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 青春というものがそもそも何を意味するのか。アルチュール・ランボーはこれにうまい名前をつけた。いわく、『地獄の季節』。確かに、青春とは地獄の季節であろう。それを、安々とくぐれると勘違いしている呆けた人々には今私は言及しない。おそらく、生を真剣に生きない者には地獄は現れない。不思議な事だが、殺戮、戦争、死刑、レイプ…あるいはそのほか様々の、無限に近いような我々の悲惨すら、それを感じる事ができない者にとってはそれは『地獄』とは感じられない。結局の所、我々の世界は感受性の世界だと言える。我々はほんの小さな事から、世界の果ての、更にその外側まで感じ、痛み、考える事ができる。だが、感受性の欠けた爬虫類的な人間にとっては、どんな戦争も悲惨も、(それを自身が肌で体験しようと)何の意味もないものである。しかし、真の意味で感受性を持った人間は、この爬虫類型の人間すらも、「その人物が何故そのようになったのか?」という問いに変えて、その人間を理解してしまう。私が思うに、真に相手を乗り越える唯一の方法は愛ゆえの理解である。こんな言い方は古いかもしれない。しかし今私の言った方法はおそらく、私を「古い」と笑う人さえも、その人さえも、精神分析よりも更に進んでその人を深く理解する。精神分析とは結局、芸術のような個別的要素を除いた、一般的範疇としての理解にすぎない。それはカテゴリとして他者を理解するが、当然、人という存在は常にカテゴリの内部に収まるとは限らない。人というのは全て、独自性ある生き物なのだ。そしてその独自性を切り払うところに、一般理解としての精神分析が歩み始める事ができる。


 サリンジャーがこの作品を書いたのは三十の年だった。おそらく、この年齢は重要だろう。サリンジャーは三十の年で書いた、という事は彼は半ば以上、青春を抜きでた存在だったという事だ。もちろん、年齢故にそうだと確定的に結論をくだす事はできない。しかし、あらゆる事がそうであるように、「それ」を描く時に、「それ」の内部にいる事は許されない。あるものを描く時人は、それから抜きでた存在でなければならない。日本という国家を知るには、その国家の外側からの視点を持たなければならない。そして実は、この視点の存在そのものが、その対象を半ば否定し、そしてそれよりも高い場所がある事を指し示しているのである。人は基本的に、背後を振り向く事ができない存在である。人は、どうしても自分のあるがままの存在を見る事ができない存在である。しかし、基本的に、進歩とか変化という概念の基礎にあるのは、その人が現に意識していないそのあり方そのものなのだ。人は我知らず、風に吹かれて高い場所に移動しているものだ。そして、それを意識する事から新たな歩みが始まる。これはヘーゲル哲学に限った事ではない。


 例えば、ランボーの「地獄の季節」は、青春を内部から書いた作品であると言える。それは青春を対象化してはいない。それは青春内部から見た、美しくも奇妙な夢の形象である。若き青年は自らの脳髄に観念を寄せ集め、あらゆる市街、あらゆる海、砂漠、宇宙を取り集めてそれを一つの絢爛たる夢にする。そして更にランボーはその先に行った。つまり彼は小林秀雄の言う通り、その夢を見たままに、逆さに落下する自分の半身すら見たのだ。彼はだから、つまり、自分自身と刺し違えた。彼の観念は青春の自己自身と刺し違えた。美は美と衝突する時、新たな、これまでになかった美を生んだ。それがランボーの意味である。しかし、それはあくまでも青春の内部での話である。青春の外部ーーーそれはランボーの死後の、その先にあった現象である。


