キラキラネーム母親after
「小野天照大御神ちゃん」
小児科の待合室にアナウンスが流れ、小野は立ち上がった。同時にざわつく周りの親達。
「嘘でしょ……」
「いや、もう信じられない」
「ぷっ」
「ちょっと、笑うのは失礼よ」
小野は娘の天照大御神をぎゅっと抱き締めて、診察室へ入った。
白衣を着た初老の医者が複雑そうに小野を見つめる。
「こんにちは。初めてですね。えーと、小野……天照大御神ちゃんですか」
思考停止したかのようにカルテの名前を見つめ、
「それで今日は」
「腕に湿疹ができたんです」
「どれどれ? ちょっと腕を見せてねー、天照……えーと、大御神、ちゃん?」
困ったように言う。
最近、娘を連れて外へ出ることが多くなった。それと同時に名前を呼ばれる度に周囲に反応されるようになってきてしまった。 酷い時はその場の全員に笑われる。娘を可愛いと言われたことがない。名前を聞くと、皆微妙な表情になる。何故か夫も娘の顔を見るたびにため息を吐く。
塗り薬をもらって、小野は肩を落として歩いていた。
「あたしが悪かったの?」
娘のために、良い名前を考えたつもりだったのに。先日、田辺と一緒にいた高校生に言われた通りのような気がしてきた。
とにかく周囲に笑われる。面と向かってバカにされたこともあった。自分ではなく娘が、である。
「どうしたら」
と、横から声をかけられた。
「!」
「やっぱり。こんにちは、小野さん」
丁度彼女のことを考えていた。田辺ユキノだった。
「こ、こんにちは」
彼女は抱っこ紐で息子の奏人を抱えている。
「お買い物ですか?」
「娘の病院に」
彼女の息子も汗疹に悩んでいるらしい。久々に子供のことで他人と情報共有できた気がする。
「良ければ、お茶でもしませんか?」
最近は娘の名前のことで疲弊していた。誰かと話せば気が晴れるかもしれない。
近くのファミレスに移動することにした。田辺はこの近くのマンションに住んでいるらしい。
「娘さん、順調ですか?」
「え、ええまぁ」
ファミレス前に着いた時、田辺が道の先を見て首を傾げた。
「あ」
誰か知り合いがいたようだ。彼女が手を振る。
「菅谷くーん」
こちらへ歩いて来るのは、
「!」
まさしく先日の高校生だった。田辺と同じマンションに住んでいるとのことだったので下校途中なのだろう。
彼は近づいてきた。
「こんにちは、田辺さん。……あ、どうも」
奏介は複雑そうな顔で頭を下げる。
「今日、早いね。まだお昼過ぎなのに」
「期末テストで午前中で終わるので」
「そう。よかったら菅谷君もどう? 私の奢りだよ。ていうか、一緒に話聞いてほしいな」
「話、ですか?」
田辺の言い方に小野はぽかんとした。一体なんの話をしているのだろう。
結局三人で入り、席についた。
「それで、悩んでるんじゃないですか?」
田辺が真剣な表情で問うてきた。見るからに落ち込んでいたので、それを心配して声をかけてきたのだと今更ながらに気づいた。
「娘さんの名前のこと、ですか?」
さらに田辺が聞いてくる。
「……」
小野はうつむいた。
「別に、悩んでなんかないわ。というか、なんであなたに心配されなきゃならないの?」
「田辺さんは小野さんの心配してるんじゃないですよ」
ドリンクバーで取ってきた飲み物をストローで飲んでいた奏介が言う。
「え」
「娘さん、天照大御神ちゃんの心配をしてるんです。その様子だと誰かにバカにされたり笑われたりしたんじゃないですか」
どきりとした。正解だった。
「悩んでるなら、さっさと改名した方が娘さんも幸せですよ」
「なっ……! また偉そうに!」
奏介はスマホを操作する。
「じゃあまず、家庭裁判所に改名の申し立てをするところからですね。正当な理由がないと厳しいらしいですが、娘さんの場合は問題ないでしょうね。えーと、ネットの情報ですが……書面照合と面談があるそうです。その後、戸籍を書き直したりするんでしょうね。家庭裁判所、時間的に開いてるみたいだからこの後、行ってみますか? 丁度お昼休みだから、旦那さんに電話して許可をもらいましょう」
「え、え……?」
捲し立てられ、さすがに戸惑う。
「おー、さすが菅谷君。あ、じゃあ小野さん。娘さん見てるので旦那さんに電話してきてください。ね?」
田辺にも言われ、混乱したままスマホで夫に連絡することに。流されるままだ。考える暇など与えてはくれなかった。
突然の電話で夫はかなり驚いていたようだったが、ほとんど即答だった。
『わかった、今日すぐに申し立てして来てくれ』
それからは流れるような日々だった。あれよあれよという間に娘の改名手続きが進み、今回は完全に夫の独断で名前を決めることになった。
そして。
後日、いつもの小児科にて。
「小野ミカちゃん、どうぞー」
小野は娘を抱いたまま立ち上がる。周りの母親達は雑談を続けており、ミカへの反応は一切ない。名前がこの空間に馴染んでいるのを感じる。
診察室へと入る。
「はい、こんにちは。ミカちゃん。腕はどうかなー?」
医者の態度もまったくの普通。名前一つでここまで変わるとは思わなかった。
「はい、治ってるね。念のため、もう少しお薬出しときますね。じゃあね、ミカちゃん」
病院からの帰り道。小野はぼんやりと歩いていた。
新しい娘の名前、ミカ。ありふれた名前だが、こんなに気持ちが楽になるなんて。
「……ミカ、寝ちゃったのね」
夫にも笑顔が戻った。必要以上に名前を呼びたがるのは考えものだが。
ふと、前方に奏介が歩いているのが見えた。
「あ、あなた、ちょっと待って」
慌てて走りよる。
「? あぁ、どうも」
奏介が会釈をしてくる。
例のファミレス以来だ。
「そういえば、娘さん名前どうなりました?」
何気なく、雑談のノリで聞かれ、
「名前、改名してミカになったわ」
そう答えた。
「そうですか、よかった」
奏介が笑ったので、小野もつられて。
「色々とごめんなさい。あの時はありがとう」
奏介はもう一度会釈をすると、そのまま去って行った。