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自然主義文学が現れた時、人は透明な視線によって世界が露わになる事をはっきりと感じた。それはあたかも、ニュートン物理学によって全ての自然現象が説かれ得たかのようなものだった。
ある人間が運動し、生きる時、それをどのような描くか。リアル、という領域が文学の内で始めて問題になったのは近代ではないかと思える。しかし、それは後の我々の時代ーー全てがフィクション化した非リアルの時代を予知していたとも言える。フローベールは確かに、書斎の中に座って全てを見わたしたかもしれない。全てを。しかし、今やその「全て」(個人の生活、生など)がなくなってしまった。今我々にあるのはフローベールの書斎だけである。つまり、我々の「意識としての書斎」だけである。
こういう言い方は象徴的かもしれないが、続けさせてもらおう。「ライ麦畑でつかまえて」で出てくるあらゆる物事、登場人物というのは、全て、主人公ホールデンの世界への嫌悪感から現れてくるものだ。そこで、あらゆる物事、あらゆる人物に、何がしかの意味(あるいは非ー意味)があるのは、それがホールデンの意識空間を通ってくるからだ。ここで私はバフチンの鋭い言葉を思い起こす事ができるだろう。彼はドストエフスキーについて論じたのだが、しかし同じ原理はサリンジャーにも通用する事ができる。つまり、現代においての物語の主人公というのは、前時代における作者の立場を持っているのだ、と。だから私は言う。ホールデン少年とはまさに、かつてのフローベールの書斎を自己の中に内蔵し、動き出した、動的な存在なのだと。ここでもまた私はバフチンの言葉の正しさを知る事となる。つまり、それまで運動せず、全てを計算する基底であった、ニュートン的世界における座標軸そのものが、相対性理論によって始めて運動し、相対的なものになったように、ここではそれまでのフローベールの「書斎」が運動しているのである。つまり、おそらくは時代とはこのように、過去を現在へと取り入れ、なおかつそれを相対化する事によって、進歩していくのだ。私はそう思う。
もちろん、サリンジャーはこうした事の第一人者ではない。この領域におけるパイオニアはドストエフスキーであり、彼は物理学におけるアインシュタインが起こしたような変化を起こしたと言える。しかし、もちろん、変化というのはそれ自体取り上げただけでは何の意味もない。それは、現実に対応するものとしてのみ、始めて意味があるものである。では、この動的な主人公を必要とした現代の現実とは何か。私は及ばずとも、これについて簡単に素描してみたいと思う。
ホールデン少年は世界について嫌厭をまき散らす。そして、「ライ麦」の中で、その世界に意味があるのは、ホールデンの世界への嫌厭を通してのみの事である。世界はもはや、それ単体としては存在できはしまい。ドストエフスキーの「罪と罰」のように三人称で小説を書いたとしても、それはラスコーリニコフの意識空間を辿らなければ何の意味もないのである。世界はもはや、フローベールの書斎から描く事は不可能となった。何故か。その答えは簡単である。それは、各々がフローベールの書斎を自己の内に持つ事になったからだ。だから、この現代において、ドストエフスキーやサリンジャーが自己の内部に持っている新たな「書斎」は、かつての書斎を眺める事のできる新たな視点ーーもう一つの視点なのである。
つまり、ここでは単純に、世界と作家との間に次のような関係が認められるだろう。まず、世界は観念化した。世界における人々は、自身、ただ世界に小突き回されて生きるかつての生活人としての姿を失い、評論家、批評家的な観念的な存在となった。そして作家はそれに対して、その観念的存在を再び一つの物象として描けるような、もう一つの観念を、観念的空間を自らの内部に作り上げた。つまり、それが近代と現代との一番大きな、決定的な違いである。ここでは、描写法が過去とはまるで違っているのだ。という事は、作家の内部も全く変じたという事だ。
世界が何故このように観念化したのか。それについて論じるには、ここでは紙数が不足だし、私の知識も足りなさすぎる。しかし原理的にはそのような事が起こり、そしてそれに作家はそれぞれ対応せざるを得なくなったと言う事はできる。私は未だにかつての自然主義的な、「一つとして同じ石はない、同じ樹はない」式の描写法にすがりついている作家連の態度について疑わしく思っている。彼らは事態が変わったのに、方法を変えようとはしていない。もちろん、変えなければいけない方法とは、私の言った方法が単一のやり方とは限っていない。しかし、もう全てが変わったのであれば、自らも変わらなければならないのは明白である。そもそも描写というものが成立するには、対象の全域を描くという本質的な描写に関する規定があるはずである。だが、多くの作家は、対象を全的に描けるかどうかとは考えずに、ただ過去の方法のみしか見ていない。フローベールとか志賀直哉とか、ドストエフスキーとか。彼らは過去の大作家の名を上げるが、彼らは、過去の大作家らが何を望んで、何を成したかについては見ようとはしない。彼らが見るのはただ表面のみであり、そしてそれ故に、時代に取り残された奇妙なドグマや党派が無数に生まれる事となる。私は彼らがどうなろうと知りはしない。時代はもうすでに彼らを追い抜いている。彼らは、後は自分達の作った壮麗な教会を護持し、世の中を罵る事くらいしかできはしないだろう。しかしその砂城もまた、すぐに脆く崩れ去るだろう。
