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当然といえば当然の結果のハーレムものです。

 プロローグ~勝利者


 冷たい夜風が、一人残った少女の髪と衣服をはためかせていた。

 ばたばたと容赦ない強風になぶられ、彼女の襟元は片一方に引っ張られていた。華奢な体もよたよたと左右に揺れている。

 僕は渦巻く低温の空気の中で、カミソリに撫で回されたかのような戦慄を感じている。

 が、そんな些事には全く構わぬ様子で、彼女は血の気のない陶器のように白い顔に、ゆっくりと表情を浮かべた。

 喜びの、唯一人残った、歓喜の。

「勝った……よ、私……勝ったよ!」

 掠れた声の後、彼女は僕に優しく微笑んだ。  

 無垢に、清廉に、純白に。いかなる汚れとも穢れとも無縁に、花が開くように、輝くように!

 だけど僕は、唇の端からこぼれるねっとりとした鮮血に目を奪われていた。彼女のつむられた目から溢れる赤い涙も懸案だ。

「あああ……あああ」

 僕は恐怖と血への嫌悪で、固い地面に尻餅を着いたまま足をばたつかせた。逃げようと足掻いたのだ。

「どうしたの?」

 血まみれの眼を開いた彼女が、かわいらしく小首を傾げる。

「わ、私が……か、勝ったんだよ……」

 ほうっ、と熱い吐息を漏らして足を一歩、僕に踏み出す。

 すうっと心の中の何かから温度が消える。しかし彼女はそんな僕の様子に気付かず、一歩、また一歩と、壊れた人形のようなぎくしゃくした動きで、近づいてきた。 

 自然と真白い脚が目に入った。幾筋もの血の線が走る腿は、そのコントラスト故に、ぞっとするほど艶めかしかった。  

「た、拓生……」

 少女が僕に手を伸ばした。暗い朱の液体に染まった細い腕だった。

「うああああ」

 それから逃れるように、僕はミミズのようにずるずると下がる。 

「どう、したの?」

 きょとんとした風に少女は問うた。その間、細い顎から一つぶ、滴が地面に落ちる。

 暗い光を反射する、赤い赤い液体。 

 でも、実は大した問題ではない。

 今更、それが一滴増えたところで何の事もないのだ。  

 少女の足元には、血だまり、と言う表現ではささやかすぎる程、赤黒い液体が溜まっているからだ。

 血の海の中、彼女がまた一歩進む。亡者のようにゆらゆらとゆらゆらと。  

 頭も衣服も……足の靴先まで、粘度のあるてらてらとした血に濡れたまま。

 呆然と愕然と泣きそうな顔で、僕は見上げた。

 闇の中佇む少女を、その笑顔を。

「たくみ……」

 僕の中で何かがぱちんと弾け、粉々に砕け散っていった。


『計算おわりです』

 五月の空は美しかった。

 青い水彩絵の具を多量の水で溶いたような淡い色の空がどこまでも広がり、薄い雲は光を孕んで、空気には何やらいい香が混ざっていた。  

 強くもなく弱くもない爽やかな風の中、僕、東雲拓生しののめ たくみは深呼吸をして、香の元がゼラニウムという花だ、と思い出す。

 少し冷たい朝の酸素は肺の隅々にまで浸透し、頭の隅にあった重たい眠気が消えていく。

「よしっ」と無意味に呟いて、通学用の鞄を持ち直して歩を早めた。

 低血圧、を言い訳どころか、低血圧だから! と自慢にしているほど、僕は朝が苦手だ。学校のために早起きするよりも、ぬくいぬくいベッドの中で桃色の夢を見ていたい。だが、そんな怠惰な僕を少しの間でもやる気にさせる程、その日の朝はすっきりと輝いていた。

 ふんふんふん、と流行りの曲を鼻歌に直しながら、一ヶ月の経過により見慣れた通学路を歩く。    

 私立巻野高校は、幸運に、と言うべきか軟弱な僕の足でも二〇分程の、ほどよく寝坊できる距離にあった。

 もちろん、それらを考慮して受験したのだが、良く滑り込めた物だ。中学三年時、志望校として挙げたら、当時の担任がにまっと苦笑したのを覚えている。

 超やる気が出た。

 確かに僕の成績では少々きつい場所にあったのだが、故に合格の快挙にまだ心はハイテンションだ。もし法治国家じゃなかったら、全裸で何かやらかしただろう。超やらかした。

 言うまでもなく、僕は晩春の陽気にふらふら浮かれ気味だったのだが、どこからか早朝には似つかわしくない爆音が聞こえ、はっとした。

 意識を向けると、バリバリ、と新鮮な空気を汚染するような、酷く不快で、胸の底から不安をかき立てられる爆発音が、圧迫するように近づいてくる。

 立ち止まってしまう。

 まだ目の前の信号は青だったが、そうしなければならないような気がする。

 程なくして、爆音は耳に痛感として感じられるほど大きくなる。正体は想像通りだ。

 歩道側の信号はまだ青、ならば車道側のそれは赤、『停止』だろう。

 しかしそんな『オトナが決めたルール』とやらを踏みにじる勢いで、何台ものバイクが通り過ぎていく。

 乗っているのは誰も彼も髪を染めた、一目で剣呑と分かる野獣系の少年達だ。

「うわ、『刃苦怨』(バクオン)だ……」

 違う学校の制服を着た少年が、僕の背後で息を飲んだ。同様に、周りにいるサラリーマンや学生、自転車を押している警察官さえ身を潜めている。

『刃苦怨』は、今時珍しい古式ゆかしい暴走族ではない。『犯罪組織』を自称するイタい連中だ。だが、だからこそタチが悪い。

 実際、彼等は『犯罪組織』だ。

 暴力事件は当然で、中には命に関わった被害者もいる。そして怪しげな薬物を売り、酒場の用心棒であり、金が欲しければ奪い、気にくわない人の家に火までつける。

 彼等と対峙して幸福になった者は皆無だが、勝利を収めた者もいない。

 やりたい放題の少年達は、それ故、少年故、未成年故に法が悪行に釣り合わないからだ。『刃苦怨』に説教をした為に、家と財産を奪われた被害者のニュースを思い出す。 

 その人物の家に火をつけ、家財道具一式を焼失させ、六歳の子供に大火傷を負わせた『刃苦怨』メンバーは、『保護観察』という重い刑の下、今も街を闊歩しているそうだ。 

 今や警察も困惑するだけとなった野放図の連中が、当たり前に信号無視をしていく。内心、転んで頭超打て、とか念じていることに気付いたのか、ノーヘル金髪男の鋭い目がついと僕を向く。

 全力で目を伏せた。 

 この連中に関わったら、シャレにならない。

 正直Bダッシュで逃亡を図りたいが、弱者の無用な行動が強者の関心を引く、と動物番組の肉食獣スペシャルで、僕は学んでいるのだ。

 そうして子鹿のように呼吸を止めていると、すぐにバイク集団は通り過ぎていった。

 一時全てが静寂に塗り固められたことが嘘のように、先程までの季節に相応しい朝がカムバックした。

 僕は重いため息をつく。

 気分は台無しだった。爽やかな風も、花の香りも、雲の少ない好天もどうでもいい。

 生活している街に暴力集団がいる、という事実は薄ら寒い、嫌な現実だ。

 寝室に蚊やゴキが紛れ込んでいる以上に、寝苦しいものだ。

 心には不安定な黒雲が湧き、目にする物が何もかも灰色に思える。 

「あら?」

 そんな僕の背に、驚いたような声が跳ねた。

「……東雲、君……? どうしたの?」

 僕は振り向いて、その一瞬で不快な諸々を全てが霧消するのを感じた。

 て言うか、何かあったっけ?

 僕の目に飛び込んだのは、クラスメイトの少女だ。 

 否、僕の視界はすぐにサーチモードとなり、少女の胸部へと落ちるよう鍛えている。

 巨乳、とまではいかないが決して慎ましくはない胸がある。しかもここで終着点ではなく、さらに発展の可能性が見て取れ、形も張りも良い。

嗅覚に意識を転ずると、甘い桃を思わせる甘い香りが、少女から漂ってきた。

 うん、と僕は全ての女子生徒を網羅した脳内リストから、一人選んだ。

「やあ、天城さん、おはよう」 

 笑顔で挨拶すると、天城愛希てんじょう いつきは笑顔を引っ込めて半歩後退した。

「……今、ものすごく不本意な方法で私を識別しなかった?」

「違うよ!」

 僕の本心だ。

 天城さんの取り柄は勿論胸ではない。むしろ、どちらかというと大半の者はそこまで行く前に、高鳴る鼓動を止められず緊張してしまう。  

 風にさらさらと煌めく亜麻色の長い髪、桃色の艶やかな唇、高すぎず低すぎない絶妙なバランスにあるほっそりとした鼻。天城さんはそこらのテレビアイドルが田舎臭く見えてしまうほどの、とびっきりの美少女だ。

 更に外見と比例して性格も良く、僕のように何の取り柄もない男子生徒にも、平等に礼儀正しく接してくれる。

 同じクラスになった、という幸運は宝くじ一等前後賞込み並の幸運だ。人生変わったもん。

「……そう? でも、どうしてこんな所に一人で立っているの?」

 怪訝そうに小首を傾げる様も絵になる。芸術だ。しかも爆発を信条としないたおやかなアートだ。

「いや」と僕は照れ隠しに一つ咳払いをして、横断歩道を指した。

「この多彩な美しい世界に思わず見とれていたんだ」

 そう、この光に満ちた暖かい世界はどうしようもなく活力を与えてくれる。悩みなど皆無だ。何もない、天国だ。

 だとすれば僕と天城さんはアダムとイブである。

 他に人のいない森の中で、葉っぱで『ある部分』を隠す二人。

 もちろん、天城さんは大部分見えるから恥ずかしがって、茂みから出てこない。茂みで茂みを隠す仕組みだ。

 バカだなあ、二人しかいないのに、それに僕らは未来のために子孫を残さなくては行けないんだ。

 ―天城さーん、出ておいで。

「……どうしたの? 東雲君?」

 はっとすると、天城さんは引きつった笑顔でこちらを伺っている。辺りは森ではなく楽園でもなく、通学路の途中にある車道の前だ。

「う、うん、もちろん」

「そ、そう、じゃ、じゃあ私、行きます……学校でね」彼女はぎこちなく会釈して、横をすり抜けていった。

 呆然と小さな背中を見送ってしまった。同じ目的地なのだから一緒に行けばいいのだが、その時には考えが及ばなかった。 

 ややあって、失敗に気付いたのだが、気球で空の彼方に消えてもイイと考えるほど上機嫌だったから「ま、いいか」で済ませた。

 今日は朝から実に運が良い。この出会いはきっと運命の女神の複雑かつ繊細な糸たぐりによって演出されたものだろう。

 僕はスキップでもしたい衝動に駆られ、足を上げかけたが、そんな背中にばしりと何かが当たった。

 いきなり叩かれた。鋭い指先が突き刺さった。打突という殺人的な技である。

「な!」

 僕が痛みに振り向くと、天城さんより一回りは小さい胸が間近にあると気付く。

「そうやって……」

 柑橘類の爽快な匂いに誘われると、猫を思わせる大きな目が睨んでいる。

「胸の大きさで女の子を判別するクセ、あたしは別に気にしないよ、あんたの勝手だからね」 

 僕が思わず仰け反ると、佐伯さえきえりすが嗤った。

「大体、あたしはあんたに小五までハダカを見られていたからね、そんなに悩まないな、何てったって、胸はちょっと大きさが変わったくらいだから、その他の部分に触れたら殺すけど」

 えりすは軽く鞄を持つ手をスイングさせ、凶器に変わったそれの角で僕の膝を殴った。

 痛い、超痛い。

 鞄の革は僕にとって厚すぎる、ヘンなクセにはならないのだ。

「何するんだ!」

 思わず声に出して僕は抗議したが、ちらりとえりすの瞳が持ち上がると、言葉を失ってしまう。

「文句? 言ってみれば? その後どうなるか、わからないケド」

 喉が言葉と空気に詰まった。

 えりすとの付き合いは一五年、その恐ろしさは骨身に染みている。 

「ふん」と軽蔑したようにえりすが目を細めるから、僕の心はポッキーのように容易く折れる。

 彼女は幼馴染みだ。同じ幼稚園のねこねこ組になってから、縁がずっと続いている。 

 幼稚園、小学校、中学校、高校……本当は途切れて欲しい宿縁である。

「うん? 何?」

 勘の鋭い彼女は、下からのぞき込むように威圧してくる。

 父親が欧州人のえりすの瞳は、淡い緑色だ。そしてショートにした髪は仄かに赤く、くせっ毛で所々跳ねている。

 目は大きく、鼻も少し高めで、唇は艶のある紅色。

 誰もが一目見たら、彼女を可愛らしいと思ってしまうだろう。間違えて。

 ぐりっとえりすの靴、学校指定の革靴が僕の靴を踏んだ。 

 彼女の性格は最悪だ。暗黒で真っ暗だ。肌の色は白人の血のお陰で陶器のように白いが、心はブラックそのものだった。クリープのないコーヒーなんて。

 僕もここまで成長するのに、どれだけ傷つけられたかわからない。

 昔はいつも一緒で、誰よりも仲が良かったのに。

 そうだ、昔二人は結婚の約束までしていたのだ。子供の頃のたわいもない誓いだ。だがある時、それは一瞬にしてブチ壊れた。

「それにしても」えりすはくすくすと嗤う。

「あんた、『刃苦怨』にびびってたね? 笑えるなあ、固まって知らんぷり」

 な! いつから彼女はいたんだ? 特有の甘酸っぱい柑橘類の匂いに気付かなかった。僕がインストールした女の子センサーをかいくぐるとは、なかなかのステルス能力だ。スパイにでもなるために留学しろ。

「天城に話しかけられてオドオドしていた、どうせまたイヤらしいコト考えていたんでしょ? 天城とどこどこに行きたいって」

 えりすは体の向きを変え、横目で睨め付ける。

「昔、あたしとお城に行きたい、とか言ってたクセに」

「うう」と呻いてしまった。妄想を看破されただけではなく、封印していた過去を簡単に暴露されているのだ。封印は簡単に解いてはならない、邪神とか人の過去には触れてはイケナイ。

「確か……あんたが王子様で、あたしがお姫様、悪い奴からあたしを助けて、お城に連れて行って……いただきマース、でしょ? くだらない」

 全く記憶力のいい女だ。確かに僕はそんなイタい夢を小学生の頃、彼女に語ったよ。

「天城に言ったら? あたしと小五までお風呂入っていました、って、嫌われるかな? あたしの体をじろじろ見ていましたって」

 えりすはピンク色の舌をちらりと揺らす。

 反論は出来ない、事実だからだ。

 僕は小学五年生まで佐伯えりすの家で、共に風呂に入る事を日課にしていた。性差が判らない頃……と言う言い訳も立つが、実は再後半、邪でもあった。

 えりすが徐々に変わって行くのに、実は気付いていた。成長していくのに。しかし知らんぷりをして毎日鑑賞していた。

 いやー、なかなかの見応えだった。えりす超すげー。

 あるいは今の彼女との仲の険悪さは、いつかえりすがそれに気付いたからなのかもしれない。

「ホント、男として小さいよね? このクズ、あんたなんて誰も見ていないわよ、これからもね、だから何しても無駄」

 棘を隠さぬ言葉が、ぶすぶすと刺さってくる。

「何の取り柄もないクセに、女の子が寄ってくるなんて、あり得ないから」

 容赦なくえりすが嘲るから、日本政府のような穏和の僕も、咄嗟に言い返そうとした。しかし、つい違う方向に向いていた意識のまま、単語を口走ってしまう。

「いちご味!」

 僕は失言に、はっとしてしまう。

「うん?」とえりすは最初は意味が分からなかったようだが、すぐに漂う匂いに気付いた、と察した。

 ばっと両手で自分の唇を多い、睫の濃い目をつり上げる。

「ふ……こ、このど変態! 何嗅いでいるのよ! ゲスバカ拓生!」 

 不本意な言われようだ。ただ彼女が話すたびにイチゴが甘く香るから、えりすの使っている歯磨き粉の味が分かっただけなのに。一所懸命嗅いだけど。

 一時の恥じらいから復帰したえりすは、かっと頬を染めて唇を震わせ、片手で僕のネクタイをひっ掴む。

「ぐえっ」と喉が鳴るが、構わず彼女は力を込めるてきた。もう泣きそうだ。

「く、苦しい……」

「当たり前でしょ? 苦しめているのよ」

 ぐいぐいとネクタイを引っ張っぱられ前後に振り回され、車酔いのように気持ちが悪くなっていく。

 ああ……と僕は慨嘆する。拷問をするえりすはとても楽しそうだ。昔は兄妹みたいに仲良しで『えっちゃん』『くーちゃん』と呼び合っていたのに。幼馴染みが毎朝迎えに来て、朝故に言うことの聞かない男子の一部分について赤面する、なんていうのはやはりゲームの中だけのことなのだ。

 現実の女の子はこんなに酷いんだよ。泣きたいよ。泣かせて、と場末のバーに寄りたいよ。マスターはきっと温かく迎えてくれる。 

「ううう……頼むから離してくれよ」

「情けない」ハードボイルドのマスターじゃないえりすの言葉はきつい、恥も外聞もなく頭を垂れたのだとしても、言い方がある。

 だが、彼女には逆らえない。幼馴染みだからとか、外見は超がつくほどかわいいから、ではない。

 佐伯えりすに……酷い目に遭わされた。遭わされ続けた。

 とても傷つき、とても悲しかった。

 男としての意地として涙は見せなかったが、彼女に対して大きなトラウマがある。

 もうえりすが嫌い、になりかけている。気付いているのか、より彼女は襟首を締め上げてきた。

「ほらほら、早く歩きなさい、あたしを遅刻させる気?」

 彼女のはしゃぎ声に、力無く目をつぶるしかない。

 えりすを嫌いになりそうだ。可愛い女の子を嫌うのは辛い。しかし、彼女はずっと前から僕のことが嫌いなのだろう。

 嫌がらせも度を超している。

「ふふ、んじゃあ学校行きましょう、あたしが連れて行ってあげる」

 機嫌良く笑うと、ネクタイを引っ張ったまま歩き出した。

 振り払うことも出来ず、僕は腰を屈めたままその背を追った。

 惨めこの上ない、散歩途中の犬のようだ。

 通行人達の視線は羞恥心を刺激し、同じ学校の生徒達のささやきが心に新しいひっかき傷を作っていく。違うんです皆さん、これは強制です、そう言ったプレイではありません。いいえ、プレイも好きです。

 僕は背を大きく丸めながら、ネクタイを片手にしているえりすの背を睨んだ。

 今日こそ言ってやろう! そう、ちゃんとした人間関係の形成のために、この暴虐極まりない女に、言わねばならないことが……あ! 

