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 ある程度の生命体というものは反射的に運動する。つまり、その場合においては、知覚と行動とがイコールで結ばれる事になる。人においても、例えば熱いものに手を触れた時、そこからすぐに手をあげるのは、人間以外の生命体が反射的に運動するのと同じような運動である。


 しかし、人間には意識とか、自己意識と呼ばれるような状態がある。つまり、それは非決定の状態である。もっと言うと、人間に苦悩という性質があるのは、いかにも人間らしい事とも言える。動物において苦悩があるとは私には考えられない。苦悩は人間のみにある事例だろう。もっとも、動物に苦痛はあるかもしれないが。


 人間が、ボーリングにおけるピンのような存在ではない事は確かだと言える。我々は、ボーリングのボールが転がってきて、それが当たったから、だからと言って、ある一様の行動を取るとは確定していないのである。人は、自殺者の原因に『いじめ』があったと簡単に言うが、しかしひどいいじめを受けても生きているものもいるし、それほどでもないいじめの中で自殺する者もいる。では、その人間の内部にはどのような差があり、それらの人の内部では一体何が起こっていたのか。こういう事を真剣に考えようとする人間は、極めて少ない。なぜなら、そのように自ら苦悩できる力を持つ者はこの世界では少ないからだ。あるいは、苦悩そのものを自覚できる人間は少ないと言った方が良いだろうか。


 青春とは外部の現象と、自分との行動との間にズレができはじめる時期と言えるかもしれない。青春において、少年(少女)は、苦悩する。自分の行動と、自分の元にやってくる様々な規範や情報や知識、あるいはその他の強制との間にうまく脈絡をつける事ができない。ホールデンは学校に馴染めない。なぜなら、彼にはその『意味』が理解できないからだ。意味の喪失…ここに青春の意味も存在する。人は意味を理解できない。行動そのものについて疑問符を引き起こす。従って、世界と己に対して疑問を感じない人に、青春はない。それはどんなに、メロドラマと携帯小説の影響で、青春的なものであったとしても、それは本質的な意味での青春とは一切の関係がない。また、それは真に人間的な事態とも呼べない。現在、人が祭り上げ、作り上げている様々な像ははっきり言ってそのほとんどがどうでもいよいものである。彼らは生を賛歌する事に熱心だが、それは実在する死によって簡単に否定されるだろう。若さと美貌に固執し、その価値を歌うものは自分の老いによって、自分自身を引き裂かれる事だろう。それは、考えてみれば、当たり前の事だ。


 私は別にホールデン少年の姿を褒めあげたいわけではない。また、全ての人間にアウトローであれ、などと宣言するつもりもない。そんな事は不可能であるし、またそんな事が実現すればこの世界は維持されなくなってしまう。この世界はやはり、秩序あるものでなくてはならない。しかしながら、この世界の秩序に意味が生まれるのは、誰かがそれを疑い、その価値に揺さぶりをかけるからだ、と言う事できる。我が国の社会では、大学を出て、そのままどこかの大手企業に入る事がよしとされる。しかし、そこでその価値について考えてみる者は少ない。そこでは、余りに『哲学』が欠けているのである。人は、苦悩する前に、世界に従うのである。だから、苦悩とはその人間に内在する大きな価値だと言う事ができる。ヒュームの懐疑論からカントの一歩は始まったのだが、もし世界という秩序に対して、懐疑がなければ、世界はその秩序そのものによってやがては崩れ去る事となるだろう。なぜなら、それがそれ自体を目的として、言ってみれば、それがその外部を全く無視して己のみに執着するというのは全く病的な状態であるからだ。


 人間というものが何であるかという命題は私の手に負いかねる。しかしながら、人が生きるにあたって、幸福を目指すというのは一般的現象だが、しかし、驚く事に人はそういう目的を持ちはするが、その意味については考えはしないのである。誰しもが幸福を一様に目指し、自己をアピールし、愛されたいと願うが(それが無理だと感じたものは暴力に頼る)、しかし、それそのものが何であるかとはほとんど誰も考えない。そしてこの考えない空孔に居座って、それを定義したり、揺さぶったり、価値付けたりする者が、哲学者と呼ばれるものである。従って人は、自分の頭で世界ついて思考できれば、誰しもが哲学者と言う事ができる。これもまあ当たり前の事だろう。


