4.再会
青年は、人もまばらな各駅停車の電車のロングシートに座っていた。
空港から郊外にある自社工場に向かう途中だった。
荷物は、空港から自宅に送っておいたので、青年が手にしているのは茶色の書類ケースだけだ。
青年は左を向き、ただ静かに車窓からの風景を眺めている。
青年の家も、工場と同じ町にあった。
子供のころから見慣れた田舎町の風景だ。
無心で田畑の畦道を、虫を追って友達と走り回っていたことが、まるで時間の積み重ねと逆行するかのように、強い現実味を伴いながら鮮明に思い出される。
穢れを知らない幼き日々の思い出が、彼の国の少女の残酷な幻影からの束の間の逃避を赦してくれていた。
いつもと変わらない景色だけが、今の青年に安堵をもたらしてくれる。
その青年の眺めていた車窓からの景色の流れが、次第に緩やかになった。
間もなく停車駅のようだ。
そして、電車が駅に到着し停車するときの揺れが、青年の無垢な日々に終わりを告げた。
青年は、左手に書類ケースを抱え、電車を降りて出口へ向かうホームの階段を昇る。
ローカル線の降り口が一つしかない、小さな寂れた駅だった。
青年が駅を出ると、目の前にコンビニエンスストアが一軒だけ営業していた。
他にも個人商店らしきものが幾つかあったが、どれもシャッターが閉まっている。
青年の大切な思い出の舞台であった駅前の商店街は、世界規模の深刻な不況がもたらした凶暴なうねりに見舞われ、再生することも許されないほどの傷を負っていた。
今はただ、屍のような静けさの中に佇んでいる。
青年は、タクシー乗り場に向かった。
タクシー乗り場には、誰も並んでいない。
そこには、タクシーがたった一台だけ停車していた。
駅前のロータリーにある車は、そのタクシーだけだ。
車だけではない。
そのタクシーの他には、歩行者も自転車も見当たらない。
その小さな寂れた駅前にあるものとは、たった一軒のコンビニエンスストアしか営業していない商店街と、タクシーが一台停車しているロータリーだけだった。
経済危機という名の獰猛な咢は、この小さな町の臓腑を屠り、背骨である地域経済をも粉々に噛み砕いてしまっていた。
青年がタクシーの横に立つと、すぐに後部座席のドアが開く。
青年は、タクシーに乗り込んで、運転手に行き先を告げた。
運転手は行き先を聞くと、返事もせずにアクセルを踏み込んだ。
わずかな揺れを青年に感じさせただけで、車は滑らかに発進する。
青年に聞こえるのは電気自動車特有のモーター音のみの、静かな発進だ。
常温固体核融合による非常に安価で安定した電力の供給は、電気自動車を劇的に普及させた。
絶対的なランニングコストのパフォーマンスと、皆無と言っていいほどの環境負荷は、他の動力機関を徹底的に駆逐していった。
しかし、電気自動車が普及したのは、電力の低価格化だけが理由ではない。
それまでの電気自動車には、格安な電力供給以前に解決しなければならない大きな問題があったからだ。
それは、充電環境の大規模な整備と根本的な改善である。
電気自動車の充電は、燃料機関の給油にあたる。
電気自動車の普及ために最も障害となっていたのは、この充電に非常に長い時間を必要とすることだった。
この障害を取り除くために各自動車メーカーは、まず蓄電力の大容量化に取り組んだ。
だが、この取り組みの成功によって改善されたのは充電回数であって、一回の充電時間自体はかえって増えてしまった。
次に各メーカーが取り組んだのは、蓄電池を小型化しカートリッジ式にすることだった。
予備のバッテリーを持つことにより、充電切れをカートリッジの交換で対応しようというものだ。
この取り組みの成功により電気自動車の使用環境は大幅に改善されたが、数分で給油を終えることが出来る燃料機関車に取って替わるまでには、まだ至らない。
最後に各自動車メーカーは、充電環境自体の整備に取り組んだ。
メーカー間の垣根を越えて、蓄電池の規格の統一化を図ったのである。
蓄電池が統一化されたことにより、既存のガソリンスタンドでも充電済みのバッテリーに交換が出来るようにった。
