先輩を解放する。

 そのまま尾澤一馬をスーパーグレートパンチで殴り倒そうとしたが、パンチは簡単にかわされ、反対に引き締まった尾澤の腕が僕を撃ち倒した。

「いやぁ!」

 上半分下着姿の雛森先輩が、僕にブラの白さを見せつけながら保健室から飛び出していく。 

 ちっ、と尾澤は彼女が姿を消すと舌を鳴らす。

「この野郎、大事なときに邪魔しやがって!」

 倒れた僕に尖った革靴の一撃が入る。

 全く容赦のない強烈な蹴りを受け、床で無様に転げ回った。

 だが、それでも安堵している。

 ―先輩は、無事、だ。

 恐らくこれからまた酷く痛めつけられるのだろうが、それだけで良いような気がする。「タダじゃすまさねえからな」

 案の定、尾澤は転がる僕を熾烈に睨んでくるが、もう覚悟は決めている。

「『刃苦怨』をコケにしやがって」

 尾澤の革靴が顔面に振り下ろされた。踵の部分が唇を踏みにじり、口内に血の味が広がっていく。

「酷い目に遭わないと学習しない、どうしようもないクズめ!」

 もう目をつむる。何だかその方が痛くない気がしたのだ。

「尾澤君」

 冷ややかな声が、尾澤の次の一撃を止めた。

 僕と尾澤が突然のことに振り返ると、まだ上着を着ていない雛森先輩が、音もなく立っていた。

「せ、先輩! どうして」

 逃げないんですか、とまでは続かない。尾澤が横腹に靴先を突っ込んだのだ。

 言葉と呼吸を失い、ごろごろとその場を転げる。

 僕は自分の甘さに歯がみした。あの胸を母性で特大に膨らませた雛森先輩が、考えたら一人だけで逃げるはずがない。僕を助けるために無理をして戻って来てしまったのだ。

「や、やよい、帰ってきてくれたのか? そうだ、何もかも誤解だ、この一年が」

「尾澤君、聞こえたよ、あなた『刃苦怨』なの?」

 雛森先輩の表情は判らない、下を向いて見せないようにしているのだ。

「……ち、しゃーねーな」

 尾澤が唇をつり上げた。

「まあ、そーだな、だけどそんなことどうでもいいだろ? お前も酷い目に遭いたくなかったら、従っていた方が利口だぜ? このバカ一年みたいにみっともなくなりたくないだろ?」

 革靴がまた顔を踏んだ。ピンに固定された昆虫のように動けなくなる。

「……しなさい」

 雛森先輩が何か言ったが、苦しんでいる僕には聞こえない、

「ああ?」

 どうやら尾澤にも聞こえなかったらしい、荒々しく聞き返している。

「後輩君を、離しなさい!」 

 顔を上げた雛森先輩は、いつもの明るい笑みを浮かべていた。どんな時も絶やさない、誰もが惹かれる女神の笑み。だが床の上からでも、いつも密かに観察していた僕には判った。

 ―先輩、笑っていない。

 彼女はぱっと見、微笑しているようだ。しかし、それはあくまでも上っ面だけで、その体からは今まで感じたこともない冷気が発散されていた。

 雛森先輩が片手に木の棒を握っていると、気付いた。

 箒の柄の部分に使われている、細い丸い持ち手の棒だ。

「そんなもの」と尾澤は嗤うと、わきの辺りから何かを取り出した。

「せ、先輩、逃げ」

 乱れる息をなんとか制御して叫んだ。

 尾澤の手には、ごつい、アメリカ軍辺りが使っているようなサバイバルナイフが煌めいていたのだ。

「へ」と彼は嘲る。

「そんな木の棒きれ取りに行ったのかよ? 人を呼ばれたらやっかいだったが、まあお前がバカで良かったぜ」

 が、雛森先輩は気にせず、やはり作り笑いを浮かべたままで、棒を構えた。

 彼女が所属する剣道部の、竹刀を構えているようだ。

「バカか? お綺麗な試合じゃないんだぞ?」

「そうね、尾澤君、これは試合じゃない、殺し合い、うん、今から君を殺すのよ」

 物騒な宣言すると、視線がついと下がる。

「後輩君、ちょっと待っててね、すぐ助けてあげる」

「先輩、逃げて、僕はいいです!」

「おっと」尾澤がナイフの切っ先を真っ直ぐ僕に向けた。刃物特有の狂気に近い輝きが、心に霜を降らせた。

「今度逃げたらコイツを殺す、わかってんだろ? 俺たちはそうしても今のところ大した罪に問われない、ちょっとした事故、とでも主張したら助かるんだ、本気だぜ」

「……嫌な噂はね」

 僕が背筋が痛むほど緊張している間、雛森先輩はゆったりとした口調で語り出す。

「あなたに関する悪い噂は、聞いていたのよ、でも、私は信じなかった、信じたてたの、バカね、ええ、確かに私はバカだわ、もうホントに、後輩君をここまで苦しめちゃって、先輩なのに……やよいはバカでした」

「はあ?」と尾澤が頬を上げたが、次の瞬間、彼の目の前にあったベッドと斜めに掛かっていたカーテンがズバリ、と真っ二つに切断された。

「天神命神流剣術(切る、斬る、素KILL)」

 呆気に取られた僕達に、雛森先輩は静かに教えた。

「私の家は代々剣術をやっててね、私もイヤだったんだけど子供の頃から血を吐くほど練習させられたの、お陰で普通の棒でも何でも斬れるようになっちゃった、鉄でも刃でもなんでも斬れちゃうのよ、危ないから封印してたんだけど、もう良いよね?」

 ―ええっと……。

 僕は考え込んだ。頬に当たる床が冷たい。

 ―雛森先輩は何を言っているのだろう?

「それが、切る、斬る、素KILL……ほら、チルチルミチルみたいで可愛いでしょ?」

 その趣味は良く分からない。  

 尾澤もそうだったらしく、顔面から生気を失いつつナイフを構え直した。

「そ、そんなバカなことが」

「女の子をバカにするな!」

 今度は僕にも、辛うじて彼女が棒を振るうのが見えた。

 硬質な音と共にナイフの刃先が斜めに落ちた。ついでに尾澤のYシャツと顔にも斜線が入る。

「う?」

 彼が手で押さえると、線から大量の鮮血が吹き出した。

「うぎゃぁ!」

 刃がないナイフを取り落とし、尾澤一馬はその場にしゃがみこむ。じわじわと白いシャツが赤く染まっていく。

「ええ?」

 事態の急転に着いていけず仰向けのまま口を開けていると、繊細な腕が伸ばされた。

「後輩君、立てる?」

 雛森先輩は微笑んでいる。いつもの優しい、女神の、聖母のそれだ。

「は、はい」

 慌ててその手を掴んで、ゆっくり体を起こす。

「がががが」尾澤は血まみれで倒れ込んでいる。

 ―ええと。

 途端混乱してしまう。周りは見慣れた保健室。ベッドは真っ二つでスプリングも露出している。カーテンも綺麗な切れ目で上下に分かれている。

「外に出ましょう」

 戸惑いの中にいたのだが、雛森先輩は答えを出す時間を与えてくれなかった。

 苦悶の声を上げる尾澤を背に、二人は保健室を出た。寂しい廊下をしばらく進む。

 僕ははらはらしたが、雛森先輩は無言だ。何も言わない。

「せ、せんぱ、い?」

 根負けして声を掛けた途端、彼女はばっと俯いた。艶々とした髪が前に流れる。

「ごめん、ね、私、バカだ」

「先輩」

「あんなヤツに騙されて!……後輩君がこなかったら、私」

 次に気付くと彼女の頭は僕の胸にあった。

 勢いよく抱きつかれ、どぎまぎしてしまう。

「バカ……私のバカ、バカ」

 シャツがじんわりと熱を帯びる。雛森先輩が僕の胸の中で泣いているのだ。

 からん、と持っていた木の棒が落ちた。

「先輩」僕は抱きしめようとしたが、出来なかった。

 剥き出しの肩に触れていいのか判らないのだ。それを意識すると、規格外の胸が、おっぱいがいっぱい押しつけられているのにも気付いてしまう。まだ告白もしていないのに、この感触は早すぎる。

 ―おおう。

 背後に倒れかけた。雛森先輩の熱が、柔らかさが、匂いが夢の中に誘っている。

「……後輩君」

 僕の顎のすぐ下で、雛森先輩が濡れた声を出す。

「こういう場合は黙って抱きしめるのが男だよ、それに、私の魅力って胸だけ?」

「あわわわ」見破られていた。下心から反応まで。

「全く、男の子は」

 彼女はちょっとむくれたように見上げて来たが、それに安堵した。

 目が赤いが、それ以外はいつもの明るく優しい雛森先輩だ。

「もう! 女の子の慰め方も知らないんだから、後輩君、ね」

「だって、先輩、その、下着が」

「きゃっ」

 今更彼女は飛び離れると、両手で胸を隠した。大分隠せないが、隠そうとした。

「こら! 青少年にはまだ早いでしょ?」

 赤面した雛森先輩が叱り、その通りだから僕は項垂れた。

「せ、先輩……だから、それは、先輩が着てくれないと」

「あのねえ後輩君、とにかく謝るのも男なんだよ」

 ―なんたる不条理。

 嘆く僕だが、一連の遣り取りを受けた彼女の目に、煌めく光が戻ってくる。

「ありがとう後輩君、バカな私を助けてくれて」

「ば、バカだなんて! せ、先輩は尾澤先輩の事を信じただけです! それより、僕の方こそお陰で葛城を、友達を助けることが出来ましたし……それに、僕は何も出来なかったし、格好悪いし」

 記憶の中で僕は自分の姿を再生させてみる。助けようとして尾澤にやられ、逆に助けられた。なんたる恥。このへっぽこ野郎が。

「な、何言ってんのよ!」

 雛森先輩は驚いたように片手を僕の頬に当てた。

「君は格好良かったよ、うん、先輩見直しちゃった、絶対に尾澤君に勝てないのに、危ない『刃苦怨』と敵対しても助けに来てくれるなんて」

 ―半分でもすごいなあ、ああ、柔らかかったなあ、さっき。 

 しかし僕は露わになった彼女の胸に、照準を合わせている。

「あ! また」

 耳まで赤くして、再び彼女は胸部を覆った。

「こうは……拓生くん、あんまり変なことばかり考えていると、先輩が矯正しちゃうぞ」

「わわ」おののく。矯正とは尾澤のようにズバっとだろうか。

「ちがうわ」その様子に彼女は顔を、艶やかな唇を寄せて来る。

「イタイんじゃなくて、拓生くんが私以外の誰のものも見ないように、きょういく、そしたら見られてもイイから」

 どうしてかこんな時なのに、足元に雲、頭に金のわっかが現れた。

 僕の魂が天国へと吹き飛んでいたからだ。

「うん? なるほど……拓生くんったら、なんだかんだ妄想しているけど、実は意外によわよわだね」

「せ、せ、せ、せ、せ、先輩、こ、こ、こそ、ららら、らしくない冗談です!」

 ろれつが回らない僕を、雛森先輩はイタズラっぽい横目でつついた。

「あら、甘い認識ね、尾澤君はもう嫌いだけど、あんな強引さが女の子に全くない、女の子が男の子を襲わない、と思うんだ? だとしたら拓生くんはやっぱり子供だよ」

 はっきり感じた。今、どうやら骨を抜かれているらしい。びりびりとした心地よい刺激の中、少しずつ骨抜きになっていくのだ。いつの間にか呼び方も『後輩君』から『拓生くん』になっている。

 フェロモンというのはアポクリン線から分泌されるらしい。それは耳の後ろとわきと……乳首周辺と肛門の近辺にある。

 世界がこんなにくらくらすると言うことは、どれだけ雛森先輩は全開なのだろうか。想像すると鼻の奥が熱を帯びて乾いた。鮮血が吹き出しそうだ。

「一緒にナイショで大人になろうか?」

 止めの吐息が耳に吹きかけられ、僕は籠絡寸前だった。あと数秒で雛森先輩にひざまずき、一生の愛を誓ってしまうはずだ。

「東雲!」

 その直前、張りのある声をかけられ我に返る。

「きゃつらぎ!」

 思い切り名前を噛んだ僕に、駆けつけた葛城は小首を傾げた。

「どうしたのよ! 大丈夫だったの?」

 ほねが、ほねが、と何度か繰り返したが、彼女の手前ぐっと己を取り戻す。

「うあ、あ、あ、ありがとう葛城、先輩も大丈夫だったし、僕も何とか無事だ、お前のお陰だ」

 だが、葛城はどうしてか表情を曇らせている。ふと横を見ると、雛森先輩も何か沈んでいた。

「この人が友達? 拓生くんの?」

「はい、先輩、葛城司、僕の中学からの同級生です」

 葛城は何故かよそよそしく頭を下げ、何かを断ち切るように、すぐに歩み寄って来た。

「あーあー、また怪我が増えている、全く、つまらないことをするからよ」

「大丈夫だよ、ん?」

 切った唇に人差し指を当ててくる葛城が、何か今暴言を吐いたような、気がした。

「ごめんなさい」

 と雛森先輩は謝る。

「あなたにも迷惑かけたのね? でも大丈夫よ、私は拓生くん一人に助けて貰ったから、拓生君一人で十分だったのよ」

 ―あれ?

