臨終アウトサイダー
お兄ちゃんが死んだ。
入院して、半年もしないうちに、死んでしまった。
特段仲の良い兄妹じゃなかったけど、居なくなって始めて、あの人の存在の強さを感じた。
お兄ちゃんはもともと肺が悪く、幼い頃は喘息持ちで、病院に通っていたことをよく覚えている。
それでも大人になって、病なんて克服したと歯を見せて笑っていたから、もう大丈夫なんだと勘違いしていたのだ。
病状が悪化し、本格的に入院することになったその日、私は呑気に運動場を走っていた。部活が終わり、タオルで汗を拭いながらスマホを見たら、母親から着信が入っていた。前々から大きく呼吸をすると違和感があると漏らしていたらしい。留守番電話のメッセージを聞きながら、そんなこと全然知らなかった、と下唇を噛んだ。
日に日に窶れていく姿に微かな予感があったのも確かだ。だから私はなるたけ時間を作って、足繁くお見舞いに通った。
「ようやく兄ラブなことに気づいたかー!」
こんな風に茶化すのは嫌いだったけど、いまはその軽口さえ懐かしい。
決まって私は「なにバカなこと言ってるの?」なんて斜に構えてそっぽを向いたもんだ。
お兄ちゃんは熱帯夜の夜半に、眠るように息を引き取った。お医者さまが両親にその後の『処理』の仕方を説明する。すすり泣きのなか、割り箸で湿ったガーゼを挟んで、渇いた唇を潤す。
死に水を取る、というらしい。
私は耐えられなくなって、その場を両親に任せ、廊下に飛び出て、壁に凭れるように座り込んで、泣いた。
お兄ちゃんの遺体はエンゼルケアを受けて、霊安室から葬儀所に運ばれるらしい。
父をその場に残し、先にタクシーで帰された。私は弱く、大人のフリもできない子どもだった。お兄ちゃんのことを思うと、覚悟していたのに、目頭が熱くなる。デリカシーが無くて、剽軽な彼が嫌いなはずだったのに、この胸に去来する感情はなんなのだろう。嗚咽混じりに母にお礼を言って、私は自室のベット倒れ込んだ。
母は色々なところに電話をかけていた。バクバクする心臓を押さえながら、強く目をつぶった。寝たいのに、眠れなかった。
薄情かもしれないけれど、私はお兄ちゃんがなんていう名前の病気で亡くなったのか知らない。両親も、お医者様も、心配させたくないからか、一切教えてくれなかった。
もちろん、お兄ちゃんを蝕む病魔の正体を知ったところでできることはなにもない、けれど、せめて、
「いや……」
せめて、……なんだろう。
続きの言葉が思い浮かばず、私はスマホの電源を落とした。
日記なんてつけるもんじゃない。
スマホをベッドに放り投げて、枕に顔を埋める。
涙はとうにかれてしまった。
お兄ちゃんのことはあまり好きではなかったけど、頭は良かったし、尊敬はしていた。
強く目をつむり続けるが、睡魔が訪れることはない。
こうして、じっとしているとどうでもいい昔のことばかりが思い起こされる。
彼がまだ生きていたときのこと。
楽しかった日々の成れの果て。
七つの頃の話である。
兄は十二歳で、季節は夏だった。
祖父の家は超がつくほどのド田舎で、航空写真で見ると、森林しかないようなところだった。
法事のために帰省していた私たちは暇をもて甘し、虫取りで退屈を誤魔化していた。それくらいしかやることが無かったのだ。お母さんに「危ないから裏の林には入ってはいけない」と口酸っぱく言われていたのに、付き添いのお兄ちゃんにねだって、言いつけを破ったのは、綺麗な蝶を見つけたからだ。
大きな紫色の蝶で、西日を浴びながら悠然と羽ばたくその姿に、私は簡単に虜になった。枝葉が光を遮るので、昼でも薄暗い不気味な空間だったが、子どもの好奇心には関係なかった。
虫取り網を携えて、しばらく雑木林を進んで行く。蒸せ返るような土の臭いに、四方八方から蝉時雨がスコールのように降り注いでいた。大きなクヌギの木があった。その木の上の方の幹に先ほど見かけた紫の蝶々が止まっているのを見つけた。
美しかった。カブトムシなどの甲虫にはないきらびやかな羽根と紋様に、幼いながらも感嘆の息をはいたことを覚えている。おもちゃをねだるように、私は、お兄ちゃんに駄々をこねた。
お兄ちゃんは「まかせとけぇ!」と勇んで枝に手をかけ、中腹で足を滑らせ盛大に地面に落下した。
「菜種、泣くな、これぐらい平気だ!」
蝶は変わらず私たちを見下すように留まっていたが、すっかりその事を忘れて、お兄ちゃんの傷を心配して泣き叫んだ。
「静かに! オカンに気づかれるだろ!」
とお兄ちゃんは傷よりも悪事がバレることを恐れていた。
迷ったら出てこられなくなるような深い森だったが、遭難することなく帰宅した私たちを待っていたのはお説教だった。
私がずっと半べそだったし、なによりお兄ちゃんの足からは、枝で切ったのか、ダラダラと血が流れ続けていたからだ。
「ごめんなさい……」
お説教と治療が終わり、部屋から出てきたお兄ちゃんに頭を下げたら、「菜種は将来天才になるぞ」と、頭を撫でてくれた。「なんで?」と尋ねると、「ダーウィンは血が苦手で大学中退したんだ。大学をやめたあとはニートしながら昆虫採集に精を出したそうだぞ」と笑いながら言うので、「なにいってるのかわからない」と返したことを覚えている。小学一年生にする話じゃないと今でも思う。
そんな下らない思い出もいまじゃもう遠い。
揺蕩うように微睡みの縁を歩き続けていたら、いつの間にか寝入っていた。