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桜散る春の木漏れ日のなかで


 部屋に戻って、カフカの本を手に取る。

 表紙の絵はずいぶんとアニメチックで女の子の露出が多い。作画は「すきやきうどん改」先生。

「誰だよ……」

 と突っ込みながら、私は椅子に座ってページを開いた。背もたれがギッと軋んだ。


 ウェブ版で何度も何度も何度も何度も繰り返し繰り返し読んできた内容だ。だから、カフカが書籍化の際して加筆修正した箇所はすぐにわかった。

「ああ、そうか、ここ……」

 かなり細かいところまで丁寧に修正されている。

 徹底的に推敲され、洗練された文章。

 やはり彼女に、私はいらなかったのだろう。

 こんな惨めな気持ちになるくらいなら、読まなければよかった、と何度も本を閉じそうになったが、カフカの文章は相も変わらず読ませるもので、手を止めることができなかった。


 一巻が読み終わり、二巻に手を伸ばす。

 その隙間にふと、昔カフカと図書室でした会話が甦ってきた。

「見たことがないものを見てみたい」

 美しい景色がまとめられた写真集を眺めていたときだ。私は本を閉じて、彼女に「たとえば?」と尋ねた。

「オーロラ、宇宙から見た地球、月の裏側」

 カフカは空が好きなのだろうか。

 私がそう思った時、彼女は少し考えるように唇を尖らせてから、続けた。

「あとは海」

 海?

「海ぐらいならすぐじゃん」

「なかなか機会がなくて」

「……えっ、いままで一回もないの?」

「ええ、そうよ。悪い?」

「別に悪いことはないけど、珍しいね」

「死ぬまでには見たいもんだわ」

「じゃあ、来年の夏、海に行こうよ」

「え、いいの?」

「うん。水着買ってさ。泳ごう」

「……」

「どうしたの、カフカ?」

「……すごく嬉しい」

 カフカは次の年の春にいなくなり、私たちが約束した夏は来なかった。


 二巻も内容自体に変化は無かった。

 私とカフカで一緒にあーでもないこーでもないと練り上げた内容だ。ほとんど私の意見は採用されなかったが、今にして思えばそれでよかったのだと思う。

 彼女の物語に他人が入り込む余地なんてない。

 二巻の終わりは尻切れトンボだった。

 ジャンプの打ちきり漫画みたいに中途半端なところで完結していた。

 ウェブ版の最終回と同じ展開だ。

 最後に書いていたこの部分は、私とカフカが別れる前にプロットを練り上げた部分だ。私と離ればなれになっても、カフカは相談して決めた部分まではきっちりと書き上げ、そして断筆した。