 再び引っかかった。一瞬葛城と雛森先輩の視線が絡む。非常に剣呑な気がする。

「早く服を着た方が良いですよ、人を呼びましたから」

 葛城は上半身ブラジャーだけの雛森先輩から目を逸らす。

「ごめんね、あなたには嫌味だったわね」

「……どういう意味ですか?」

 意味どころか、僕には状況が判らない。

 葛城を『刃苦怨』から助け、雛森先輩も尾澤から救出した。なのに、どうしたか今、殺伐とした空気になっている。

 大団円、と言うべき状態なのに、中国の名軍師が没した場所のような秋風が吹いている。

 ―まだ夏前だよね?

「私たちより年上で、早く年を取る雛森先輩」

「何かしら? ええっと、一年年下で体育会系ならば本来絶対服従のはずの後輩の、カツラギ? さん?」  

 葛城が聞きようによっては挑発しているように雛森先輩を呼ぶと、彼女も聞きようによっては挑戦を受けたように応じた。

「いいんですか?」

「は?」

「もう人が来ましたよ」

「え」と雛森先輩が目を見張ると、沢山の話し声が近づいてきた。葛城が要請した加勢だろう。

「きゃー!」雛森先輩は下着姿の自分を再自覚したのか、悲鳴を上げて走り去っていった。

 取り残され、僕はしばし自失する。

「……せ、先輩、あんな格好で大丈夫かな?」

「大丈夫よ」

 当事者のようにあっさり、葛城が断じる。

「体操服くらいはあるでしょ? あの人剣道部だよ」

「なるほど」納得すると、腕に葛城の腕が絡む。

「おお、君たち、校内に不埒な輩がいるそうじゃないか、警察にも電話しておいたぞ、すぐ来る」

 と、先生達がどやどやと僕らに合流した。

「は、はい、保健室と部室練のバスケ部部室です」

「ようし」  

 僕の報告を受けた先生達は、使命感に燃えた様子で走り去っていった。

「ふう」

 これで学校内の『刃苦怨』勢力も壊滅するだろう。

 西山も尾澤も倒れ、他のメンバーの化けの皮も剥がれた。

 連中にはかなりのダメージのハズだ。葛城も天城さんも雛森先輩も何とか救えた。

「ふふふふ」

 葛城が脱力状態の僕にそっと寄り添う。

「東雲、あんたやっぱりスゴイよ」

 いや葛城よ、事態を解決したのは虎狼院みやと雛森先輩自身なのだ。

 ぼくは少しばかり人望があるだけなのだ!


『王様、あたし!』

 一面、真っ赤な血の色だった。

 そう感じ僕は一人戦慄した。

 ただ日が傾き、無人になった教室を夕日が染め上げているだけなのだ。

 だが、濃い暗いオレンジ色は、どうも不吉な色に見えてしまう。

 僕こと東雲拓生が放課後一人残ったのには……さしたる理由はなかった。

 ぼんやりとしていたら左右の生徒が帰宅し、一人残されていた。

 ―えりす。

 今突然ふと思ったのは、幼馴染みの、猫のような目と性格の少女のことだ。

 血のような赤は彼女を想起させる。 

 ハーフで一見かなりの美少女で、気が強くて明るくて、運動神経もいい。装いはボーイッシュだが、体の線はなだらかでとても女性らしい。

 彼女は昔からファンが多い。

 小学校の四年生の時に、すでに六年生の男子から告白されたらしい。

 だが。

「キモいわね、あんたなんかと付き合うわけないでしょ? もっと自分を知りなさいよ」 舌っ足らずながら、彼女はそう上級生にカウンターを浴びせた。

 勿論、それだけでは済まなかった。

 もともと人気者だったその上級生を手ひどく振った女、として女子生徒の目の敵にされた、僕もその一党と目されたが、えりすに告白した男子生徒が全裸で校庭を駆け回ると、彼の失墜と反比例して立場を回復させる。

 彼女は何でもする。

 そう認識している。

 自分のために、何でもする。

 ―あの、恐ろしい力で。

 自然に肩を抱く。朱色の闇の中、過去の記憶が再生される。

「君、可愛いね! 名前なんて言うの? 僕、タクミ!」

 えりすと最初に会話したのは確かそんな始まりだった。

 その頃彼女は幼稚園の隅でひたすらにぶちぶちと花を引きちぎっていて、他の園児達からは気味悪がられ、遠巻きにされていた。

 僕が話しかけたのは、生来のKY機能が発揮されたからであり、別に仲間はずれにされた女の子への同情ではなかった。

「え? え、えりす」

 驚いたような困ったように答え、それが切っ掛けとなった。 

 最初は西洋人形のように無感動だった彼女は、僕と遊んでいる内に、生気を、笑顔を、怒りを、面に表すようになった。

 いつも画用紙を切りさくように、血まみれの天使や黒に塗りつぶされた街を描いていたいたえりすだが、いつのまにか僕の顔を熱心にへたっぴに、多彩なクレヨンでスケッチするようになった。

 その頃になると、互いの親も子を通じて仲良くなり、僕は保育士の資格があるえりすの母の元に、彼女の家にほぼ毎日やっかいになった。

 僕とえりすは兄妹のように仲良く、いつも手を繋いでいた。実際、僕にとってえりすは妹だった。少し過激な怖い妹。

 ただ小五、彼女が態度を一変させた。

 僕は佐伯えりす先導により、学校で孤立した。

 小学校五、六年次、中学校三年間、葛城という例外を除いて、友達を作ることが出来なかった。会話すらもなかった。

 ―どうしてだよ? えりす。

 泣いて問いただしたかったが、幼いながら芽生えたなけなしのプライドを総動員して、皆の前で耐えて見せた。

 本当はとても辛く、悲しかったのに。

 そんな時、僕はこんな血のような赤い夕日の教室で、赤い闇の中で一人泣いた。この色はそれからトラウマとなり、えりすに重なるようになったのだ。

「拓生君」

 幼馴染みを思っていた僕は飛び上がりかけた。

 自分しか残っていないと思っていた教室に、美少女が立っている。

 くりっとした大きな目が印象的な、中学生くらいの娘だ。

 否、視線が定位置に着き、そのほっそりとした胸の前に男子生徒用のYシャツとネクタイがあると見て取り、かぶりを勢いよく振った。

 乳がない、男だ。虎狼院みやだ。

「お、脅かすなよ! みや」

「……………………」

「何この沈黙? どうしたんだ? みや」

「ごめん」

「え?」ぺこりと揃えられた前髪を垂らし謝るから、目を丸くした。

「どうしたんだよ? いきなり」

「僕は……」しばし唇に言葉を包んだみやは、そっと柔らかそうなそれを開く。

「僕は間違っていた、君に葛城さんを助ける必要はないって、前に言ったね、それは間違いだった、もう少しで君を傷つけるところだった、やっぱり『刃苦怨』は放っといてはいけなかったんだ」

「い、いや、いいんだよみや、助けてくれたし、丸く収まったし、みやが気にする事じゃないって、みやも正しいと思うし」

「……変わらないなあ、君は」

「え?」

「ずっと昔のままだ」

 昔? 思わず眉根を寄せる。

「何言ってんだよ、みや、お前と会ったのって入学式だろ? 昔って」

「覚えていない、か」

 みやはどこか寂しげだ。

「無理もないか……名前も言わなかったしね、大分前だし」

「みや?」

 みやは陽の光が届かぬ、蹲っているような闇を向いている。

「僕は、僕は昔、君と会っているんだよ」

「ええ!」

「驚くのは無理もないね、どうやらあの時、君は僕を女の子と認識していたようだから」

 とつとつと、大事な宝石をビロードで磨くように丁寧に彼は語り出した。

「僕は劣等生だった、いつも双子の姉のやみと比較され、いつも父上や母上を失望させていた、僕の双子の姉は天才だ、虎狼院流をあっという間に体得して、なのに僕は基本すら出来なかった、だからいつも僕は家の中で軽んじられ、意見を無視され、テレビもやみの観たい物ばかりかかっていた」

 みやの整えられた眉が曇る。

「僕には味方がいなかったんだ……家でも、外でも、どこでも……あれは、僕が小学校六年生の頃、公園で僕はからかわれていた、女男、女男って、僕はもう諦めていた、悪口には慣れていたし、でもその時、一人の少年が現れてみんなに言ったんだ『可愛い子を苛めるな』てね、その後ぼこぼこにされたけど、僕には十分だった、僕にはその少年が唯一人、生涯味方になってくれた人だった」

「それって……」僕の記憶層がスパークした。確かに、かつて可愛い女の子を助けたために、2、3日動けなくなる位やられたことがあった。

「僕だよ」虎狼院みやはふわっと頬を緩める。

 複雑な気持ちになる。みやがもし男の子だったら、一目でそう分かったら、恐らく助けなかったろう。それでなくてもその頃、心身ともにえりすにいたぶられていたのだ。

「それはいいんだ」気配を察したのか、みやはふるふると否定する。

「僕にとって重要なのは、僕の味方になってくれたのが君だけだった、ということだから」 恒星のような瞳を見て、僕は理解した。

 どうして虎狼院みやが、こんなにまで親身になってくれるのか。

「君は凄いよ」とみやは感心したようにため息をついた。

「あの時みたいに、いや、あの時以上に……聞いたよ、天城さんも葛城さんも雛森先輩も、助けたんだってね? 僕には、誰にもきっと出来ない、三人はあの『刃苦怨』に目をつけられていたのに」

「そ、そんなことないさ、あれはみんなそれぞれ凄かったんだ」

 どんな攻撃にも耐えうる体、何でも切ってしまう技、ついでにどんな事象も計算する頭脳。どれをとっても単なるスキルと括ってしまうには大雑把すぎる物だ。

 それらが在ったからこそ、『刃苦怨』なんていう犯罪集団と戦えたのだ。

 ―違う、戦ったのは葛城と雛森先輩と、……みや自身だ。

 その傍らでめそめそ泣いていただけが僕だ。

「君はスゴい」

 みやは夢見る乙女のように、今一度呟いた。

 ―イカん!

 突如気付いた。自分の両腕が上がっている。

 このままでは勢いに任せてみやを抱きしめてしまいそうだった。

 色々なモノを飛び越えて、知らない世界に飛び込んでいきそうだ。

「す、凄くない、凄くない、僕はタダのスケベでアホな男子高校生です」

 きょとんとするみやに不規則な呼吸でそう説いて、僕は鞄をひっつかみ、手を振った。

「んじゃっ、みや、また明日ー」

 笑顔を保ちつつ廊下まで自然に歩き、教室の扉を閉めてすぐダッシュする。

 ―あぶねー。

 一息ついたのは、校門から出て数百メートル全力疾走した後だった。

 ―ソッチはまだ早い。そうだ、修行が足りない。

 何度も自分に言い聞かせながら、足先を自宅に向ける。

「でも」一瞬、心がゆらゆら揺らいだ。

「みやとなら、いいかな」

 僕が致命的な危機の接近に気付かなかったのは、にへら、とした笑みを浮かべていたからだ。

 気が付いたら目の前に大柄な男が立っていた。

 そろそろ闇が降り出した街並みをバックに、男が行く手を遮っていた。

 ようやく異変に気付いて、凍り付いた。

 包帯だ。その男の顔面は包帯でぐるぐる巻きにされていた。

「ええ……?」冷えたナイフのような空気が肺腑をえぐった。

「世話になったな? おい」

 包帯男の口元が動いたとき、その正体を悟る。

「お、尾澤先輩……」

 尾澤は雛森先輩に斬られた後、姿を消していた。事情を聞いた先生達が保健室に急行したが、惨劇の跡しか残っていなかったという。

 今、眼前にいた。

「ふふふ」と尾澤は笑ったようだが、包帯で良く分からない。

「お前にはよー、ホント世話になったぜ、クソやよいにはこんなザマにさせられるし、学校にも行けなくなった……きっちり、礼をしないとなあ?」

 ―やばい!