 ホールデンはニューヨークを歩く。彼にとって、世界は確かに虚偽とインチキに満たされているのかもしれない。人はこの少年を笑う。私はその事を知っている。青臭い、中二病、と人は笑うだろう。しかし、この非決定の状態というのが何であるか、つまり青春とは何であるかという問題は未だに残るのである。そしてそれはこの作品が面白いか否か、という問題とは全然別個の問題である。人が面白いと言おうが言うまいが、人生というのは我々の内に、そしてその外に、厳然として存在している。だとしたら、一体、それは何かというその点をめぐって、過去の傑作群は全て、集中的に運動しているのである。世界に散らばっている過去の聖賢達は私達に何かを教え諭したり、私達の気晴らしの為に、哲学や作品や論理を残したのではない。それらは全て(どんな外的な形式を取っていようと)彼らの生の発露そのものであった。つまりそれは、通常、私達において、私達の言動と私達との生との間にあるズレを(一時的とはいえ)統合した、そういう『行為』であったと言える。


 ホールデン少年が世界に反抗する様は、世界そのものと化した人々からは笑うべき錯誤としか見えないだろう。しかし、今私が言った事から考えればーー世界そのものの諸価値が本当に意味あるものに、再び反復的に、回帰する現象として、その価値を再び新たにする為には、この懐疑と否定がどうしても必要なのである。そして人間とは、その意識という存在のありかたからして、そのような生き物なのだ。人は行動を前にして考える。考えるという事が必ず、行動の前には現れる。そしてそれにより、人の行動は動物とは違った独特の行程を示したのだ。しかし、脊髄反射的に、自身の言動を抑制できない現在の人々は正に、その行為そのものによって過去へ帰ろうとしているのだろう。彼らは逡巡の価値を知らない。彼らは自分達の気に入らない事があるとすぐに声を荒げる。彼らにおいては、考えるという事それ自体がその人間から取り除かれつつある。彼らは何を失おうとしていのだろうか? 彼らが何事にも満足できないのは、そもそも彼ら自身が不在だからである。胃のないものに、美味の食事を与えたとてそれは無理な話だろう。しかし、彼らは自分達が存分に生を楽しめないのは、誰かのせいであると考えたがる。


 ホールデンは世界に対して嫌悪をまき散らし、小言を言うが、しかしそれは単なる悪意ではない事は誰の目にも明らかだろう。彼は知性ある存在であり、世界に対して疑いを抱くものである。世界に対して疑いを抱く、抱く事のできる知性を持っているというその一点から、彼は世界から疎外される。彼は世界から切り離される。世界に同化するには、まず世界の諸価値を受け入れなければならない。そして多くの人は、それについて考えるより先に、それに屈従する。しかし、この少年においては不服従とは、それについて思考し、悩み、毒づき、そして苦しむ事である。ホールデンは苦しんでいるようには見えないかもしれない。しかし、彼がもし、苦しんでいなければ、彼の知性はあのように育つ事は不可能であった。試しに、ネットで毒づいている様々な人を見ると良い。彼らは苦悩を欠いているが故に、その知性も浅い所を行き来するだけなのだ。


 現実に対して疑いを抱き、知性を持つという事。それは行動の一歩前の現象である。おそらく、行動ーー思考ーー行動、というのは、弁証法的な運動を伴っているのだろう。だが、ホールデン少年はこの思考の前で立ち止まる。というより彼は思考の領域を渡り歩き、そしてそれがある行動へと飛び移ろうとするや否や、また元の思考に戻ってくると言った方がいいだろう。何故かと言うと、行動そのものを彼が最初に否定したが故に、その行動自体を疑うというその思考に、思考はどうしても戻らなければならないからである。


 人間とはボウリングのピンのような存在ではないと私は言った。人間がもしボウリングのピンでないとしたら、人は考え、苦悩しなければならない。いや、「ならない」などという言葉そのものの意味が間違いである。それはもはや、言葉では言い表せない領域である。ホールデンは作品の中である軌道を描いて運動する。人は言うかもしれない。「こんな饒舌をだらだらと書いて、それが何の意味があるのか?」と。今は、何事にも結論が出ている時代である。しかし、結論が存在できない場所ーーーいや、それ以上に世の全ての結論を疑う事から、一つの問いが生まれ、そこから苦悩が、生が(つまり生の軌道が)生まれるのである。本当の意味での文学作品に物語、あるいは主人公の道程というフォルムが生まれるのは、それがまず、答えなき場所から歩き始めるからである。しかし、多くの人はそれをまた元の答えに引き戻して満足する。だから、正にその箇所で人は誤解する。世の天才とは全て終わったところから始めた人間であり、これらの人々は道なき道を歩いたのである。しかし、学校の教科書はそこに、まるで最初から決まった道があるかのように指導する。そのおかげで、最初から決まった道を歩く事しか知らない人間ばかりが生産されるのであれば、これは世の中にとっては真に結構な事であるのだろう。


