8.公園
澄み切った朝の空気に心地良さを求めるには、それに暖かさを与えるはずの早春の日差しは、まだ幼すぎた。
今日は、いつもより早く家を出た。
封印してしまった者達と向き合うために
少女は、昨日仔猫と別れた場所に立っていた。
自転車は、傍らに停めてある。
少女は昨日と同じく、敷き詰められた石畳から、石造りの階段を見上げていた。
今日はそこに、仔猫の姿はない。
誰もいない公園の階段
少女は、身じろぎもせずに、何かを思いつめたような表情で、それを見上げている。
静けさに支配された公園
少女の周りでは、風もない穏やかな冷たい朝の空気に満たされた時間だけが、流れていた。
少女の表情は、動かない。
ただ、誰もいない階段を見上げていた。
不意に、公園の静寂が何者かに僅かに破られる。
小鳥の鳴き声が遠くで聞こえた。
少女の表情が少しだけ動く。
鳥の羽ばたく音が近づいてきた。
少女の瞳が、小さな来訪者を追う。
小鳥は、階段の途中に舞い降りた。
そこは昨日、仔猫が振り向いて少女を見た踊り場だった。
小鳥は、そこからすぐに飛び立ってしまった。
少女の視線は、飛び去っていく小鳥を追わない。
そのまま、仔猫が振り向いた踊り場を見つめ続けている。
口元が、ほんの僅かだけ引き締まったように見えた。
何かの思いで張りつめた少女の顔に、強い決意の眼差しが生まれていた。
階段を見上げたまま、ゆっくりと、その右足が前に踏み出される。
少女の右足は、まるで石の感触を確かめるかのように、しっかりと階段を踏みしめていた。
しかし、少女が踏みしめているのは、ただの石造りの階段ではなかった。
そこはすでに、遠い日の思い出の場所
少女が自ら封印した記憶の入り口だった。
階段を踏みしめていた右足を伸ばし、次に左足が2段目を踏みしめる。
少女は、階段を登り始めていた。
一体、何処に向かって登っているのか。
一体、何に向かって登っているのだろうか。
まだ、少女には分からない。
階段を昇る少女の双眸が、少しずつ光るもので満たされ始めていた。
そして、そのことに、少女は気付いていない。
仔猫のいた踊り場が、少女を迎える。
今日、そこには、誰もいない。
ただ、整然と敷き詰められた石畳があるだけだ。
少女は、その石畳を静かに見つめている。
聞き覚えのある鳴き声が、小さく聞こえた。
少女は、踊り場から階段を見上げた。
鳴き声は、階段の先からしていた。
少女は、鳴き声のもとへと、再び階段を昇り始める。
階段を昇る少女の視界に、こげ茶色をした東屋の三角屋根が現れた。
少女の目にする景色と歩みが、深く眠り続けていた悲しみを、揺さぶり始めていた。
目に溜まっていたものが溢れ、朝日が一筋の光を創りだした。
固く閉じられていた少女の中の記憶の扉に、ほんの僅かな隙間が生まれる。
階段を昇り続ける少女の前に、次に現れたのは、その屋根を支える6本の木の支柱だった。その屋根 は、正六角形だった。
白髪の人の頭が見えた。
その後に木製のテーブルとベンチが現れた。
そこには、髪を後ろに撫でつけた80歳ほどの眼鏡をかけた老人が座っている。
少女の記憶の扉が開きかけていた。
老人の膝の上に何かが乗っていた。
その何かには、模様があった。
白と茶色と黒が不規則に入り混じっている。
不意にその何かが縦に伸びた。
縦に伸びたその何かには、顔があった。
その顔にある目は、少女を見ていた。
その何かは、三毛猫だった。
老人の膝に座った三毛猫が、顔を上げて少女を見ていた。
少女は、この光景に見覚えがあった。
前にも、こんな風に、猫と老人とが階段を昇ってくる少女を迎えてくれた。
記憶の扉が、音を立てて開いていく。
老人も少女の方を振り向いた。
老人が少女に微笑みかけた。
あの時と同じように
三毛猫が、少女の来訪を歓迎するかのように、優しい声で一声鳴いた。
少女は、その鳴き声が大好きだった。
少女は、この場所が大好きだった。
10年前
ここは、少女が一番大切にしていた場所だった。
封印は、破られていた。
思い出は、蘇った。