 僕は地球儀のようにぐるりと踵を返した。尾澤の声は割れていて、どこかに歪みがある。

 今更だが、尾澤達を『刃苦怨』を完全に敵にした事実に慄然とした。

 だが、その背後には尾澤より長身の男が腕を組んでいた。

 斑な金髪。絆創膏だらけの太い腕。

「逃がすワケないだろ?」

 西山誠次は三日月のように口角を尖らせた。


 尾澤と西山に挟まれた僕は、それでも逃走を考えたし、実行した。そしてあっさりと捕まり、近くの公園へと連行された。

 魂がごそりと落ちるような感覚を覚える。 

 珍しい土の地面の中規模な公園には、滑り台、鉄棒、今は使用禁止の回る遊具の他に、轟音を立てる金属の塊が集結していたのだ。鉄の馬、と良く表記されるバイクだ。

 百人からいる柄の悪そうな男達の間を、歩かされた。

「どうだ?」

 腕を背中で捻っている尾澤が自慢げに示す。

「これが『刃苦怨』の全戦力だ、見覚えあるヤツ達もイネーか?」

 涙目で改めて見回すと、確かに中には巻野高校の制服を着た少年や、中学時代、畏怖の対象だった札付きの連中もいた。

「俺たちは、意外に考えているのさ」

 西山は厚い胸を突き出す。

「近辺の学校に一人、必ずスパイを入れているし、名のあるヤツはすぐにスカウトするんだ、ほら、それによっていろいろ情報が入るだろ? これからはよ、情報が大切なんだって」

 ―そうか……僕らはいつも『刃苦怨』に監視されていたんだ。

 納得する間もなく、乱暴に中心近くにあるベンチに座らされた。

「ぼ、な」

 僕に何をするつもりだ? と問いたかったが、上手く喋られなかった。

 右側に聳える尾澤が、包帯で隠れた口部分をもごもごさせる。

「何言っているかわからねーが、自分の運命を知りたいんだろ?」

 西山と目配せし合う。

「そうだな、お前、浮きたい? それとも沈みたい?」

「へへ?」

「浮きてーなら、貯水池に浮く、沈みたいなら石を一緒に括ってやる」

 楽しそうな西山の説明を聞き、体から温度がすうっと抜けていった。

 手の指、足の指が痺れ、背中がきゅっと強ばる。

 体の芯まで冷却された僕の反応を面白がるように、尾澤が指を突き出す。

「もちろん、やよいと一緒だ、良かったな、一人じゃない」

「ああ、一人じゃない、二人でもない、三人だ」

 西山が二の腕の傷を撫でる。

「司も含めてさ」

 僕は小さく呻いて、公園に集まった『刃苦怨』達に視線を走らせる。

 確かに、この人数を相手にしたのなら、葛城も雛森先輩も危なそうだった。

「や、やめろ、頼むから」

 二人の笑顔を思い浮かべ、情けない声で懇願した。

 西山も尾澤も答えなかった。どちらも僕にはそれほど興味などないようだ。

「さて、そろそろかな?」

 西山が誰ともなく呟き、腕時計を確認した。

 その仕草に、違和感に気付く。

 ―どうして、僕にまだ何もしないんだろう?

 西山と尾澤は、傷を負わせた葛城と雛森先輩を激しく憎んでいる。彼女達への復讐の段階一として僕をさらったのだろう。

 だが、だとしたら『刃苦怨』らしくなかった。

 かたかたと震える他人のような自身の体を見おろした。 

 怪我一つ負っていない。

 ここに連れてこられた時も殴られることも縛られることもなく、彼等としてはむしろ大人しいほどのやり方だった。

 彼等が普通に行動していたら、もう五体満足ではいなかっただろう。

「ああ」と読心術でもあるのか、その疑問を解消したのは尾澤だった。

「俺たちの新しい仲間に言われてな、お前を壊すのは後だ」

「新しい仲間?」

「ああ、どうしたかそいつの言うことは聞かなければならない……変な奴だが今回のことを俺たちに提案したのもそいつさ、とにかく、すぐに判る」

 尾澤の言うとおりだった。

 それから五分も経たず、太陽が完全に落ちた公園の入り口に人影が現れた。

 闇に曇っていて、最初それが誰だかは判らなかったが、ベンチの近寄り街灯が当たり、判別が着く。

「え、りす」

 声がふわふわと力無く漂う。腹が妙に軽く感じられた、内臓が空気にでもなってしまったようだ。ベンチの木製部分に触れていた腰がすべる。

 佐伯えりすは無邪気な可愛らしい笑みで、手を振る。

「こんばんわ、拓生」

 ―ここまで、するか?

 機嫌の良いえりすに僕は尋ねたかった。

 ―どうしてこんな、酷いことを? そんなに僕が嫌いなのか?

「えりす……お前」

「怪我はない? 拓生」

 彼女は蛇に睨まれた蛙のように動けない僕の肩に、そっと手を乗せる。

「そこらへん、ちゃんと言っておいたから、大丈夫でしょうけど」

「ど、ど、どうして」

「うん」とえりすは容易く頷く。

「『刃苦怨』の仲間が学校にいるのはすぐに判った、じゃないと葛城や雛森先輩、天城みたいな特別に可愛い子だけを狙えないからね、だからあたしがお願いしたの、入れて、て」

「な、なんでそんな?」

 だが、実は判っていた。その答えは「あんたが嫌いだから」なんだろう。

「確認したいから」

「か、く、にん?」意外な返事に、マヌケに聞き返してしまう。

「ええ」

 西山と尾澤が困惑し出したようだ、何かえりすの様子は変だ。彼等としては、すぐにでも攻撃開始と行きたいのだろう。

「あのさあ」とえりすは僕の耳元まで顔を近づけた。

「あたしたち、結婚するんだよね?」

「へ?」何が起きたか、何を問われたか理解できない。

「だから!」とえりすは苛立ち、肩に爪を立てる。

「結婚の約束したでしょ! 幼稚園の時」

 したかもしれない、だが思い出せない。違う、どうしてこんな場所で、こんな状況での話題がそれなのか。

「とぼけても無駄だから! あたしは覚えている、拓生はあたしと結婚するの、あたししか見ないの、なのに」

 きりり、とえりすの奥歯が鳴る。

「あんな不良崩れや計算女、胸だけが取り柄の先輩に色目を使って!」

「あうう?……」

 剣先のような彼女の目の中の僕は、首を急角度に傾げている。

「あたしは、ここらではっきりさせないといけないのよ」

 えりすはそう言うと僕のズボンに手を伸ばし、大腿部のポケットからスマートフォンを抜きだした。

「他人の男に手を出したら、どうなるか……凄い目に遭うのよ、そりゃあ凄いこと」

「な、何するんだよ? えりす!」

「うーん?」携帯から視線を外さず、彼女はいとも簡単に答えた。

「葛城と雛森先輩、ついでに天城も呼び出すの、あんたのスマホからのラインだったらあいつら飛んでくるわ」 

 僕は顔を伏せた。やはりその展開は変わらないのだ。しかも天城さんまで巻き込むこととなる。

「あいつらのラインアドレス手に入れたのはグッジョヴね」

 が、もう聞こえない。

「君はすごい」

 みやの姿が、どうしてか今更浮かんだ。だが彼を呼んでも犠牲者が一人増えるだけだろう。

 全然凄くない、それどころか関係ない人まで巻き込もうとしている。もし、三人がここに来たら、彼女達は徹底的に苦しめられるだろう。

 僕は思い出した。

 葛城の格好良い姿、天城さんの可憐な微笑み、雛森先輩の……圧倒的な胸。

 ―みんな、ようやく助かったのに……

 しかし何もかも破壊される。

 それも、自分がその要因の一つになる、とても耐えられなかった。

 いつの間にか瞼が熱くなっていた。溢れ出た涙をもう拭えない。

「うううう」と僕は誇りも意地もなく泣き出した。

「え!」

 どこかでえりすの驚愕が聞こえた。

 が、と両肩が掴まれたから、泣き顔を上げる。

 佐伯えりすがこれまで見たこともない程、混乱していた。 

 見開いた目にある瞳が激しく揺れ、唇も微かに開け閉めさせている。

「おい、いい加減にしろよ、早くやよい達を呼べよ」

 焦れた尾澤が声をかけるが、「うるさい!」と鞭を振るったかのように、彼女は黙らせた。

「ど、どうしたの? くーちゃん、何で泣いてるの? お、お腹いたいの?」

 えりすはおどおど問う。彼女に『くーちゃん』と呼ばれるのはいつ以来か。

「ひどいよ……えっちゃん」僕も『えっちゃん』とえりすを呼んだ。

「え?」

 えりすは動揺していた。肩の手からそれが震動として伝わってくる。

「どうして、みんなを、ボクをいじめるの? えっちゃん、ひどいよ」

「だって……それは、くーちゃんが、くーちゃんがあたしを……えりすをイジめたからでしょ!」

 涙と鼻水をだらだら垂らす僕に、えりすの表情も歪む。

「くーちゃん、やくそく、まもらなかった! えりすの十一のおたんじょうびに、きてっていったのに」

 いつもの間にか、彼女の声も涙でうねっていた。

「ぼく?」

「うん! えりすのおたんじょうびだよ!」

 その時、僕の頭脳が突然クリアになった。ずっと忘れていた思い出が蘇る。

 小六の頃、ずっとべったりのえりすについて、男友達から「おかしい」とからかわれたのだ。丁度妹だと思っていたえりすを微妙に意識し出した頃だ。だから、行かなかった。恥ずかしかったから、すっぽかした。

 呼ばれていたえりすの誕生会。約束していた彼女の十一歳の記念日。

 そして、次の日から、えりすの態度は変わったのだ。

「えりす、ずっとまってた、くーちゃんをまってた、なのに……なのに、ママが、えりすにいったの、くーちゃんきっとようじができたって……ママがよ! パパにすてられたクセに、ママなんかにえりす、なぐさめられたのよ! それで、それで、ゆるせなくって」

 だから、彼女は僕を苛めたのだ。皆を先導してシカトしたのだ。

「くるしかった、とってもかなしかった、いたかったのに、えっちゃんが、やった」

 しかし嗚咽は止まらない、そのまま腹にある熱い息をぶちまける。

「えっちゃんなんてきらいだ!」

「そ、そんな……くーちゃんがごめんなさいって、えりすにあやまったら、いつだってすぐにゆるしたのに」

 そう言えば僕はその時意地を張って彼女に頭を下げなかった。それ故にいじめは中学以降も続いた。えりすは謝るのを待っていたのだ。僕はえりすの変心について、ようやく得心した。

「えりすわるくないのに、くーちゃんがわるいのに、あやまらないから、ごめんねっていわないから、ママなんかに、えりすは、えりすは……」

 えりすは幼い子供のように舌足らずに、何度も何度も繰り返す。

「お、おい! 何だよお前ら?」

 ついに尾澤が割って入った。僕らの会話の異常さに狼狽を隠しきれない。

「なかせた……」

 えりすがぽつりと漏らす。

「な、なんだよ?」

「あんたらっ、えりすのくーちゃんを泣かせたねっ!」

 怒りに満ちた一言を、金槌のように振り下ろす。

 びんびんとした攻撃的な波動を受け、僕は目を開く。

 涙で歪む世界に、佐伯えりすは立っていた。

 緑色の瞳、左目が金色に輝いている。

『魔眼』

 または『邪眼』や『邪視』とも呼ばれ、魔女がその力を持つという。東洋と西洋では伝承が異なるが、視線に呪いを込める、という部分は一致している。それをもつ者に睨まれた相手は、最悪死に至るという。

 佐伯えりすの片目、左目にそういう能力があることは知っていた。

「だれにも言っちゃだめだよ、くーちゃんだけに教えるね」と小学校低学年の折、彼女自身から耳打ちされた。

 当初、僕はそれについてえりすの冗談か、もしくはそう言った物語に感化されて成り切っているのか、と思っていた。

 しかし、すぐにその力は眼前でふるわれた。

 幾度も、彼女が窮地に陥ると、その左目は邪悪な金色を帯びるのだ。

 なぜ、えりすの眼にそんな力があるのか、「私のパパはね、魔道士だったんだ! 沢山の人を呪い殺したのよ、だから」彼女の説明は今も理解できない。

「よくも、よくも、よくも、えりすのくーちゃんをっ! くーちゃんをっ! ゆるさないっ……ゆるさなあい!」

 えりすは怒気に体を硬くして、鋼鉄のコンパスのように鋭く踵を返した。

 彼女の前には『刃苦怨』の全員が集まっている。

「な、なんだよ?」

 その中の一人が頬をピクピク動かしながら、彼女に聞いた。

 当然だ。佐伯えりすは自分から計画を持ちかけておいて、それに乗った彼等に一転、憎しみを向けているのだから。

「お、おまえオカシいんじゃ、ぐええ!」

 彼女はその男と会話をする必要を感じなかったらしい。蛙が潰れるような嫌な音が響いて、文鎮という名の鉄塊を鼻面に受けた一人が仰け反った。

「て、てめえ!」

 一瞬の空白時間の後、すぐに西山が怒鳴った。

「裏切ったのか?」

「裏切る?」

 えりすは冷たく、吹雪が呻るように応じた。

「あんた達ごときの仲間にあたしがなるはずないでしょ? 最初から最後はこうなったのよ、でも、言っておくけどすっごくイタいからね、あんた達はくーちゃんを泣かしたんだ、殴り合いなさい!」

 その宣言を受けた『刃苦怨』は一斉に戦闘態勢になった。さすがに場慣れしている、辺りが殺気に凍り付くようだ。

 しかし……。鼻をすすりながら、えりすの背中を見つめた。

 勝負はすでに付いている。

『魔眼』を持つえりすには誰も勝てない。

 西山が吼えながら指輪輝く拳を彼女に突き出そうとした、が、頬を何者かに殴られて、横に飛ぶ。

「な」西山は不意打ちに驚愕としながら、攻撃してきた者を識別し、もう一度驚愕した。 彼を打ち倒したのは、長身の男。顔面を包帯で隠した者だった。

「尾澤! てめえ、なにしやがる?」

 西山誠次の怒りに、尾澤一馬は何度もかぶりを振った。

「ち、違うんだ……お、俺の意思じゃない! 体が、勝手に……」

「何を……うが?」彼は言葉を途中で飲み込んだ。 

 人形のように不自然な動きで、西山は立ち上がる。そして眼前の尾澤の包帯面に、拳と指輪を叩きこんだ。

「あがあ!」

 苦痛の声が上がった。だが尾澤は倒れない、まるで足が地面にピンで固定されたかのように、または上半身のみしか動くことを許されていないかのように、揺らいでも転ぶこともできず、再び仲間であるはずの西山を攻撃した。