 「ライ麦」はこの先も、青春小説の傑作として残り続けるだろう。そしてそれが残るのは確かに、一部の人の言うように、高度資本主義社会というものと大きく関係している。ミシェル・ウェルベックの作品が、現在の唯物論的、娯楽的な社会と切っても切り離せないのと同じように、「ライ麦」の少年の悲哀と嫌悪は、物の溢れた豊かな社会の中を独歩するのである。それは、もしこの先、再び全体主義社会が来た時には、感情移入しにくいものとなっているだろう。しかし、ある個人的精神や、精神の自由性というものは、社会に反逆する事によって現れるのでてあって、我々がそれに価値を見出すのは、その精神が社会を蹴りだすその様によってであり、その社会のありかたそのものによってではない。社会のあり方は時代と環境に応じてそれぞれに違うだろうが、しかし精神が自らを露わにするその方法は基本的に同一のものなのである。全ての文学作品における傑作は、例外なく、『例外者』『余計者』を主軸にした作品だと言う事もできるだろう。トルストイのように、平凡を至上のものとしようとしても、結局はカレーニン夫人という社会から蹴りだされる悲劇的人物がいなければ劇とはなりえない。そして人間の人生とは正に劇そのものではないか。ニューヨークの街を未だに、新たなホールデン少年はうろつき続けているだろう。そしてその時、青春とはまだ我々の内部に残っていると言える。私はーーーおそらく、若年の頃から、この世界の知った風な顔にうんざりしてきた。大人達の語る論理とは、それ自身、磨きぬかれ、考えぬかれたものではなく、単に服従によって強化されたものであるとは早い時期に気づいてたと思う。しかしそれに反抗する方法は謎だった。私もまた、いっぱしの者でありたかった。しかし、自分がいっぱしの者でなくてもよい、そんな事はどうでもよいという気づいた時、私は私になった。世界がなんであれ、私にとっては私の生の方が大切なのだ。何故かと言うと、私は私だからだ。そして、それに対しホールデンは…私より先にこの世界を闊歩して見せた。彼の歩み、その運動の軌道はふらふらとさまよい、また元の所に戻ってくる。功利主義者には意味のない歩みであるとしても、私にとっては極めて重大な示唆としてそれは見えた。だから、ホールデンは私の先達である。そして、人は反抗という名の懐疑を有している間は未だに、青春という名の迷いの森の中にいると言う事もできる。そしてその迷いの森を抜けた先に何があるかは、迷ったものだけが知る事ができる。思うに、最初から世界そのものと同化して生きていた者達が世界の意味と価値を知る日は永遠にやってこないのである。その意味は、それを疑い、揺さぶったものだけに現れる何かである。そしてホールデンは今日もニューヨークの街をさまよう。そして大人たちは自分を正当化し、少年は新たに懐疑を生み出す。そしてその二つがぶつかり合う事によって、時代と社会は進展していくのである。だからーーーいや、そしてそのような進展していく世界の中で、『ライ麦』は不朽の作品としてこれからも読み継がけれていく事だろう。そしてそれが不朽であるのは、ホールデン少年が不朽そのものを目指したからである。そこにあるのは不朽を目指した精神、その軌跡が描かれたからこその不朽なのであり、それぞれの物語形式や語彙の並べ方に不朽性が宿っているのではない。不朽とは、結局不朽を追求する精神の客観化にほかならない。そして、「ライ麦」はこれからも、迷える若者に、ずっと「迷いの道」を指し示し続けるだろう。そして、迷う事を嫌う者達はこの書を否定し続けるのだろう。つまり、「ライ麦」はよく言われているように、永遠の青春の書であるのだ。そしてそれがそうであるのは、我々の内部に青春が宿っている限りにおいてである。だから、この作品を読み継いでいく事が、我々そのものに対しても『何か』として働きかける事になる。そしてこの作品の意味は、それを読んだ人間の内部と、またその人間の行動そのものによって、世界に対して、その書の外側の価値として、働きかけ続けていくであろう。



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