 えりすの背中に、くっきりとブラの線が浮いている。

 こいつめ……こんな嬉し恥ずかし可愛いブラジャーを……何て嬉し恥ずかしい奴なんだ、あのゴボウえりすが……。

 感慨深い。昔の彼女はつるぺたでがりがりで、兄の気分で僕はとっても心配していた。そう考えると大分成長している。今もむしろ痩せているのだが、ところどころに女性特有の肉が付き、柔らかな丸さが肩やら腰やらに見て取れた。闊達で活発な動きも、男子生徒と違って妙にしなやかで艶っぽい。 

 ああ、腹の奥からわき出る炎のごとき怒りが消えていく……これが乙女の力か、くそっ、スゲーぜ!

 しげしげとえりすの背を観察していると、ほんわか暖かいオレンジの匂いが鼻孔をくすぐった。

 えりすのクセに、いい匂い……いかん、えりすごときに……すーはーすーはー。

 迷夢に迷う僕が我に返ると、もう学校にたどり着く直前だった。

 私立巻野高校は街中にある普通の学校だ。三階建てのコンクリート校舎を平行に並べ、その間に渡り廊下がある、外観においてさしたる工夫のない、まさに『学校』といった趣だ。偏差値も五〇から七五と幅広く、部活動においても何ら目立った成果のない、よく言えば大らかな、悪く言えばありきたりな、どこにでもある高校である。

 そんな学校に入るのに、僕は全身全霊をかけた。つまり、もともとの成績は……。 

 暗澹たる僕はネクタイを引っ張るえりすに従って、鎖に繋がれた奴隷のように鉄の校門から敷地内へと入る。

「あ! 何をしているんだい!」

 途端に声が上がる。僕は頭が動かせないので確認できないが、誰かが近づく気配がした。

「何よ?」えりすは一転ひどく不快そうだ。

「佐伯さん! 拓生君を苛めるな!」

 突然糸が切れた凧のように自由になる、何者かがネクタイからえりすの手を払ってくれたらしい。

 視線を転ずると、ぺたっとした薄い胸があった。男だ、がっかりだ。

「うるさいわね、この男女、女男?」

 えりすの嘲罵など何ともない風に、その人物はえりすと僕の間に割って入る。

 虎狼院ころういんみやは背が低い。

 僕とは頭半分以上違い、そんなに身長のないえりすよりもさらに低い。

「君はいつになったらその酷い性格を改めるんだ?」

 みやは綺麗に弧を書く眉を曇らせ、えりすを責める。

「関係ないでしょ? あんた何か消えなさいよ!」

 不愉快そうに眉根を寄せるえりすに、みやは珊瑚色の唇を結んだ。

「関係なくないよ! 拓生君は僕の友達だから!」

「うううう……みやー」言い切ってくれたみやに感動した僕は、その小さな背中に隠れて、おどおどとえりすを伺った。 

「もう大丈夫だよ、拓生君は僕が守るよ」

 みやは西洋の少女人形のようにふっくらした頬に微笑を浮かべ、大きく頷いてくれる。

「た、拓生! このゴミ虫!」 

 激発したえりすが再び僕のネクタイを掴もうと手を伸ばすが、ぴしゃりとみやの爪先は弾く。

「佐伯さん、拓生君に対する暴言と暴力はこの僕が許さないよ」

「なによ、この……」

 えりすは険のある目でしばしみやを睨んでいたが、周りの視線が集中していると気付くと、「ふん」と足早に学校に消えていった。

「ふう」と虎狼院みやは額の汗を拭い、僕は「みやー」と解放された喜びに、後ろから抱きついた。ぺったりな胸もなでなで触ったけど、男同士なら犯罪ではないよね?

「あの暴力女は行ったよ、拓生君は優しすぎるんだよ、あいつなんか突き放せばいいのに」

 みやはしかし知らない。えりすの真の恐ろしさを知らないから、こんな事が出来るのだ。「助かったよ、みや、ありがとう、ホント、ありがたい」

 僕は一歩離れて、眩しいみやを見つめた。

 額で一直線に切り揃えられた髪が、風でふわりと浮く。決して不健康なイメージではない真っ白の肌のみやに、その漆黒の髪はよく栄えた。

 みやは、やや厚めのぷっくりとした唇をほころばせて照れた。

「そんな……いいんだよ、僕らは友達だろ?」

 可憐な少女、容姿だけならば虎狼院みやはそうだ。

 だが、だが、だが、だが、だが、僕はかつて生涯で一度、天を激しく憎み、血の涙を流してゴッド・ハン○に転生しかけた。

 可愛くて、可憐で、優しくて、頭も良い、いつも味方の虎狼院みやは……男だ。

 どんなに外見がコケティッシュで、癒し系で、美少女のようでいても、みやの性別はまごうことなく男なのだ。

 そこら辺、一度体育の着替えの時にとっくり確認させてもらった。 

 間違いなく、家の都合で男として育てられた女の子、ではなく、付いているヤローだ。

 だが致命的な欠陥はあるものの、彼はクラスメイトであり、高校で出来たたった一人の得難い友人であるのは変わらない。

 だから少々のミス、先天的な命題を脇に退ける、人間誰だって欠点はあるさ。

「さあ、遅刻するよ」とみやは少女のようにちんみりとした手を、玄関に向けて促した。

「うん……ところでみや、数学の課題なんだけど」

 こくん、彼は小さく頷いた。

「わかった、またやっていないんだね? 写させてあげる!」

 て、こいつなんで男なんだよ! 天のバカ! バカ! 空気読め! ……そうだ、今度モロッコを提案してみよう。

 僕はまだ天のヤローを許してやるつもりはない。今夜も呪いの言葉を呟きながら寝てやる。

 つーか、表に出ろゴッドども。こんにちは無神論者のダーウィンさん。

 

 僕とみや、ついでにえりすのクラスである一年三組に入ると、早速、みやから課題のノートを借りた。 

 背後からえりすの熾烈な視線を感じるが、なるべく考えないことにする。何よりも今は実務が先なのだ。

 しかし、僕の手はシャープペンシルを掴むのさえままならなかった。

 辺りの喧噪の中に、無視できない単語が飛び交っていて、耳で拾ってしまったのだ。

「今朝、『刃苦怨』の連中を見たよ、あいつらホントっ最低」

「三年の斉藤先輩が『刃苦怨』にかなりの金を巻き上げられたって……ほら、こないだお父さんが亡くなって、その保険金を盗られたって……アイツら人間かよ」

「今度バスケ部が試合する西校の間中さんも襲われたって、大学スカウトが来るはずだったのに」

「マツビシ……、あのスーパーの、あそこの酒類が置いてある倉庫が破られたってさ、多分、『刃苦怨』……警察って何してんだ?」

 クラスメイトの大半は犯罪集団への悪態だが、その中に違う名前が紛れていた。

「二年の雛森先輩、尾澤先輩と付き合っているんだって」という、心胆を寒からしめる会話だ。

 全力で耳を澄ますと、気付かぬ女子生徒達が残念そうに続ける。

「あーあ! 尾澤先輩……憧れていたのに……」

「でもさ、雛森先輩ならって思わない? すごい美形カップル」

 確かに、と悲しいけど認めなければならない。 

 雛森ひなもりやよい……一つ先輩で、巻野学校のアイドルである。顔立ちは勿論、そのボディは炸裂、という単語に相応しい。

 特に胸の辺りはもう……ホントに何てこった、オーマイガ! 他の小娘どもなど敵ではない。

「昔、大きすぎて男の子にからかわれたの……だから私はイヤなんだけど」

 と恥ずかしそうに両腕で胸部を隠す仕草は、恐らく核爆弾並の破壊力だろう。実際、目にし耳にした僕の下半身は炸裂しかけた。某超大国に知られたらヤバイ、大量破壊兵器はここにあります!

「うっ」その時を思い出し鼻を押さえてしまう、少し前屈みにもなってしまう。

 ぺちん、そんな僕の頬に突然、何かが当たった。

「いたっ」と顔を巡らすと、小さい四角いものがもぽろりと落ちる。

「消しゴム?」確かにそれは消しゴム、文房具屋で売っている粉が付いた高性能なものの、縮小版だ。

 ぺちん、と今度は額に跳ねる。

「うわ」と僕は地味な痛みに怯む。

 振り返ると発射元は二つ離れた席のえりすからだ。口元にわざとらしい笑みを湛えている。

 彼女は片手に持つカッターをちゃかちゃか動かして何か作業すると、拳を大きく振る。

 ぺちん、と唇にまた感触がある。

 はあ……俯いて正面に向き直った。

 まだえりすは消しゴムをカッターで切り刻んで投げつけてくる。後頭部に幾つも当たるが、関わらない方が良い。

 尾澤先輩か……そっちも有名人だった。二年生ながらバスケ部のエースで、今時の清潔そうなイケメンだ。学年に問わず、女子生徒から熱い視線を送られている、嫌な奴だ。 

 女子生徒の舌の先にも上らぬステルス技術の粋を集めた僕とは、天地の開きがあった。

 その二人が連れ立っている姿は、悔しいがとても絵になるだろう。 

「はぁーあ」とシャープペンシルを机に転がした。数学の課題をするには胸が痛すぎる。「雛森先輩の胸って、どんなだろうな? 尾澤先輩、見たのかな? いいなあ、僕も見たい、触りたい、柔らかいのかな?どんな味かな?」

「……ちょっとアンタ……ええと、東雲? 独り言はもっと聞こえないようにしなよ、聞くに耐えないんだケド」 

 あっと気付くと、今までうわさ話に花を咲かせていた近場の女子生徒達の、ムシケラを見下すような冷たい視線があった。

 そんな軽蔑の視線を前にして、僕の心臓は痛いほど跳ねた。

 なんだか興奮する。

 微妙にずれた自分の性癖に気付いた瞬間だった。


 ノートを新調したときを思ってほしい。

 真新しいページを捲り、文字も筆記跡もない一ページ目、最初の一枚は細心の注意を払い丁寧な字を心がけ、色とりどりのペンを使用して、レイアウトなんかも気にしてしまうだろ?

 だが、その新鮮な気持ちと意欲は次のページには続かず、結局、ノートを新調したときのやる気など思い出せなくなる。次のノートを買うまで。

 一年三組に漂う雰囲気は、まさにそれだ。

 最初の数日は瞳を輝かせて本気で受業を受けていた生徒達も、三〇日も経つと三派に別れる。

 当初の志のまま、一所懸命に教師と黒板を見比べる、デキる奴。

 すっかり慣れて油断して、内心別な場所に気が行っているのに、表面だけは勉強している『フリ』をしている大多数の、デキない奴。

 もはや勉強どころか、内申点さえもどうでもいいや、という、熟睡者。

 佐伯えりすは、そのカテゴリーだと『熟睡者』だ。

 消しゴム弾が途切れたと気付き、そうっと伺って見ると教科書を立てて机に突っ伏していた。

『デキない大多数』の僕は複雑な心境になる。

 えりすは勉強などに全く興味を示さないタイプの人間だ。しかし、どういう仕組みなのか、テストとなると必ず僕の上にランクインしている。

 謎の毒電波受信能力でもあるのか、僕の残念さを知っている彼女は、いつもテストの用紙をわざとらしくひらひらと見せびらかしてくる。

 何で世の中はこんなに不条理極まりないんだ?

 数学担当の葉山先生の声を聞いているフリ、をしている僕は、携帯電話のゲームアプリに興じつつ考えてしまう。

 ちなみに、天城さんは学年でトップ争いに入る秀才だし、みやは根が生真面目なので、いつも真剣に受業を受けている『デキる奴』だ。 

 それも謎である。世界は謎に満ちている。なぞなぞ、ではなく、なぞなぞなぞなぞなぞなぞ……だ。

 同じ受業を受けているのに、彼等との間に差が生まれるのがナゾである。

 考えていたら、夢中でやっている携帯ゲームで、悪のドラゴンを撃ちもらしてしまった。

 何てらしくないミスだろう。携帯アプリ界では、世界に冠たるシューターなのに。

 失態に目が覚め、本気でアプリゲームに取り組むために僕は背骨を伸ばした。大事に育てたキャラを失うわけにはいかない。この弓使いは僕の分身だ。もう一つの命なのだ。

「さて、この問題を……そうね、天城さん、黒板でやって下さい」

 ドラゴンにマイキャラがガッツガッツ食い殺されているようだが、もうどうでもいい。どこでなりとも朽ち果てろ、クソ弓使い。

「はい!」と快活に答えた天城さんは、まるで花道を歩くヒロインのように黒板前まで進み、迷いも躊躇もなくちょこりとチョークを取った。

 円筒形のチョークとは思えない整った字が一つ一つ産まれていく。

 天城さんはこんこんと規則正しい、実に耳に心地よい音を立てる。

 それほど身長のない彼女は、後ろの席の生徒にも見えるように精一杯背伸びして、数学の公式を書き込んでいく。 

 僕には答えどころか問題文の意味も分からない設問だが、教師に指名された天城さんは、考え込むこともなく膨大な式を黒板一杯に記していた。

 その後ろ姿は可憐である。

 痩せすぎていない体はなだらかな丸みを帯びていて、しかもくびれるべき所はしっかりくびれており、背後からでも彼女が心身共に健康だと一目で分かる。

 大きな黒板の関係で、彼女が左右に移動し、上に伸び、下に屈むたびに瀟洒な背中の中程まである長い髪が揺れ、僕の心もぐらぐらした。

 ―女の子っていいなあ……。

 頬に鋭い痛みが走り、重い金属の音が机の上で鳴った。

「いた!」と思わず顔に手をやり音の方向を見ると、机の上に銀色のコンパスが落ちてあり、ぎらぎらと反射している。

「うわあ」掌を確認すると、赤い色の滴に濡れている。   

 泡を食って振り向くと、えりすがいつの間にか夢の国から帰還していて、猫のような目を悪意でぎらつかせている。

 シャレにならない! 僕は声にならない叫びを上げた。

 佐伯えりすはいつもこうなのだ。

 中学時代も小学校時代もシャレどころか事件に近いことを平気でやる、平気で僕を苦しめる。冗談とか洒落とか慈悲とか寛容とかという言葉とは無縁だ。思いやりもない……どうやらその代わりに、重いコンパスを持ち歩いているようだ。

 天城さん鑑賞の甘い感覚は消え、背後で立ち上る黒いオーラから身を隠すように肩をすぼめた。

 どうしてか黒板を見ると制裁を受けるようなので、体を横に向ける。空っぽの机が視界に入るから気が滅入る。

 その空席は葛城司かつらぎ つかさのものなのだ。

 ―葛城……。

 世界が陰った。彼女の姿がない。

 それは僕にとって不安で、心配なことなのだ。

 葛城司とは頻繁に会話するほどの仲ではない。中学時代ずっと同じクラスだったが、三年間トータルで声をかけたのは数度だろう。

 だから彼女は僕のことなど何とも思っていないはずだし、同じ高校、クラスメイトになったことも気付いていないかも知れない。

 だけど僕の心は、彼女がここ数日欠席しているのに騒いでいた。

 葛城の大人っぽい姿を、空虚な席に描いてみる。 

 悪い噂を聞いていた。聞きたくない彼女の悪口だ。  

 それを耳朶にすると、吹聴している連中を男なら殴り倒し蹴りを入れ、女ならスカートを捲りかんちょーしたくなる。いや、女子へのは趣味と合致しているからではない。

 葛城の名誉を守るためだ。ためなのだ。 

 ただ、僕はこの思いが、好意とか恋とかそういうショコラ甘いものではない、と判っている。恋愛対象にするには、葛城はカッコ良すぎるからだ。 

「葛城、どうしたのかなあ?」

 とつい漏らしてしまうのは、彼女への恩義故なのだ。 

 悩んでいると、前触れもなくクラスがわっと沸いた。気付くと黒板の前で、天城さんが顔を赤らめている。

「良くできました! 完璧です」

 葉山先生は、化粧気のない顔に笑顔を湛えてクラス中を見回す。

「天城さんはよく勉強をしているようです、皆さんも彼女を見習って下さい」

 三十代後半の独身女性である葉山先生こそ、天城さんに『かわいらしさ』を見習うべきだ、と余計なことを思うのだが口には出さない。顔面いっぱいにそばかすが広がっている葉山先生が、実は陰湿でヒステリックだと知っているからだ。残念ながら僕のような性癖の持ち主も相手は選ぶ。そんな僕の横を、天城さんが頬に手をやりながら足早に通り過ぎていった。

 ふわ、と何か白いものが、目の端に触れた気がした。

「うん?」

 見直すと、丁度一枚の紙がはらりとゴム床に滑る。

 振り返るが、紙片を落とした事に気付かぬ天城さんは、友人達の賞賛に照れながら着席するところだった。

 ―紙?