 気付くと、同じような当惑と混乱、苦痛と悲鳴が『刃苦怨』の全ての連中から絞り出されていた。

 皆、横にいたメンバーを容赦呵責なしに殴り、蹴り、しかしそれが本意でないことを口にしている。

「ふん」とえりすはその光景からそっぽを向く。

「死ぬまで互いに殴り合いなさい、どんなに苦しくても立ち上がってね、くーちゃんを泣かした罰なんだから」

『刃苦怨』達は異常事態に恐慌に陥っている。だが、僕にとってそれは当たり前の光景だった。

 えりすの『魔眼』に皆、操られているのだ。このままでは彼等は本当に、死ぬまで殴り合うだろう。

 彼女の金色の瞳の支配下に置かれた者は、ただの操り人形となってしまう。『魔眼(王様、あたし!)』とえりすは呼んでいる。その通り、どんな不条理な命令でも無理矢理に実行させられてしまう。意識がいかに拒否しようとも抗えないのだ。

 かつてえりすが上級生に睨まれたとき、野良犬に追いかけられたとき、クレーマーおばさんに、ガラスを割ったことで責められたとき、『魔眼』はその相手を徹底的に破壊した。 僕は鈍い打撃音と悲鳴の坩堝で、怯えきった。

「くーちゃん……」だが僕よりもさらにびくびくと、それを引き起こしたえりすはしゅんとなっていた。

「ごめんね……あたし、泣かすつもりなんか無かったのよ、ホントだから」

 彼女の目が潤んだ。すぐに涙が白い頬を滑っていく。

「いいんだ、えっちゃん、でも、あの、こいつらは……」

「死ぬまで殴り合う、くーちゃんを苛めた罰」

「そ、れは、えっちゃん、死ぬのはイヤだよ、こいつらでも」

「そう?」と殊勝に彼女は頷いた。

「くーちゃんが言うなら、『死ぬ寸前まで』にする」

「変更、死ぬ寸前まで」とえりすは『魔眼(王様、あたし!)』により無理矢理殴り合いを演じさせられている『刃苦怨』に一言、命令した。

 まだやりすぎだと思ったが、これ以上の妥協点はなさそうだ。

「また、力使っちゃったね」未だ続く乱闘を見つめて、放心する。

「しかたないよ」とえりすは唇を引き締めた。

「くーちゃんを泣かせた……えりすは決めているんだ、くーちゃんの為にしかこれはしないって」

「え?」

「うん、今までだって、あたしが『魔眼(王様、あたし!)』を使ったのはくーちゃんが危ないときだけだよ」 

 冗談を言われたのか、と彼女の様子を探った。しかし、えりすは真剣な眼差しで、もじもじとバツが悪そうにしている。

「この力は、くーちゃんが『使っちゃダメ』ていったから、普段は使わないんだ」

 それは覚えている。

 最初に『魔眼(王様、あたし!)』の威力を見せられた時に、怖かったからえりすと約束したのだ。

 ―そっか……

 その時ようやく、佐伯えりすについて誤解していたことを知った。

 考えてみれば、彼女が『魔眼(王様、あたし!)』で事態を無理矢理に終息させるとき、必ず僕にも類が及んでいた。

 貯水池でおぼれた野良犬はむしろ僕の足を噛んだ。窓ガラスをボールで割り、おばさんに責められて火がついたように泣いたのも僕だ……えりすにフられた上級生は、その腹いせに彼女の傍らの僕に暴力的なちょっかいをかけて来た。

 ―えりすは。

 泣いたせいでぼんやりとする頭で考えた。

 ―いつも僕のために、あんなことをしていたのか……。

 それに気付くと、青ざめてしょんぼりしている彼女がかわいそうだった。

「ごめんね……えっちゃん」

 心から自らの弱さを詫びる。小さな囁くだけだが、それで十分だったようだ。えりすははっとする。

「う、ううん……えりす……あたし、こそごめんね、いじめてごめんね、今までごめんね、こんなことしてごめんなさい」

 彼女は僕に被さるようにしがみついた。

 ごめんね、を繰り返す。

「ううん、いいんだ、もう仲直りしよう」

 女の子の体の温かさと、汗の温気にどきどきしながら、僕はえりすの肩に手を置いた。

「うん!」

 それはここ数年の不機嫌そうな佐伯えりすではなく、昔いつも一緒だった『えっちゃん』の屈託のない、輝くような笑顔だった。

 ようやく、昔の二人に戻れたのだ。ずっと二人で夜まで遊んでいた僕とえりす。兄妹のように一緒だった、二人。

 が、なのに、えりすはそれを拒む。その立場ではもう嫌なようだ。

 ずっと前の、ただの子供の頃に返るには、二人とも成長しすぎていた。

 えりすは妹になるのを拒否したのだ。

 気付くと、彼女の濡れた瞳が目一杯広がっていた。

 え? と問う間もなく、えりすの唇は僕のそれに重なる。

 やはりイチゴの香りがした。

 だから、僕、東雲拓生のファーストキスはイチゴ味だった。


 激闘編


 夜、僕はなかなか寝付けなかった。

 女の子の唇の感触が脳に焼き付けられたから、だけではない。

 考えることが多かった。

 葛城、雛森先輩、天城さん、みや、えりす。

 今までの人生は平凡な灰色だったが、突如そんな人々が入り乱れ絡み合い、良く分からない色彩にべったりと上塗りされていた。

 ただ、五人の誰を思っても僕の鼓動は加速し、誰の微笑みも何にも代え難かった。

 みんなには悲しんで欲しくない、涙は見たくない。それなら僕が泣いたほうがマシだ。

 パイプベッドの上で、そんな事を考えている内に意識は薄れていった。

 だから、彼女達の夢は見た。

 微笑む天城さん。

 可愛いみや。

 格好いい葛城。

 両手を広げる雛森先輩。

 僕を呼ぶえりす。

 くーちゃん。くーちゃん。

「くーちゃん」

 目が覚める。

「おはよう……くーちゃん?」

 ゆさゆさと学校指定のYシャツとスカートを履いたえりすが揺さぶっている。

「あれれ? えりす?」

 飛び起きた。がばっと上半身を起こす。

「うふふ」とえりすはその様子に、らしくもなく穏やかだ。

「ななななな、なんでら?」

 驚きの為か起き抜けだからか、ろれつがあんまり回らない。

「なんでって? 朝だからよ、くーちゃん、起きないと遅刻するよ」

「はひ?」

 見回すと、確かにカーテンの引かれた窓から、朝特有の薄い日差しが入り込んでいて、漂っている埃まで見える。

 だが、問題はそこではない。佐伯えりすが僕の部屋に早朝から居ることだ。

「あら、くーちゃん」と彼女は逆に不思議そうだ。

「だってくーちゃんを毎朝迎えに来ていたでしょ? あたし」

 確かにそうだ。ただし小学校五年生までだ。それから……色々なことがあって、最近、彼女は僕の家に近寄りもしなかったはずなのだ。

「だって…………昨日、仲直りしたじゃない」

 ゆっくり思い出す。確かにえりすとの間にあったわだかまりは、彼女の本心を聞くことで消えた。そして僕も自分の浅薄さを詫びた。

 が、その数時間後、数年来の習慣を思い出し、目の前に現れるとは考えていなかった。「……実はね、喧嘩してから毎朝、この近くまでは来てたんだよ、で、くーちゃんが出かけたらナイショで後をつけてた、ごめんね、あたしもっと早く仲直りしたかったんだ」

 なんだかさらっと恐ろしいことを言われたようだが、気のせいだろう。

「でででで、今日は?」

「だから、起こしに来たの……おばさんに言ったら入っていいって」

 どうやら母は幼馴染みのえりすについて、何の不安もなかったようだ。

「起きなよ、くーちゃん、遅れるのヤでしょ?」

 えりすは屈んで今まで僕が寝ていたベッドに手を突く。 

「う」思い出すのは、イチゴ味だ。僕の中で何かがよろめく。

「ふふん」何もかも彼女は見抜いていた。

「またキスしたい? くーちゃん」

 朝日にえりすの唇が艶めいた。

「いいよ、はい」簡単に彼女は目をつぶるから、僕はベッドから勢いよく立った。

「ま、まあ、そんなひんぱんには、その、あの、まず手を繋ごうか」

「もう! くーちゃんはさ、いろいろヘンな妄想するクセに、実は臆病なんだから」

 言われっぱなしだが、気になるのはそこではなかった。

「あのさ、くーちゃんて、その、呼ぶの?」

「え? くーちゃんはくーちゃんでしょ?」

「しかし、その、もう僕、高校生なんだし……」 

 しばし彼女は沈思したが、うんと頷く。

「そうね、くーち……拓生はだいぶ大きくなったもんね?」

 了解しかけて、「は?」と聞き返す。何かえりすの表情はいたずらっぽい。

「大きくなったね! 拓生」

「ええっと、それって?」

「大きくなったね! 拓生」

 えりすの目線を追う。パジャマのズボンがある。だが、寝間着の宿命として腰のゴムは緩めだ。

「あ!」心づいて、耳が灼熱に燃える。

「み、みみ、見たな?」

「なにをー?」

「寝ている間に、ズボンと……を下ろしただろ!」

「大きくなったね! 拓生」

「このスケベ! えりすのヘンタイ!」

 血相を変えた僕だが、彼女は何ともないように首を傾げる。

「どうして? 前は一緒にお風呂入ってたし、拓生も昔、よくあたしにしていたイタズラでしょ?」

「ううう」

 二の句がつけない。確かに、彼はそんな犯罪行為的なイタズラを彼女にしていた。どこが違うのか、知りたかったから。

 妹だと思いこもうとしていたからだ。

 気付かれていたとは、やはりえりすは一枚上手だ。やるね!

「でも」とえりすは少し目を丸くし、頬に手を当てる。

「びっくりした」

「このスケベ! えりすのヘンタイ!」

 羞恥に悶える。頭を抱えて絨毯に蹲る。汚された! 付き合ってもいないのに、僕もうおムコに行けないよ。

「わかったわよ、もー」

 仕方ない、という体のえりすは、細長い指を伸ばしてチェック柄のスカートの縁を摘んだ。

「ほら、あたしの見てもいいから、おあいこね」

「ええ?」

 スカートが少しめくれ、見上げる形の僕は錯乱しかけた。

「……今日ね、あたしのママ、仕事で朝からいないんだ……学校なんて行っている場合じゃないんじゃない? あたしたちに必要なのは違う勉強だと思うな、一緒に大人になる?」

 頭が爆発しかけた。今、僕の脳細胞は確実に一億くらい焼き切れただろう。あまりの事に目の前がピンクと赤にちかちか点滅する。

 ―オトナ……

 えりすの胸に視線が惹きつけられる。雛森先輩ほども天城さんほどもないが、しっかりと存在は誇張していた。それを包み隠すYシャツのなんと白いことか。

 だが、返事次第ではそれを脱がせる、という異次元にある行為が許されるのだ。合法的に。

「ぼ……」あうあうと止まりかけた呼吸器を、慌てて再始動させる。

「ぼ?」

 えりすは瞳をエメラルドに輝かせ、返事を持っていた。

「ぼく、がっこー、いきます、がっこー、いくんだ、い、いかなきゃ、がっこー」

 何を言っているんだえりす。僕たちは学生だ。勉強しなくてはならない。もちろん、マジメな歴史とか数式とかだ。あー勉強したい。したいのだ。

 がくりとえりすは肩を落とした。

「ふう……拓生は本当に臆病、こんな千載一遇の大チャンスに……まあ、仕方ない」

 真白い下着がすれすれ見えていたスカートがふんわりと戻り、安堵してしまう。

「でも、隙を見せたらどうなるかな……」

「え?」

「ううん、別に、さ、学校行こ! 用意、用意!」

 えりすにせき立てられ、僕は慌ただしく出発した。

 時刻は七時半少し前、まだまだ朝は早い。なのに太陽はすでに真昼のような熱さをもっていた。じりじりと睨め付けるかのように照りつけて来る。   

 僕は自由になる右手で額に滲む汗を拭った。

 体が傾ぐ、もう片方に重みが掛かりすぎている。

「あの、えりすさん?」

「なあに?」

 僕の左腕にしがみつくように、まとわりつくようにぶら下がるえりすは、うっとりと幸福そうだ。

「……今日は朝から暑いね」

「わかった!」と彼女は顎を上げて、頬当たりをふうふうと吹いてくれた。

 イチゴが、イチゴが。とパニックに陥りかけるが、全力で冷静を保つ。

「離れた方が、涼しいのでは?」

「いやよ」むしろ彼女は、僕の腕を強く抱く。

 二の腕辺りに柔らかな二つの感触がある。肘はえりすの腹部に当たり、そのなだらかさが強烈な印象として伝わってきた。 

「こらぁ!」

 僕は怒った。

「嫁入り前の娘さんが、はしたない!」

「……ええっと、くーちゃ、拓生?」

「なにさ」

「……まあいいや、……ごめんね、あたし少し攻めすぎだった」

 何を攻めたのかは判らないが、えりすは反省したようにしゅんとなる。 

 ―く、えりすめ!……そんな顔しても……許すしかないじゃないかぁー! 