 ホールデン・コールフィールドがニューヨークを闊歩する姿は何であろうか。彼は青春の権化である。そして青春とは地獄であるーー。ホールデン少年にはガールフレンドがいる。友人がいる。彼は金持ちの息子の、満たされた少年である。しかし、この少年は世界全体にインチキを見てしまう。そう、それはまるで、ランボーが世界に対して、一つの欺瞞を見たのと同じような現象だ。彼はニューヨークをうろつきながら、世界に唾を吐いてまわる。しかし、だとすれば、世界もまた彼に唾を吐くだろう。ホールデンはもちろん、その事を知ってる。だからこそ、彼は世界からも自分自身からも逃れようと、突如として西部に行く事を思いつく。しかし、それは単なる思いつきでしかない。その事はホールデン自身が誰よりもよく知っている。だから、ホールデンは、妹のフィービーが、物語の最後の部分で、自分もホールデンと一緒に西部に行きたいというその懇願を懸命に押し留めるのだ。西部に、あるいは「ここではないどこか」へと行こうとするなどというのは、全て野暮ったい夢であるという事はホールデン自身もよく知っている。余り関係のない事だが、最近、世界ではイスラム原理主義が興隆してきており、そしてその中でも過激な集団が自分達の惨行をネットを通じて人々に見せつけるという事をやり始めた。そしてそれに対して、ヨーロッパや日本の若者が、そこに妙な理想と奇妙な憧れを抱いてその集団に参加する、そんな事をする人も少数だが現れ始めた。彼らは別にホールデンとは似ていない。彼らの頭が良かろうと悪かろうと、彼らにはホールデンのような知性はない。しかし、その願望の在処は似通った所にあると言える。人は平和と倦怠に飽けば、銃を取りたがる生き物なのかもしれない。彼らはあるいは何かを世界に対して誇示したがっているのかもしれない。自分達もまたヒーロー、あるいはヒロインの一人なのだと、ただの背景を行き過ぎる灰色の人々の一人ではないと、誰かに、あるいは自己とか個人とかより大きな、世界、歴史に対して誇示したがっているのかもしれない。しかし、彼らは間違いなく、自分のその行動を後で後悔する事になるだろう。人が、自分が何を持っているかについて真に理解できるのは、それを失ってからの事なのだ。彼らはあるいは生命をそこで失う事になるかもしれない。しかし、彼らはその時、無限の実存と反省的後悔をもって、残念ながら自分も生命ある存在であったという事に気付く事になるだろう。


 ホールデン少年は彼らほど無鉄砲ではない。彼は自分の愚かさを知っている。しかし、愚かであったとしても、人が前方に飛び出なければならないとはどういう事か。しかし、ホールデン少年は結局、ニューヨーク、現代のアメリカを抜け出られない存在なのだ。その作者がやがて、後年になって東洋的思想に救いを見出そうとしても、近代西欧の理念的知性の世界からは逃れる事はできない。逃れようとする事はおそらく、むしろ、その拘束そのものを強める事になるだろう。これはいわば永遠に親に反抗しようとしている少年のような心性であると言える。親を越える方法は親に反抗する事ではない。その唯一の方法は、自身が自分の親以上の立派な親になる事だ。


 人間にとって外部世界とは、それ自体で何を意味するか。ホールデン少年にとって世界は、嫌悪すべき対象ではあるが同時に必要であるものである。彼はエレベーターに乗る事にうんざりする。彼は車に乗ってあっちこっち連れ回される事にうんざりする。「馬」であればまだマシだろうと彼はつぶやく。しかし同時に、彼は、「馬」なんてものがかつての、過去の「車」に相当するものだったという事もおそらくよく知っているはずだ。人は馬に乗って、随分の蛮行をしてきたものだ。馬が車より良いというのは、単なるノスタルジックな概念である。しかしホールデンがこの世界を嫌厭している限り、彼は何かを手に取らなければならない。そこで、「馬」が彼の過去の記憶の中から這い出てくるというわけだ。


 ある人間が世界を嫌うの勝手である。だがしかし、それ故に世界がこの人物を嫌うのもまた、世界の勝手である。それは世界の摂理である。人はある社会条件、秩序を前提して生きている。今や、この時代では、ニーチェやゲーテですら、通俗的な書物の中で「明日も頑張って会社(学校)に行こう」という応援スローガンを吐く通俗的な思想家と成り下がった。大衆はかつて天才を疎外した。しかし、過去の天才が今や天才である事が判明した以上、その天才「すらも」我々の通俗的世界を肯定しているのだと人は信じる事にした。あるいはその必要があった。そしてそれは人にとって、彼ら自身の心性の防護、その肯定の為に必要な操作であった。ドラッカーに関しても、彼が死ぬ前に書いた詩というものが、デマとしてネット上で拡散した事があったが、その時、人はまさにこのドラッカーという偉大な人物を一人の通俗的な人物に貶める事に部分的には成功したのだ。