 頭の中がスパークする。

 ―まさかラブレター? 天城さんは誰かにラブなレターを書いたのか? いかん! デスなノートにそいつの名前を千回綴らなくては! 死に方はこの世で最も残酷な……うひひひひ。

 僕はこっそり椅子から離れて彼女が落とした、四つ折りにされたルーズリーフノートを拾う。

「うわ」と思わず呟いてしまったのは、それにびっしりと何かが書き込まれていたからだ。

 ちかちかする目をすぼめると、数式の連なりで、ラブ的要素皆無のつまらない物だった。

 どんな難しい問題を解いたのか、ノートの端から端まで数字と記号が溢れている。

 ふう、と肩をすくめて、元通りに折り直し、開けた痕跡を消した。

 まあいいか……こんな式、必要か判らないけど、後で返そう、と僕は呑気だった。ノートの欠片などに意味があると思えなかったのだ。

 数学の授業が終わると、すぐに天城さんの席へと向かった。落とし物の返却のためだ。

 が、簡単に叶わなかった。

 人気者の彼女の周りにはイケテル系女子の友達や、内心天城さんを狙っているのだろう、羊の皮をかぶった狼どもと言い換えられる男子生徒達もいるので、人見知りのきらいがある僕には、声が掛けづらい。

 意を決して足を踏み出したが、天城さんと何か打ち合わせしている爽やか系スポーツマンのクラスメイトに不審な目で見られた。

 ―そっか、交流会の……。 

 数日前に短距離のタイムを聞かれたことを、ふと思い出した。 

 近日、新入生交流会と銘打たれた体育大会が催されるのだ。そして天城さんは優れた情報処理能力を買われて、実行委員に選ばれていている。

 男子側の委員であるイケメンのカリントウのような色のクソスポーツマンと、席の割り振りやら競技に参加するメンバーの選出に、休み時間も忙しくシャープペンシルを走らせている理由だ。

 うう、と機会を失った僕は、しばしその場に固まった。

 天城さんの近くにいる女子生徒達が突っ立つ僕に気付き、胡乱そうに見上げてくる。

「何か用? 邪魔なんだけど」という彼女達の冷たい、背筋をぞくぞくさせる言葉が聞こえた気がした。

 当人の天城さんはこちらに気付かず、外見爽やかマンと何か熱心に打ち合わせをしている。 

 心が急速に萎縮した。

 ―こんな紙切れ、持って行ってもバカにされるだけだ。

 結局、僕はがっくりとまわれ右をして自分の席に戻ることにした。落とし物、と言ってもただ『数式』が書かれたノート一枚、天城さんにとってどうでも良い物だろう。

 脱力感に耐え、騙し騙し足を動かし席に着くと、倒れるように机に突っ伏す。

 次の受業の予鈴が鳴ったが、もうどうでもよかった。


「はわ!」と背後から焦りに満ちた声が上がったのは、昼休みの一つ前の三時限目の休み時間だった。

「うん?」

 振り返ると、いつも落ち着いている天城さんが、珍しく青い顔で取り乱している。

「はわあ! な、ない! ない、ないよう、あれがない!」

 鞄の中身をぶちまけ、机を斜めにして慌てている彼女の様子に、近くの女子生徒に尋ねてみた。

「天城さん、どうしたの? 何か知っている?」

「…………」

「シカトしないでよ!」

「ああ」と独り言事件から僕へ軽蔑した眼差しを煌めかせている隣席の女子生徒が、やはり色のない目で、しかし説明はしてくれる。

「……何だか私もよく分からない、数式が何だとか……てか、ヘンな妄想しているアンタは私に話しかけないでくれる? 同類だと思われる」

 視線と後半の言葉に若干喜びを覚える僕だが、前半部分に閃く物があった。

 それって……ついさっき無造作に机に入れた紙片を指の感触だけで取り出す。

「ど、どうしよう……三日かけて計算したのに……」

 あまりに衝撃にボーと停止している天城さんに、意を決して歩み寄った。

「て、天城さん」

「…………」

「あの……もしかして、探している物って、これ?」

 よく見えるように、紙を開いて彼女の目の前で振る。

「はうう!」と突然生気を取り戻した天城さんが、それに飛びついた。

「こここ、これ! です……どうして、どこに、どうやって、どうしたら……」

 彼女が混乱の極みにあるようだから、僕は噛んで含めるような口調を作った。

「さっき、数学の時間、君が落としたんだ、意味がないかと思って、返しそびれてて」

 天城さんの瞳に光が戻った。と、同時に銀河のような瞳がみるみる濡れていく。

 紙を持っていた僕の右手を、彼女は暖かい両手で包んだ。

「ありがとうございます……東雲君……感謝します……あうう、私ホントに困ってて」

 彼女らしくない興奮したような早口に、逆に悪い気持ちになった。

「いや……むしろごめん……いらないかと思って……」

「必要です!」

 周りの生徒達が驚くほど、声は大きかった。

「いえ、すみません、とても大切な数式だったので……拾っていてくれて、ありがとう……」

「いや、それはいいんだけど、これ?」

「実は……この数式は昼休みに必要だったんです……もうホントに必需! 無くした、と思ったとき死のうかと思いました、いいえ、私なんて死んじゃえ! て自分に愛想を尽かしてしまいました」

「そ、そんな大げさな」

「本気です……屋上から跳んだら逝けますか?」

「う」と微かに怯んでしまう。天城さんはいつもにこにこしている美少女だと思っていたが、意外に思いこみの激しい性格のようだ。

「……でもしかし、東雲君のお陰で私この世界に希望を見出し、昼休みの決戦に置いて、万が一の敗北も計算の中になくなりました」

 なんだかよく分からないが、数式の書かれた紙は相当大切な物だったらしい。

「私、今日のことは忘れません、この恩に報いるために、毎年の今日、五月一五日は『東雲君の日』として個人的な記念日にして、大切に供養します」

「て、僕死んでない? 記念日?」

 少し引いた僕だが、天城さんは力強く頷いた。

「そうです、私、記念日を作るのが得意なんです、だから今日はもう『東雲君の日』、前日は『東雲君の日イブ』ですね」

 その前はイブイブです、と指摘する天城さんの、未知な部分に触れたと僕なんかでも自覚できるから、どこか気後れして話題を変えてみる。

「そ、そうだ! すごい式……計算だね? 何の問題してるの? 東大入試?」

 苦し紛れだったが、僕の疑問は本当だ。何桁もの数字と訳の分からない記号を駆使している式など、理解出来ないエニグマの変換物に等しい。

「これは」と天城さんは数式の紙を胸に押しつけ、口元を綻ばせた。

「会話内容です」

「は?」

 なにやら齟齬があったようだ。彼女の答えが判らない。

「本当ですよ」どうやら僕が偉く間抜けな顔だったらしく、天城さんはくすくすと身を揺らす。

「私は何もかも『計算』できるんです、この世界の全て」

「?」僕がもう一度首を傾げると、休みの終了を告げる鐘がなった。

「じゃ、じゃあ……」軽く会釈をして席に戻ろうとすると、彼女は「本当に助かりました」とまた丁寧に礼を述べた。

 と、いう経緯のために、次の受業は全く僕の頭には入らなかった。

 何やら科学らしきことなのだが、右手に残る柔らかな少女の手の感触と、会話している間中漂っていた桃のような香りが忘れられない。

 女のコって……いいな。と浸っている間に、前で講釈を垂れていた目障りなハゲ教師が去っていた。

 思わず振り向いてしまう。四時限が終わった今は昼休みなのだ。先程の紙は「昼休みに必要」と天城さんは言っていた。

 彼女は食事の用意をするでなく、一つ大きく息を吸うと勢いよく椅子から立ち上がる。僕が見つめていることに気付かず、何かを決意したように「うん」と気合いを入れ、強い意志を示しているのか肩を張って、すたすたと教室の後ろ側の扉に向かっていった。 

 はら、とチェックのスカートから何かが落ちる。

「またかよ!」

 見覚えがある……デジャヴだ! なればこれは二週目の世界、一度目は愚かなる人類の過ちにより核の炎に包まれた……否、今日二度目なのだ。僕は急いで教室を横断し、再び落とされた紙を回収した。 

 案の定、一度手にあった計算式の書かれたものだ。

 ―もしかして……。

「天城さん、意外とドジなのか?」

 そんな設定も好きです。

 ともかく、昼休みに必要、と言っていた物を落としていったのだ。彼女はまた困っているだろう。天城さんが出た扉を出てその可憐な背中を探した。

 食事時の廊下は混み合っていて、見覚えのある抱きしめてしまいそうになる背中はなかなか見つからなかった。

 ―だ、大丈夫かな?

 昨日までの僕なら、天城さんを心配しなかったろう。何があっても『あの』天城愛希なら何とかする、と勝手に思いこんでいたから。

 しかし今日、つい先程、その幻想は消え、どんなに優秀でも超がつくほど可愛くても、どこか抜けたところがある彼女の本質を知ってしまった。 

 放っておく訳にはいかない。

 僕は購買部、各種教室、廊下、と半分駆けながら天城さんを探し、ようやくそれを視界に見出した。

 生徒は滅多に使われない、職員室等が入った第二校舎一階の階段だった。

 天城さんは二回り近く縮んだ様子で、ただじっと床を見つめていた。そして、その前に背の高い男子生徒の背中がある。

 僕は思わず教室の陰に隠れ、片目だけでその様子を見守った。

 後ろからでも判る均整の取れた体つきをした男子生徒は、何か彼女に必死に訴えていたが、天城さんにとっては楽しい内容ではないらしい。目を見開いて硬直している。

 これは……僕は顎に手をやり考えた。彼女の様子は何か見覚えがあった。ボーと完全停止……停止、手元の紙、停止、手元の紙。

 僕は隠れていた場所から男子生徒の背後に回り、天城さんが気付いてくれることを祈って、再度拾った数式の紙をひらひらと振ってみた。

 気付いた。

 彼女の顔にさっと血色が戻る。

 ―やっぱり……。

 天城さんはすがるような視線を送ってきた。目の焦点が完全に僕の手の紙に固定されていて、それが動く方向に彼女の顔も傾く。

 ―どうしよう。

 無言の要請に気付き、困惑した。

 男子生徒と二人で話している彼女に、歩いていって渡して良い物か……何かわざとらしく気まずい。

 あ、と心づき、手にした紙を素早くヒコーキに折る。不器用故に不細工な紙ヒコーキになったが、何とかなるだろう。

 えい、と投げるとヒコーキなのに飛行せず、回転しながらそれでもなんとか天城さんの足元には届いた。

「なんだ?」

 男子生徒が、突然背後から紙ヒコーキが投げ入れられた状態に振り返る。

 僕は驚いてしまった。その顔には見覚えがある。

 茶色く染色した髪を長く伸ばしてピンでまとめ、耳には校則違反すれすれのピアスが光っている。顔の作りは非常に整っていて、スキンケアも欠かさないのだろう、男なのに肌がさらさらなキモい奴、バスケ部所属の二年生だ。

 ムカツク奴の上位№一0に入るイヤなイケメンでもあるが、今回のことでさらに一ランクアップした。おめでとう! №9。

「なんだお前?」

 その上級生が、僕の姿に気付いて不快そうに眉を上げる。

 うわ、と半歩下がる。男子生徒はただのイケメンではない。この年頃はヤンキーがモてるのだ、だからモてたいヤローはヤンキーを目指す。天城さんの前の男子生徒も例外ではなく、チーマー・タイプにカテゴライズされる風貌だ。もしバトル的な展開になったら一溜まりもないだろう。

 二ランクアップだ。おめでとう! №7。 

 僕がイケメンの眼光に肝を冷やしている間、天城さんはかがんで足の近くまで届いた紙ヒコーキを拾い、それを開いた。

 じっと内容、数式を見つめている。

「先輩!」とはっきりとした口調で彼女が話し出したから、イケメンは天城さんに視線を戻した。

「私はあなたと付き合えません……私は実は欠点ばかりのダメな女なんです、嫉妬深いし執念深いし、先輩にはつり合いません、きっと先輩にはもっといい人が現れます、では!」

 ここまでで判ったのは、天城さんは告白されていた、ということだった。

「な!」と絶句する№7に深く頭を下げた彼女は、頬を硬直させて僕にずんずんと近づいてきた。

 突っ立ったままの僕の腕をぐいっと掴み、走り出すかのようなスピードでさらっていく。

 訳が分からないから、なすがままだ。拉致は犯罪です。お返しに犯罪的なことしちゃうぞ。

 そして僕が天城さんに連れてこられたのは、学校の屋上だった。

 梅雨の六月が近いと言っても、まだまだ五月の空は輝いていた。真っ青な空に、何者にも邪魔されない太陽が輝いている。

 天城さんは人気のない屋上まで来ると、浅く早い呼吸を繰り返しながら手を解放してくれる。

「また、また助けられちゃったね」

 彼女のはにかみは天上界の天女のようだ。ほら、僕の視界に白い天使が舞っている。

 ―いかん! 感激に気が遠くなっていく。天使って可愛い……蘇る信仰心。さようならダーウィン。

「いや! ええっと……」

 己を克己し意識の混濁に耐えた僕に、天城さんは明るく笑った。

「あのね、私、あの先輩に三日前に告白されたんです……返事が今日だったの、だから断るために計算したんです」

「け、いさん?」

「うん、私……実はあまり他の人とのコミュニケーションが上手く取れなくて、いちいち計算しないとダメなんです」

 コミュニケーションが上手く取れない……驚きの言葉だ。あんなに皆に信頼され、友達もいる、実際、天城さんの周りは彼女に好意を抱いている者達でいつもいっぱいだ。

「それは……」疑問に彼女は人差し指を太陽に向けた。

「計算しているからです……それを私は神算星読(計算終わりです)、と呼ぶことにしています」

「神……? けいさん?」

「ええ、どんな風にみんなと接したら良いか、どんな風に勉強すればいいか、どんな風に会話をすればいいか、みんな計算するの」

「ええっと…………数字で?」

「はい」と彼女はノートの一枚、みっしりと書き込まれた式の面を向ける。

「私は何もかも計算できるんです、こうやって式を作って、この世の何もかもを、それが例え理系でなくとも、古文とか運動とか、全部……それが神算星読(計算終わりです)」

「はははは」と僕は笑ってみた。

「じょ、冗談だよね?」

「いいえ……そうですね、みんなには良く分からない、て言われますね……でも本当、私、人の行動も計算できます……うん、そうだ! これ」

 天城さんは手にした紙片に目を落とし、折り目のまま折り返した。先程僕が折った紙ヒコーキを再生させたのだ。

「これ、ここから投げるとどこまで飛ぶと思います?」

 彼女は学校の屋上から、見知った街並みを示す。

「そんなの」天城さんの瀟洒な手に似合わない、自分作なのが切ない不細工ヒコーキを見つめて、僕は首を振った。

「すぐに落ちるよ……実際、さっき飛ばなかった」

「いいえ……」

 たおやかにかぶりを振った天城さんは、周囲の風景を何度も見回して、口の中でぶつぶつと何か呟き始める。

「……ええっと、ううんと、うーっと、だから、そうして、こうなると、ああなるから」

 そして彼女の目は清廉な空色になる。

「神算星読(計算終わりです)、終了」

 次の瞬間、紙ヒコーキは飛び立った。それほど振りかぶってもいないのに、魔法のようにテイク・オフする。

「うそ」僕の口は開きっぱなしだ。

 紙ヒコーキは飛翔する。

 つい先程一メートルも空中にいなかったはずなのに、落ちる様子など素振りもなくぐんぐんと空を滑っていく。

 あっという間に白い点になってしまった。

「て! あれ、何メートル飛んだの? これ何? 魔法? 君は魔法使い? 魔女っ娘アニメも大好きです!」

 ―懐かしアニメ特集で見たけれど、昔の魔女っ娘アニメってさ、恋人の中の人って同じだったよね? つまりみんな一人の声優がモノにしたのかな?

「いいえ、計算したんです」もう全く違うことを考えていたのだが、天城さんは気付かなかった。

「ええっと」

「……風の向き、空気の厚さ、紙の質、全てを計算して、絶対に落ちない道を見つけて、そこに置いたの」

 さっぱり判らない。この娘、可愛い顔して異国の言葉を口にする。

「これが神算星読(計算終わりです)です」

 恥ずかしそうに、恥じたように彼女は顔をそむけた。

「あれって……どこまで行くの?」

 まだ辛うじて視界にある白い点に目をすぼめながら、僕は意味もない質問をしてしまう。

「はい、あと20メートルほどで電信柱にぶつかり、その下のゴミバケツに入ります」

 ―そこまで……けい、さん?

 徐々に事態が判ってきた。

「これ、スゴい、天城さん、凄い! 超スゴい! それ、いいなー」

「あ、ありがとうございます」

 素直な天城さんの手を、僕は興奮して掴んでしまう。

「いや、これって超能力みたいだよ! もはや人間のレベルを超越しているよ、この下等生物ども、って他人を罵倒できるよ! 天空の城から落下していく人を、ゴミと言えるよ、まあダメなフラグだけど……羨ましいなー、クラスのみんなに言ったらきっとスゴく」

「それは、やめてください」

 彼女の顔が青みがかり、僕の手から自分のそれをすっと抜く。

「で、でも」

「私の計算は、実は他のことにも使用しているんです……その、他の人との良好な距離の取り方、とか悩みの聞き方とか、だからバレたら私、困るんです……それに」

 困る、バレた所でこんな高度な技を遮られる者はいないだろう。だが天城さんは真面目に続けた。

「……そして、残念なことに記憶力はさっぱりなんです、だから難しい問題だと計算式を見ながらじゃないとダメなんです、人との特別な会話とか」

 落ち込んだような姿だが、僕にすればあんな膨大な数式を覚える方がどうかしている。

「だから、さっきは助かりました! お付き合いお断りしますの数式をまた無くしてしまって」 

 なんとなく、なんとなくだが感謝の理由に思い至った。

 つまり、天城さんは僕らが思っていた完璧少女ではなく、ずっと陰で努力して来たのだ。『神算星読(計算終わりです)』という……訳の分からない能力があるようだが。

「で、でも」

 ここで疑問を見つける。

「さっきもそうだったの? 告白を断るために? こんなに計算しなくても『NO、キモい! 何うわごと行っているのよ? あたしと付き合う? バカなの? それとも自分がミジンコよりも程度の低い下等生命体であることがわからないの? ああ、バカだから判らないのね? もういい、死になさい、ほらほら早く! 仕方ないわね……選ばせてあげる、消滅するか死ぬか殺されるか、どれがいい? ああ、面倒、どんな死に方がイイ? もうっ、イラつく、殺される前に言うことはない? すっごく痛いけど泣き叫んでいいわよ』で十分じゃない?」

 天城さんは何でか目をぱちくりさせ「そ、そんな酷いこと……」と消え入りそうな声だから、僕は首を傾げた。

 これは目の前で昔聞いた言葉そのままだ。『ある女の子』が人気の上級生に告白された時、その『女の子』……S・Eは前々から用意していたかのように流暢に、告白者の心をへし折った。ちなみにプライバシーの問題で『女の子』はイニシャルまでです。

 佐伯えりすだけど。

「もしかして」僕は困ったような天城さんを見ていて心づいた。

「て、天城さん、も、もしかして……好きな、お慕い申し上げている人とか?」

 ―だからあんなイケメンを? ちくしょー! デスなノート、デスなノート、死に方は、ふふふふふふ。

「い、いいえ」危険な予兆に天城さんは両掌をふるふるした。

「私のこの力、気味が悪いでしょ? だから嫌われる前に、出来るだけ相手を傷つけないような感じでお断りしたかったんです」

「はあ」

 何言ってんだ、このめんこい娘っ子は、フられて傷つかない男はいないって。それがえりすの暴言だろうと、天城さんの誤魔化しでも、それにまず……。

「な、何言ってるの、天城さん! 君のこと嫌いになる男子なんていないよ! 少なくてもこの次元の生命体では、あ、アナザ・ラブを抜かしてね……この能力だって凄いじゃないか、欲しいくらいだよ、ホントに欲しいよ僕」

 そうすればテストで泣きを見ることも、無神経教師に皮肉を言われることも、親に小遣いを減らされることもない。超欲しい。持ち主ごと欲しいです。

 天城さんはばっと頬を抑えた。なんだか燃えているように顔が赤い。

「そそ、そんな、私……」

 謙遜など必要ないのだ。凄いと本心から思ったのだから。

 実のところまだ『神算星読(計算終わりです)』とやらは判らないが、チートに近い。否、チート能力そのもの、格闘ゲームで登場したら即、キャラ禁止に違いない。無理に使ったらリアルバトルに発展だ……交際を断る方法を計算するのに三日間かかるらしいが。

「本当に感謝してます、東雲君にまた拾って貰わなければ、私、断り切れなかったかも……だから、やっぱり今日は『東雲君の日』として個人的にパーティを行う日にします、もうスイーツ食べ放題です、うれしいです、ありがとう」

 妙な感謝のされ方だが、悪い気はしなかった。何と言っても今まで見つめるだけだった天城さんとこんなに話せた。

「いやあ、ただ落とし物を届けただけだよ、すっごく苦労したケド」

「それに、私の力を羨ましがってくれたのは東雲君だけです、私、実はこの力、いらない物だと思っていたのに、東雲君は他の子と違って気味悪がらない、うれしいです、私」

 天城さんが一歩進み、僕のパーソナル・スペースに自然と入った。

 このままいい感じになりそな雰囲気だ。きっと今なら天城さんと簡単に仲良くなれる、きっと今なら。

 僕の全身は突然むずがゆくなった。

 まだ彼女と話したいのだが、余程太陽光線が強いのか頬が焼かれているように熱い。とてもこの場にいられない。暑いよう。日陰に行こう!