「ねえ、ゆるしてくれる?」

「勿論だよ、ははは、お触りは付き合った後だよ、あはははは」

「ありがと! やっぱりくーちゃん好きー! でも、どうしてはあはあしているの?」

「いや」急いで深呼吸する。

「朝から何だか疲れて、いいや心配無用、もう大丈夫、さう学校行こう」

「うん!」

 彼女は再び僕の左腕を独占した。

 しばらくそのまま進んだが、あることに気付き足を止める。

「うん? どうしたの拓生?」

 えりすはいぶかしげだが、辺りを見回してふと思う。

「あの、やっぱり離れない?」

「なんでさ!」

「だって……みんな見ているよ、視線がイタい」

 えりすもくるりと頭を巡らす。

 彼女も気付いたろう、朝からべったりの二人に他の人々の目は冷たかった。同じ学校の生徒やら、スーツ姿の会社員達が僕等の姿に眉を顰めている。

「このままじゃあバカップルだよ、バカだと思われる」

 僕の悲嘆に、えりすの大きなエメラルド色の瞳が動いた。

「バカ? 拓生をバカだと思ったヤツが居るの? どいつ? あたしがやっつけてあげる!」

 彼女の左目が金色に変わりかけたので、慌てて手を振る。

「ち、違うって!」

 あうあうとその後は日本語にならない。佐伯えりすの『魔眼(王様、あたし!)』は本当に恐ろしい力なのだ。おいそれと使わす訳にはいかない。

 昨夜、まだ『刃苦怨』の連中が乱闘続行中に、彼女に手を引かれて帰宅したが、朝目にしたニュースによると、ほぼ全員が重体で、病院に緊急搬送されたという。

『仲間割れ』という有り触れた結果に警察はたどり着いたらしいが、真相を知る僕は戦慄を禁じ得ない。

 ―本当に『死ぬ寸前』までやらせたんだ……

 彼女の力と性格を何よりも知ってはいるが、その部分はドン引きだ。

 きょろきょろと物騒な目つきで、えりすは通り過ぎる人々を確認している。

「え、えりす」慎重に、事を荒立てないように台詞を吟味していると、背後に軽い足音が迫って来た。

「拓生君! おはよう」

「うあ?」

 天城さんだった。恐らく遠いところで僕を見かけたのだろう、彼女は頬を紅潮させ、速い呼吸を整えている。

「おはよう、天城さん」

「私ね!」彼女はうれしさにはち切れそうだった。

「あなたがこの道を通る時間を計算して来たんだよ、だから会え……」

 弾むような声が途切れる、左腕にいるえりすに気付いたようだ。

「あ!」

「あら? おはよう、計算違いの天城さん」

「はうう」と日が差したように明るかった天城さんの表情が曇り、しばしえりすと見つめ合う。

「おはようございます、佐伯さん」彼女の声のトーンが沈んでいる。

「あたしね」とそんな天城さんにえりすが報告した。

「拓生と一緒に学校行くの、二人一緒に」

「…………」

 何故か冷感を覚えた。振り仰ぐと太陽は当たり前のようにある。

 無言で天城さんが歩き出したので、僕も倣う。

 しばし僕らはただ学校へ向かって足だけを動かした。

「私」と天城さんが突然切り出した。

「拓生君と同じ中学校出身の友達に聞いたんだけど……」

「何よ」何故か答えるのは僕を飛び越しえりすだ。

「拓生君をイジメてたの、佐伯さんなんですってね?」

 どきりとした。それは意外にまだデリケートな話題なのだ。

「そうよ」と僕の煩悶など構わず、えりすは首肯する。

「最低です」小さな一言だが、それには天城さんの憤懣が満ちていた。

「拓生君を苦しめたなんて」

「それは、誤解だったの、間違い? あたし、勘違いをしていたの、でももう仲直りしたから」

「でも!」天城さんの前髪が勢いよく跳ねる。

「拓生君が苦しんだのは事実です」

「……何が言いたいの?」

 僕は困惑した。どうしたか空気がひりひりしている。

 天城さんと、仲直りした佐伯えりす。

 二人とも僕にとっては大切な人たちだ、なのにどうして二人が揃うとこんなに居心地が悪いのか。

 まるで金属が張りつめたような固い空気の中、僕らはまた歩を進めた。

 僕は焦っていた。

 ―なんだか、居づらいな……二人はあんまり仲良くないのかな?

 だとしたら、早急にその中にもう一人加えなければならない。大抵、そりが合わない者同士でも、三人目に誰か入ると何とかなる物なのだ。

 すぐに見つかった。

 登校する生徒の中に見知った背を見つけ、手を挙げて呼んだ。

「あ! 葛城!」

 葛城は勢いよく振り返る。

「東雲」

 彼女が珍しく機嫌が良さそうなので、急いで近寄った。

 だが、葛城は僕の左右にいる二人に気付くと、表情を消す。

「おはよう! 葛城」

「おはよう」

 短く呟くと背を向ける。

 ―あれれ? 何だろう?

 あてが外れ、疑問符で一杯になったが、問うことも出来ずただ追った。

「…………」

 今日は肌寒い。天気予報では六月下旬の陽気、と解説していたが外れている。そんなに温度があるならこんなに凍えそうになるはずがない。

 と、つと葛城が立ち止まった。早足だった僕はそのまま彼女の背中にぶつかり、反射的に肩を抱いてしまう。

「あ、ごめん」彼女が珍しくコロンをつけていることが判った。

 僕の胸に背を預けた葛城は、「ふふふ」と忍び笑う。

「何それ? イヤらしい手を使うわね!」

「計算ですね! 計算しましたね!」

 左右にいる少女は揃って葛城を非難しているが、意味が分からない。

「おーい!」

 そんな時に、息と胸を弾ませて雛森先輩がぴょんぴょん近づいてきた。

「おはよう! 拓生くん、今日も会えたね!」

「雛森先輩! おはようございます」

 礼儀正しく頭を下げたが、三人の女子は微動だにしない。

「あらあら、ご挨拶ね」とそれでも雛森先輩は微笑む。

「ああ」とえりすが応じる。

「『刃苦怨』の尾澤なんかに騙された先輩じゃないですか? 汚れきった体で何のようですか?」

「うん?」と笑みを浮かべたまま、雛森先輩は首を横に倒す。

「残念だけど、私は尾澤君とはキスもしてないのよ、その前にはカレシ無しだし、だから真っ白……それよりも、まだまだ発育途中なんだから、大人の真似事はしないほうがいいわよ」

 ―あれれ?

 気付く。やよいの笑顔は嘘だ。

 ―先輩、笑っていない、どうしたんだろう?

 場が寒いどころか、どこか不穏になってきた。『刃苦怨』の前でも、こんなに殺気が充満していないだろう。

 思わず一歩下がる。退路はそこしかないような気がした。理由は分からないが、一目さんに逃げ出したい。

「拓生君」とその背中に指が当てられる。

 虎狼院みやがいつの間にか背後に立っていたのだ。

 みやは目元を険しくして、僕の状況を確認する。

 はあ、とため息の後に、彼は向き直った。

「拓生君、僕は言っただろ? 変な連中に関わったらダメだ、君の為にならない」

「へんなって……」絶句すると、女の子達が一拍の後、反撃する。

「ヘンなのはあんたでしょ? この女男!」

「どんなに計算しても、虎狼院さんは男子ですよ!」

「生意気言うな! 怪我するわよ」

「あのねえ、こういうのって男の子でも良くあるらしいんだけど、憧れと恋愛感情をごっちゃにしているよ、君」

 えりす、天城さん、葛城、雛森先輩の順に責められたみやは、全く動じず全員の視線を跳ね返している。

 ―ああうう……。

 内心で僕は四肢をばたつかせてもがきたい。どうしてか皆が上手くいっていない。どうしたらかみ合わない歯車を直せるのだろう。

 彼女達はとっても『いい人』ばかりなのだから、きっと仲良くなれるのだ。

 だが結局、学校についても妙案を思いつくことが出来なかった。 

 全員無言で校舎に入り、気まずく足音を響かせ、階段に近づくと進み出た雛森先輩が僕に手をひらひらした。

「じゃあね、拓生くん、また後で」

「は、はい」

 やよいの細められた目に会釈するが、他の四人は反応無しだ。

 健康的な足取りで彼女は駆け上がっていく。しかし、それはいつもの軽い足音とは違う気がした。どこか乱暴で、憤りのまま足を叩きつけられているように聞こえる。

「……先輩、どうしたんだろ?」

 誰とも無く問うが、その腕がえりすに引っ張られた。

「あんなのどうでもいいから、教室行きましょ」

 ―そうだ。

 僕は期待する。

 ―きっと教室行って、友達に会えばみんな普通になる、みんなの機嫌も直る。

 淡い願望はすぐに崩れた。

 一年三組は氷河期を前にしたかのように、緊張と緊迫で寒々としていた。 

 クラスメイト達は最初は日常の喧噪にいたのだが、僕達が入ってから数分で水を打ったような静けさの中、下を向いている。

「あれれれ?」

 全く状況に着いていけないが、級友達を細かく観察すると、彼彼女達はちらちら、怯えたように誰かを伺っている。

 えりす、葛城、天城さん、みやがその先にいるようだが、僕がそちらを向くと、みんな嬉しそうににっこりするだけなので、どうして教室が硬質に固まっているのか判らない。

「あんた、東雲……」

 いつか僕の独り言を聞きとがめた、隣の女子生徒が囁いてきた。

「なに?」

「なに、じゃないわよ全く、のほほんとしてる場合じゃないでしょ? この空気、どうすんのよ?」

「空気?」

「だーかーらー」彼女は口に手をやり、声を潜めた。

「……で、誰を選ぶの? 誰が本命?」

「はい?」

 聞き返す。何を言っているのかさっぱりだ。

「こ、こ、こいつ」女子生徒はその様子に大仰に仰け反る。

「ガチか? このバカ……くそバカ東雲! もう話しかけないで! ダメ人間!」

 ずざっと彼女は机を僕のそれから離し、体ごとそむける。

 ―そんなに怒らなくても……

 完全に接触拒否され傷ついたが、それはそれでなんかイイ。僕はもう治らないようだ。

 しかし次の休み時間、合間に立った彼女が予鈴がなっても机に戻ってこない。

 ―あれ?

 と辺りを見回すと、小刻みに震えている彼女の友達がいる。

「彼女、どうしたの? 病気? 保健室?」

「あ、あ、あんたを、き、傷つけたって……」あわあわと少女達は両手で口を押さえる。

「知らない! 何が起こったかなんて知らない! 私たちあんたを傷つけたりしないから! 悪口も言わない! お願い、かまわないで」

 僕の胸裏が微かに陰った。どこかで悪いことが起きている気がする。

 だが、次の受業の担当教師が入ってきたので、都合良く忘れた。

 こんこんこん、といつものように天城さんが、黒板で健康的にチョークを響かせている。 毛筆で書いているような美しい筆致で、どんどんと古文が白く訳されていった。

 うんうん、と必ず彼女を指名する古文の牧村先生も、できの良い生徒に頬を緩めている。 僕はようやく人心地ついていた。

 一年三組はまだよそよそしいが、こうして可憐な姿を眺めていると心が和んでくる。

 ―ようやく平和になったなあ……。

 それに関して奔走した自分を、心底誇らしげに思った。

 ―みんな助かって、みんな立ち直って良かった。

 古文の訳を終えた天城さんがくるりと振り返る。

 牧村先生の絶賛を受けたので、彼女は頬を上気させていた。

 ふと、少し上目使いの視線が僕の視線と合う。

 春の太陽のように天城さんが唇をほころばせた。

 ごすっ、と鈍い音と共に、額に何かぶつけられた彼女が「きゃう!」と背後に仰け反り、倒れた。

 ざわっと教室が微動し、僕は思わず立ち上がっていた。

「あれ? ごめーん! 手が滑っちゃった」

 まるで消しゴムでも落としたかのように、文鎮と呼ぶ鉄塊を彼女に投げつけたえりすが立ち上がる。

「うええ?」

 僕が衝撃の中にいる間に、舌をちらりと見せたえりすは文鎮回収のために教室の前に出ようとする。が、途中で派手な音を立てて顔面からスライディングした。もし野球ならセーフの勢いだ。