 だからカフカは書くのをやめたのだ。


 なのに、いま私の前には物語の続きたる三巻が置いてある。

 すっかり日が暮れていた。

 夏の夜は夕凪のように穏やかだ。


 怖いもの見たさに近かったと思う。私はあるはずのない続きの物語のページを開いた。

「ああ……」

 感嘆の息が自然と漏れていた。

 やはり、やはり、望月カフカは、蟹チャーハンは、天才だ。

 斜にかまえても、どんなに偉ぶっていても、彼女の綴る展開に、批評家はみな素直にさせられる。

 重厚なストーリーに緻密な心理描写、美しい日本語表現、そのすべてがマッチしている。

「かなわないな……」

 劣等感なんて、とうに枯れてしまった。

 彼女の文章は輝いている。憧れることさえも、惨めな気持ちも、いまや諦観に変わってしまった。

「ああ、もう……」

 涙が出るのは悔しさがあるからだ。私は彼女の小説で泣いたことはない。

 ただ、惨めに、

 惨めに、ただ、

「面白いなぁ……」

 震えるだけだ。


 本編を読み終わった。

 作中には、港が、渚が、海が出てきた。

 潮騒が聞こえた気がした。

「ああ……」

 カフカはきっと海に行ったのだろう。


 相も変わらず素晴らしい出来だった。

 心震える物語に、私は最後のページをめくり、そこに一枚の写真が挟まれていることに気がついた。

「これ……」

 手にとって見てみる。


 幼い頃のお兄ちゃんと私が一緒に並んでいる写真だった。

 右下には撮影された日時が赤く印字されており、それが十年近く前のことだというのに驚かされた。

 元気なお兄ちゃんがいるのに、私は懐かしくてなって、カフカの小説によってもたらされた惨めな気持ちが晴れていくような気持ちになった。

 写真の裏側には「Dear My Sister」と綴られており、つまりこの本がお兄ちゃんから私へのプレゼントだということを物語っていた。

 ほんとうに、おにいちゃんはなんでも知ってるな、なんて思いながら、ふと本に目を落とすと、小さなネックレスが挟まれていた。

「これ……」

 本を一旦置いて、私はチェーンを持ってネックレスを垂らしてみる。

 蝶の飾りがついていた。


 彼が入院していたとき、お見舞いに訪れた私に「菜種は将来なにになりたい?」と尋ねられたことがある。

「わからない……」

 私は窓辺に寄って、カーテンを開けながらそう答えた。五月晴れだった。柔らかな陽射しが病室に落ちる。

「そうか。夢は早い段階で決めておいた方がいいぞ」

 お兄ちゃんはそう言って窓の向こうの青空に目を細めた。

「ちなみに俺は蝶々だ」

「チョウチョ? なんで?」

「バタフライエフェクトってあるだろ。地球の裏側の蝶の羽ばたきがハリケーンになるってやつ。些細なきっかけで大きく世界を動かしたいんだよ」

「へぇ。そんなのあるんだ」

「なんてうっそー」

「……なんなの?」

「お前、好きだろ? 蝶々」

「……だからなに」

「小さい頃オオムラサキ欲しいってねだってたじゃん」

「そんなのあったっけ」

「お兄ちゃんは死んだら蝶になって菜種を見守ってあげます」

「アホなこと言ってないではやく病気直してよ。そもそも人が蝶に生まれ変われるわせないでしょ」

「そうでもないぞ。ヴォヴェルの死の歴史によるとアイルランドの民間信仰では人は死んだらチョウになるって言われてるらしい」

「バカらしい。縁起でもないこと言わないで」

 暑い五月だった。その一ヶ月後に彼は亡くなることになるのだけど、このときはまだ下らない冗談にしか聞こえなかった。

「人間結局死ぬんだぜ。遅いか早いかだけの話さ。地球の歴史を一年に例えると、人類の誕生は十二月三十一日のお昼前らしい。こんなに短い時のなかで俺たちは生まれた死んだ好いた腫れたを繰り返してるんだ。お粗末なもんだろ」