「じ、じゃあ……僕、昼ご飯た、食べるから、またね」

 ぎこちない笑いを浮かべ、僕は出来るだけ自然に背を向けた。暑いからだ。

 心臓が胸の中で跳ね回っているみたいだった。きっと、こんな僕は世間では『チキン』とか『チャンスを逃す愚か者』とか罵られるんだろうが、それでも良いような気がする。

 ま、イイ事したんだし、と肉食系の恋愛女神に言い訳しながら、伸びた鼻の下を揺らして教室に戻ることにした。

 どずっ、と鈍い音が、一年三組に一歩踏み入った僕の傍らで鳴った。

 反射的に見た音の方向には白い壁があったが、人の拳ほどある銀色の鉄塊がめり込むのも確認できた。

 うああ、と僕がか細く鳴くと、鉄塊はぼろっと壁から落ち、ずどんと床に転がった。

「拓生! このゴミ! どこ行っていたのよ?」

 消しゴムとかコンパスとかとは比べ物にならない凶器を、むしろ狂気を投げてよこした佐伯えりすが、近づきながら詰問してきた。

「な、なな、何て事をするんだ! これ……死ぬって」

 ゴム床でぎらぎらと殺気を発散する鉄塊に目眩を覚えると、えりすは薄く笑って指を鳴らす。

「そう? おっしー」

 天城さんとの交流で上がったテンションが急激に落ちいく、頬当たりの温もりも冷え切った。

「こ、このあり得ない凶器は何だよ! 学校に、神聖なる学舎に何を持ってきているんだ! えりす」

「うるさいわねえ、それは文鎮よ、ノートとかを固定するための文房具、どこからどう見ても合法な、まっとうな勉強に必要な道具」

 文鎮、言われた僕は異称文鎮を見直した。

 話しに聞いていた文鎮とは、もっと平和的な創造物だったはずだ。えりすが投擲した塊はいびつに丸く、どこかの採掘場から掘り出された生々しい鉄そのものだ。

「どっからこんなもの見つけてくるんだよ!」

「どうでも良いでしょ? てか、実は敢えてハズしてあげたんだからね? さあ言いなさいよ! どこに行ってたの?」

 気配を感じて遮ろうとしたが、その前にえりすは鉄塊を拾い上げ、肩の上に構える。いつでもカタパルト発射可能だ。

「ど、どこって……わー、やめろよ!」

 教室は静まりかえっている。さすがに誰もが彼女の取り出した文鎮に、度肝を抜かれている。

 だが。

「き、君は何て事をするんだよ! 頭がおかしいのかい?」

 一人、たった一人だけ僕のために猛獣に立ち向かってくれる者がいた。小さな体を確認するまでもなかった。

「み、みやー!」

「これはある意味犯罪だよ! 常軌を逸しているよ、君はどうしようもないな! もうこうなったら僕が罰を与えるよ」

「毎回毎回毎回うるさいわね! この女男! これは拓生とあたしの問題でしょ? キモいから入ってくるな!」

「君は自分がどれだけ拓生君に迷惑かけているか自覚しているのか? 拓生君は君の存在により不憫で不当な目に遭っている、かわいそうな子犬ちゃんなんだよ、君は拓生君にとって邪魔なんだよ!」

「邪魔? 邪魔ですって? あたしが? この……あたし?」

 突如えりすの表情が変わった。今まで見えていた余裕が消え、端整な顔が歪む。

「そうだよ、君さえいなければ拓生君の周りは平和なんだ」

「…………」

 はたと気付いた。えりすが無言だ。

 それは、それは、とても、とても、危険な、兆候なのだ。

 彼女の顔を覗いてみると、案の定えりすは人形のような無表情になり、目、左側の色が変わり始めている。緑の光彩が金色へと……。

「お、屋上です! 僕は屋上にいました、これでいいですか? えりすさん」

 えりすの変化に心底怯えた僕は、彼女の疑問を解消することにした。

「……屋上? 何してたのさ?」

 えりすは相当機嫌が悪い、その証として地を這うように低い声だ。

「う、うん、天気が良いから……日に当たってた……ホント、だからもう良いかな?」

 僕がなめくじより下手にると、えりすはしばし虎狼院みやを見返していたが、「ふん」と踵を返す。

「拓生君、大丈夫かい?」とみやが僕を案じてくれるが、実は違う。

 命の危機にあったのは、むしろみやの方なのだ。

 怒りを隠さず、通路の机や椅子やらを蹴りながら進むえりすの後ろ姿を、僕は恐怖の眼差しで見送った。


 こんこんと天城さんは変わらず躍動的にチョークを走らせている。現在、黒板に書いているのは数式、ではなく英語の長文なのだが、恐らく『計算』済みなのだろう。

 彼女の解答が正しいことは、傍らで見守っている英語教師の大木先生の余裕で判る。

 やはり彼女の『神算星読』は凄い、感心してため息をついてしまう。

 天城さんの本質と微かに触れあった屋上以来、僕らの仲は急速に近くなっていた。

 恐らく、今まで彼女の周りにいた者は、頭が良い、真面目で、優しく明るい、完璧な美少女、としての天城さんしか見ていなかったのだろう。

 しかし、僕は天城さんが実は人付き合いが苦手で、あまり物事に自信が無く、どんな事柄も事前に計算しなければ試せない内気な普通の女の子だ、と判ってしまった。

 それを前提にして彼女と接している内に、いつの間にか関係性が変化していた。

 どこが? と聞かれたら困るのだが、明らかに僕だけに見せてくれる笑顔と、こっそりと囁く言葉がある。

 時にそれは、万人に愛される彼女とは思えない一言であったりするが、僕は納得した。

 やはり天城さんも感情のある、むしろ多感な年頃の少女なのだ。

 天城さんが英文を書き終わると、大木先生は大げさに手を叩いた。彼女は恥ずかしげに視線を落とし、席に戻る。

 一瞬目があった。

 瞳がぱっと輝いたように、彼女の唇が綻んだように見えた。

 ごごごごごという黒い波動を感知し、一瞬で背筋が強ばる。 

 僕は振り向かない、その必要がない。二つ離れた後ろの席で、えりすが憎しみに双眸を輝かせていることは知っている。

 どうしてか、えりすの様子がおかしい。

 いつの間にか嫌われていた、から、いつの間にか殺意を持たれていた、にレベルアップしている気がする。クラスチェンジと言っても良いね。僕的には生命的にダウンだから、来世にチェンジ! てところだ……笑えないって。

 かつてのように何かを投げつけたり、という直接攻撃は減ったが、その分無言の圧力は大きく、重く、熱くなっているような気がする。

 額の汗を拭きながら、急いで思考を戻した。

 天城さん……彼女の『神算星読』というのは実はまだ良く分からない。

 放課後、赤く暮れた教室で二人きりの時に詳しくコツを教えてくれたが、まず僕には数式で英文を解く、という意味が分からないし、運動等も数式の連なりだ、という主張にぴんとこない。

 恐らくそれは彼女の特殊な才能なのだ。

 音楽家や画家のような芸術的な、天からのギフト。

 それを駆使して、毎日遅くまで新入生交流会の一年三組必勝の数式とやらを組み立てているらしいのだが、細かく説明して貰っても、ギフトを受けていない僕にはちんぷんかんぷんだ。中に僕の一〇〇メートル走のタイムも記されていた。頭が痛くなったので、それについて細かくは尋ねていない。

 天城さんに任せておけば全て大丈夫に決まっている。

 

 新入生交流会は巻野高校の伝統行事だ。

 趣旨を簡単に説明すると、入学してから二ヶ月経ちそろそろ学校環境になれた新入生達と、上級生達をより仲良くさせるために、大規模な運動大会をしよう、という趣旨だ。

 全校生徒参加必須行事の一つであり、野球、ソフトボール、バスケット等の球技から、短距離、長距離、リレーまで、およそ受業で行うスポーツの全てにクラス単位で参加して順位を競う。大げさな事だが、一年生の運動に関する学年順位を上級生にランク付けされてしまう、意外に重要な催しでもある。

「勝ちます、計算通り」

 それに関して、天城さんはかなり自信があるようで、ホームルームの時、高々と宣言して見せた。

 一年三組担任、細井先生の諸注意が終わると、クラスメイト達はそれぞれ参加する競技の時間が書かれたプリントを手に椅子を立つ。

「さてと……」

 僕もプリントでひらひら扇ぎながら、廊下に出た。

 出場する一〇〇メートル走と走り高跳び、バスケットが始まるのには早いが、その他の時間はクラスメイトを応援する、という暗黙の決まりがある。

 ウザくてだるいが、朝一から始まる女子ソフトボールでも見に行こうかと決めた。

 女子のチチも揺れるし……ケツも揺れるのだ。 

「東雲君!」

 突然呼ばれたので驚くと、はにかむ天城さんがいた。

「て、天城さん……どうしたの?」

 彼女は頬そめて視線を下げる。

「あ、あの、私、一所懸命計算しました……だから、頑張って下さい」

「あ、うん、ありがとう!」

 意識して力強く言うと、彼女の表情が輝いた。 

「あ、拓生!」

 このままもう少し天城さんと言葉を交わしていたいが、不機嫌そうな声のえりすが割って入る。 

「な、なんだよ?」

「あたし、バレーに出るんだけど、応援しなさいよ!」

 えりすは猫を思わせる目をつり上げ、命令してきた。

「だって、バレーは一〇時からだろ? ソフトボールがその前に……」

 えりすのほっそりとした指が持ち上がり、僕の耳をぐねっとつまむ。

「いたたた、離してよ」

「バレー、体育館、今から、練習、あるの!」

 どうやら試合前のアップから応援しなければならないらしい。

「意味ないだろ!」

「あるわよ」とチチ揺れ鑑賞を望む僕の抗議が、あっさり叩き落とされた。

「あたしたちの初戦の相手、一年四組、運動バカの集まりなのよ、バレー部で一年レギュラーのゴリラブスもいんだから、結構しんどいの」

 だからって僕が練習からいても変わらないだろうに。チチが揺れるんだぞ、ケツも。

「来なさいよ」

 えりすは僕の願望に構わず容赦なく耳を引っ張り、激痛に涙がにじむ。

「大丈夫です」

 その悲惨な姿が哀れだったのか、天城さんが入ってくれた。

「何? あんた?」彼女を認めて、えりすは舌打ちをする。

「……あんたは適当に競技決めたけど、勝てるかどうか判らないのよ」

「大丈夫です、勝てます」

「は?」

 僕の心胆を真冬にさせる苛立った様子のえりすに、天城さんは真剣に訴えた。

「私は計算しました、皆さんの運動能力、クセ、性格、人間関係、全て計算してメンバーを選びました、だから計算上、一年四組には負けません」

 心なしか彼女が胸を張ったようだ。僕の視線は豊かな丘に釘付けだ。

「へええ」とえりすは見下したように肩をすぼめた。

「それは凄いわね……で、だから?」

「だから、勝てます、計算通り」 

 冷ややかなえりすに抗して、天城さんも眉根を寄せた。

「ふ」その様子を、佐伯えりすは嗤う。

「計算……どおり?」

 僕の胸にごつごつした暗雲が嵩張りだした。

 嫌な予感は質量を持っている、肩当たりも重たくなった。

「そう」とえりすは僕の耳を解放した。

「判った天城さん、そうね、あんたを信じてみる、何てたったあんた、頭イイもんね?」

 僕は思わず顔を上げた。

 えりすらしくない優しい言葉だ。あり得なさすぎる、たまらなく不穏だ。

「んじゃあね、拓生、あたしたちの勝利、計算された勝利を待ってててね」 

 わざとらしく手を振ったえりすは、僕が何かを言う前に駆けていく。……廊下を走ってはならない、という常套句は通じない。廊下を走る子はやはり悪い子なのだ。

「……大丈夫ですか? 耳、酷いですね」

 呆然とする僕を天城さんが気遣ってくれるが、普段なら嬉しいだろうに、考えが及ばなかった。

 酷い悪寒に震えが止まらない。

 ―悪い予感がする……。

 フォースに乱れがある、と大銀河を守る騎士なら看破しただろう。 

 

 一年三組は天城さんの計算どおり、華々しい勝利を、あげなかった。

 それどころか、五クラスある一学年で最下位にランク付けされてしまう。つまり、惨敗した。

 悄然とクラスに戻った僕を待っていたのは、不景気そうなクラスメイト達だ。

「どうして?」

 思い出すのは天城さんが真剣に計算する姿だ。あんなに集中して一人で放課後まで残って計算したのに、何もかもが覆された。 

 元気のないみやが、気配を察して説明してくれる。

「何だかヘンだったんだ、僕らのクラス……その、みんなやる気がなかった、というか、自身がなさそうだった」

「えええ」僕は腰を抜かしそうになった。全てを計算出来る天城さんでも、人間の行動に関してだけは各個人の協力が無ければ、皆が持てるポテンシャルを活かすことが出来ねば、数式通り物事を動かせない。

 ふふふふ、と聞いていた佐伯えりすは可笑しそうに身を折る。

「計算外、て言うモノがあったらしいよ、だから大失敗」

「何だよそれ?」

 僕はたまらなく不快になる。クラスの力量を試される場での失敗を笑う彼女の気が知れない。

「みんな天城さんを信用しなかったのよ」

「え?」

 俄に理解できなかった。彼女はあんなに人気者だったではないか。

「バカね、拓生」とえりすが呆れた。

「一人で張り切って、けいさん、とか言っても誰がついていくのよ、みんな実は気持ち悪かったのよ」 

「そんな……」

「まあ、絶対に勝つハズだったバレーが一回戦敗退、ド惨敗したから、みんなさらに疑いだしたんだけど」

 その瞬間、僕は悟った。超能力でも毒電波でも言え。判ったのだ。

 えりすだ。

 佐伯えりすは、クラスの天城さんへの不審を見抜いていて、それを最大限利用すべく、わざとバレーで負けたのだ。天城さんの計算では圧勝だった試合で。

「て、天城、さんは?」

 奥歯を鳴らしながら策謀の士に尋ねると、えりすは目を細める。

「計算ミスです! はわあ! とか言いながらどっかに逃げていったわ、あのお嬢様」

 くすくすと、鈴を鳴らすように笑う。

「本当、サイアク」彼女に同調した女子生徒達が囁き合っている。

「天城さん、あんなに自信タップリだったのにね、何? 計算って! キモいっての」

 ひそひそと彼女に関する悪意の花が咲く。

「俺たち最下位かよ、違う人に決めて貰えば良かったな」

 本来ならば養護するはずのイケメンスポーツクソ野郎が、仏頂面で肩をすくめた。

「ふざけんな!」

 僕は怒鳴っていた。腸が煮えくりかえるとはこの状態だ。きっと今なら人食い虎も、僕のホルモンを美味しく頂けるだろう。

 天城さんは必死で、クラスのために計算していたのだ。その姿はずっと目にしていた。

 誰よりも早く登校し、なのにずっと遅くまで学校に残って、クラスのために訳の分からない数式と格闘していたのだ。

 僕はスポーツ中毒の胸ぐらを、強く掴んだ。

「で、天城さんは? どこに行った!」

 突然の剣幕に、クラスメイトは目を白黒させている。

「知らないわよ!」不機嫌に答えたのはえりすだ。

「負けが決まったら泣きながら走っていったわよ」

「くそ」

 僕はスポーツバカを突き離すと教室から出た。

「なにさ、拓生!」

「拓生君!」

 えりすとみやが背後で驚いているが、構っていられない。

 ―天城さん。

 僕は探した。真面目で、どんなことも計算できて、しかし実は万事自信のない天城さん。

 新入生歓迎会が終わり、倦怠のようなゆったりとした空気が流れる校舎を、走って走って、走って走って探した。

 彼女の可憐な姿はない。

「天城さん」一つ呟いて、唐突に思い出す。

 彼女と初めて胸襟を開いて語り合った場所だ。二人で見送った紙ヒコーキ。

「屋上!」

 予感は的中していた。

 階段を駆け上がり、鉄の扉を押し開くと、どんよりとした雲の下に天城さんはいた。  ちっちゃく、萎れた花のように、屋上の隅で体育座りをしている。

「天城さん」

 僕はその儚げな背中に優しく声を掛ける。

「はう?」

 彼女はちょっこっと頭を動かす。

 僕は悶死しそうになる。

 萌えた。めがっさ萌えた。

 ―天城さん、隠れ眼鏡っ子だったんだ。

 彼女は見慣れない黒縁の眼鏡を掛けていた。それはそれで凄く似合う。

 ―萌え、萌え! これは効くぜ、写メ撮ろうか……。

 が、彼女の表情を覗いて、とろける顔の筋肉を無理矢理ひきしめた。

 泣いてなどいなかった。それどこらか悲壮感の影など、どこにも纏っていない。

 余計に僕の心はずきずき痛んだ。無理をしているのが、はっきりと判る。

「えへへへ」と彼女は気丈に笑ってみせる

「失敗しちゃった……計算ミス」

 天城さんは紙の束を持っていた、どうやらここで再計算していたらしく、眼鏡のプラスティックのふちに指を当てる。

「ほら、ここ、ここが違うのよ、ここ、ここよ、ダメだよね? みんなに迷惑かけたし」 平然とした風を装っているが、相当応えている。ルーズリーフをみっしり埋め尽くす数式に、赤字で大きな×がいくつも記されていた。