 葛城の真横である。

「悪い、事故よ」

 葛城はえりすを一瞥もしない。伏せるように倒れていたえりすの体がわなわなと震えた。

「ちょっと!」

 バネが弾けるように立つと、葛城を指さす。

「どう考えてもわざとでしょ? 事故で足が払われるもんですか!」

「…………」葛城は彼女を完全に無視している。

「こいつ……」

「何しているんだよ! 君たち、今は授業中だよ!」

 時が止まったように身動きもしない生徒達の中、みやが咎める。

「いくらなめくじ程度の低い知能では着いていけなくても、他の人達には迷惑だ、くらいはわかってよ」

「なめくじ? ひ、低い知能?」

 葛城は意味を確認するかのように、みやの言葉を口の中で繰り返す。

 僕はそれどころではない。

「天城さん!」

 彼女がまだ倒れているのだ。

 ごつい鉄の塊をモロに受けたのだ、あるいは119か、と携帯を探る。

「だ、大丈夫です」

 ゆっくり天城さんは体を起こし、立ち上がった。

「け、計算すべきでした……こんなこともある、と」

 僕は何も答えられない。

 彼女の顔色は紙のように白く、額から滑り落ちている一条の赤い線が異様に目立った。

 本来なら駆け寄ってもいい状態だが、どこか今の天城さんには凄みがある。

 彼女は落ち着いた動作でスカートのポケットからハンカチを取り出すと、そっと額の血を拭いた。

 ―おかしい。

 どこかがおかしかった。皆、それぞれの問題を解決したのに、より溝が深まったように見える。

 何が原因かは、全くわからない。

 クラス中の誰もが悄然とする中、時間だけが過ぎていった。

 昼休み。学校が最も和むイベントを迎えても、一年三組の様子は変わらなかった。

 こそこそひそひそ、とクラスのあちこちで級友達が真剣に語り合っている。

 ―どうしたんだ? みんな。

 僕は自分の席で彼等の視線の意味を考えていたが、腹部がじんわりと冷えだしたので顎から手を離した。

「パンかお」  

 購買部でパン、それが日常だ。

 が、立ち上がると、教室の前の扉から女生徒が四角い包みを持って現れた。

「お久しぶり、拓生くん」

 明るくそう呼ぶのは雛森先輩だ。

「まだ『久しぶり』というほど時間は経過していませんよ」

「あら?」と彼女は頬を膨らませる。

「オンナゴコロが判らないとダメよ? 一緒にいたい人と少しでも離れたら、もう『お久しぶり』なの」

 雛森先輩は包みを拓生の木机に置く。

「はい」

「なんです?」

 僕の問いに、雛森先輩は瞳に光を灯す。

「お弁当!」

 彼女が慣れた手つきで包みを開き蓋をあけると、そこには卵焼きやらエビフライ、タコウインナー等、夢のような光景が広がっていた。

「うわあ……」感動してしまう。

「これ、僕、食べていいんですか?」

「何言ってんの、拓生くんに作った物なのよ、召し上がれ」

 ―何だこの感動は……。

 僕は号泣しそうな自分を必死で抑えた。

 憧れの雛森先輩が手作り弁当を作ってきてくれたのだ。

 ―こんな日が来るなんて……そうだ、今日のことは記念に日記につけよう!

 神に祈りそうな僕だが、その席にもう一つ楕円の包みが置かれた、

「え?」

 葛城が恥ずかしそうに目線を外している。

「ええっと……」

 僕に構わず彼女はそれを開いた。

「おおお」呻ってしまう。葛城の弁当もかなりの高レベルだったのだ。

 雛森先輩とは違い、料亭に出そうな本格的な料理だ。

「実は私、料理は得意なんだ」

 葛城が誰ともなく誇る。確かに、それは家庭料理の範疇から飛躍していた。

「東雲、味を見て欲しいんだけど」

「え! う、うん」僕としては了解するしかない。

「あうああ」 

 そこに女生徒が飛び込んできた。

 天城さんだった。額に絆創膏の彼女は、両手で重箱を持ち、葛城と雛森先輩の間をこじ開ける。

「拓生君、私のお弁当はカロリー計算バッチリです! 塩分も計算されていますし、食べると健康になります」

 どんと目の前に置かれ、少し怯んだ。 

 三人分、計六個の目が注視しているのだ。

 食べるどころか、どれかを選ぶことも出来ない。

 ―うーん、味は葛城だろうな、しかしバラエティーは先輩に分があるし、健康には天城さんのがいいんだろうな……。

 が、そんな懊悩を一挙に救ってくれたのは、えりすだった。

 迷う僕の机が、突然ひっくり返される。

 宙に幾多の食材が舞うのを、何も出来ず網膜に焼き付けた。

「こんな何が入っているか判らない気持ち悪い弁当より、拓生! 食堂行こうよ、あたしと」

 雛森先輩、葛城、天城さんの弁当を床にぶちまけたえりすは、エビフライを踏みにじりながら僕の腕を取る。

「ちょっと!」

 阻止したのは雛森先輩だ。いつもの微笑みはもうない、初めて見る剣幕だ。

「……これ、いくらなんでも酷くない?」

 彼女は散乱する食べ物に柳眉を逆立てる。

「そうだ! 食べ物を粗末にするな」

 同調したのはみやだった。

「拓生君、こんな食べ物の大切さが判らない女と一緒にいることはない、ほら」

 彼が手にしているのは、僕がいつも買うカレーパンとコロッケパンだ。

「僕は君の嗜好に併せてすでに購入してきた、これを僕と食べよう、他人に作られた料理なんて、どんなばい菌が入っているか判らないよ」

 しかし、結局僕は昼食を採ることが出来なかった。

 雛森先輩がみやの購入してきたパンを、バチンと叩き落としたのだ。

 ―え……。

 少しだけ引く。そんな激情を発露させる雛森先輩を知らなかった。

 雛森先輩、葛城、天城さん、えりす、みや、はその後、唇を引き結び互いを牽制し、結局、その圧力で僕の食欲は消滅した。


 はあ、と僕はパイプベッドに横になり、重いため息を落とした。

 部屋にある窓にはすでにカーテンが引かれ、窓の外にある夜の風景を伺うことは出来ない。 

 もう僕は学校から帰宅していて、自分の部屋で一日の出来事を反芻しながら、くつろいでいた。

 否、くつろぐ、など出来なかった。

 考える事が多く、複雑すぎる。

 蘇るのは、好意を持った者達の対立する姿だった。

 ―おっかしいなあ……。

 指で髪をかき混ぜる。

 どうしてか上手くいっていないのだけは分かる。僕と会話している間、あんなに嬉々として、闊達としている彼女達なのだが、一人でも増えるとぎこちなくなるどころか、ぎしぎしと金属音のような音を立て、軋み出すのだ。

 うーむ、といくら考えても何が悪いのか判らない。

 幼馴染みで、少し乱暴だけど本当は寂しがりの佐伯えりす。

 年上で、お姉さんのようであり、包容力抜群の雛森やよい。

 同級生で、楚々とした落ち着いた雰囲気を持ちながら、案外ドジな天城愛希。

 旧友で、一見気が強そうだが、その実女の子らしさ満点の葛城司。

 親友で、女の子のような容姿で世話好きの虎狼院みや。

 みんなそれぞれ大切で、親しくしてみると、思った以上に沢山の美点で形成されていることが判った。

 実際、僕の前では皆、天使のように優しく寛大だ。

 なのに……僕はその日の放課後、数時間前逃げるように家に走った。

『誰が僕と一緒に帰るか』という、当人たる僕にとってはそれほど重要じゃない問題で、暴力に発展しかけたのだ。

 一触即発だった。

「うわー」と鞄をひっつかんで飛び出さなければ、その後どうなっていたかわからない。

 おっかしいなあ……僕はベッドに丸くなって考え続けた。

 だが結局、答えも有効な打開策も浮かばないまま、時間通り夕食を食べて入浴し、出ていた英語の課題を都合良く忘れ、少しオトナな夜の番組を見、今度は睡眠のために再びベッドに入った。

 色んな問題があるが、何となく時間を稼いでおけば、何となく解決する。

 僕が一五年で学んだことだ。

 母が日中干していてくれていたお陰で、布団は些末な悩みなど薄れてしまうほど寝心地が良かった。

 ―平和な夜だ。

 そう意識する間に、瞼が重くなっていく。

 スマートフォンが飛び上がらんばかりに鳴り出したのは、そんな時だ。

「わ!」

 ベッドから飛び起き、勉強机に置いたままのスマホを、LEDの明かりを頼りに取った。

『雛森やよい』と液晶に名前が表示されている。

 ―雛森先輩? なんだろう?

 そう言えばこの間携帯番号登録したな、と何となしに耳に当ててみる。

「はい、拓生です」

「ああ、拓生くん? ごめんね」

 雛森先輩はいきなり謝った。

「え? どうしました?」

「もう、こんな遅くに電話して、ごめん、ということ」

「ああ、いいんです、先輩ならいつでもOKです」

「ホント?…………」

「あれ? 先輩?」

「……あ! そうだった……あのね」

 雛森先輩は囁くような話し方になる。

「私、ドジしちゃって、教室に課題の入った鞄を置き忘れちゃったの、で、今から学校に行きたいんだけど……怖くて……」

 なるほど、と得心する。

 確かに夜の学校は怖い。昼が明るいから、とか、人がいるべき場所に誰もいないから、と説明する輩は多いが、とにかく怖いのだ。

「一人では……ちょっと」

「判りました!」

 僕は横目で、時刻が深夜一時を少し回っていると確認し、胸を張る。

「僕が今行きます! こんな時間女の子一人だと危険です、一緒に入りましょう」

「でも、悪いわ……」

「いえ! 先輩の為です、全然構いません」

「嬉しい……」雛森先輩の吐息まじりの声は、まるで身近にあるかのようにドキドキさせてくれる。

「じゃあ、巻野高校で落ち合いましょう、待っているわ」

 僕は切れたスマートフォンをしばし見つめていたが、すぐに行動を開始する。

 夜だが、雛森先輩と会うのだ、それなりの格好をしたかった。


 闇の中では目立たない無駄なお洒落をして、徒歩二〇分の夜道を駆け抜け、僕は巻野高校の正門にたどり着いた。

 意識して早めに出たのだが、彼女はすでに到着していたらしく、すぐに「拓生くん」と闇の中から呼ばれた。

「は、はい」

 人影が数歩前進し、校門前の街灯の下に雛森先輩が浮かび上がった。

 ―あれ? 

 と僕がここで気になったのは、彼女がまだ学校指定の夏服姿だったからだ。

 ―先輩、いちいち着替えるのかなあ?

 そうなると軽い気持ちで私服を選んだ自分が、場違いなように感じられた。

「ありがとう、ホントに来てくれて」

 雛森先輩はそれらに全く触れずに、感極まったように胸で掌を組んでいる。

「当たり前ですよー」

 照れて後頭部を撫でると、彼女はくるりと背を向けて、鉄の校門を引いた。

 ゆっくりと門が開く。

「じゃあ、いきましょ」

 彼女は一度振り返り、僕に片目をつぶった。

「はい」

 と答える前に、すたすたと学校敷地内に入って行く。

 その背に続きながら、夜の学校をきょろきょろ観察した。

 たしかに不気味だった。巻野高校にも平凡な怪談は幾つか存在する。昼間は鼻先で一蹴してしまうそれらが、今は妙にリアリティを持つ。

 つい黒く塗りつぶした窓を一つ一つ確かめてしまった。

 怪談の一つ、自殺した生徒が夜に窓から見ている、という話しを確かめたかったのだ。 それらしいものは無かったが、足は鈍った。

 ―あれれ、先輩。

 雛森先輩は何事もないかのように、変わらぬ歩幅で進んでいる。

 ―怖いんじゃ……。

 確か、夜の学校が怖い、と呼び出されたはずだが、彼女には何かを恐れるような雰囲気はなく、闇も亡霊もはじき飛ばすような断固とした足取りだ。

 校舎へ入るとしても、さすがに表玄関は無理そうだ。巻野高校は夜守衛がつくので、彼等に話しを通すのだろう、僕はそう勝手に思いこんでいた。

 守衛室は校舎の……。

 雛森先輩は普通に表玄関を押し開く。

 ―うん?

