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私の論考はここで終わってもいいのだが、物語には最後にもう一つの終末があるので、これも分析しておく事としよう。そしてそれで、この論考は終わりにしよう。
この作品に文字通りの終末をもたらし、最後の転換を与えるのは、妹のフィービーというキャラクターである。フィービーはまだ十歳のちっちゃな女の子だが、不思議な事に、主人公ホールデンに匹敵するような知性があると前提されている。…あるいは彼女は、若年期のホールデンそのものだと言った方が良いのかもしれない。
この作品の終末で、このキャラクターは現れてくる。彼女は、言ってみれば、このクライマックスの欠けた物語に終末をもたらすべく、作者からホールデンに送られた使者のような存在であり、そしてこの小さな女の子は見事にその役割を果たすのである。ではその部分についてまず素描してみよう。
ホールデンは作品の終盤で、その若者としての性急な願望から、突如として西部に行き、一人で黙々と労働して暮らす日々を夢見る。そしてその為には当然、自分の家から出ていかなければならない。だからホールデンは、妹のフィービーに最後に挨拶をしておこうと考える。つまり、これがいわばーー今生の別れであると。そしてホールデンはフィービーと会う。しかし、フィービーはホールデンに会うと、突飛な事を言う。「私も西部に行く」と。
ここは、極めて重要な箇所である。このフィービーの言葉にどう反応するかという事で、色々な点が決まってくる。しかし、実はそれもう最初の地点から決まっていた。つまり、ホールデンは自分の「西部に行きたい」という願望それ自体が嘘っぱち、冗談である事を自分で知っていたのだ。だから、彼はフィービーを押しとどめる。「そんな事は絶対に許さない」と。フィービーはむくれる。二人は喧嘩する。しかし、フィービーは子供であるので、すぐに機嫌を変える。二人は和解する。そして雨が降ってくる。雨の中ーー土砂降りの雨の中で、物語は終わる事になる。つまり、ここでホールデンは最初の地点に戻ってきたわけだ。彼の冒険は、物語は、言ってみれば冒険ですらなかった。彼の冒険は彼の自意識、彼の脳髄の内部から出る事は叶わなかった。何故か。それは、彼が余りに賢いからである。今、イスラム原理主義の元に向かう先進国の若者達はホールデンとは違う。彼らは、自分のしている事が何であるかを知らない。しかし、ホールデンは知っているのである。冒険が今や不可能である事を悟っているのである。しかし、それが不可能であると知っているからこそ、その不可能性をどうしても踏み越えなければならないと信じた青年の物語ーーーそれがドストエフスキーの『罪と罰』の物語性である。しかし今はそれについて語るのはやめよう。
ホールデンがフィービーを押しとどめるその瞬間というのは、この作品の中で始めて、ホールデンがそれまでの役割を放棄する箇所だ。だから、この場面は重要だ。ホールデンはここでは、これまで彼が嫌悪していた常識人の立場を取っているのだ。そしてそれは、フィービーがあの瞬間だけ、ホールデン以上の異端者となっていたからである。十才の女の子が西部に独断で旅に行くとはどういう事だろう? だから、ホールデンは彼女を押しとどめる。つまり、世界とは実はーーー嫌悪する者にとっても、嫌悪する対象があるからこそ、その存在を露わにできるという理由で必要なのものだと言える。自分の敵は、究極的には自分の味方である。敵が一人もいなければ、闘う事もできない。だから、この場面でホールデンは、彼が散々に毒づいてきた世界そのものが(そのニューヨークの世界が)、実は彼にとってかけがえのないものであるという事を逆説的に立証しているのである。
ホールデンはフィービーを押しとどめる。フィービーはむくれる。しかし、すぐに二人は和解する。雨が降ってくる。作品に終わりをもたらす雨がーーー。ここで主人公の語りは終わる。しかし、青春の、情熱の火は続く。だから、ホールデンはおそらく、永久にニューヨークの街をさすらい続けるだろう。しかし、彼はどんな事があっても決して、『西部』に行く事はできはしないだろう。それは、願望であるという意味で始めて、必然性ある何ものかなのである。では私は最後にーーこの主人公の嫌悪が、この宙ぶらりんの、形而上的な精神そのものが、そもそも一体何かという事を簡単に書いて、この論考を終えようと思う。




