エピローグ
自転車の甲高いブレーキ音が、麗らかな朝の公園の静寂を破る。
季節が冬に戻ってしまったような寒さが、前の日まで公園の木々を凍えさせていた。
その分までの埋め合わせをしようとでもするような、遅い春の暖かな日差しが、公園に満ちている。
春の成長の遅れが、桜の開花を阻んでいた。
前日まで、桜の木々には、春を待ち望む桃色に膨らんだ無数の蕾があった。
ようやく大人になった春が、公園に暖かさをもたらしてくれている。
そんな空気が、青年には、心地良かった。
猫達が階段を駆け降り、青年の方へと走って来る。
鳴り響いたブレーキ音が、青年の来訪を猫達に告げたのだった。
いつもの光景が迎えてくれたと、青年は思った。
だが、一つだけ、いつもと違う。
いつも青年を迎えてくれる三毛が、猫達の中にいない。
青年は、自転車の前カゴからバッグを取り、猫達に向かって歩き出した。
猫達は、青年に体を擦り付けてきたり、寝転がったりして青年を歓迎する。
青年は、そんな猫達と歩きながら、視線を上げ階段を見た。
そして、その足が止まる。
少女が言っていた風景が、そこには、あった。
階段の最上段の先が、薄い桃色に色付けされている。
前日までなかった春の色が、公園の景色を一変させていた。
暖かさを待ち望んでいた桜達が、力強く育った春のことを祝うために、一斉に花を咲かせたのだろうか。
桜を見つめ動かない青年に、猫達が鳴きかける。
青年は、鳴き声の主達を見てから、再び歩き出した。
階段を昇り始めた青年は、桜の雲の中に飛び込んでいくような、そんな錯覚に捕らわれている。
階段を昇り切り、最上段に立つ。
青年は、息をのみ、足を止める。
少女が生まれて初めて美しいと思い、心から待ち焦がれていた風景が、そこにあった。
そこでは、見えている全てのものが、桜だった。
前日まで蕾だった道の両側に植えられている桜達が、一斉に咲き誇り堤の上を薄桃色の霞に染め上げる。
桜だけが、ただ、そこにはあった。
あまりにも濃密な桜の花々が、他の全てを覆い尽くす。
他には、何ものをも存在しない。
そんな錯覚に陥ってしまうような風景。
咲きたての桜は、なぜか早々と散り始め、アスファルトさえ隠していた。
全てが、桜で覆われている。
そんな美しいだけの風景が、ただ、そこにはあった。
青年は、時間の感覚を失う。
そのまま、何も考えられずに立ち尽くしていた。
だが、青年は、何かに引き寄せられるように歩き始める。
花びらの雲海の中を猫達と共に進んで行く。
青年に向かって、鳴く声が聞こえた。
いつも、青年が聞いている声だ。
青年の歩いて行く先
少女の待ち焦がれていた景色の終着点
桜の衣をその身に纏い、春の姿へと変貌を遂げた場所
その場所から、三毛猫が、青年に向かって鳴いている。
春の暖かさに薄桃色の化粧を施され、東屋は桜の園へと姿を変えていた。
その幻想的な美しさが、青年の意識を再び飲み込んだ。
青年の足が、ふと、止まる。
青年は、東屋の方を見ていた。
だが、青年は、三毛猫を見ていない。
三毛猫は、人の膝に乗っていた。
白髪の老人の膝に
その老人は、眼鏡をかけ、白髪を後ろに撫でつけている。
青年は、その人を見ていた。
青年は、その人を知っていた。
老人も、青年を見ている。
青年は、再び立ち尽くしていた。
老人が、青年に向かって、軽く頭を下げる。
青年も、反射的に頭を下げた。
右足に重さを感じ、青年は、足元を見る。
動かない青年に焦れた茶トラ猫が、青年の右足に抱き付いている。
青年は、その猫の頭を撫でてやった。
猫は、少しの間気持ち良さそうに目を細め、足から離れる。
青年は、また、歩き出す。
東屋に入ると、青年は、いつものようにバッグから器とキャットフードを取り出し、猫達の朝食の準備を始めた。
朝食を食べるために、三毛猫が「先生」の膝から降りる。
全ての猫達が器に入ったキャットフードを食べ始めると、青年は、いつものようにベンチに腰を下ろした。
「おはようございます。」
「先生」が、青年に挨拶をしてきた。
「おはようございます。」
少し驚きながら、青年も挨拶を返す。
「先生」が立ち上がって、広場側の方に歩いていく。
東屋の端に立った「先生」は、そこから遠くに見える国道を見ていた。
遠くで、車のクラクションの音が聞こえた。
「あそこを走ってるのは、ほとんどが電気自動車ですかね。」
「先生」は、振り返らずに青年に話しかけた。
「新しい発電技術は、実は、私の生徒だった人が世に出してくれたんですよ。」
「先生」は、振り返らないまま、話し続けた。
「私の生涯をかけた研究は、誰にも相手にされず、色物のように扱われてきました。」
「先生」は、穏やかな、本当に穏やかな口調で、青年に話しかけ続ける。
「私の研究は、世の役に立つ、困窮していた世界さえ救えるほどの価値があるものだと、私は、確信していました。」
朝食を食べ終わった三毛猫が、青年の隣に座った。
「ですが、誰にも相手にされずに、そのまま埋もれてしまうのだろうと諦めていました。」
「先生」は、少しだけ悲しそうに話した。
「それが、今は、恐慌から世界を救い、世の中のエネルギーの中心として活用されています。」
また、クラクションの音がした。
「全て、その人が常温固体核融合技術を世に出してくれたおかげです。」
三毛猫が、青年に頭を擦り付けて来た。
「私は、その人に感謝しています。本当に感謝しています。」
「先生」が、青年を振り返った。
その顔は、話す言葉と同じく、とても穏やかだった。
「ありがとう」
「先生」が青年にそう言ったとき、三毛猫が膝に飛び乗って来た。
青年は一瞬だけ、「先生」から視線を外し三毛猫を見る。
ほんの一瞬だけ
だが、青年が視線を元に戻したとき、「先生」の姿は、既にそこにはなかった。
青年は、急いで三毛猫を膝から降ろし、立ち上がった。
「先生」のいた場所に行き、周りを見回した。
それから東屋の周りを歩き回り、「先生」を探し求めた。
だが、どこにもいない。
いるはずがない人だった。
それは、青年の心が創りだした幻だったのか。
それとも、死者との二度目の別れだったのか。
青年には、何も分からなかった。
「先生」のいた場所に、青年は、もう一度立ってみる。
国道には、電気自動車の群れが走っていた。
青年は、しばらくの間、それを眺める。
うたかたの夢は、過ぎ去ったのか。
三毛猫が、催促するように青年に向かって鳴いた。
青年は、ベンチに戻り、腰を下ろす。
三毛猫が、もう一度、青年の膝に乗って来る。
青年は、三毛猫の頭と首の周りを撫でてやった。
三毛猫は、目をつぶり、喉を鳴らした。
朝食の終わった黒猫が、毛繕いを始める。
茶トラ猫が日向に移動し、日光浴を始めた。
薄桃色の美しさに彩られた、穏やかな光景が生まれていた。
桜の園には、青年と猫達だけの、優しい時間が流れ始めていた。