 戸惑う。

 玄関に鍵が掛かっていない、ということもあるが、雛森先輩の行動に躊躇がなさすぎる。 当たり前の場所に当たり前に向かっているようだ。

「ええっと、先輩」

 学校に忘れ物でしたよね? と確認しようとしたが、僕の疑問を誤解したようだ。

「ああ、大丈夫、守衛さん達には……寝て貰ったから、永遠に来ないわ」

「えいえんに……寝て?」

 段々話が見えなくなっていく。忘れ物を取りに、雛森先輩の教室だった筈だ。

 しかし僕を連れた彼女は上階への階段をスルーして、どうしてか一年の教室が並ぶ一階の廊下を迷わず進んだ。

 その足が止まる。

 一年三組の前だ。

「ここって」問う前に、雛森先輩は扉を開いて「さあ、入って」と促す。

 驚いたことに、一年三組は電灯が付いていた。

 ―なんだろう。

 訳が分からないが、白々と照らされる教室へ踏み行った。

 夜だからか、馴染みの教室にも違和感がある。

 机も椅子もロッカーも、何も変化などしていないのだが、より魂を失い無機的な、無意味な物になってしまったかのように、ただの風景と化していた。

 中程まで歩き、僕は言いしれぬ不安を感じた。

 雛森先輩の理解できない行動もそうだが、ここには長居したくない気がする。

「あのー、先輩、これは?」

 震えそうになる声帯を苦労して抑え、尋ねると、彼女は目を伏せており、表情が判らなくなっていた。

「ごめんね、拓生くん」

「はい?」

「ごめんね、騙して、みんなで話した結果、こうしよう、てことになったの」

「は?」

 全然、さっぱり意味が判らなくて聞き返す。

 乾いた音を立てて扉が開く。

 雛森先輩と僕以外に誰も生徒はいないと思っていたから、仰天した。見知った四人が神妙な面持ちで、僕の前に横一列に並ぶ。

 佐伯えりす。

 天城愛希。

 葛城司。

 虎狼院みや。

 唖然と全員を見回す間に、雛森先輩が最後尾に付ける。

「こ、これって……」

 白い光の下、僕の喉が痙攣した。

 五人分の視線、真っ直ぐに僕を見つめてくる瞳に、布団圧縮袋に入れられたような圧迫感を覚える。

「ど、どうしたの? みんな」

 おそろおそる尋ねると、口を開いたのはえりすだった。

「拓生、選んで」

「え?」

「この中の、誰を選ぶの?」

 彼女の言っている事が判らない。ただえりすは酷く真剣だ。

「あたしは拓生が好き、子供の頃の約束、結婚の約束、守って」

 えりすが告白したのだと気付くのに、数秒かかる。

「え?」

「私は」次は天城さんだ。

「ずっと寒かったんです、とにかく一人でがんばって、どんな時でも一人で必死に計算してきました、でもこの世界は寒くて仕方なかった、そんな印象しかなかった……でも、拓生君にぎゅっとされたとき、初めて温かいと思った、だから、もっと温かくなりたいんです、拓生君、二人で温め合いましょう、計算も終わりました、拓生君は私を選ぶのが一番幸福です」

 反応しようとしたが、葛城が遮る。

「……私にとって男は敵だった、父さんも含めて、いつも私のことを生意気だの偉そうだの言う男はキラいだった、そのクセ、女の見られたくないところばかり狙っているアイツ達は大嫌いだ、でもあんたは、あんたは自分の身を捨てて私を助けてくれた、だからあんたは、キラいじゃなくて、その……逆になったんだ」

 何だか迂遠な表現だ。

「ええっと、葛城」

「葛城、なんてイヤよ、つかさでいい」

「つ!」

 どこかでそんな夢を見たような気がする。

「僕は、この世界でたった一人味方になってくれた君が大好きだ、もうこの気持ちを伝えなければ一歩も進めない、だから……受け止めて欲しい」

 みやは完全に倒錯したようだが、容姿が女の子なのでそれに気付かなかった。

 そして、最後に雛森先輩が大ぶりのメロンのような豊かな胸に手を置く。

「こんな形で君に告白なんてごめんね、でも私たちの発展的未来の話しをどうしても拓生くんとしたかったの、ねえ、私ってどうかな? 私にとって君は『私の拓生くん』だけど君にとって私は、あなただけの特別な存在? 教えて欲しいな」

 僕は倒れかけた。そして死にかけた。

 一体何事か、と恐れていたのだが、五人に告白された。

 真夜中の学校、教室に呼び出され、憧れ好意を抱いていた者達に愛を囁かれた。

 ―夢、これは夢? 実は温かいふと真ん中?

 と頬をつねったが、現実の痛みがリアルに走る。

 ―僕の、僕の人生が、まさかこんなに明るいモノだったなんて! ビバ・ヒューマンライフ!

 僕はそのまま両手を上げて叫ぼうとするが、えりすの真摯な態度はまだ変わらない。

「聞いた?」

「え?」

「みんなの告白」

「うん! とっても嬉しいよ」

「で?」

「で?」

「誰を選ぶの?」

 はたと僕は動けなくなった。

 五人は身じろぎもせず、視線を逸らしもしない。

 ―だれ?

 考えていなかっただけに、その疑問に不意を突かれた。

 ―だれ?

 五人を何度も見直す。

 ―選ばないといけないのかな? 

 その時気付いた。選べない。

 えりす、天城さん、葛城、雛森先輩、みや、誰の悲嘆も見たくない、みんなの事を近くで見ていたい。

 とても一人に選べない。

 が、それは悪いことだと、何となしに判る。

 ―どうしよう……

 僕は突然、この空間の居心地の悪さに気付いた。

 みんなそれぞれ、とても、とても好きだ。好きだからこそ、選べない。

 幼馴染みのえりすのイチゴ味は忘れられない、天城さんの可憐さもいい、葛城のモデルのような格好良さも最高、雛森先輩の完成されたボディは完璧だ、みやは……その世界もそれはそれでいい。

 選べない。

 僕は汗だくになりながら、その場でフリーズした。

 選べないのだ。

「で、誰にするの?」

 えりすが今一度問い、他の四人は祈るようだ。

 重い、重すぎるプレッシャーが、体にずしりとのし掛かった。それは丁度心肺の上にあり呼吸を妨げる。

 はあはあ、といつの間にか、肺の運動は浅く、苦しいものになっていた。

 はあはあはあはあ。

 目前には、五人、僕に告白した者達が待っている。じっと答えを待っている。

 はあはあ、はあはあ。

「え、え……え、らべ、ない」ついに力尽き、本音が口をつく、

「え?」

「ごめん! みんな大好きだから選べない!」

 ―最悪だ。

 すぐに僕は消沈した。恐らくこれで逆に皆に呆れられ、嫌われるだろう。

 ―でも、誰かを泣かせるよりはマシだな。

「わかりました」

 天城さんは「やっぱり」と感動したように、涙を拭う。

「やっぱり、拓生君は優しい人だった、そうですよね? フられる他の子が可哀相ですもんね?」

「はい?」

「うん、えりすを選びたかったんだろうけど、くーちゃんは他のヤツとの人間関係を大切にしているんだね?」

「おお?」

「仕方ないなあ、父さんと違って女に優しいんだから」

「へへ?」

「私は判っているわよ、後輩君、お姉さんを甘く見ないで」

「あの?」

「やっぱり君は凄い人だ、拓生君」

「あれ?」

 五人がそれぞれ自己完結していく。僕は完全に置きざりだ。

「さて」と一連の賞賛の後、えりすが天井に指を向けた。

「案の定、拓生は選べなかった……でも、みんなは自分が唯一人で独占したい」

 四人は強く首肯する。

「あたしも、他の誰にも拓生に触れて欲しくない、と言うことで決めましょう」

 そう宣言したえりすは、首を捻る僕に構わず朗々と説明を始める。 

「ルールその1、学校敷地内から出たら失格、諦めたら自分から出て行くこと、ルールその2、死んだら負け、各自家で遺書を書いたと思うけど、死んだら外には自殺、ということになるから、ルールその3、最後に残った一人が拓生を手に入れられる、以上」

「何それ?」物騒な単語やら僕自身に対する一方的な取り決めに、耳を澄ました。

 が、僕に全く構わず物事は始まろうとしていた。

「くーちゃん、ちょっと待っててね」

「私、がんばって計算します!」

「負けないから、私」

「僕は君のために戦うよ!」

「ちょっとだけ、いい子にしてて」

 固まる僕に五人はそれぞれ決意を述べる。

 ―これは……?

 白っぽい光の中、一人僕だけが浮いていた。

「さあ、んじゃあ」えりすが片腕を上げると、今までゆったりとしていた教室に硬質な感覚が充満していく。

 その感覚には覚えがある。『刃苦怨』の連中の前に引き出されたときだ。否。その時よりも数倍、数十倍、数千倍、辺りの空気は凍っていた。

 ―これって、殺気?……

「始め!」

 次の瞬間、一年三組の教室から五人が消えた。

 きいきい、と風もないのにしなる蛍光灯の下、僕一人がぽつんと残る。

「あれ?」

 狐に摘まれたような心地で、椅子と机しかない空間を見回した。


 ―みんなどこに行ったんだろう?

 僕は立ちつくしたが、すぐに疑問符は消えた。

 どがん、という凄まじい音が聞こえたのだ。

「な、なに?」

 思わず教室から飛び出し、鈍い音の方向へと走った。

 不安が、何かしらの悪い予感が、腹部にどっしりと溜まっていた。

 が、しかし、その光景は僕の予測やら妄想やらを遙かに飛び越えていた。

 一階の一年一組の教室の壁が半壊していた。

 崩壊したコンクリートから粉塵が吹きだし、辺りは灰色に曇っている。

 がらん、と崩れるコンクリを押しのけ、人間が歩いてきた。

 葛城は背中で壁をぶち破ったようだが、涼しい顔だ。しかし、さすがにYシャツは所々破け、スカートも幾ばくが裂けている。

 剥き出しになった編み目のような鉄骨をバックにした彼女に、僕は言葉を失う。

 空気が裂けるように鳴り、再び葛城が背後に吹っ飛ばされる。今度は壁をぶち破り、彼女は一年一組の中に消えた。

 代わりに、僕の前にみやが着地する。

 何やら尖った金属を手にした彼は、蹴り飛ばした葛城の姿を必死で探していた。

「み……や?」

「ああ、拓生君」

 無邪気な、偶然外で出会ったような笑みだ。

「僕の家に伝わる『虎狼院流暗殺術(ひそかにやっちゃえ!)』だよ、待ってて、すぐにみんな殺すから」

「へ……?」僕の下半身から力が抜けていく。

 殺すって!、と混ぜ返せるような状況ではない。

 壊れた壁、舞い散る粉塵、傷だらけの葛城……どうひいき目に見ても、冗談にはならない。

 が、そのみやが喫驚した。

 霧のような砂の粒子を破って、葛城が突撃してきたのだ。

 その拳を受けて、みやが反対に廊下の端までぶっ飛ばされていった。

 破裂するような勢いで、並ぶ窓ガラスが粉々に割れ、雨のように降り注ぐ。

「東雲」葛城も僕に気付いた。

「私、アイスクリームが好きなんだ」

「はひ」その突然の告白は謎だ。

「美味しいところを知っているから、一緒に行こう……一緒に一つのアイスを食べよう」「えーい!」とみやが絶叫して、彼方からジャンプし拳を振り下ろした。

 尖った鉄が司の頭、人体の急所『聖門』に直撃する。

 葛城は、揺るがない。

「な!」みやが顔を歪める。

『アイアンボディ(いたくないもん)』葛城は呟いてみやが着地する前に、その襟首を掴む。

「くそ! 『虎狼院流暗殺術(ひそかにやっちゃえ!)』」

 捕らえられたみやは、司の喉に武器を突き出す。

 ごつり、と嫌な音が響き。思わず視界を覆うが、葛城は倒れてないようだ。

「残念だけど『アイアンボディ(いたくないもん)』には物理攻撃は利かない」

 話しが大きくなっていない? とは指摘できなかった。

 みやの顔面に葛城の拳がめり込んだ。

 そして宙に舞う彼の体に、立て続けにパンチやらキックが入る。

「うわぁ」みやはぐしゃりと床に落ちた。

 虎狼院みやは、血の気の引いた瞼を閉じて倒れている。

 じっくりと、動かない体から放射状に鮮血が広がっていく。

「みや!」

 慌てて近寄った。起こそうとするが、手がぬるぬるして滑る。

「なんだこれ」僕は自分の掌を一瞥して、凍り付く。

 べっとりと赤い液体に濡れていた。みやの血だ。

「あわわわわ」

 狂乱しかけた。何が起きているかさっぱりだが、一つだけ判った。

 ―僕が選ばなかったからだ。

「東雲」とみやを倒した葛城が、思い出したように付け加えた。

「駅前のプレート・アイスのクーポン、持っているんだ、おまけで四つタワーに出来る、それを二人で……」

 葛城は頬を真っ赤に染めて口ごもる。

 確かに刺激的なシチュエーションだが、彼女は虎狼院みやを仕留めているのだ。

「二人で一つのアイスを……」

 彼女は最後まで説明できなかった。

 額に鉛色の鉄の塊が命中し、上体を仰け反らせたのだ。

 とんでもない威力だ、今まで『刃苦怨』の猛者達に殴られても微震もしなかった葛城を仰け反らせる。

 誰が? と考える必要はなかった。

 かららら、と金属を引きずる嫌な軋みを辿ると、鉄パイプを引きずった佐伯えりすがいた。

「あ! 拓生!」

 えりすは僕から視線を外さず、しかし体は葛城に向け鉄パイプを上段に構える。

「ねえ拓生、あたしさあ、一緒に暮らすんだったらスリッパとかパジャマ、おソロにしたいな、今度お店に見に行こう」

 えりすは駆けだした。葛城に向かって鉄パイプを振り上げて襲いかかる。

 ただ、その間もまるでこの場に二人きりしか居ないように僕に話し続ける。

「アイスは、二つ、味選んでもいいよ、だけど二つは私の食べたいの選びたいな」

 葛城も走り出し、二人は廊下の中程でぶつかり合った。

「スリッパはさあ、猫の顔が着いたヤツが……」

「私は、チョコミントとストロベリーがどうしても……」

「うわわわわ」

 乱闘と言うには生々しすぎる、拳と鉄パイプの応酬が始まった。

 ごおんごおんと鈍い、骨の奥を振るわす音が響く。

 現実と暴力の効果音を遮るために耳を塞いで、僕は逃げ出した。

 着いていけない、滅茶苦茶な世界に居られない。

 みやの死体の側で、殴り合いながらスリッパやアイスクリームの話題に花が咲けない。 うわうわ、と呻きながら二人と離れるために階段を駆け上がった。

 目的無く、闇の真ん中を走る。どこまでもどこまでも暗黒は続いていた。

 どん、と柔らかい何かに包まれるかのようにぶつかり、僕は足を止めた。

「あら? どうしたの? 拓生くん」

「あわわ」と怯える僕に、ふんわりとした柔らかな声がかけられる。

「ぜ、ぜんばい……」

 甘いお菓子のような匂いで気付く、雛森先輩だ。

 次の瞬間、自分が何にぶつかり、何に顔を埋めているか悟って、僕の体が焼けるように熱くなった。

「す、すみません!」と胸から離れようとするが、反対に頭を抱きしめられ、動けなくなる。

「どうしたの? そんなに泣いて」

 雛森先輩は頬を優しく撫でてくれた。

 ―先輩はマトモだ!