 冷たく、痛くすら感じるくらいの強風が突如屋上を駆け抜け、天城さんの体は傾ぎ、手にした計算ノートが宙にさらわれてしまう。

「ああ!」彼女は顔をしかめた。

「なくなっちゃう! 計算式、また間違っちゃう!」

 慌てて空に舞う紙を集めようと、天城さんは手を伸ばした。

「天城さん」

 その姿のあまりの痛々しさに、僕はつい反射的に彼女を抱きしめていた。

「わ、私、計算、ミス」

「いいんだ! もういいんだ! ごめん、ごめんね」

「え?」

「僕は、僕らは狡かった、何もかも君に任せて、考えたら、君は一人ですっごく頑張っていたのに、実は気味悪がってて……僕たちは君があんまりにも何でも出来るから、甘えていたし、嫉妬していたんだ」

「そんな……」

 しばし彼女は絶句する。

「ま、間違えたのは、私、です、お父様やお母様にもビジネスや経営の世界で計算ミスをしてはいけない、てずっとずっと躾られて来たのに、私、ミスを」

「僕が悪いんだ! もっとみんなに君の力を教えるべきった、君の持つ才能を」

「そ、それはだって……きっと皆さん、私の計算の事なんか判ってくれませんよ、それはいいんです」

「良くない!」

 僕は叫んでいた。びくり、と天城さんの体が震えた。

「君に頼りっきりで、甘えて、任せて……本当はみんなで頑張らなくちゃならなかったのに……ももも」

「ももも?」

 天城さんが不思議そうに聞きとがめるが、僕は動揺の荒い息をつく。

 彼女を抱きしめると桃のような芳しい香りに覆われたのだ。耳の後ろにはフェロモンを出すアポクリン線がある。女子の香りはクセになりそうだ。

 僕は一瞬前の真面目さをすっ飛ばし、彼女の首筋に鼻をつけた。

「はわわわ」と天城さんが狼狽したので正気に帰る、彼女は電灯が灯ったように真っ赤だった。

「ぎゅっとされた……」

「ご、ごめん! これは、なんというかセクハラじゃなくて、元気づけというか……とにかく犯罪に類することでは……訴える? 土下座じゃだめ?」

「初めて……ぎゅっとされ、ました、力一杯ぎゅっ」

 僕を見上げてくる天城さんの瞳が。眼鏡越しにきらきらと輝く。

「誰にもぎゅっとされたこと、ないのに、東雲君が、ぎゅっとしました」

 ぎゅっ、ぎゅっ、と何やら彼女はぶつぶつ呟いている。

「み、みんなの事は気にするなよ、ぼ、僕が説明する……それでダメでも、僕がいる」

「え?」

 必死で言葉を選んだけど僕の喉は痛んだ。まだ、その話題は多大なるストレスと同義だ。

「ぼ、僕は中学時代、みんなから嫌われて、シカトされていたんだ……」

 天城さんとの接触で上がったボルテージが急降下していく。

「辛かった、今でも泣きそうだし、夢に見るよ、でも、たった一人僕と話してくれた友達がいたんだ……それだけで、僕は救われた……君がクラスで孤立しても、僕は君を一人にしない! 間違いがなんだ! 間違わないヤツなんかいないんだ! 僕なんて、人生の大半間違えている、この間のテスト、カンニングしても二十一点だった、でも平気」

 彼女は何度か瞬きをしてそんな僕を見上げていたが、力強く納得する。

「わかりました……私が弱かったんです、間違えたのなら、皆さんに素直に謝れば良かったのに、悪く言われるのが怖くてこんな所に逃げてきて、私、私、弱かった、東雲君は自分を貶めてまで励ましてくれる強い人なのに、なのに」

 ……かなり僕を過大評価してくれた彼女が、ぐぐっと拳を握る。

「私、もう気にしません、計算ミスも間違いも恐れません、私は間違えながら成長していきます!」

 天城さんの目は、今までにない強い意志を宿していた。

「ありがとう、しの……拓生君、私もクラスで一人になってもいいです、そんなのもう怖くありません、あなたがいるから」 

 そして彼女はしっかりとした足取りで歩き出した。


「皆さん、ごめんなさい! 私のミスでした」

 天城さんは黒板の前で、深々と頭を下げた。

 突然現れ、迷いなく進み出て、頬を紅潮させながら謝罪した彼女に、クラスは静まりかえった。

「なによ」とえりすの態度は変わらない。

「謝って済むんだったらケイサツいらないっての」

 彼女の行動をはらはらと見守っていた僕は、えりすの心ない台詞に腹が立った。

「なによ、バカ拓生、またやるっての?」

「何かおかしいよ、みんな」

 勢いよく立ち上がるえりすを、冷静な声が止める。

「大体、最下位になったのはみんなの力が足りなかったからだよ? その責任を一人に押しつけて、自分は関係ないなんて、みっともないよ」

 虎狼院みやの指摘に、皆こそこそと囁き合う。

「たかが運動会じゃないか、最下位がなんだ、むしろこれからの成長を見て貰おうよ!」

 美麗な中学生女子のようなみやがクラス中を見回すと、趨勢は決まった。

「そうよね」と先程、天城さんを罵った女生徒が息をつく。

「私、けっこう頑張ったケド、他クラス強かったもんね」

「ああ……俺も実は自信なかったんだ、ケドまあまあ良い勝負だった」

 張りつめていた空気が、ゆっくりと温かくほぐれていく。

「天城さん、良くやったよ、もし天城さんがいなかったら、きっと最下位どころか惨敗だった、きっと計算してくれたからだね」

「俺はもともと、彼女が悪いなんて言っていないけどね」

「ちょっと!」

 そんな柔らかなムードに傾く教室の中、佐伯えりすは自分の机を盛大に蹴飛ばした。

「どいつもこいつも……あたしたちはあのトチ狂い計算女のせいで他のクラスから見下されるのよ? それでいいの? 拓生なんてそれでなくても取り柄がないのに、運動でも他のクラスに嗤われるのよ?」

 えりすの熾烈な眼差しに、再びクラスメイト達は黙り、天城さんも項垂れた。

「だ、だったら」ここで遂に僕は切れた。ずっと溜まっていた、ずっと言いたかったことが、許容量を超えた堪忍袋から漏れだしたのだ。

「お前が一人で頑張れば良かったじゃないか!」

「え?」

 僕に一喝されたえりすの顔に、戸惑いが浮かぶ。

「自分だってバレーで負けたクセに他人のせいなんて、それは違う、狡い」

 どうやら痛いところをつかれたようで、えりすは固まった。じっと僕に見開いた目を向けている。

「天城さんは悪くない」その後すぐ他の生徒達はそう結論して行き、天城さんは皆の輪に笑顔で戻ることが出来た。

「うう、ありがとう拓生君、あなたのお陰です」

「そ、そんなこと、ない、よ」

 涙ぐむ彼女に僕は、片頬だけぎこちなく緩めた。

「いいえ! 拓生君がぎゅっとしたくれたから、私、力が出ました」

「そ、そう?」

 だが僕は喜びに輝く天城さんを、実はよく見ていなかった。

 黒いオーラを感じる、ヤバい雰囲気だ。

「ふーん」かなり遠いのに、声は聞こえた。

「……ずいぶん仲良しよね?」

 僕の精神はひび割れる。キレたえりすは何をするか判らない。

 昔からそうだった。

 僕のことも苛めていた評判の悪い上級生は、何の前触れもなく灯油をかぶって自ら火をつけ、命は取り留めたものの大事件になった。

 野良犬に二人で追いかけられた後、次にその犬を見たのは貯水池で浮いている姿だ。

 ボール遊びをしてガラスを割ってしまい、その家のヒステリックなおばさんに二人泣くほど怒られた時など、次の日そのおばさんは家の全てのガラスを顔面で割り、血まみれで救急車に乗っていった。

 佐伯えりすはやる。

 どんなえげつないことも平気でやる。

 キレた彼女を止めるのは富士山の噴火をお盆で抑えるほど不可能だ。

 つい言葉を荒げてしまったが、もし彼女を本気で怒らせたら、冗談じゃなく命に危機が迫るのだ。 

 えりす……後で土下座しかないかも、そうだ! 靴を嘗めよう、趣味と実益って結構一致するよね。

「いや!」

 僕は自分の弱さをぐっと堪えた。ここで頭を下げてしまったら台無しになるのだ。

 佐伯えりすと戦った四年間が。

 ―負けるもんか!

 エメラルドのような彼女の瞳を、精一杯見返したやった。


『いたくないもん!』 

 五月も終わる柔らかな日が、僕の脳髄の血の巡りをひどく悪くしていた。

 前方では、古文の秋山先生が黒板を指してがなり立てているが、僕には斑ハゲの戯言を耳に入れない特技がある。

 ―平和だなあ。

 睡眠を促進させる古文担当教師の奮闘に、ゆったりと机に顎を下ろした。

 実際、ここ数日僕の周りは穏やかな空気が巡っている。数日前からあった背後からの射るような視線も和らいだ気もする。

 天下太平、誰もが待ち望んでいた安寧の時が訪れたのだ! 戦いの日々が夢のよう……が実はちょっと寂しい……なんだか不本意だから。

 一週間ほど前の新入生交流会での事件で、僕と天城さんの仲は劇的に縮まった……ハズだった。気がした。可能性があった。

 だけど、やっぱり世界はそんなに簡単で優しくない、天城さんが無事にクライメイトに受け入れられて、僕らの距離は曖昧になった。

 また以前の立場に戻った……ようではないが、教室で語り合う、というラブな事もない。

 ふと、僕は遠くからそれとなく天城さんに笑いかけて見た。気付いた彼女は慌てて俯き、ペンを持つ手元を小刻みに動かすだけだ。

 はあ、とため息をついて今度こそ机に伏せてしまう。

 夏真っ盛り、海辺を裸すれすれのビキニで走る天城さん。

「あははは、東雲くぅーん!」

 胸はバスケットボールのように弾み、僕はそれを追う。

「待てよっ! マイ・ハニー」

「うふふふ、私をつかまえて! そしたら、な、ん、で、も、してあげる」

「言ったな、よーし」

 煌めくどこか南の方のビーチ。椰子の木は揺れ、パツキンの男達が羨望の眼差しで僕らを見ている……という嬉し恥ずかしい展開にはならなかった。

 それどころか天城さんは挨拶しても、「ま、まだけいさんがっ……」と訳の分からない理由で逃げていく始末だ。

「あううう」と僕は失望と切なさに、みみずのようにのたうち回りたくてしょうがない。

 ―うううう、世界は何て残酷なんだ、もう苦しくて夜も眠れないよ……。

 正午に近い太陽が僕を心地よく温めてくる。だから意識がすうっと遠のく。昼は眠れるのだ。超眠い。だから寝る。  

 と、何の前触れもなく、がらら、と音を立てて教室の前方の扉が開いた。僕の反応が今ひとつ遅れたのは、机に広がる涎に沈んでいたからだった。

 周りの生徒がざわめくから覚醒し、僕は口元を拭いながら目線を上げた。

 三メートルほど先にスレンダーな胸回りながら、ツンと上を向いた健康的なバストがあった。

「葛城……」

 声に出してしまっていた。

 葛城司かつらぎ つかさは皆の視線など意に返さない様子で、無表情に後ろ手で扉を閉めると、すたすたと教壇の前を横断し自らの席へと向かう。

「葛城?」もう一度、その名を咀嚼してしまう。

 葛城司。同じ中学で、数ヶ月前まで同じクラスで、僕にとって唯一の恩人だ。

 そんな彼女が久しぶりに姿を現し、何事もなかったような足取りで前を通過していく。

「ま、待ちなさい!」

 唖然としていた秋山先生が、にわかに我に返る。 

「き、君はなんだね? いきなりやってきて、遅刻か? だとしたら言うべき事があるだろう?」

 薄い髪を海中のわかめのように揺らしながら、秋山先生はあるいは至極真っ当なことを口にした。確かに授業中に突然現れたのだ、何の抗弁もなく堂々と教室を闊歩するのは、どの教師も看過しがたいことだろう。

 だが当人たる葛城は、だんっ、とたどり着いた自分の机に鞄を叩きつけて、それらに対する解答を示した。

「な、何だね? その態度は!」

 秋山先生の怒りは頂点に達したようで、顔面中にびくびく青い血管を浮かせたが、葛城は無言で着席すると腕を組んでそっぽを向いた。 

 僕はしんと静まりかえる教室の中にいた。 

 彼女の態度は『反抗』以外の何ものでもなく、実は極普通の高校生でしかないクラスメイト達には衝撃だ。僕も超びっくりしたから。

「こ、こ、こ、こ」

 激情のあまり秋山先生は言葉を失ったのか、ニワトリに先祖返りした。鳥っぽい先生だから仕方ない。

「この、このことは大きな問題だぞ!」

 ややあって、音を立てて痰を飲み込んだ秋山先生は、ドン引きする女子生徒達に気づかず高音質の声を張りを上げた。

「き、き、き、き、君、受業が終わったら職員室に来なさい! とっちめてやるわ! わたしの受業を妨害するなんて、きー!」

 うわ、こいつ実はオネエだ。と僕もドン引きし、粘着質の眼差しに不安になった。

 が、当人の葛城は全く応えていないようで、頬杖をついて窓の外を見ている。

 ―どうしたんだ? 葛城……。

 僕の記憶にある葛城司は大人びた、すこし冷めた所のあるクールな美人だったが、あからさまな遅刻をして教師を挑発するようなワルではなかった。

 ―それどころか……。

 葛城がいなければ、彼女の凛とした言動がなければ『あの』悪魔のような女に屈していただろう。今も彼女に対する思いは憧れと感謝に満ちている。

 モデル体型の美人の彼女を夜の儀式に使用していないのは、恐れ多いからだ。

 だからこそ、彼女の不穏な雰囲気に心が乱れる。

「何あの格好? いやらしい女」

 えりすの辺りを慮らない嘲りに、僕もそれに気付いた。 

 葛城の胸に気を取られていたために、外見の変化を見落としていた。

 ボリュームのある長髪は、かつては艶々とした漆黒だったが、今は掠れたような茶色になっている。高い鼻と大きな瞳、小さな唇の端麗な容姿は変わらないが、それらはほんのりと、しかし一目で分かる程の化粧が施されていた。

 中学時代はセーラー服をきっちり着こんでいたのだが、高校指定の女子用Yシャツは胸元のボタンを限界まで緩めてあり、大きく開いている。

 ―女の子って……いいな。

 この僕が呻ってしまうほど扇情的である。

 あの姿の葛城と、放課後二人きりになれればとても幸運なはずだ。

「ねえ……拓生……」

「やあ! 葛城じゃないか、どうしたんだい? 何か僕に用か?」

「うん……どう、かな? あなたに気に入られようと……して、みたんだけど」

「ははは、バカだなあ、君には化粧なんていらないよ! 素顔のままで十分さ」

「うれしい……えいっ」(ボタンはじけ飛ぶ)

「ああ! どうして更に勢いよく胸元を広げるんだい?」

「うん、私、中学から少し大きくなったのよ、計ってみない? その手で」

「え! この誰もいない放課後の教室でかい?」

「あなただけに見せてあげる……」

「そ……それは困ったなあ……まあ、しかし葛城がどうしても、と言うなら」

「葛城、なんて他人行儀に呼ばないで……つかさ、でいいわ」

「わかった、つ、か、さ、いただきマース!」

 ばちん、と後頭部に痛みが走った。

 ピンクの精神世界から我に返り。手で頭をさすりながら振り返ると、えりすが目を研ぎ上げてボールペンを構えていた。

「うわあ」と僕は正面に向き直った。

 命中したペンが足元に転がっているが、それを拾ってえりすに返すほどの心理的余裕など無い。

 ―なんでえりすは僕を目の敵にするのさ……うう……。

 

 一悶着あった受業が終わり、秋山先生が不機嫌なまま教室を出て行くのを待って、僕は葛城に近寄った。

 他の生徒は遠巻きに見つめ囁き合うだけだが、少し縁がある僕は「やあ」と親しげに声をかけてみる。

「…………」

 返事はなかった。葛城は頬を厳しく引き締めたまま、椅子に寄りかかって僕とはの反対方向の窓を見ている。

「か、葛城……ええっと」

 早くも行き詰まりだ。実は僕もそんなに親しくなかったのだ。昔の友誼を信じた挨拶が不発に終わったのなら、その後の展開は考えられない。

 ―ど、どうしよう。

 自然と、超自然に、何の悪意もなく、僕の視線は葛城の細い首の華奢な鎖骨の下、開いている胸元に固定された。これは彷徨う視線が落ちただけで他意はないのだ。ないのだ。

 葛城はスポーツ万能で背も高い、中学時代は『格好いい』女子生徒として後輩から憧憬とアブない恋愛の目で見られていた。

『ヘンな男より葛城先輩の方がダンゼン上』

 と言う声を女子生徒達からよく盗み聞いたものだ。僕はその度にその類の動画収集に燃えてしまった。

 しかし、こうして近くで見ると葛城はやはり綺麗な女の子だった。肌はミルクのように白くなめらかで、体つきも柔らかく、ふてくされているような格好もどこか絵になっている。