自動車の大きさによる電力容量の違いは、蓄電池をセットする数により対応した。
ガソリン自動車の排気量の違いのようなものだ。
各蓄電池の劣化度の違いによる問題は、品質の自動表示機能を付加することで一定のレベルを維持させることにより解決した。
蓄電池の交換のためには、使用者も一定以上の品質のバッテリーカートリッジが必要なのである。
これらの充電インフラの整備により、電気自動車は既存の燃料機関車以上の実用性を持つことが出来たのである。
実用性を持った電気自動車の需要は、燃料機関車のそれに対して圧倒的であった。
電気自動車は瞬く間にあらゆる車種に普及し、燃料機関車に取って替わっていった。
電気自動車の普及に伴い、ガソリンや軽油の需要は激減した。
当然、ガソリンスタンドは営業することが不可能となり、電気自動車のバッテリー交換所に業種を変更するか、廃業するかを選ばざるを得ないことになった。
ガソリンスタンドの消滅は同時に、燃料機関車の使用を不可能にすることを意味していた。このことが、さらに電気自動車の普及に拍車をかけた。
青年の乗っているタクシーも、そんな実用性を付加された電気自動車の一台なのだろう。
電気自動車は、内燃機関を持つ他の動力車に比して、二つの優れた乗り心地を持っている。
まず、電気自動車にはエンジンの振動がない。
内燃機関のエンジンは、燃料の爆発を動力に変えているため、どうしても振動が生じてしまう。
一方、電気自動車は電動モーターを使用しているため、最初からこの振動自体がない
二つ目は、静寂性だ。
振動の場合と同じ理由で、内燃機関のエンジンは必ず爆発音を伴う。
だが、電気自動車は電動モーターの僅かなうなりがするだけであるため、ほぼ無音と言っていい。
実際、青年が発進時に聞いたモーター音は、他者に車の接近を知らせるために発せられた擬音である。
交通安全に配慮するため、電気自動車に付加された機能の一つだ。
今の青年には、この静かな空間がありがたかった。
今はただ、すべてを忘れるため、車窓から見える育った街の風景と思い出の中に、自分という存在そのものを埋もれさせておきたかった。
寡黙な運転手は、青年の心に沿うかのように何もしゃべらない。
静かな道行だった。
田舎町の風景は、今も昔と変わらない。
不況がもたらした経済危機が、この地域の開発を断念させていた。
幼いころの青年が、夏休みに虫取りをしていた小さな森が見える。
車は右に曲がり、その森の前を通る道に入った。
その道を走っていると、森の右端が少し赤く見え始めた。
それは、森の右隣に赤い色をした建物があって、それが向こう側に見えるからだ。
運転手がアクセルを緩め、速度を落とした。
この車の行き先は、その赤い色をした建物だった。
タクシーは森の前を徐行し、赤い建物の前に停まる。
青年が料金を支払うと、タクシーの後部座席のドアが開いた。
青年は左手に書類ケースを抱えてタクシーを降りると、建物の前に立った。
白亜の壁が青年の来訪を迎える。
初めてこの場所を訪れたとき、青年を迎えてくれた、同じ白亜の壁だ。
そのときも青年は、車でここを訪れていた。
車から森越しに、この建物を見た幼い日の青年は、それが赤いものだと思ってしまった。
しかし、実際に車から降りてみると、そこには白い建物しか建っていない。
不思議に思っている幼い青年の右肩に、大きな手が置かれた。
幼い青年は、右を振り向いた。
そこには、微笑みながら優しい目で幼い青年を見る、今は亡き父の顔があった。
父親は青年から視線を外すと、建物の上の方を黙って指差した。
幼い日の青年は、父親の指差す方を見てみた。
青年は、そのときと同じように建物を見上げる。
昔と変わらない懐かしい洋瓦の赤い屋根が、今も青年を見下ろしていた。
青年の前に建っているのは、赤い屋根の白亜の建物だった。
片流れの大きく張り出した屋根が、遠くから森越しに見る者に自らを赤く映えさせている。
白亜の壁の中央には白い片開きの扉があって、その上には喫茶店の看板がかかっていた。
そこは、今どうしても青年が来なければならなかった場所、
