5.幻影
「こちらがメニューでございます。」
少女は、青年の前に水と氷の入ったグラスを置くと、そう言ってメニューを差し出した。
青年は、少女の顔をじっと見つめたまま、反射的に差し出されたメニューを左手で受け取る。
「注文がお決まりになりましたら、こちらのボタンを押してお呼びください。」
少女は会釈をすると、カウンターの方に立ち去って行った。
青年の視線は、少女の存在そのものに吸い寄せられるかのように、その後ろ姿をどうしても追い続けてしまう。
背中まで伸びた癖のない長い髪が、歩いて行く少女の後ろで束ねられて、左右に揺れていた。
呆けたように少女が去って行くのを見つめていた青年の左手から、手渡されたメニューが床に滑り落ちた。
思いがけない足元での物音が、青年をほんの僅かだけ我に帰させる。
青年はメニューを拾い上げ、テーブルの上で無意識のうちにそれを開いていた。
漠然とメニューを眺めている青年には、何も見えてはいない。
たった一つのものを除いては
今の青年に見えているのは、ある少女の笑顔だった。
その笑顔は、彼の国でのものなのか、先ほど見た少女のものなのか。
それは、青年自身にも分からなかった。
青年は、背もたれに深く体を預け、目を閉じた。
青年の中の笑顔が、光の余韻とともに闇に包まれる。
青年は、そのまま動かなくなった。
ただ、目を閉じ続けている。
目を閉じ続けたまま、時間だけが過ぎていく。
やがて少女の笑顔は、少しずつ闇に溶けはじめた。
どのくらいの時間が過ぎたろうか。
青年は、ゆっくりと目を開いた。
思いの中の少女は、もう、青年の前に現れてはくれなかった。
青年は、目の前に開かれているメニューに目を落とした。
メニューには、左側のページにコーヒーやソフトドリンクなどの飲み物、右側のページに軽食が書かれてある。
青年は、すぐにメニューを閉じてオーダー用の呼び出しボタンを押した。
すぐにカウンターの方から、人の歩く音がする。
少女は、水とメニューを運んできたときと同じように、青年のいるテーブルの左側に立った。
「ご注文は、お決まりでしょうか。」
少女はそう言うと、右手にペンを持ちオーダーをとる用意をした。
「紅茶をお願いします。」
青年は、それだけを言った。
「紅茶でございますね。」
「はい。」
「ご注文を繰り返します。紅茶をお一つでよろしいでしょうか。」
「はい。」
青年は返事をすると、メニューを少女に差し出した。
「失礼します。」
少女はメニューを受け取ると、また軽く会釈をして、カウンターの方に去って行った。
青年の視線は、もう少女を追うことはない。
青年は自分でも気付かないうちに、少女の顔から視線をはずしていた。
森を見ることもやめている。
青年は、両手をテーブルの上に置いて、下を向いた。
そこには、テーブルの木目だけが見える。
青年はまた、静かに目を閉じた。
光の痕をちりばめた暗く赤い闇が、青年の中に広がっていく。
青年は、彼の国の光景から、この場所に逃れてきていた。
そしてまた、今も、少女のいるこの場所から、闇の中に逃げ込もうというのか。
だがそれは、少しだけ違っていた。
少女のいるこの場所を目にすることさえ許されない。
そんな思いが、青年に目を閉じさせていた。
彼の国の現実から目を背け、逃げ出してしまった自分には、今、この場所にいる資格がないのではないかという漠然とした思いが、青年の中に渦巻いている。
青年は、父親との大切な思い出を穢してしまいそうで、今、この場所では何も目にしたくなかった。
あの日と同じものを口にすることさえも。
思い出は、青年を拒み始めていた。
闇の中で、また、時間だけが流れていく。
光の痕がわずかに薄くなり始めたとき、青年は顔を上げ、目を開いた。
まだ視点の定まっていない青年の後方から、人の歩く音がする。
オーダーされた紅茶を運んできた少女は、テーブルの左側に立った。
「紅茶でございます。」
少女は、青年の前に紅茶とミルクを置いた。
「ごゆっくりどうぞ。」
少女はそう言って一礼し、また去って行った。
青年の焦点の合っていない視線が、目の前に置かれた紅茶にそそがれる。
見るともなく湯気の立つ紅茶を、青年は見つめていた。
瞬きさえもせず
ただ静かに
青年の見つめていたオレンジ色のそれは、芳醇な香りとともに、その身の熱を周りに分け与え続け、その時生み出される白いものは少しずつ薄くなり、やがて消えていった。
瞬きさえ忘れていた青年は、思い出したかのように目を閉じた。
また、静かな時だけが流れていく。
赦しのない現実の前では、楽しかった思い出など、ただの幻影にすぎない。
乾いた目が潤いに満たされたとき、青年の双眸は再び開かれた。
青年はそのまま立ち上がると、伝票を手にしてレジに向かう。
レジの前に青年が立つと、カウンターの奥から少女が出て来た。
「お待たせしました。」
そう言うと少女は、青年から伝票を受け取る。
青年は、言われた金額を少女に渡した。
「ありがとうございました。」
青年は、お礼を言う少女からレシートを受け取り、出口に向かった。
少女は、青年の支払ったお金をレジにしまう。
青年が出入り口のドアを開けるころ、少女は青年のいたテーブルに向かって歩き出していた。