 飾らない石けんの臭いを鼻に感じ、僕は少し安心した。

 葛城には香水よりも石鹸が似合う。昔も今も変わらない。

 ―うーん……。

 僕は慎重に目をこらした。胸元、その下のブラが見えそで見えないのだ。

 ―なんて絶妙な着こなしなんだ……葛城……お前は天才か? ザッツちらりズム。

「あのさ……」

 突然、その葛城が声を出したので僕は倒れそうになった。

「な、なに?」

 いつの間にからか、不快そうに眉を逆立てている葛城に見上げられていた。

「あんたがどうしてようとあんたの自由なんだろうけど……人の胸をジロジロと見るのはどうなんだろう? 礼儀とか行儀とか、私が言うのはヘンだとは思うよ、しかし一応あんたが見ているのは私だし」

「いややややや」

 僕はぶんぶん手を振り回した。何やら迂遠な言い回しだが、彼女の声は爆発しそうな怒気を孕んでいる。

「ち、違うよ、ぼ、僕は……その、君の様子が何かおかしかったような気がしたから……」「関係ないでしょ! ほうっといてよ!」

 ばしり、と葛城が鋭く机を叩いたので、「は、はい」とすごすごと離れた。

「全く、嫌な女」

 葛城の元から全力で退散した僕に、いつの間にか近づいていたえりすが薄く嗤った。

「昔っからあたしの邪魔ばかりして、消えてしまえばいいのに」

 思わず僕は俯いていた。夜道で蜘蛛の巣に突入した、くらいテンションがだだ下がる。えりすの言葉の意味は僕にとって重い。 

『あたしの邪魔』……というのは僕を苦しめる邪魔、という意味なのだ。

 えりすの願いが天に届いたのか、次の受業の前には葛城は消えていた。ただ、机には荷物等が置きっぱなので、帰ってはいないハズだ。

 僕は葛城がまた顔を出すのを持っていた。先程は『偶然』目のやり場を間違えて険悪になってしまったが、彼女は恩人なのだ。

 葛城がどうして不意に服装を乱したのか、力になれることがあったらそうしてやりたい。しかし僕の願いは天にスルーされ、葛城は昼休みになっても戻ってこなかった。   

 ふう、と僕は落胆し、力無く席を立った。

 昼食は購買の総菜パンである。実はそれについて母からは「お弁当つくるー?」と聞かれたのだが、遠慮した。

 高校生にもなって母親の弁当を持ってくるヤツはムリ……と近くの女子が話していたのだ。

 それから僕は、毎日パン代の500円を母から受け取ることにしている。

 一年三組の教室から出て、重い足取りで昼休みの喧噪にある廊下を歩いた。

 ふと目をやってみるが、天城さんはいつもの仲間と楽しそうに昼食をとっている。

『何の取り柄もないクセに、女の子が寄ってくるなんて、あり得ないから』

 えりすの声が蘇った。

 ―そうだよなあ。

 悪口に加工されて指摘されるまでもなく、僕にも判っていた。

 取り柄のない男に女の子は振り向かない。

 僕はその典型だ。テストは赤点寸前、運動は辛うじて走るのが速いが、それも高校レベルだと問題にならない。ボール競技も人並み、つまりは目立たないということで、容姿も『優しそうだね』と親戚に慰められるくらいだ。

 はああ、と今一度息を漏らす。 

 周りはあまりにも華やかなのに、僕だけ蚊帳の外だった。まるで高級な絵の具のようだ。 色とりどり、何色も綺麗な色が箱に入っている中、一つだけある『灰色』。他より大きめのチューブに入っている『白』と『黒』を混ぜれば完成する、実は敢えてそれだけ別に入れる必要のない色。それが僕、東雲拓生、なのだ。

 パンダを描くときなんてそもそもいらない。

「パンダ……否、パン買お」

 ぐうう、と冴えない音を鳴らした腹部に、不要だけど腹は空くのかと自虐的な考えに浸りながら、僕は購買部への道を急いだ。

 だがすぐに、水平方向に力強く引力と対決している健康的な胸を見つけてしまい、足を止める。

 葛城だ。

 二時限目に突如現れ、次の受業からは姿を消していたが、一階にある購買部へ至る階段の踊り場で、窓にもたれ掛かって何か沈思している。

 ―あれからずっとこうしていたのか?

「かかかか、葛城」 

 僕はようやく巡り会えたうれしさに、反射的に駆け寄った。こういうのがきっと運命なのだ。

「え?」

 葛城はおっくうそうに僕を確認すると、また目線を足元に落とす。

「なんだ……東雲か……」

 思い切り怯んだ。もう足がすくんだ。冷淡すぎる反応だったから。だが考えてみれば先程の完全シカトよりは脈がある。

「どうしたんだよ? お前らしくないじゃないか」

「…………」

「な、何か悩みでもあるのか? !! そうか、今日は女の子の……伝説と伝聞で聞いた、ブルーな日……」

「何の話しよ!」

「やあ! ええと、ならどうしてそんなに機嫌悪いんだよ?」

「ふん」

 ―しかし、葛城はやっぱり格好いいなあ。 

 乱暴な仕草もサマになるので、感心していまう。特に腕を組むと強調される胸の膨らみは、どうしてどうしてなかなかのボリュームと言えた。こいつもしかして誘っているのか?

「……おい」

 気付くと葛城の目が白っぽく光っている。

「ったく……どうして男ってそうなの?」

 苛立たしげ吐き捨てた。

「え?」

「とぼけないでよ……どうして女にだらしないのよ!」

「あの……? 葛城さん?」

 彼女はわしゃわしゃと片手で髪をかき混ぜる。

「浮気なんかしたクセに偉そうな態度で、母さんを泣かせて……私が正しいことを言っているのに、どうして父さんは……」

 目元まで赤くして、悔しそうに唇を噛んでいる。

「私の方が正しいのに……」

「……葛城、家族となんかあったの?」

 文脈を読んでおずおずと尋ねると、はっとした様子で背中を向けてくる。

「うるさい! 行ってよ、関係ないでしょ?」

 しかし僕のような適当人間でも、肩を小刻みに震わす葛城を置いては行けない。

「あ、あのさ、僕、よく分からないけど……きっと間違いってやつだと……」

「……父さんは違う女の人と一緒になりたいから、母さんと離婚したいんだって、はっきり言ってた」

「がふ! い、いや、きっとそれには大人にもある一時の気の迷いという……」

「……もうその女の人との間に子供がいて、歳も私と変わらないそうよ」

「のわ! ええっと、世の中には博愛という」

「うるさい!」

 尚も元気づける言葉を探したのだが、勢いよく振り向いた葛城にそう一蹴され、ついでに胸ぐらを掴まれた。

「く、くるしい」

「お前も男だ! 女の子の見られたくないところばかり見ているヘンタイだ! 私に近寄るな!」

「ぼ、僕は……」

「人の胸ばかりじろじろ見ているクセに」

 葛城は、喘ぐことも出来ないほどの凄まじい力で締め上げてきた。呼吸が細くなり何度か途切れる。

「く、くるしい……か、葛城……」

「男なんて……父さんのバカ! 男なんて死ね!」

 酸素の欠乏で、くるしい、と言う言葉が繰り返せなくなる。かと言って僕の自慢のへなちょこ腕力では葛城をなだめることも出来なかった。

 ―し、死ぬ……くるし……ああ、何か気持ちよく……あれ? 川が見えてきた……。

 はたと窮地に気付き、僕は最後の力を振り絞り叫んだ。

「み、み、みやー!」

「何をしているんだ! 拓生君を離せ!」

 ほとんど次の瞬間駆けつけた虎狼院みやが、僕と葛城の間に割って入った。

「な、何、あんた?」

 葛城は敵意剥き出しでみやを睨め付けるが、多少の動揺の色があった。

 無理もない。みやの外見はひどく幼い。ちょくちょく中学生、マセた小学生にも間違えられる。そんなクラスメイトがいたなど気付かなかったのだ。

 僕は真横で片膝を付くみやの背中に抱きついた。

「みやー! 怖かったよう、苦しかったよう」ぺたぺた薄い胸を触る。みやは男だから犯罪ではないのだ。

よしよし、とみやは優しく頭を撫でてくれた。

「もう大丈夫だよ、僕が守ってあげる、痛いところとか、ないかい?」

「うう、みやー」

 ―なんでお前男なんだよー。

 と続けたかったが、みやの乱入で興奮を静めた葛城が「バカみたい」と言い残して歩き出したから、言葉を飲み込んだ。

「か、葛城……」

 しかし僕の声を背で跳ね返して、葛城は階段を下りていく。

「全く……」みやは遠ざかる彼女に唇を尖らせた。

「ダメだよ拓生君、アイツ……葛城さんには近づかない方が良いよ」

「え?」

「知らないのかい?」

 みやは眉を顰めて小声になる。

「彼女は『刃苦怨』に入ったらしいよ」

 バクオン……今朝の光景、傍若無人な姿と耳を塞ぎたくなる噂を思い出し、僕は愕然とした。視線を転じたが、すでに葛城の姿はどこにもない。 

 僕は彼女に救われた中学時代を思い出し、頭を抱えて一人呻いた。  


 あれから一週間、葛城は定時に登校してきたが、話しかけることは出来なかった。

 葛城は皆を拒絶し、爆発三秒前の顔つきで窓の外を見ていて、僕なんかが近寄れる隙がない。 

 彼女の傷、抱えている悩みを垣間見てしまったが、それ故に何も出来ない。もし葛城が普通に机にいたとしても何かできるかは疑問だが、『刃苦怨』なんていう犯罪集団と関わってしまった彼女が心配だった。

 ―葛城……何もなければ良いんだけど……。

 大音量のスマホの着信音が、僕のそんな追想を破り捨てる。

「おわ」と声を漏らした僕は、現実の英語授業中のクラスに戻る。無表情のまま葛城が鳴り出したスマートフォンを耳に当てていた。

「私だけど……」

 事も無げなく会話を始める彼女に、教室中の誰もが息を飲んだ。

 僕も言葉を失い、色白で端整な横顔と、担当授業中に面目を潰された大木先生の赤と白と青に点滅する顔を見比べてしまう。

 ―葛城……。

 彼女は恩人で、中学時代はクライメイトだ。だが『刃苦怨のメンバー』というあまりに危険な肩書きが、葛城と僕の間に横たわっている。

 だから声も掛けられないのだが、この一週間、朝に葛城を教室で確認したら、僕は素直に嬉しかった。

 まだ学校から完全に脱落していない、まだ同じ場所に居てくれる、それはまだ残った希望だった。

 しかしその葛城は、堂々と受業途中に携帯電話に出て、小声ではあるが話し出した。

 クラスメイト達がこそこそと囁き合う中、場違いな葛城の声だけが教室を満たした。

「き、君!」

 数十秒のタイムラグの後、大木先生はブチ切れた。

「何のつもりかね? 授業中は携帯電話の使用は禁じられているはずだ、それを……」

 ここで喉から妙な音を出す。電磁波だ。大木先生は宇宙人なんだ……否、喉をコントロール出来ないほどに激越しているだけだ。

「き、君は確か葛城、だね? 最近あまりいい話を聞かないが……電話を切りなさい!」 大木先生の声が何段も高くなる、やはり宇宙の人? だが葛城はアブダクションやらキャトルミューティレーションを全く恐れず、通話を続けている。

「こ、高校は義務教育じゃないんだぞ! 受業を邪魔するのなら教室から出て行け……私はこの問題について……」

 だが大木先生は「ぐえ」と変な呼吸音になる。

 葛城が片手にスマホを持ちながら横目で突いているのだ。彼女は美人だがどこかクールな印象がある。不機嫌顔はかなりの威圧的だ。ちょっと興奮を感じます。

 一睨みで教師を黙らせた葛城は、携帯電話を切りスカートのポケットに仕舞うと、無言のまま椅子を引いた。

 大木先生が無意味に口を開け閉めする間に、手早く荷物を鞄に入れる。

「葛城……」

 気配を察して呼びかけてみたが、彼女はそのまますたすたと教室を出て行く。 

 一年三組はエア・ポケットのような静寂に包まれた。

 あまりにも見事に葛城が校則やらから飛び出していったので、皆、むしろ見とれてしまったのだろう。

「大した物ね」と誰もが沈黙する中、全く動じていないえりすが嘲った。

「しゃあしゃあと、全く、途中で居なくなるなら最初から来なければいいのよ」

 ―葛城……。

 僕は中学時代、最も辛かった時を思い出していた。

「このままころころ坂を転がって、墜ちていけばいいのよ」

 ぎらっと、火が漏れそうな目をえりすに向ける。『あの時』葛城は、僕を救ってくれたのだ。

「な、なによ? やる気?」

 一瞬怯んだえりすだが、すぐに身を乗り出してくる。

 拒絶の意味を込めて勢いよく背を向けてやった。

「こ、こいつ……」えりすは僕を罵倒し出したが、構っていられない。

 英語の受業はそれから一〇分の中断の後、再開された。だが、直後にチャイムは鳴り、大木先生は青ざめたまま、教室を出て行く。

 僕は教科書類を片づけるのももどかしく、席を立った。

 葛城はとっくの前に出て行った。しかし、また学校のどこかに残っているかも知れない。

「さすが『刃苦怨』のメンバー」

 と、呑気なクラスメイト達は無責任にはやし立てているが、そんな気になれなかった。

 ―葛城、何があったんだよ?

 モデルのように背の高い彼女の姿を探そうと、僕は扉に突進した。

「拓生君」

 そんな僕の前に、新中学生くらいの女の子が立ちふさがる。

 中学生ではないし、女の子でもない。虎狼院みやだった。

「みや……どいてくれ、僕は葛城を捜さないと」

「彼女のことはほっとくんだ」

 みやは小さな顎を左右に振って、道を譲らなかった。

「どいてよ!」

 僕が強く足を踏み出すと、妙に静まりかえる教室のどこかで椅子が引かれる音がした。

「あ、あの……私も、そう計算で出ました」

 振り返ると、小さなメモ用紙を手にした天城さんが椅子から立ち、おずおずと発言する。

「拓生君は、追うべきではない、という答えです」

 え、と僕が見回すと、クラスメイト達に同意の頷きが広がっている。

「なんで? どうしてさ、葛城は僕の恩人なんだ、クラスメイトじゃないか」

「あうあう、計算では、追ったら拓生君が危険になると計算できます」

 皆に問うと、天城さんははらりはらりとメモ用紙を何枚か落とす。

「え? でも……」

「……君は優しすぎるよ、拓生君」

 愕然とする僕に、みやは眉根を寄せる。

「いいかい、彼女は……葛城さんは自分から出て行ったんだ、自分で刃苦怨に入った、これは真実だよ、君があんな犯罪集団と関わってまで彼女を救う理由がない」

「でもみや、彼女は昔僕を助けてくれたんだ、だから」

「だから、葛城さんを救う? ……それは誰の意思?」

「え?」僕は虚をつかれ聞き返す。珍しくみやは厳しい。

「葛城さんは自分の意思で動いている、拓生君は勝手にそれが間違いだ、と言い出しそれを彼女に押しつけようとしている……そうじゃないかい?」

「で……もさあ」

『刃苦怨』の危険性はみやも知っているはずだ、そんな中に葛城を置いておけない。が、みやはそんな僕の思いを看破した。

「……葛城さんが危険だ……と言いたいんだろうけど、彼女は何度も指摘するけど、自分からそこに入ったんだ、危険かどうか判ったもんじゃない、僕から言わせれば彼女も刃苦怨も同じだよ」

「みや!」

 さすがにそれは言い過ぎだと語気を荒げたが、みやは動じなかった。

「葛城さんが犯罪集団から抜けたいなら自分でそうするよ、そうしないのはそこにいたいからだろ? いくら拓生君でもお節介が過ぎるよ」

「友達、なんだよ、葛城は……」

 反論が見つからないからただ繰り返した。みやの言い分も一理あるのが判る。葛城が『刃苦怨』に入り、受業に出なかったとしても、それが彼女の望みなら、他人である僕にとやかく指示される言われはない。それでなくとも自立を意識して生きているフシがある葛城は、僕なんかの忠告に決して耳を貸さないだろう。

「僕は……」

 あるいは、と気付いてしまった。

 ―僕は気に入らないのか? 僕が『刃苦怨』がキライだから、葛城もそれから遠ざけようとしているだけで、それは大きなお世話なのかな?

 急速に葛城を追いかける意思が挫けていく。

 ―ただ、僕のエゴを彼女に押しつけたいのかな?

 そう考えると、自分が上から彼女を見ていた、と気付いてしまう。

 僕の体から、ふわりと力が抜けていった。確固たる葛城への思いが薄れてしまう。

 ―葛城は……学校や僕らより『刃苦怨』の方が良いのかな? 

「拓生君、彼女の事は彼女に任せれば良いんだよ、間違いが判れば自分で何とかするよ、君は『刃苦怨』なんかに近づいちゃダメだよ」

 肩に置かれたみやの手を振り払えなかった、ただ項垂れる。

 結局、彼女を追う事が出来なかった。みやと天城さんから逃れるように、辛うじて廊下に出たが、僕は深夜徘徊する幽霊のように目的も見いだせず彷徨った。

 ―身勝手なのは、僕なのか?

 それは非常に切実な問いだった。

 難問を解く切っ掛けも見いだせず、討論しても負けてしまうのは確実だから、ゆらゆらと一年三組から遠ざかった。

 葛城の姿を探している、訳でもない。みやの忠告が胸に突き刺さっている。逆に、今もし彼女を見つけても、何も言い出させないだろう。

 だが、その意見にどこか違和感も感じる。どこだかは、全く判らない。

 だからふらふらと当てもなく、学校の中を歩き回った。

 人気のない廊下の意味を考えるまでもなく、現在は授業中だ。

 どうやらそれなりの時間が経っていたらしい、気付いたら受業をさぼっていた。授業中故に、誰とも出会わない異世界のように静かな学校内を、僕は夢の中のような足取りで進んだ。

 ―どうすれば、いいんだろう、どうしたら、良くなるんだ?

 何度も何度も何者かに問うたが、有力な解答は思考の中からは飛び出してこなかった。

 永遠に続くような迷宮のような暗い廊下に、不意に神聖なまでに光り輝き揺れ動く、二つの宝石が現れた。現れた!

