3.小さなもの
早春の朝の空気の中を、赤い自転車に乗った少女がすり抜けていく。
頬を滑る風がまだ冷たい。
冬の息吹の名残達が寒さとなって少女を襲う。
少女の味方をする者は、まだ幼子である春の日差しだけだ。
身を包む白いダウンジャケットと青のデニムが、凍えから少女を護っていた
背中まで伸びた癖のない黒髪が、陽の光の輝きをその身に纏いながら棚引いている。
少女の周りに広がる水田には、まだ何も芽吹いてはいない。
凍てつく季節の爪跡は、乾ききった大地となって残されていた。
そんな淡褐色の田園地帯に一本の小川が流れている。
少女はその小川を右に見ながら、川沿いの舗装された小道を走っていた。
小道は、工場地帯からのびた道路に突き当たって終わる。
少女は、突き当たる道を左に折れて職場である喫茶店に向かう途中だった。
走り慣れ、見慣れた道だったが、今日は少しだけいつもと違っていた。
少女の自転車の走る先、小道が終わる少し手前の真ん中あたりに、何か小さな黒いものがうずくまっていたからだ。
最初、遠くから見たそれは、道についた小さなただの染みのように少女には思えた。
しかし少女が近づいていくにつれ、それは次第にただの平面の染みではなく、立体的なものであることが分かってきた。
少女には、それが丸みを帯びた柔らかみのあるもののように感じられた。
それは、自転車をこぐ音が届くほどの距離まで近づくと、内側が急に白く変わり、同時に2倍ほども縦に伸びた。
縦に伸びたそれには、とがった耳が二つあった。
それの白い部分の上端には、小さな二つの目があった。
そこにうずくまっていた小さなものとは、生後2ヶ月ほどのキジトラ模様の仔猫だった。
自転車をこぐ音で何かが近づいてくる気配を感じ取った仔猫が、顔を上げて少女の方を見たのである。
少女の方を向いた仔猫は、大きなあくびを一度すると、両前足を地面について真っ直ぐに伸ばし、背中を反らせて思い切り伸びをした。
そのときにはもう、少女は伸びをする仔猫のすぐそばまで来ていた。
伸びをした仔猫は4本足で立ち、顔を上げて再び少女を見る。
少女はいつの間にか、自転車をこぐのをやめていた。
仔猫は、少女を見上げたまま身動き一つしない。
少女はブレーキをかけながら左足をアスファルトで舗装された道の上について、自転車を止めた。
人に慣れているのか、仔猫は怯える様子もなく真っ直ぐに少女を見上げている。
少女を見上げる仔猫の顔は、キジトラと白の鉢割れだった。
顔の白い部分は、お腹まで続いている。
顔のキジトラ模様と白い部分の境あたりには、二つの円らな澄んだ目があった。
その二つの愛くるしい瞳が少女を静かに見上げている。
目の下にある小さくて柔らかそうな鼻は、薄いピンク色をしていた。
小さな鼻のすぐ下には、への字に結ばれている口があった。
小さく丸い体と、それに比して大きい頭部のアンバランスさが、短い4本の足と相まって、幼いほ乳類独特の愛おしい姿を形作っている。
少女は、その抗いようのない力を秘めた愛おしさにまるで引き寄せられるかのように、いつの間にか自転車から降りて仔猫の傍らにしゃがみ込んでいた。
少女の右手が、身動きせずに自分をじっと見つめている仔猫の頭に向かって、自然と伸びる。
少女は無意識のうちに、仔猫を撫でようとしていた。
少女の右手が空を撫でる。
仔猫に向かって伸びる少女の右手が仔猫の頭に触れようとしたそのとき、それまでただ真っ直ぐに少女を見つめていた仔猫の顔が不意に右を向いていた。
右を向いた仔猫は、そのまま少女から見て左の方にゆっくりと歩き始めた。
少女は、歩いていく仔猫をしゃがんだまま見つめている。
仔猫は2メートルほど歩いてから立ち止まって、少女を振り向いた。
また、仔猫は少女を見つめていた。
振り向いた仔猫の顔を、少女もただ静かに見つめている。
仔猫が再び前を向いた。
そしてもう一度、同じくゆっくりと歩き始めた。
まるで少女を、どこかへ誘うかのように。
少女は立ち上がっていた。
仔猫は、まだ歩き続けている。
少女も仔猫の後を追うように、いつしか歩き始めていた。
少女は、誘われていた。
一体どこへ
少女は仔猫から視線を外し、その歩く先を見る。
そこには、森林に囲まれた小さな公園があった。
それは、少女の知らない公園だった。
少女は、何度もこの場所は通っているはずだ。
それにもかかわらず、少女がその公園を見るのは、今が初めてだった。
公園の入り口には石畳が敷かれてあり、その先は20段ほどの石造りの階段になっていた。
少女の位置からは階段で視界が遮られて、そこから先の様子を見ることは出来ない。
知らない公園のはずだ。
そのはずだった。
知らないはずなのに、少女にはその先の様子がなぜか分かっていた。
階段の先には、確か屋根付きの木製ベンチとテーブルがあったはずだ。
少女は、そんなことが分かってしまう自分自身を少しだけ不思議に思った。
視線を再び仔猫に戻す。
仔猫は、階段のなかほどの石畳が敷き詰められた踊り場まで登り、立ち止まっていた。
そして、自分に視線が戻るのを待っていたかのように後ろを振り向き少女を見る。
しかし、今、少女を振り返った仔猫は、それまでの仔猫とどこかが違っていた。
今度は今までのように少女を誘いはしない。
少女を振り返ったままだ。
仔猫は少女を振り返ったままで、いつまでも歩き出しはしなかった。
ただ、最初の時のように少女を見つめたまま身動き一つしない。
仔猫に見つめられた少女の歩は次第に緩みはじめ、いつしか立ち止まっていた。
少女も、仔猫の顔を見つめ返している。
少女が立ち止まって数瞬の後、その少女が見つめている仔猫の顔に小さな変化が生まれた。
それまで固く結ばれていた仔猫の口が、不意に僅かな赤みを帯びる。
その赤みは、すぐに大きく丸くなった。
仔猫は、少女を見つめたままで、大きく口を開いていた。
その開かれた口から、見つめている少女に向かって届けられたもの.....
仔猫の鳴き声が、天上の者たちが奏でるやわらかな旋律となって辺りを支配する。
少女はそのとき、幼いか弱さが醸造する儚さと、生きることへの純粋さを併せ持つ者のみが創り出すことが出来る響きを聞いていた。
至高の調べが、少女の中に変化をもたらす。
少女の心が、優しい喜びに満たされていく。
だが、少女の心に湧き出したものは、一つではなかった。
何故なのか、心地よい安らぎとともに、耐え難いほどの悲しみが心に溢れていくのを、少女は感じていた。
仔猫の鳴き声が、少女の心の中で一つの音を生み出した。
忘却したはずの記憶の扉を叩く音がする。
少女の中で、深く眠り続けていた何かが、ほんの少しだけ、動く気配がした。
遠い日の残酷な光景
封印したはずの思い出が、再び動き出していた。
少女は、何者かの強い力がそうさせたかのように、仔猫から背を向けていた。
少女は、悲しみから逃げ出していた。