青年の幼い思い出の終着点だった。
思い出への逃避者は前へ進み、目の前に立つ建物の白いドアの取手に手をかけた。
そして
焼き立てのマドレーヌの香り
あの時と同じだ。
青年はドアを手前に引いて開け、中に入った。
木目を基調にした客の少ない店内は、どこか懐かしい焼き菓子の香りで満たされていた。
青年から見て左側が、今は誰もいないキッチンとカウンター席になっている。
他に4人掛けの木製のテーブル席が4つと、2人掛けのテーブル席が2つあった。
奥と右側の壁に大きめの窓が2つずつあり、青年は、一番奥の4人掛けテーブル席の左側に、書類ケースを隣の席に置いてから、森が見えるように座った。
昔、父親と来た時と同じ席だ。
あの時も青年は、こうやって森を見ながら座っていた。
父親に連れられて、森に入った帰りだった。
休みの日も、ほとんど家にいない忙しい父だった。
その父親が、初めて青年を昆虫捕りに連れて行ってくれた。
青年の母親は、その時すでに他界している。
その上、青年には兄弟姉妹もいない。
幼い頃の青年は、家ではいつも一人だった。
そのせいか青年は、あまり感情を表に現すことがなかった。
誰も相手がいないことが当たり前となっていた日常が、幼い青年をそんなふうにしてしまったのかもしれない。
その青年が、沢山のカブト虫とクワガタが捕れたことで、森を見ながら無邪気にはしゃいでいた。
珍しく喜びの感情を素直に表現している息子の姿を、父親は嬉しそうに見つめていた。
青年は、同じように森を見ていた。
この場所は、あの日と何も変わってはいない。
変わらないもの達だけが、青年の心を憔悴の牢獄から解き放ってくれる。
あの日も、焼き立てのマドレーヌの香りがしていた。
青年はあの日、まだ柔らかなままの温かな焼き菓子を初めて口にした。
温もりを持ったバターの風味が、手作りの優しい甘さと一緒に口の中に広がっていく初々しい感覚は、幼い者の心に新鮮な驚きと喜びをもたらした。
父親は、頼んだミートローフサンドを美味しそうに食べながら、夢中で焼き菓子をほおばる青年を静かに見ていた。
父と息子が二人きりで、遅めの昼食をとっている姿だった。
青年の父親が亡くなったのは、それから程無くしてだ。
どこにでもあるような夏休みの少年の何気ない一日は、幼かった頃の青年にとっての特別な何ものにも代えがたい大切な一日となってしまった。
青年は、あの日と同じものを頼もうと思っている。
あの日と同じ、遅めの昼食
父親が食べていたミートローフサンドとキリマンジャロコーヒー
それと、焼き立てのマドレーヌを
「いらっしゃいませ。」
テーブルの左側から女性の声がした。
あの日と違う声だ。
ウェイトレスは、変わっているのだろう。
青年は、声のする方を見る。
来店の挨拶を終えたウェイトレスは、顔を上げた。
青年の思い出への逃避の終わりが、突然に訪れる。
そこには、鮮やかなワインレッドのエプロンを身に付けたウェイトレスがいた。
ウェイトレスは、まだ幼さの残る少女の姿をしていた。
その少女は、笑顔で青年の方を見ている。
青年は、その笑顔を知っていた。
だが青年は、その少女を知らない。
いや、知らないのではない。
知っているはずがないのである。
青年が、その笑顔に出会ったのは、彼の国であった。
殺伐とした日常に疲れ切った青年を、唯一救ってくれたあどけない笑顔は、忘れることの出来ない悲しみの対価として、今でも胸の奥に深く刻み込まれている。
そして、もうその笑顔を持つ者は、既にこの世にいないはずだった。
朝日の中で笑顔は骸となり、それを待つ者達の思いに永遠の別れを告げていた。
それは、過酷な現実という悪意が、彼の国の少女にもたらした運命だった。
彼の国の笑顔の惨たらしい死にざまから逃れるために、青年は今、この場所にいた。
青年は、逃げ出してきたのだ。
逃げ出してきたはずだった。
そのはずなのに、臆病さが憂いとなって優しさと溶け合っている彼の国の瞳は、確かに青年の前にあった。
彼の国の少女は、あの時と同じように、今も、笑顔で青年を迎えてくれていた。