 コマンド→戦う……戦えない。→魔法……まだ一五年ある。→道具……持っていない。→逃げる……その必要はない。→観察する……しよう。→鑑賞する……している。

 それは、ぽにょんぽにょんと入神の域に達する見事なリズムで跳ねている。  

 とても柔らかそうで、マシュマロよりも甘そうで、温かそうだ。

 正体は一目瞭然だ。 

 ちちだ。

 お父様ではない。

 乳様だ。 

 香り出した甘い香りを目で辿ると、満面の笑みの雛森先輩が立っている。

 学校のアイドル……雛森ひなもりやよい先輩が現れた。僕は仲間になりたそうに見ます。

 あまりのクリティカルな出会いに寸前まで考えていた諸々を忘れかけ、拳一つ分くらい口を開けた。

「あれれ? 後輩君、今って授業中だよね? まさかサボリ? ダメよ」

 駄々っ子を叱るように、雛森先輩は柔らく握った拳を持ち上げる。

 まるで菩薩のような神々しい姿に、僕の目が潤んだ。雛森先輩から発散される無限の母性が、僕をどうしようもなく意気地なしにしている。

「こら、先輩は後輩君をそんな不良にした覚えはないぞ……どうしたの?」

 雛森先輩が真顔になる。涙目だと気付いてくれたのだ。

「せ、先輩!」

 言葉がひどい熱を持ち一気に喉にせり上がってくる。葛城のこと、みやに言われたことがいっぺんに飛び出しそうだった。

「うん」と雛森先輩は体操着に包まれた体の正面を、僕に向けた。

「何かあったのね? 体育の移動の途中だったけど……判った、聞いてあげる、この先輩に任せて」

 僕はもごもごとどもりながら、雛森先輩に葛城のことを相談した。

「『刃苦怨』……」さすがにその名称を聞いた雛森先輩は眉を顰める。僕は唯一の友人みやの鋭い指摘についても隠さず、雛森先輩に打ち明けた。

「なるほど」

 彼女は真面目に真剣に耳を傾けてくれた。

「後輩君は、その子の事を助けたい……悪い人達と縁を切らせたい、でも友達にはそれが君の身勝手だ、と言われたのね?」

「はい……僕は、上から目線で勝手に葛城を憐れんでいたんですか? 先輩」

 雛森先輩は華奢な指で顎を摘んで、しばし考える。

「……ねえ、後輩君……そのお友達、助けたいの?」

「はい! 僕が昔辛かったとき、葛城だけは僕の味方だったから」

 僕が即答すると、雛森先輩は光を発したかのように笑った。

「ならいいじゃない? 助けてあげて!」

「で、でも」

「それが押しつけがましい、なんて意見、どうでもいいことでしょ? いい? 後輩君」

 雛森先輩は口元を引き締める。そうすると朗らかな彼女がとても知的に見えた。

「君は言葉に惑わされすぎているの、身勝手? 人を助けるのが身勝手で悪い? 善意っていうのは往々にして身勝手なものなの、助けたいという思いを大切にして、きっとその子も誰かの助けを待っているわよ」

 視界が一瞬で明るくなった。雛森先輩の言葉が閉じかけていた僕の瞳を大きく開いてくれた。蒙を啓く、と言うべきだろう。

「そうか……」

 ―葛城はそんなことを考えず、僕を助けてくれたんだ……考えず、助ける。

「でもね」

 体の隅々にまで活力が戻るのを感じた僕だが、雛森先輩は少し心配そうだ。

「無理はしないでね、後輩君、君みたいな優しい子が傷つくのは先輩、辛いよ? きっと君の友達もその危機を感じたから止めたんだと思う」

 それもあり得た。みやは何よりも僕を優先にしてくれる『良い奴』なのだから。天城さんもそんな事を言っていた。

 しかし、もう腹は決まっていた。

「ありがとうございます」と雛森先輩に深々と頭を下げる。

「い、いいって! もう、大げさなんだから!」

 手と共に乳が揺れているが、その時だけは目には入らなかった。

 ―葛城を助ける。人の意見なんて知るか!

 一人、そう決意していた。


 次の日から葛城の動向をより探った。

 彼女は学校に来たり来なかったりしたが、それでもパターンはある。  

 葛城は絶対に体育はさぼる。

 中学時代もそんなに体育は好きじゃなかった。ただ運動オンチなのではない、フィジカルな面でも超高校級の葛城に誰も着いていけないのだ。

 この世は不思議なもので、出来すぎると逆に孤立してしまう。学校等で行われる集団系の運動では、より顕著にそれが表れる。

 美人で、モデル体型で、スポーツ万能。

 入学と同時に葛城はあらゆる運動部勧誘者に囲まれた。が、彼女は先輩達を一睨みで黙らせ、僕と同じく帰宅部という最も文化的な部活に身を置いている。

 あるいは、彼女の変化はその時からあったのかもしれない。

 気付かない僕はバカだ。

 バカバカバカ! 数回机に頭を打ち付けてみる。 

 周りがざわっとして、周りの机が僕から遠ざかる。

 ちょっと葛城の気持ちが分かった。

 孤立って悲しいな。 

 とにかく葛城は体育をさぼる。

 気付いた僕は、体育の時間を待った。長期戦になるまでもなく、意外にすぐにその時は訪れた。

 二時限目……体育。

 皆はぞろぞろと運動着に着替えるために教室を出て行く。しかし予想通り、葛城はほおづえを付き、席に座ったままだ。 

 程なく、一年三組には僕と葛城しかいなくなった。

 訪れた静寂に心がささくれ立ったが、何とかなだめ席を立ち、また外を眺め続けている彼女に近寄った。

「葛城」

「…………」葛城は相変わらず、最初の呼びかけをスルーした。だが、それはもう想定内であり、そんなことに怯まない。

「葛城、『刃苦怨』から抜けろよ、それからちゃんと毎日受業に来いよ」

「……なによ? いきなり」

 振り向いた葛城の瞳は刃のようだ。

 僕は怯まず、家で何度も反芻した言葉をなぞる。

「どうして学校をさぼるんだ? ルールを破るのはお前、嫌いだっただろ?」

「関係ないでしょ? ほうっといてよ!」

 葛城は硬くした拳で机を叩く。

「関係なくない!」

「何がよ! あんた私の何?」

「友達だ!」

 胸を張ってみせると、葛城は虚を突かれたようで、しばし黙った。

 ふ、と次には体を小刻みに震わせて笑い出す。

「と、友達? ふ……あはははは」

「何がおかしいんだ!」

 笑い続ける葛城に、顔中が熱くなる。 

「友達? ふーん、で、だから? 私に偉そうに説教? あんたが?」

「どうしちゃったんだよ、葛城……お前、そんな奴じゃなかっだろ? 多少大人だったけど、そんな風に投げやりじゃなかったし、本当は優しい良い奴だったじゃないか?」

「うるさい!」

 葛城はやおら立ち上がり、僕の襟首を掴んだ。

「あんたなんかに関係ない! 友達ヅラでお節介しないでよ! 私は自分でこうすると選んだんだ、私の意思だ、邪魔しないで」

「知ったことか!」

 雛森先輩の助言を受けた僕には、そんな言葉など無意味だ。

「僕はお前が間違っている、と思う、思うから間違いを辞めさせる、刃苦怨とも手を切らせる! お節介と思いたければ思え」

「アイツらは私の仲間だよ?」

「ば、『刃苦怨』は犯罪集団だ! そんな所にお前を置いておけない」

「黙れ、お節介!」

 ぼこ、という鈍い音を間近で聞いた。 

 葛城に殴られた僕は、手近な机を倒しながら床に転がる。かっと頬が痛み、口の中に違和感を感じた。

 しかし、それでも僕の心は傷つかない、折れない、負けない。葛城のためだ。

「な、何をされようと、僕はお前を『刃苦怨』から抜けさせる、友達だからだ! そうさ、お前がどう思うと、僕はお前が友達だと思っている! お節介でもいい!」

「え」とその時初めて彼女の表情が変わった。何か躊躇っている。 

 葛城、と続けようとした。それが好機だと何となく察知していた。だが、突如鳴り出したサックスの演奏に僕の舌が止まってしまう。

 彼女は一挙動でポケットから携帯電話を取り出すと、何か言いたげに僕を見ながら出た。

「私……え? い、今から? ……いいケド」

「葛城!」声を上げるが、葛城はもう鞄の柄を掴んでいた。

「お、おい」

「私に関わらないで、東雲……あんた自身の為によ」

「か、葛城!」

「来るな……あんたはここにいなさい!」

 葛城が微笑んだ、触ったら壊れそうな危うい笑みだった。

「東雲、ありがとう……私、嬉しかった……そうね、あんたは友達ね、でも、もうどうしようもないの……『刃苦怨』は、アソコだけが私の居場所なの!」

 そう言うと葛城は教室を飛び出していった。

 僕はゆっくりと立ち上がり口の中のしょっぱさ、彼女に殴られた時に出血した頬の内側を舌でなぞる。

 迷いはない。

 葛城が逃げるなら追うだけだ。 

『お節介』とか、本当にどうでもよくなった。僕は気付いた。

 ―先輩の言うとおりだ、葛城は助けを求めている。

 すぐに葛城が出て行った扉に駆けた。最後の瞬間、泣いていた彼女を連れ戻すのだ。


「拓生君!」

 教室から出るとすぐ、みやと鉢合わせた。

「何しているんだよ? バスケットが始まるよ! 先生怒ってたよ」

 どうやら僕がさぼった事に気付かれたらしい。まあ、毎回点呼するから当然ではある。

「ごめんみや! 僕には、やらなければならないことがあるんだ! 先生に謝っておいて」

 僕はそう言い残して走り出したが、背後にいたはずのみやがどういう仕掛けか、前方から現れ、僕の肩を押すように両手で止める。

「拓生君! 待ってよ」

「え? みや、今何したの?」

 確かに後ろにいたはずだ。が、彼は当たり前のように前にいる。そう言えば少し前、葛城から僕を救ったときも、みやの動きはヘンだった。

 忍者か仙人か?

「そんなことはいいんだ!」

 みや眼差しは厳しかった。

「……葛城さんだね? 彼女を助けるんだね? どうしてそんなことを、前にも言ったとおり」

「みや」色々な疑問はあったが、一刻も時間がおしいから、それらを切り詰めた。

「君は僕の為を思ってくれているんだって判るよ、でも同じくらい、僕は葛城が大切なんだ」

「わかってくれよ」みやの女の子のような腕を握って押し戻すと、彼はじっと僕を見つめてきた。

「全く」静かな薄くらい廊下に、みやの吐息が漏れる。

「君は全然変わらないね? 昔のままだ」

「え?」

 ―昔? みやと会ったのは二ヶ月前なのに。

「ほら、行きなよ、後は僕が何とかするから、先生は適当に誤魔化しとくよ」

 みやは不思議な事を言い出すが、とにかく熱のこもった視線に頭を下げた。

「ありがと、みや、んじゃあ行ってくる」

「気を付けるんだよ」

 みやの微笑みは奥手な乙女のようだった。

 彼と別れた僕は学校中を探し回った。

 だが、葛城の姿はない。  

「どこに……葛城……」

 一瞬、悲観的な思いに包まれたが、その耳にバイクの爆音が飛び込んでくる。

 これだ! 僕の体はそう答えを出す前にその方向を目指していた。

 校舎から走り出て校庭の反対にある裏門をくぐると、葛城はそこにいた。

「なんだよ? なるべく学校の時間は避けろって、言ったよね?」

「いいじゃんかよ、学校なんて関係ねーよ」

 探していた葛城は、バイクに跨る金髪の男と何か言い争っている。

 鉄の決意を固めたハズの僕も、さすがに足を止めてしまう。

 アイツだった。いつかの登校途中の僕を心底ビビらした少年だ。

 背丈は僕より顔一つ半大きく、剥き出された肩から腕は筋肉でぱんぱんに張っている。髪はまだらな金色で、耳には重そうなピアス、指を頑丈そうなシルバーの指輪で武装していた。

 生涯付き合いたくも、すれ違いたくもない風体の男だった。普段なら目があっただけで小中学生女子の持っているぴょーとなるブザーを鳴らすだろう。

 だが、凄まじいプレッシャーに耐え、ぎりっと奥歯を噛みしめると、大股を作ってデカいバイクに近づいた。

「おい!」と勇ましく腹から声を出したが、耳はキーンと鳴っている。

「ああ?」

 金髪男の鋭い視線に、僕の膀胱はふんにゃりとした。だが、力を込めて尿意に耐える。「か、か、葛城、葛城から離れろ!」

 声が奇妙に上下する。だが、今はそんな些事に構っていられない。

「はい?」と金髪男は一瞬、無表情になる。貧弱な僕などに意見されるとは思っていなかったのだろう。

「やめて! 誠次」

 一番物わかりの良い葛城が、一番早く反応した。

 ―誠次、そっか、こいつが……。

 西山誠次。名前だけは知っていた。

『刃苦怨』のリーダーで、確か数ヶ月前の放火事件の主犯で、今は保護観察になっているはずだ。

「なんだ? コイツ?」

「構わないで、アイツはただのバカだから」

 は虫類のような誠次の目を、葛城は必死に逸らそうとする。しかし、僕ももう退けない。

「葛城は、葛城は、お前らみたいなヤツらとつるむ奴じゃないんだ! 葛城を返せ!」

「東雲!」

 珍しく葛城が慌てている。が、もう手遅れだ。

 ふふふ、と西山誠次は、らしくもなく無邪気に笑った。

「なんだよ、イマイチ乗りが悪いと思ったんだ、あんなヤツに絡まれていたのか?」

 そして、誠次は億劫そうにバイクの上から値踏みしてくる。

 無駄だ、僕はタダの貧弱な高校一年生、特技は無し、趣味に映画鑑賞と書いてしまうたわいもない者だ。値踏みするまでもないのだ。ふふふふ。

「おい、そこのガキ」

 僕は身構えた。まだかなり距離は開いているのだが、そうしないと言葉だけでばらばらに壊されてしまいそうだったのだ。

「失せろ」

 だから、その強烈な言葉に耐えた。肩は、唇は、こめかみまで震えたが、僕は耐えた。腕を目の前に上げ、鍛え抜かれた恫喝に抗する。

 西山誠次はそんな小さな抵抗が気にくわなかったようだ。ぺっと、音を立てて唾を吐いた。

「東雲! もうどっか行ってよ!」

 葛城はさらに警告してくるが、誰ももう後に退けない。

 急速に空気が凍てついていく。随分と暖かくなった季節なのだが、肌寒さに身震いした。丁度、雲の切れ間から太陽が覗いたのだが、それすら白々としたガラスの反射のような光でしかなかった。

「へ、おい、そこのヒーロー気取り」

 誠次はどこか冗談めかして語りかける。しかし、その目は闇のように黒一色に塗りつぶされていた。

「グチャグチャにされねーと、わからねーのか?」

 どこかその口調は優しく、発した言葉とアンバランスだ。

 だから「へ?」と聞き返してしまう。

 構えていた右腕が不意に掴まれ、背中に捻られた。

「うぐ!」僕は痛みに呻き、そのまま背後の何者かに足を払われアスファルトに倒された。

 ―バカ! このチキン!

 自分の愚かさを呪う。

 正面にいた西山誠次の迫力に圧倒され、仲間がいる、という簡単で当たり前な事態に思考がたどり着かなかった。

「誠次!」

 葛城は簡単に組み伏せられた僕を見て、真っ青になる。

「アイツは関係ないのよ、いいからどこかで離して来て、私は行くから」

「ダメだ! 葛城」

 惨めさを噛みしめながら僕は叫んだ。自分の責任で彼女の立場を悪くしてしまった。とても耐えられない。

「無理だな」

 答えは意外な所、上から降りてきた。

 え、苦心して首を捻るとどこかで見た顔があった。

「あ!」

 №7だった。いつか天城さんに告白していたバスケ部のイケメン。

「こいつは一年のイケてる女を口説くのに邪魔をした」

 そうか……僕は№7、もはやムカツク奴№1、嫌いな奴界のカカ○ットの、ぎらぎら輝くピアスを見ながら悟った。

 ―こいつも『刃苦怨』なのか……。

「そいつは……」

 誠次は愉快そうに唇を歪める。

「死刑だな」


「つまりだな」

 №1は僕の前の丸椅子に座って、偉そうに説明をしていた。

「俺と『刃苦怨』はギブアンドテイクの関係なのさ、難しい言葉で言うと、相互扶助ってヤツだ」 

 №1は人差し指を上に向けたようだが、目元が腫れた僕にはよく見えなかった。

『刃苦怨』に連れてこられたのは、どこかの店だった。

 そんなに広くなく、バーカウンターがありその奥にボトルが並んでいる。『刃苦怨』が夜の繁華街で用心棒をしている事を思い出した僕は、どこかの飲み屋だ、とだけ理解出来た。そして椅子にガムテープで固定され、何人もの『刃苦怨』メンバー、見るのにも勇気がいる連中に散々殴られ、蹴られ、その様子を携帯電話やデジカメで撮られ、嘲笑われる。

 苦痛と恐怖で最初の方で泣いてしまったのだが、犯罪集団の心に響くことではなかったようだ。実は密かに漏らしてもいた。これはナイショだ。

 一時間近い暴行の末僕の無限の涙も尽き、感情も摩滅したかのようにすり切れた。ただ、痛めつけられた場所が他人の物のように鈍く疼く。

「まあ、お前みたいな小物は殺すまでしねーよ、安心しな」

 僕が泣き叫ぶのをにやにや見ていた№1は、一連の終わりと妙な親しさで接してきた。「ただ、ほら、こちらにも立場とか、プライドとか、いろいろあるんだよ、判るだろ? 今回お前はちょっとばかしやりすぎた、だから、ちょっとばかし痛い目に遭う、そうしなければ、そうはならない」