「せ、先輩!」

「もう、やよいって呼んで……呼びなさい、先輩命令よ」

「やよい、さん」

「なに?」

「お、おかしいんです、みやが、みやが」

 血まみれのみやの姿が、網膜から消えない。

「そう、でもっそれよりも! あのね、何月何日にする?」

「はい?」

「私三年後まで書き込めるスケジュール帳を買ったんだけど、ほら、拓生くんまだ一五じゃない、結婚するにはまあ三年必要でしょ? 三年後の大安はね」

「せ……ん」

 ごくり、唾を飲み込んだ。また話しが歪みだした。 

「私は教会がいいなって思うんだけど、君はどうかな? 何? そんなにきょとんとして、私にプロポーズしてくれたじゃない……あ、ごめん、アレは妄想か、まあいいわよね、それで、確かに……」

「いけませんよ、拓生君が怖がっています」

 背後から可憐な声がしたが、強く抱かれている僕には確認できない。

「私、必死で計算しました、負けませんよ、無駄なスケジュールは組まないで下さい」

「確かに神前式もいいわよね? 風流で」

 いつの間にか雛森先輩の手には木刀があった。

 彼女がそれを構える間に、僕は雛森先輩の胸から逃れ、振り返る。

 薄暗闇の中、天城さんがノートを片手にしている。

「拓生君」彼女の瞳孔は大きくも小さくもならない、全く変化しない。

「私、お父様に『好きな人が出来たら連れてこい』って言われています、今度の日曜日です、大丈夫です、お父様は厳しい人だけど、拓生君が気に入られる方法は計算しています」

 ずばっと雛森先輩が木刀を振り、天城さんは辛うじてかわした。

「うーん、白無垢も着てみたいのよ、だけどお色直しでいろいろ着るのって、大変だし」 雛森先輩は目にもとまらぬ速さで木刀を振り、『天神命神流剣術(切る、斬る、素KILL)』が天城さんの体に切り傷を付けていく。

「お父様は文学が好きで、拓生君もいくつか読んでおいて下さい、幸田露伴とか川端康成とかです、大丈夫、貸してあげます」

 雛森先輩の剣を瞬間移動しているようによけている天城さんから、ばさばさと何枚かの紙が落ちた。

 びっしりと数式が書かれているそれを見て、僕は悟る。

 ―天城さん、先輩の剣術を計算したんだ。

「友達代表のスピーチは、夏美にしてもらおう」

 が、雛森先輩の横薙ぎにより、ざっくりシャツが切れた。じわっと汚れ一つ無い白が朱に染まっていく。

 空気だ、僕はもういやいや、乱暴に理解した。

『天神命神流剣術(切る、斬る、素KILL)』は空気さえも切断するのだ。

 天城さんがよろめき、大量のノートの切れ端が滑るように舞った。

「子供はすぐに欲しいな……何だったら結婚前に産んで、結婚式で花束を持たせるのもいいわよね」

 次の一撃で、校舎の天井から床までが両断される。

 まともに受ける事だけは回避した天城さんだが、右肩が切り裂かれ、血がスプレーのように噴き出した。

「ちょっ……」

 僕は無惨な光景に両手を振った。

 何とか辞めさせたいが、話も通じないこんな状況をどうしていいのか見当も付かない。「子供の名前は、ねえ」

 しかし、ここで廊下の隅でしゃがむ劣勢の天城さんが体勢を立て直し、素早く手元のノートに血文字を書き加える。

「出来ました『神算星読(計算おわりです)』完了」

 構わず雛森先輩は木刀を振るい、宙に漂う紙が何編にも細かくなっていく。

 しかしその斬撃をくぐり抜け、天城さんは彼女の直前まで接近する。

「きゃっ!」

 雛森先輩の悲鳴が上がった。何があったか僕には全く見えなかったが、彼女の女性らしい体は激しく壁にぶち当たり、そのまま横の階段から転がり落ちていく。

「せ、先輩!」

 僕は段を飛び、踊り場に転がっている雛森先輩に急いだ。

「うっ」と彼女に近づき怯む。

 首が不自然に捻れていた。色を失った唇から真っ赤な液体が溢れ、動かない瞳が床を映している。

「せ、ん」

 僕の腰がびりびりと痺れていた。もしかして漏らしてしまったかもしれない。辛うじて残るパンツの感覚に変わりないから、それだけは回避したのだろう。

「せ……」

「拓生君」と腕が掴まれる。

 天城さんは血まみれながら、天使のように微笑すると、僕の手を引き階段を上る。

 ぼんやりと夢の中を歩くような足取りの僕は、意のままに屋上に連れてこられる。

 いつの間にか嵐になっていた。

 ごうごうと湿った風が吹き荒れ、夜空は混沌と渦巻いている。

「さあ!」と天城さんは僕を屋上の端にまで誘った。

「拓生君」

 彼女は強風の中見上げてくる。

「ぎゅっとして」

 僕の背中に、天城さんの腕が絡まる。

 しばらくして彼女は身を離す。何か満足していない様子だ。

「……拓生君、匂うね……他のメスの汗と体臭と息の匂い」

 と、僕の上着のボタンに指が伸ばされる。

「消臭しないとね、私の匂いをたっぷりつけて」

 幾つかボタンを外し、彼女自身もYシャツのボタンに手を掛ける。

 しかし、天城さんの眉間に稲妻が走ったように皺が刻まれる。

 ばたん、と屋上の扉が開けられ、暗黒の中にぼんやりと葛城が浮いていた。

 ―えりす……は?

 靄が掛かる視界で、僕は誰かに尋ねる。

 葛城は苦悶している様子で、自らの手で己の首を掴んでいる。

 見えない何かに抵抗するように、彼女はほっそりとした首を、血の気の引いた指から引き離そうと試みている。

 自分の腕と力比べをしているように見えた。

 ごりっと嫌な音が鳴り、葛城の首は曲がった。そして一歩進み、頭から屋上のコンクリ床に倒れる。

 喉から血がごぼごぼと流れ出す。

 その背後に、鉄パイプを肩に置くえりすがいた。

「全く、面倒な女」とえりすはまだ金色の己の左目を指し、葛城の背中を踏みにじる。

「攻撃、全然聞かないから、結局使っちゃった」

 ばたばたと衣服をはためかせて、僕の横を抜け天城さんが進み出た。えりすに。

「拓生から離れなさい、あたしのモノよ」

「いいえ! 拓生君はわたしのモノと計算しました」

 二人の対峙は短かった。

 えりすが何かを投げつけ、天城さんがそれを避けた。

「計算どお……」

 が天城さんの顔で何かが弾け、小さな白い粉が風に流れた。

「あんたの計算を計算したわ」

 えりすは可笑しそうに笑う。

「最初に投げた文鎮はフェイク」

 えりすは天城さんが『計算』して避けることを察知し、まず文鎮を投げ、動いたところに本命の何かをぶつけたのだ。

「う」と短く天城さんが声を上げた。

「て、てんじょう……さ」

 彼女の目には瞼が下ろされ、その下から血が滴り落ちている。

「あんたにぶつけたのは、蛍光灯の破片を集めた袋……目に入ると大変!」

 えりすは鉄パイプを持ち直す。

「あんたの能力は目で情報を得て発動する、それがなければ、ただの計算違い女」

 無言の天城さんにえりすは駆けだした。

 闇の中でも鉄パイプは鈍色に光る。

 視界を封じられた天城さんは、ただ無力にその一撃を頭に、受けなかった。

「え!」

 振り下ろされた鉄の棒が激しく灰色の床で火花を散らし、えりすが動揺する。

 天城さんはまるで見えていたかのように、予測していたかのようにそれを寸前でかわしていた。

「残念ですね、私は『暗算』も得意なんです、『神算星読(計算おわりです)』完了」

「く!」

 えりすの左側の目の色が再び金に転じ、彼女の指が屋上の柵の外、荒れた海のような虚空を指した。

「仕方ない、『魔眼(王様、あたし!)』! ここから飛び降りなさい!」

 その時、天城さんの唇に硬質な微笑が刻まれた。

「無駄です、あなたの能力を『催眠術』と計算しました、しかし私はもうかかりません、あなたが眼を潰したんですよ……計算ミスです」

 空気の断層まで計算したのか、天城さんは空中を駆け上ると、上からえりすを蹴った。

 きゃあ! という悲鳴と鉄パイプが転がる耳障りな音が重なり、彼女の体が屋上の鉄柵を越える。

「えっちゃん!」

 はたと僕は気付いて必死に近寄る。えりすは辛うじて腕一本で、屋上の縁に掴まっていた。

「た、たくみ、あた、し」

 えりすが必死に何か伝えようとしている。僕は柵から乗り出してえりすの腕を捕まえようと、指先に力を込めた。

 がん、と鉄パイプが彼女の手に打ち落とされる。

「え?」

 天城さんがえりすの落とした武器を拾っていた。

 それを当たり前のように、佐伯えりすの命を繋ぐ手に突き立てていた。

「拓生君、最初のデートは映画ですよね? 私の大好きな恋愛映画」

 がん。もう一度えりすの傷ついた手に、鈍色の棒が下ろされる。

「そうだ、私、手芸も得意です、何を編みます? マフラーとか、パッチワークも出来ます、拓生君、サイズを教えて下さい」

 がん、がん、がん。

 えりすの白い手は裂け、血が噴き出し、桃色の爪は剥がれた。

「や、やめ」

 僕は天城さんを止めるために、彼女の前に入ろうとした。

 だが、その前にえりすは力尽き「たく……み」と言葉を残して重力に掴まれて落下していく。

 佐伯えりすの体は遙か下の校庭で二度弾み、その一部始終を僕は目撃した。

 小さなえりすの体を中心に、ここからだと黒く見える液体が吹き出していた。

「……勝ったよ、私、勝った」

 一人残った天城さんは、勝利の喜びに身震いした。

「た、拓生君、私、の」

 東雲拓生は、白い、真白な何もない世界で、天城愛希の声を聞いた。

「いただきまーす」

 

 エピローグ


 夏休み真っ直中の八月。まだまだ太陽は強烈だった。

 そんな日なのに、巻野高校は全く意味のない、学生の風紀の緩みに釘を刺す登校日を迎えていた。 

 僕は天城さんと一緒に登校する。

 僕らの交際は五日前の月曜日からだった。 

 僕は『彼女』と付き合うことで、女の子が妄想の世界などでは考えもしなかったほど多彩な面を持っている、と知った。 

 妄想よりも温かく、妄想よりも芳しく、妄想よりもやわらかく、甘いだけかと思えばしょっぱいし、実は……。

 天城さんは傷一つ無い輝く瞳で僕を見つめ、微笑む。

 夏休みに入るまで『彼女』と朝、手を繋いで登校し、放課後、手を繋いで帰宅し、昼には一つの物を二人で食べた。 

 端から見れば完全なバカップルだ。

 だが、それでいい。

 それしか考えられない。

 もう、『彼女』の思いのままだ。

 そして、今日金曜日の朝、登校日、また手を繋いで歩く。

 巻野高校は平和だ。危険で残酷な夜の決闘の噂があるが、昼間は普通の高校である。

「幸せですか?」

 校門付近で天城さんがふと尋ねるから、「うん」と肯定した。

「よかった」 

 彼女は夢見るように、吐息をつく。

 と幸福な僕達に数人の少女が明るく挨拶してきた。

「おはよう、拓生くん」

 包帯だらけの雛森やよいは、変わらずに眩しい。

「一週間、元気だった?」

 腕を吊っている葛城司が、反対側の手を振る。

「もう金曜日だね?」

 虎狼院みやの言葉は意味ありげだった。

「そうしたら次だからね、拓生!」

 佐伯えりすは、べりりと左の眼帯を外す。

 皆、死ななかった。あの日の決闘は凄まじかったが、それぞれぎりぎりで命を拾った。が、そうなるとルール2に抵触する。

「死んだら終わり」……しかし「死んでいない」だから。

「次の開催日は日曜だから」

 えりすはパーティの案内でもしているようだ。

「はい」と天城さんも簡単に受け入れる。

 ―ああそうか。

 拓生は八月の、夏空を見上げた。

 あれからもう何度も、この戦いは行われたのだ。

 しかし皆頑強で強く、決着には至らず、暫定勝利者が一週間だけ『暫定彼女』になる。 みやもいるから『暫定彼氏』の時もあるが、嵐の初戦から数週間、天城さんは今回で二回、えりすは一回、雛森先輩は二回、葛城は一回、みやは一回、『暫定勝利』している。

 その度に相手が代わり、僕は困惑……しなかった。

 あの嵐の日から、心のどこかが鈍い。

 少女達の誰が横にいても、みやが横にいても、僕は変わらずその人物だけが大好きだった。 

 ―次は誰かな?

 夏ど真ん中の空は光と熱に満ちているが、僕には青空さえも白く寒く見えた。

ハーレムってホントは怖いんですよー。

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