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黒孩子  作者: カギシッポ
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7.歩み

 幼い春の午後の日差しが、僅かばかりの暖かさを与えてくれていた。

 青年は、かつて父親と一緒に車で走った道を歩いている。

 しかし、今の青年が、幼い頃を回顧することはない。

 贖罪から逃げ出している自分が、父親との大切な思い出に触れることに、強いうしろめたさを感じていた。

 少女に出会ってしまってからだ。

 喫茶店から歩いて10分ほどの所に常温固体核融合施設の製造プラントがあった。

 青年は、そこに向かっている。

 そこでいくつか必要な書類を渡し、軽い打ち合わせをして、今日は帰路に着く予定だ。

 本社には、今回の出張について大体のことは既に電話で報告してある。

 正式には、明日出社したときに報告するつもりだった。

 今はただ、少しでも早く工場長に必要な書類を渡してしまいたいと思っている。

 彼の国でのことを忘れるために

 青年はまだ、逃げ続けていた。

 思い出からも

 何かに没頭して、たとえ束の間でも、この苦しみを忘れていたい。

 そんな思いが、青年を機械的に仕事に駆り立てる。

 青年は歩きながら、打ち合わせをする前に書類を確認しておこうと、書類ケースがあるはずの左手を見た。

 しかし、そこに書類ケースはない。


 あの喫茶店の席の上だ。


 青年は、書類ケースを喫茶店に忘れてきたことに気が付いた。

 それは、会社にとって最重要書類とも言えるものであった。

 青年の心を蝕み続けていた彼の国の光景が、その役割を譲り渡す。

 顔が色を失っていく。

 青年は、来た道を振り返っていた。


 小さなワインレッドが見えた。

 自分に向かって走ってくる少女の姿を、青年は見ている。

 少女は、左わきに何かを抱えているようだった。

 青年も少女に向かって、走り出していた。

 少女の抱えている書類ケースのことだけを考えながら、青年は息が上がるのも分からないほど夢中になって、少女のもとに走った。

 2人が走るのをやめたとき、呼吸が乱れて満足にしゃべれない少女は、何も言わずに右手で書類ケースを青年に差し出した。

 青年は、黙ってそれを両手で受け取る。

 そしてそのまま、無言で書類ケースを見つめ続けた。

 まだ安堵の気持ちは湧いてこない。

 今の青年は、混乱がもたらす思考の停滞の中にいた。

 「お客様」

 呼吸の乱れがおさまらない少女は、それだけを言った。

 少女の声が、青年の意識を春の日差しの中に呼び戻す。

 青年は、書類ケースから目の前の少女に視線を移した。

 おそらく全力で走ってきたであろう少女は、前屈みになり両手を膝に付いて、まだ肩で息をしている。

 青年は、少女の呼吸が整い顔を上げるのを待った。

 少女の後ろで束ねられた長い髪が、左頬から下に流れ落ち、荒い呼吸に合わせて揺れている。

 青年が少女を見つめる視線の先には、常に重なり続けていた彼の国の少女が、いつの間にか消え去っていた。

 自分の少女に対する意識の変化に、青年は、まだ気が付いていない。

 ようやく呼吸が整い始めたとき、少女は体を起こし、顔を上げた。

 少女を見つめている青年の視線と、顔を上げて青年を見ようとする少女の視線が、ごく自然に合う。


 青年は、少女を見ている。

 それは、彼の国の少女の幻影としてではない。

 青年は、今ここにいる、ただ一人の少女を見ていた。


 青年の目が少女を見ていた。

 そして、それを意識せずにいる少女がいた。

 あれほど恐れていた人の視線だった。

 今の少女は、それを受け入れている。

 何の抵抗もなく。

 その視線を受け入れたまま、少女もまた、青年の目を見ていた。


 「お客様、そちらを、席の上にお忘れでした。」

 少女は、荒さの残る息のまま青年に言った。

 「どうもありがとう。とても大事な物だったんだ。」

 青年が、お礼を言うと、少女は微笑みながら軽く頭を下げる。

 「そんなに息を切らせて大丈夫?」

 まだ呼吸の落ち着かない少女は、青年の問いに、取りあえず頷いて答えた。

 「慌てさせてしまったみたいで、申し訳ないことをしたね。本当にありがとう、助かったよ。」

 青年がそう言うと、少し照れながら、少女は、はにかんで下を向いてしまった。

 「何かお礼を……」

 青年が少女にそう言おうとしたとき、少女は、顔を上げ青年を見る。

 「失礼します。」

 少女は、青年に向かって頭を下げながらそう言うと、喫茶店の方を向いた。

 そして、そのまま歩き出していた。


 少女の人生は、いつも誰かの都合で、その運命を決められていた。

 自分の意志で行動することを許されない。

 ただの操り人形のように

 少女は、いつも誰かの意思に従い、いつも誰かによって歩かされていた。

 しかし、今、青年から足早に遠ざかっていく少女の歩みは、心なしか今までと違っているように思え た。

 少女の思ったとおりの行動は、青年によって受け入れられた。

 誰かの役に立つ。

 経験したことのない、心地良い新鮮な喜びの感情が、少女をほんの少しだけ変えたのかもしれない。

 そこには、自分の意思のままに歩き始めた少女の姿があった。


 青年は、歩いて行く少女の後ろ姿を見ていた。

 その歩みの僅かな変化に、気付かぬままに。

 青年は、少女から視線を外し、工場の方に向きを変えた。

 青年の前には、今更のように懐かしい景色が広がっている。

 青年も歩き出していた。


 大切な思い出を眺めながら


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