「ライ麦」では、先に言ったように、主人公ホールデンの嫌厭が一番の問題となってくる。彼はーー残念ながらーーおそらく、この世界にただ一人の知性ある存在であるのだ。もちろん、それは「ライ麦」という作品世界の中での話だが。私達の世界では今、「中二病」という言葉が流行っている。これは、少年、あるいは青年の自己意識過剰な、奔騰する情熱の空回りを揶揄する言葉である。そうして考えると、ホールデンはまさしく「中二病」的な人物と言える。人は(特に男性は)この人物に感情移入し、『まさに自分の言いたかった事をこの人物は言っている!』と感じる事だろう。しかし忘れてはならないのは、サリンジャーはこれを『描いた』人物であり、彼自身は青春の中にいた人物ではない、という事である。人は共感する事から始めて、次第に自らを客体化する道へと入らなければならない。そしてサリンジャーはまさしく、その道を歩いた。私が思うに、優れた作家とは皆、このように不思議な、魔術的な方法を持っている。サリンジャー含めた、優れた作家らは読者らに、登場人物のそれぞれに対し、心底からの共感を呼び起こす。すると、私達には一つの疑問が起こる。私達が天才作家の描いた人物に感情移入できるという事は、私達自身の内部に元々それがあったという事になる。だとしたら、私達はどうしてそれぞれが天才作家になれないのだろう?
こういう質問を馬鹿げた質問だとは、私は思わない。こういう素朴な問いよりを発する人よりも、「才能」や「努力」というテンプレートの言葉を振り回す人間の方が、遥かに低い知的段階にいると私は思う。私なりにこの問いに、自分で答えてみるとーーー答えは半分正解であり、半分間違いである、という事になる。ではその事について述べてみよう。
私達が「ライ麦」の主人公に共感する事は、大いにありうる事である。また、多くの人々にこの多様で、更には深い共感を呼び起こす事ができなければ、この作品はこれほど有名にはなりえなかったであろう。つまり、私達の中に、この主人公が持っている要素がある事はどうやら確からしい。しかし、サリンジャーという世界的な作家はこの世界に一人しかいない。では、何故、このオンリーワンな個人が、これほどの多様性、普遍性を持つ事ができたのか。
その答えは先に言ったとおりである。つまり、「描く」という事は、自己自身を対象化するという事である。人は誰しも、青春期には、ホールデン少年そのものかもしれない。しかし、それを描く作家ではないのだ。ここでは、技術というよりも、もっと根底的な問題が存する。人は、世界的な作家になるためには、自己を自己からもぎはなす根本的な技術が必要となるのである。そして当然、自分から自分を引き離すというこの作用は、その本人に多大な苦痛を引き起こす。しかし、この苦痛を辿らなければ、人は自身を描く事はできない。誰がどう言おうと、結局の所、シェイクスピアやドストエフスキーのような偉大な作家ですらも、彼らは自分自身を描いたと言う事できる。では、シェイクスピアやドストエフスキーにとっての「自分自身」とは何か。彼らはそれを常に拡大する事を務めた。従って、彼らの描く「自己」の中には余りに多くの他者、あるいは妖精や化け物や神や悪魔の類ですら入っていたのだ。彼らは、結局、自己を描いたし、それ以上の事は人間にはできはしない。しかし、この自己のあり方が全く違うという事、そして自分を深く突き放し、それを客体化できるか否か、という点が常人とは全く違ったのだ。だから、それは生まれつきのあり方というよりも、もっと成長的な要素を持っていると言っていい。もし全てが生まれつき違うものであるなら、彼らの作品に私達が感情移入することすら不可能であるからだ。
「ライ麦」において、ホールデン少年、その性向は確かに私達の似像ではある。しかし、それは単にそれだけではない。ホールデン少年は世界を嫌悪し、それに侮蔑の言葉を投げかける。そしてその像はまた、作者にもよく似ているだろう。しかしホールデンそのものはサリンジャーではない。当たり前の事だが。しかし、では、どう、何が当たり前ではないというのか。では、私はその事を次章で述べる事にしよう。「ライ麦」という作品の、空間世界において、ホールデンはある運動をしていると私には見えている。そして、そこで最も重要な限界を成している人物は二人いる。それは物語の最後で出てくる、教師アントリーニと、妹のフィービーの二人である。この二人は、ホールデンに近い知性と能力を与えられているが故に、この作品に限界と、そして終末をもたらす事のできる存在である。もう少し言うなら、この二人こそが、他者なきホールデンにとって唯一(二人いるが)の『他者』である。では、私は次にその事を論じよう。