4
作品の中を、登場人物がうろつきまわるにあたって、その作品世界を作り上げるのは作家である。そして、登場人物ーー主人公そのものを作り上げるのもまた作家である。ここで、作家は、純然たる一つの意志力、障害を踏み越えようとする精神と、障害である所の世界そのものとを同時に生み出す。そして作家は、その二つを同時に生み出しながら、物語を進行させる。
慧眼な人々の手にかかれば、物語というのはある種のパターンへと還元されてしまう事だろう。また、ベストセラーを狙う者達は、古代ギリシアから変わらない物語のパターンを踏襲する事によって、一定の成果をあげる事ができるかもしれない。しかし、私はそれらの事について疑問を感じている。生きるとは、一つの不可能事であり、五里霧中、悪戦苦闘の毎日の何か以外のなにものでもない。全ての見通しが立ち、未来がくっきりと照らされた一つの空間があるならば、それはもはや未来そのもの、そして過去そのものを同時的に現在に還元した、今を生きようとする人々が持っている哲学とは本質的に違うものである。それは時間性を全て消去し、全てを機械的なからくりの中に溶かしこんだ、生そのものとは違う、生についての認識にすぎない。私は言うが、『生の哲学』とは生そのものではない。そして、今を生きる私達の物語とは、私達の外部にあるのではない。あるいは、それは類型化できるかもしれないがしかし、私達の存在そのものを完全に類型化する事はできはしない。そして物語とは私達自身の内部にある。物語とは正に、進行する現在である。それは私達の内部にある事によってまた、未来の不可能性と過去の係累に引っ張られる何かである。人々が物事をひとさじの論理に還元し、全てを安寧の中に叩き込んだと思った瞬間、不可能性という新たな、凶暴な魔物が私達の元にやってくる。そして、その魔物を手懐けた称する人物が常に、それ以上の最悪の魔物として、人類の前に姿を現してきた。スターリンは、毛沢東は我々に何を約束しただろうか。そして、彼らは何をしたのだろうか。
では、「ライ麦」において、主人公が運動する物語の空間とはどのようなものだろうか。「ライ麦」のホールデン少年は、私達にどのような事を主張しているだろうか? 私はやや脱線するかもしれないが、少しその事について書いておこう。元々、私の考えでは芸術とは、生にもっとも適した哲学形態の一つである。あるいは、それは個別化された、独自性にその原理を置いた哲学と言ってもよい。芸術が哲学になれない、またなる必要がないのは、芸術が個別的であるからである。芸術は常に、誰々の言動とか、具体的な風景とか、あるいは色彩、線、音、などの個別的なものに限定される。それは全く独自なのである。それぞれのものである。そしてその独自なものの中に、普遍性が宿る事になる。とはいえ、この独自性の中に普遍性を見出すのは主に読者、視聴者の仕事である。最初から普遍性を塗りたくった芸術作品とは、それ自体芸術作品と呼ぶ事はできない。それは、芸術ではなく学問的な何かである。
哲学含めた学問的なものは一般性を目指す。哲学は人間の精神を一般化するが、科学は精神を抜く所によってその客観性と精密性が成り立つ。では、その中にあって芸術とは何か。芸術とは言ってみれば、一般性を抜かれた哲学である。しかし、それ故に、一般化によって損なわれていたものが、芸術には戻ってくる事になる。つまりそれこそが、個別性、独自性である。言い換えれば、芸術とは生に対して、諸々の学問以上に正確な学問である。しかし、それは個別的であるが故に学問とはなりえない。そしてこの一般性と個別性との間には、一つの、量子論的な関係が成り立つと私は思っている。つまり、そこでは個別的=正確性が得られるのだが、それは一般性とは同時には成り立たないである。そこには一つの不可避な関係がある。しかし、この事についてこれ以上述べると、哲学になってしまうので、この論考でこれ以上、この事について述べるのは止めておこう。
まずもって、ホールデン少年とは独自な存在である。それはオリジナルな存在である。この少年はニューヨークの街をうろつく。しかし、このような、少年の煮えたぎる青春を描いた傑作小説はおそらく、他にもある事だろう。しかしだからといって、サリンジャーとその作家とが、全く同じ定理に到達したと、数学風に言う事はできない。例えば数学において、ライプニッツとニュートンが同じ微積分の概念に到達したと言う事はできる。アメリカとロシアの数学者が別の道を辿って同じ定理に達したと言う事も可能だろう。しかし、芸術において、全く似たような作家的資質、その真実もまた、それぞれによって個別化されるという芸術上の作用により、それらは互いに別個の作品として私達には認識されるのだ。もちろん、盗作云々という話はあるだろうが、これは今私が語っている問題とはほとんど何の関係もない低いレベルの話だ。
余談が過ぎたが、元に戻る事としよう。「ライ麦」における作品空間、その世界観というものは一体、どうなっているだろうか。ホールデンは世界に対して嫌悪感をばらまきながら、世界の中を運動する。それが基本的な、この作品の主人公の運動形態である。そして、この場合、この作品が極めて現代的と言えるのは、世界全体というものに対して照応する概念が、主人公の行為、生活ではなく、主人公の意識であるという事にある。ホールデンは絶えず、世界に対して反抗する。彼は彼を押しつぶそうとする世界に絶えず、小言を述べ続ける。何故か。それは、簡単な事である。究極的な意味において、ある個人の実存性、その存在が保つ事が可能なのは、その人間が絶えず世界に反抗するからである。私はハイデガーの存在哲学がいかなるものかを知らない。また、フロイトの精神分析がいかに、原理的、あるいは原理=指向的なものかは知らない。しかしながら、彼らの哲学、彼らの方法論の中に、個人の絶えざる生そのものが刻印されていなければ、彼らのしている事は、(極めて大きな妥当性があったとしても)最終的には間違っているという事になるだろう。何故かというと、人は概念ではないからである。生きるという事は概念化できるかもしれないが、それによって失われるものを、概念を中心として思考する者達は忘れているからである。そしてそれはヘーゲル以来のインテリ達の伝統である。インテリ達が一般に、何らかの概念を持ちだして世界全体を理解したと考えようとするのは、あたかも彼らが大学内部に居座り、世界全体を望遠鏡で見ている、そうした構造の象徴であると言える。私が思うに、大学の校内もまた、下町の薄汚れた人々の営む生活態と区別できないなにものかなのである。そして、観察されるものと観察するものとを分別する事によって、インテリ達は常に、自分達に対する安息、休息できる為のお経を発明し続けてきたのだ。
ホールデン少年は世界に対して、このような嫌悪感を表明し続け、またそれによって、私達読者に自らを露わにする。しかし、それ自体としては物語は、作品は終末を迎える事はできない。作品には何らかの形での、『転倒』が必要である。つまり物語としての起伏が必要である。ベストセラー的な作品の大半は、起伏のみを目当てに書かれているので、そこでの人間は自動ねじ巻き機にねじを巻かれていたかのように運動する。しかし、『ライ麦』はそうした作品ではない。ホールデンはおそらく、我々以上に自身の生を生きている、あるいは生きようとしているのだ。しかし、それだけでは物語の起伏とはなりえない。だから、このホールデン少年に物語の終端をもたらすのが、先に言った、教師アントリーニと妹のフィービーである。では、私は最後にこの事について述べよう。