 つまり自分たちの行動を正当化したいのだ。ぼうっとする思考で意図を理解した。

「これで懲りてくれれば、俺たちはお前にもう何もしない、もちろん、警察もなしだ」

 その後半部分が彼等の言いたいこと全てなのだろう。ぐっと血の味の奥歯を噛みしめた。

「へ」と№1はそんな僕の様子を嗤う。

「しょうのねえヤツだな……まあ、時間はあるんだ、さっきの様子だとすぐに改心しそうだしな」

 体が羞恥に震えた。確かに外聞もなく泣いて悲鳴を上げたのだ。漏らしたし。

「そうそう」と№1はそんな僕をさらにいたぶるように、整った顔面を近づけた。

「俺の役目を説明していなかったな? 俺は……補給部隊? みたいなもんだ、『刃苦怨』の女に飢えた連中に極上のデリバリーをサービスする」

 脳裏に鮮烈に閃いたのは、天城さんの姿だ。

「だから、日々イケた女に声を掛け、モノにした後はここに連れ込み……なぁに、みんな大人しいモノさ、誰かに言ったのなら自分が大恥かくからな」

 その台詞が僕には信じられなかった。許せなかった。女の子を苦しめる『刃苦怨』の理論。どうしてそんなに人を苦しめることで出来るのだろう。

「まあ、その代わり」

 №1は自慢げに続けた。

「『刃苦怨』の連中は、俺がバスケで活躍できるようにするってことだな……ほら、知っているだろ? 西校の間中、もちろんそれだけじゃない、お前はバカだから知らないだろうが、ウチとやる前はどうしてかみんな怪我するのさ」

 僕は怒りにもがいていた。目の前の最低男の口を塞ぎたい。足を動かし柔らかい絨毯を何度も踏む。 

「まあ、強情なのも今だけさ、んじゃあな、しばらく一人で頭を冷やせ、そんで次にお前のクラスの女をまた誘うときには無視しろ」

 その言葉に僕の背筋がつっぱるように凍えた。氷塊で撫でられたようにびくりとする。

「て、天城さんに、何をするんだ?」

 びしり、と頬が革靴で蹴られる。

「口の利き方……先輩には敬語を使えって、カワイクねえヤツだ、まあ、特別に教えてやるが……お前のようなのがうろちょろしているから、この際一挙に済ませてしまおうと思って、力でな」

 №1は自身の引き締まった体躯を自慢するように胸を張った。

「や、やめろ!」

 再び僕の顔面は蹴られた。

「ふん、まあ喚いていろ、どうせ言いなりになるしかない」

 にやり、と嫌らしく唇を歪めて、ムカツク奴№1は店から出て行った。何とか制止しようと最後まで足掻いたが、動きを封じる粘着テープはびくともしない。

「くそっ」

 しばし一人で格闘してみるが、非力な僕ではどうしようもない。

 また目の前がじわじわと滲んでいく。

 辛かった。耐えられなかった。一方的に殴られた傷も痛むが、それ以上に心が痛む。

 ―天城さんが、あの愛らしい子が。

 天城さんの悲しい涙なんて見たくない。違う、どんな女の子の涙なんて見たくないのだ。僕は誰かをイジメることでは燃えない性癖だ。イジメて欲しい。

「くそっ」ともう一度苛立ちが口をついた。

 無力で愚かな自分が許せない。

 もし両開きの扉の片方が開き、一人の人間が入ってこなかったら、そのまままた泣き出していただろう。

「かつらぎ……」

 喉が塩辛い涙につかえる。

「だから言ったでしょ……私に構うなって?」

 葛城は無言で近寄ると、ポケットからハンカチを取り出し顔に当ててくれる。

 ずきり、と鋭い痛みが走った。

「全く、酷くやられたわね……私なんか見捨てれば良かったのに」

「よ、良くない」

 散々格好悪い所を見られた負い目があるから、反論は小さい。

「良いのよ」

「良くない!」

 葛城は僕の強情さがおかしいのか、ちょこっと微笑んだ。

「東雲、私は邪魔な存在なのよ」

 彼女の手が、優しく僕の傷をなぞっていく。

「父さん……言ってた、私が居なかったら母さんと離婚していたって、そしたらもっと幸せだったって……母さんも、私が出来たから結婚したんだって、みんな私が悪いんだって、ほらね、私はいらないでしょ」

 僕は葛城の寂しそうな表情に爆発した。

「知るか! それはお前の親の問題だ! 僕はそう思わない、邪魔じゃない」

「なんでさ!」

 葛城の眉が跳ね上がる。

「なんであんたが、そんなこと言えるの?」

 僕たちの間にしばらくの沈黙が降りる。数回深呼吸をして胸の熱を抑えると、涸れた声でそっと大事な思い出を切り出した。

「……葛城、お前、知っているだろう? 僕の中学時代」

 彼女は無表情だが、構わない。 

「僕は……みんなにシカトされていた、学校に来ても、僕は一人だった」

 学校で誰も口を利いてくれない。それは僕の心に大きな傷と絶望を穿った。登校出来なくなる一歩手前だった。毎朝お腹が痛くなり。起きるとズル休みの言い訳を考えるようになっていた。

 さらに辛いのは、クラスを先導して僕を孤立させたのは、佐伯えりす、ずっと昔からの幼馴染みだった。

「そんな時……僕は、僕は忘れ物をしたんだ、数学の時間必要だった定規だ」

 声が涙で斜めにうわずる。

「誰も貸してくれる人なんかいない、みんな僕をシカトしているんだから、でも、でも君だけは、君は貸してくれた」

 両目にせり上がった熱い液体を阻止しようと目をつむったが、その途端ぶわっと溢れ出した。

「なに? 忘れたの? ほら、私の使っていいよ」

 気付いた葛城のたった一言、それに僕は救われた。

 数学の授業だけでなく、それからの学校生活もだ。

 白い目の群れの中で彼女だけはシカトの輪に入らなかった。それで葛城の立場も微妙になり、えりすに憎まれたが、葛城はどうでもいい風に関わらなかった。

「ぼ、僕ががんばれたのは、お前が居てくれたからだ、お前が必要だった、邪魔なんかじゃない、僕を助けてくれた」

「そう」とじっとその話しに耳を傾けていた葛城は、そっと頷いた。

「あの時は、私、他の連中がバカらしく見えただけなのに、えりすも嫌いだったし、全く、それでこのお節介?」

 彼女は一つ肩をすくめると、僕をがんじがらめに捉えている粘着テープに手を掛ける。

「ほら、逃がしてやるよ、あんたは本当に手が掛かるよね?」

「でも……がづらぎば? ぼぐどいっじょにいごうよ」

「涙を拭いて……何言っているか分かんないよ、私は、ここに残る……だって、『刃苦怨』の連中はひどいヤツラだけど、父さんよりはマシだ、あんたは心配してくれるけど、実際、辛い目には遭っていないし」

「ぞんな……」

 僕は涙声を駆使して、頑なな彼女を説得しようとした。

「本当だよ、私には指一本触れてこない、意外に良いヤツ達かも」

 そんな筈はなかった。先程、№1の卑劣な告白を聞いたばかりだ。

「さあ、ぐずぐずしていられない」と躊躇する僕の手を取り、葛城は扉に押しやる。

 ―葛城は?

 と納得できなかったが、彼女に強く背中を押されて、仕方なしに建物から出た。

 息を飲む。

 目の前には陰がさした路地の一角がある。夜には点灯するだろうライトのない繁華街は、昼日中には眠っている吸血鬼の顔のように白々としている。

 そんな化物よりももっと危険な連中が、僕らの前に並んでいた。

「よう、お出かけかい?」 

「誠次……」

 遅れて出てきた葛城が驚愕に息をついていた。

 西山誠次は斑金髪な撫でつけながら、泥のように濁った眼球で二人を見回す。

「お前はずっと監視されていたんだよ、司、俺たちは人見知りだから、そんなに簡単に他人を信じねーの!」

 西山誠次の背後にいる二十人近い『刃苦怨』メンバー達が一斉に忍び笑いを漏らした。もちろん№1もいる。

「なによ、これ?」

 葛城が震える声で尋ねると、西山はこきこきと首の骨を鳴らす。

「おいおい、司、それはこっちのセリフだろ? 何のつもりだお前、だな」

「監視……?」

 葛城の目が見開かれた。何か凄まじい勢いで考えているようだ。

「ああ、お前がウチで何するつもりか見張ってた……俺たちはさ、それなりに周りに気を配っているワケ、本当に信用できるか、本当に黙っているか、それを見極めてから……てことさ、つまり、お前は俺たちの信頼を勝ち得なかったんだ」

「私を、騙して、いたのか?」

 浅い呼吸を繰り返す葛城に、西山がうんざりしたように肩をすくめる。

「それはだから、お前もだろ? 最後のチャンスにお友達を助けやがった、俺たちを裏切った」

「まあ」と西山は指輪だらけの大きな拳を突き出した。

「お前はいい女だから、仲間にはなれなくてもそれなりには可愛がるさ」

 また№1が、『刃苦怨』達が嗤う。喧しく、醜く、嗤い合う。

「……私に何かするつもり?」

 僕の胸がパンクのようにつぶれた。葛城が危険なのだ、またも僕のせいだ。

「だから、可愛がるだけだって? お前偉そうだけど経験ないんだろ? 安心しろってすぐに大量経験者だ……女のクセに粋がるからお勉強することになっただけさ」

 ぶるり、と葛城の体が震えた。

 僕は決心して一歩踏み出す。

 ―葛城を逃がそう。

 また痛い目に遭って泣き喚くかも知れないが、今度は大きい方を漏らしちゃうかもだ、が葛城は守るのだ。パンツは守れないが。

「東雲」僕の意図を悟ったらしく、葛城が肩を掴んだ。

「無茶よ、殺される」

「そんなこと!」僕は声が割れるほど焦った。彼女が妙に落ち着いている。まるで観念してしまったかのようだ。

「に、逃げ」と続けようとしたが、その前に葛城の頭頂部があった。豊かな髪がさらさらと揺れている。

「あれ?」

 葛城が長身を折って頭を下げていた。

「ごめん、東雲……お前の言うとおりだった、私、バカだった、バカ過ぎる」

 ―謝っている場合じゃない!

 が、葛城は悔しそうにまだ謝罪を続ける。

「ごめん……お前を巻き込んで、傷つけて、こんなゲスどもに騙されるなんて……私」

 ばぐ、と鈍い音が上がった。

 僕は硬直した、葛城の細い肩に金属の棒が振り下ろされていた。

 呑気な事をしている間に、鉄パイプで襲われたのだ。

「か、かかか」葛城、と呼ぼうとしたが、もう舌が動かない。

「さて」

 僕の動揺など何もないように、肩を鉄の棒で打たれた筈の葛城が頭を上げた。

 どぐ、とそのこめかみに違う鉄パイプが命中する。

「おいおい、大事な女をあんまり……」

 その様子を見て西山が半笑いで制止しようとしたが、彼の表情はそのままマスクのように固まった。

 二度も鉄パイプで殴られた葛城は……何ともなっていなかった。

 風でも吹いたか、のように涼しい様子だ。

 間髪入れず彼女のみぞうちが容赦なく突かれる。

 が、身を折ることもなく、表情も変えず、ただ僕を見ていた目をすいっと動かした。

「一つ言っておくわ……女の子をナメるな!」

 葛城の掌が消えた。

「ぐええ」と呻き声が上がる。

 彼女に鉄パイプを振り下ろした二人が、掌の一撃で倒れた。

 凄まじい一撃だったのだろう、二人の男の頑丈そうな顔が半分ほどに潰れていた。

「な、なんだ? おい」

 西山にゆっくりと驚愕が広がっていく。

 どか、と葛城のスレンダーな体にまた鉄が叩きおろされる。

 彼女はしかし揺るがない、何でもない、何も起きなかったようにその一人を無造作な手刀でアスファルトにめり込ませた。

「アイアンボディ(いたくないもん)、私はそう呼んでいるわ、私は昔から粗相をすると父さんに殴られてきたの、それがいわゆる虐待で父さんが私のことを嫌いだった理由も、母さんが見て見ぬフリをしていた訳も今は分かる、でも子供の頃はそれが普通だと思っていた、だから殴られても蹴られても痛みも傷さえもコントロールするコツを私は手に入れたんだ」

 ―いや、コツのレベル越えているから。

 そうツッコミたかったが、その前に葛城の嵐のような反撃が始まっていた。

『刃苦怨』のデカい男達につかつかと近寄り、何をされようが構わず一撃でブチ倒していく。

 凶器で殴られようと蹴られようと、断固とした歩みは止まらない。 

 まるで昔見た洋画のサイボーグ刑事みたいだった。

 おおおおお、と絶叫して№1が金属バットと葛城の頭に振り下ろしたが、コンクリートでも破壊しそうなその一撃にも、彼女の額は傷一つつかない。

 そして№1の胸に葛城の拳が突き刺さり、ムカツク奴№1は黄色い何かを吐き散らしながら倒れた。

「お、お前」

 その様子に怯んだのか、西山が下がる。

 しかし、彼が目標である葛城は歩みを止めない。

「何してんだよ! あの女を殺せ!」

 狂乱したように西山が命じ、残りの『刃苦怨』メンバー達がきつつきのような勢いで葛城を攻撃したが、やはり彼女は小揺るぎもしない、負傷しない。肌は裂けることも痛むこともなく、さわさわ撫でたくなる美肌のままだ。

「アイアンボディ(いたくないもん)」

 葛城は一挙動で、それら男共を背後に仰け反らせ倒した。

「あ、ああ?」

 西山はようやく気付いたようだ。頬を痙攣させて後ずさる。

 ―葛城……めちゃくちゃ強い!

 大人っぽい、綺麗な女の子。としてしか僕は見ていなかった。電柱の陰から階段の下から、見ているだけだった。

 しかし……。

「女の子をナメるな」と葛城は一人残った西山にもう一度告げた。

「黙れ!」

 追いつめられた西山は、不法投棄されたゴミバケツに退路を阻まれると、指輪が輝く拳を構える。

 ―あれは、凶器なんだ!

 僕は気付いては葛城に知らせようとした。西山誠次の指に嵌っているゴツイ指輪は武器の一つなのだ。煌めく宝石の高度そのものが危険で血なまぐさい牙なのである。だが彼女はもう西山の前に進んでいた。

「食らえ!」

 冷たい空気の塊を飲み込んでいた。西山の拳が葛城の顔面にヒットしていた。

「葛城!」

 だが、攻撃側の西山の下顎が、ゆっくり力無く落ちて揺れる。

 彼女は無傷だ。葛城の端整な容にはかすり傷もない。 

「ちくしょう!」

 西山は猛獣のように吼えて、ボーリング球のようなパンチを葛城に繰り出した。

 がんがんと、鉄がぶつかり合う鈍い音が響く。

 遂に、ぐらりとよろめいた。

 西山誠次が、だ。

 見ると彼の指は裂け、血が滲んでいた。

 対する葛城はダメージなど全くないようで、片腕を天に持ち上げた。

「ま、待てよ」

 気配に気付いた西山が、阿るように笑う。

「わかった……もう、お前達には手を出さない、な? 俺たちは仲間だろ? 判ったよ、誤解があったようだけど、それは今後解決しよう、お前は俺の右腕にしてやる、仲間が欲しかったんだろ? 俺たちと楽しくやろうぜ」

「嫌だね!」

 葛城は無慈悲なまでに冷静に西山をなぎ倒した。巨体が後方に吹き飛び、そそり立っていた電柱に激突する。

 がくんと、コンクリートの電信柱が傾いだ。

「ははは」と僕は、凄まじい光景を前にして可笑しくもないのに笑ってしまう。なんだかお腹がむずむずとくすぐったい。病院行った方が良いかも知れない。

 ―お、女の子って、すげー。

「東雲!」

『刃苦怨』の一騎当千の不良ども相手に眉一つ動かさなかった葛城が、敵を全滅させ僕に走り寄ってくる。

 一転、泣き出しそうな表情だ。

「大丈夫? 痛かったよね? ほんとにごめん、ごめんね、ああこんなに傷が、つばで直るかな?」

 さわさわと、先程殴られた跡を撫でる彼女を見て判らなくなった。

 葛城はこうしてみるとやっぱり女の子だ。優しく、格好いい、魅力的な女子だ。

 辺りを見回すと、悪名高い『刃苦怨』の猛者達が枯れ木のように折れている。

 ―萌えるなあ、葛城、何だか可愛いなあ、敵の血の色に染まる姿もイイ。

 葛城は今まで見せたことのない濡れた瞳で、僕を見上げている。ガムでも噛んでいたのか温かい吐息はミントを想像させる。

 見過ぎて慣れてしまった大きく開いたYシャツの胸元が、今更僕の視線を独占した。

 刃苦怨との戦いで、鋼鉄のような強靱さを見せつけた葛城だが、こうして触れ合うとやはりしなやかで柔らかい、少女の体だ。

「……また、胸を」

「いややややや」見抜かれて身を固くした。彼女は男のそう言った部分を憎んでいる。

「もう、えっち」

 一発くらいひっぱたかれると覚悟しのだが、葛城はちらりと舌を見せる。

「え?」

「諦めたわよ、あんたには」

 心なしか頬染めて、彼女は俯いた。

「まあ、別に見られてもいいかなって……」

「え? なに?」

「あんたにはそれくらいの恩があるのよ、胸、見てみる?」

「バカ!」

 本気で怒鳴ると、葛城は少し仰け反って目を丸くする。

「そういうことはちゃんとお付き合いしてからだよ! はしたない」

「え」と彼女は絶句している。

 葛城ったらまったくオマセさんなんだから、僕らはまだ高校生じゃないか。 

「え」と僕の顔を覗いた葛城がもう一度驚愕した。

「あ、あんた、まさか……色々、見たりしているけど……ホントは口だけ」

 葛城は無礼な奴だ。

 僕の妄想力と行動力、そう野獣たる僕を嘗めている。

 その気になったら、無理矢理、ムリヤリ、どんなに嫌がろうが、力づくで……手を繋ぐことだってしちゃうんだぞ。

 野獣……僕は何てケダモノなんだ。否、男はみんなケダモノだ。

「ふ、ふふふふ」不意に葛城は口を押さえて笑い出した。

 意味が分からない僕だが、「ほら」とイタズラっぽい目の葛城が、はだけた胸元を近づけるから、怒った。

「こら! お嫁に行けなくなるぞ! 全く葛城はスケベなんだから」

「あんたは女の子には口だけ番長だな」

 葛城の言葉に憤慨する。

 ―コイツ、恩人だからってバカにして、ムリヤリ手を繋いでやるか。

 だがまだ笑う葛城の表情が、かつての穏やかなそれなので特別に許すことにした。

 運が良かったな、葛城よ。



くだらない小説が好きです。

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