 天才というのは全て、世界から疎外された個人であると言っても言い過ぎではないだろう。ダリのような偽の天才はともかくとして、本物の天才は自己の内部に孤立した世界を抱えている。そして孤立がなければ、つまり、世界から疎外された心的領域が存在しなければ、それはどんな意味でも価値となりえない。独自性とは、世界とは違う価値を持つという意味では肯定的なものであり、世界から疎外されるという意味では否定的なものである。しかし全ての天才は運命のーーつまり、ダイモンの言葉に従ってその道を行く。全ての天才がこの道を行くのは、彼らの内部に目に見えないそのような道があるからである。彼らは我知らずその道を辿り、そしてとうとう、シェストフの言う所の「悲劇の領域」までやってくる。


 ジョージ・オーウェルはその最後の作「1984年」で、この個人と世界の疎外の関係に、倫理性を導入してみせた。それが、サリンジャーの「ライ麦」と違うところである。「ライ麦」で、ホールデンが世界から疎外される事には、確たる意味はない。それは単に、ホールデン少年の「青春」という概念に帰せられる。そう考えても間違いではない。しかし、オーウェルの主人公ウィンストン・スミスは、世界から疎外され、それに抗うのに、一種の社会的な理念を持っている。そしてこれは当然、それぞれの作家の位置した社会条件の違いであると共に、それぞれの作家の思想の規模の違いと言ってよい。なんと言っても、サリンジャーのアメリカは当時、恵まれた領域にあった。それに対してオーウェルが見ていたのは、当時のイギリスの現実ではなく、イギリスを含めた世界全体的な政治的動向だった。そこでは紛れもなく全体主義が興隆していた。そして全体主義とはその理念の中に必然的に個人の自由を疎外するという、そういう方法論を有していたのだ。それに対し、ホールデンが嫌う資本主義の世界では、人々がホールデンを嫌うとは特に決まっていない。だから、ホールデンの場合、彼が世界から押し出されるというよりは、むしろ彼が世界を、彼の領域から押し出したのだ。ここにそれぞれの社会条件の違いがある。


 サリンジャーとオーウェルとの違いを強調する事はおそらく異端な事かもしれない。実際、二人はさほど似ていない。しかし、その両者は作家としての魂から、『世界に抗う個人』というものを描いた。何を置いても、文学とは世界に抗う何かである。もし、文学がそうでないなら、それは単に世界を、人という尺度によって正確に測量するだけの事になる。人が、もし世界に抗う事がなければ、世界のシステムそのものは明確にはされない。人は、疎外という関係を辿って始めて世界の全貌を手にする。そして、その地点では、世界全体を見渡す事ができるという事と、自分自身を認識するとは全く同一の事態である。我々が無理にこの二つの事象を分裂させる必要はない。


 オーウェルの世界においての全体主義は、個人を『強制』によって取り込む社会である。それは個人を強制的に『右に曲がらせる』のであって、左などは存在しないか、あるいは左に曲がるものは即異端者とされる。しかし、サリンジャーのいる資本主義社会はそれよりもっと巧妙に個人をシステムに取り込んでしまう。それは『自由』によってそれぞれの人間を世界の内に溶け込ませてしまう。人は最初から世界の中にいるが故に、右に行くのにも左に行くのにも自由であると思わせられる。つまり、世界は最初から個人に無数の道を開いてやる。そのどれを選んでも、それは個人の自由である。しかし、それはシステムが個人にそれを準備し、そして待ち構えているという点において、すでに、個人の自由そのものをシステム内部に取り込んでいると言える。しかしこんな言い方は社会そのものに対して、不正な言い方をしていると言えるだろう。自由かつ平等な社会というのは、資本主義や民主主義の実現した最良のものであるだろうから。しかし、本当の意味で自由を目指す個人は、社会が示す選択肢全てを否定する事を志向する。彼は、自分の価値観と自由そのものがシステムに取り込まれている事を感じているがために、全てを否定する一歩を踏み出す。そしてこの一歩とは、犯罪ではない。犯罪は単にシステムに対する子供らしい反抗でしかないからだ。では、真の反抗、あるいは真の一歩とは何か。そもそも、そんなものはあるのだろうか。

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