「私は人一人の人生の大切さを言ってるの。よくもわからない宇宙規模の奇跡の話はしてない」

「ははっ、菜種にはかなわないな」

 お兄ちゃんは困ったように笑ってから、「よっこいしょ」と上半身を起き上がらせた。

「日本にも蝶化身という伝承があるんだ。お盆に死んだ霊魂が蝶や蛾になって帰ってくるってのは世界各地に伝わる伝説なんだ。だから俺は生まれ変わったら蝶になりたい」

「勝手になれば?」

「蝶になったら菜種に追いかけてもらえるからな」

 幼い頃の約束は、今も有効なのだろうか。

 白い歯を見せて笑うお兄ちゃんの顔は明るい未来の暗示のように感じられた。


「くだらない」

 最近はこれが口癖になった。

 世界との間に線を引ける魔法の一言だ。

 こうして私は傍観者を気取り、傷つくことから逃げて来た。

 お兄ちゃんからの贈り物の蝶のチャームがついた小さなネックレスを机に置いて、私は小説を閉じようとした。

 この物語ももう終わりだ。

 カフカは小説を書き続けるだろう。

 過去に生きる私と彼女との違いはそこだ。

 ふと、まだページが残されていることに気がついた。

「まさか」

 あとがき、だ。


 カフカはあとがきを綴らない。

 昔、理由を尋ねたら、世に送り出した作品に作者の感情はいらないから、という謎の持論を展開された。

 だから、なぜ、この三巻目にわざわざあとがきを挿入したのか、私には理解できなかった。

 浅く息をついてから、私はあとがきに目を通した。


『あとがき』

 視線を文字に滑らせる。

『読んでくださってありがとうございます』

 カフカらしいお礼のあとに、文章が始まる。

『私は人とのコミュニケーションが苦手で、妄想ばかりを楽しむ子供でした。文章を作るのは好きでしたが、人に見せるのは恥ずかしかったので、綴った物語は誰かの目に留まることなく死んでいく予定になっていました。

 ある時知人に物語ノートが見つかってしまい、彼女が発表するべきだと背中を押してくれたのが、私の作家人生の始まりです』

 十四歳の冬の図書室。

 カフカが照れながら差し出したのは恋愛小説だった。

 あれも、間違いなく傑作だった。それを殺したのは私だ。冷たい雨が降る冬の夜空を晴れさせることができなかった。


『すべてにおいて半人前の私が誰かの心に響く物語を綴れるはずがないと最初は思っていました。ですが、素敵なイラストを描いてくださったすきやきうどん改先生や応援してくださった皆様のおかげでホコリかぶって死んでいく物語が日の目を浴びることができました』

 涙が出そうになった。

 カフカの物語は確かに息づいている。

『読んでくださった皆様の意見は本当に参考になります。三作目の物語ついても、可能であれば貴重なご意見をいただきたく思います。より良いものを作れるように頑張りたいです。

 作中の最後に海がでてきます。同様に、私は渚で意見が飛んでくるのをずっと待つことにします。よろしければ、私の足りない人間性を埋めてください』

 海。

 そうだ、カフカ。

 私はずっとあの冬に留まっている。

 夏が来たら、

『最後になりましたが、こんな私を支えてくださった編集や取材旅行に協力してくれた友人、すきやきうどん改先生、応援してくださった皆様に心の底から謝辞を伝えさせていただきたいです。

 ありがとうございました』

 夏が来たら、一緒に海に行こうと、約束したんだ。

 彼女は覚えているだろうか。

 きっと忘れてしまっているだろう。

 だけど、

『三月二十九日 桜散る春の木漏れ日のなかで』

 春の次には夏が来るのだ。


 窓を開ける。

 夏の夜風が私の頬を撫でた。


 携帯電話を握りしめ、カフカの番号を呼び出す。

 繋がることは無かったが、留守番電話にメッセージを吹き込む。

「カフカ、小説読んだよ。すごく面白かった」

 死にたくなるくらいに、面白かった。

「やっぱりカフカは天才だね」

 暗い未来ばかりが浮かぶ。

 それはきっと明るい未来より想像がつくから。

「嫉妬しちゃうな」

 このまま今日みたいな明日が続くなら、私はどこか遠くに旅立ちたい。

「だけど、ね。カフカ……」

 夏の始まり、夜の向こうから、遠く耳鳴りのような蝉時雨が聞こえる。私はカーテンも開けて、吹き込む優しい夜風に目を細めた。

「私、小説を書こうと思ったの」

 死にたい未来を、少しでも違ったものにするために。決まりきった毎日が、少しでも違ったものになるように。

「私はやめないから」

 カフカが楽しんでくれる素敵な話をたくさん書こう。

 目が肥えた彼女を満足させるのはきっと難しい。

「完成したら、読んでくれると嬉しいな」

 だけど、もう一度、私は彼女に読んでほしいと思った。少し恥ずかしいけど、

 誰かにじゃない、ただ一人、たった一人の親友に。


 私はネックレスを首から下げて、少しだけ、泣いた。








関連作品?です。


終わりなき物語と語り部の夢

https://ncode.syosetu.com/n9144eh/


蟹チャーハン先生の小説談義

https://ncode.syosetu.com/n8655fc/


読了ありがとうございました。

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