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涼風ファースト


 しーん、という擬音を開発したのは漫画の神様の手塚治虫らしい。天才はやはり並々ならぬ感性をしている。

 きっと常人には見えない景色を見ていたのだろう。

 翌日、静まり返った自室で、学校で教えてもらった期末試験の出題範囲を復習していたら、携帯電話が着信で震えた。

 画面を見るとメールが届いていた。差出人は『望月カフカ』だった。

 彼女からメールが来るのはずいぶんと久しぶりだ。

 ペンを一旦置いてから、私はメールに目を通す、

『久しぶりに会えて嬉しかった』

 そういう文章から始まって、話は直ぐに本題に移った。

 いわく、蟹チャーハンの代表作である小説はまだ終わっていないらしく、いまだに誠意執筆中らしい。

 そして、私に読んで欲しい、読んで感想を聞かせて欲しい、とのこと。

 とてもじゃないが気分じゃなかったので、私はメールに返信することなく、数学の復習をするためノートを開いた。

「菜種」

 しばらくそうやって集中していたら、いつの間にか後ろに立っていたお母さんに声をかけられた。

「お兄ちゃんの部屋の片付け手伝って」

 忘れていた。部屋の物を処分するように遺言が残されていたのだ。研究資料は大学に、書籍や衣服などは遺品整理して欲しいとのこと。

 いつまでもレイアウトを変えないのは絶対やめてくれ、って口酸っぱく言っていた。なんでも無変化は停滞で人としての進化がないから嫌いなんだそうだ。

 物理学を専攻していたお兄ちゃんらしい言葉だ。

 ゴミ袋を片手にお兄ちゃんの部屋を久しぶりに訪れた。


「菜種、段ボールに本積めてって。欲しいのあったら貰っちゃいなさい」

「ないよ。欲しい本なんて」

 お兄ちゃんの本棚は難しいタイトルの理工系の書籍ばかりだった。文系の私は眺めているだけで、鳥肌が出てくる。

 ホコリを払いながら、段ボールにお兄ちゃんの本を積めていく。

 ふと、数学の研究書に混じって、四六判の小説があることに気付いた。

「これ……」

 手にとって見てみる。表紙には可愛らしい女の子が描かれていた。

 著者は蟹チャーハン。タイトルは「死んだと思ったら異世界転生してて、気づいたら世界を救っちゃった件について」。

「うそ……」

 シリーズ三冊並んでいる。

「なんで、お兄ちゃんが……」

 間違いない。カフカが書いて、出版された本だ。

 普段小説を読まないお兄ちゃんがこれを持っているなんて、普通じゃ考えられない。まさか、私とカフカが同級生だったって知っていたのだろうか。

 あのお兄ちゃんならあり得る。

「なにボーとしてるの。日が暮れちゃうでしょ」

 本を片手に動きを止めていたら、お母さんに注意された、

「その本、貰うの?」

 なんて答えようか迷っていたら、

「どうせ売ったって二束三文なんだから、もらっちゃいなさい」

 とお母さんは窓を開けて、室内に風を通した。

 セミの鳴き声が夏の風に乗って、室内に響き、静寂が吹き飛ばされていく。二重窓でクーラーをつけている私の部屋とは違い、お兄ちゃんの部屋は生き物の活力に満ちていった。

「あ、ああ。うん」

 私は曖昧に頷いて、慌てて作業を再開する。

 カフカの本は、段ボールに入れられなかった。


 一通り片付けが済んでから、お母さんの作ってくれた冷やし中華を食べる。テレビはどうでもいいニュースが流れ、ぼんやりとそれを眺めていたら、

「いつまでも誠也のこと引きずらないようにね」

 と、お母さんに言われた。

「別に引きずってなんかいないよ」

「辛いのはあなただけじゃないんだから」

「わかってるって……」

「期末試験、ちゃんと頑張りなさいよ。誠也はもういないんだから」

「うん」

 頷いて、口に運んだ中華麺は味がしなかった。


 お兄ちゃんは天才だった。

 アホでエロかったけど、頭は良かった。

 県内で一番の高校に通っていたし、大学は都内の国立だったし、成績上位者しか行けないアメリカ留学をいとも容易く決めるほどだった。

 私の頭の作りはお兄ちゃんほどよくはない。

 父は昔気質で、女に学は必要ないと考えるタイプだったので、とやかく言われることは無かったが、振り返ってみればずいぶんと放任主義で育てられてきたと思う。

 家族で私を構ってくれたのは常にお兄ちゃんだけだった。そのお兄ちゃんが遠くの異国にいってしまい、誰にも相手にされなくなった私は空想の世界に逃げ出すしかなかった。

 今も昔も私は逃げてばっかりだ。



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