36.猫達
青年を叩き続けていた雨の勢いが鈍り始めた。
夕立は、間も無く止むだろう。
青年は、自分の感情というものが分からなくなっていた。
葬儀に参列している間、常に青年の顔は、無表情だった。
それを装っているのではない
何故か、悲しみの感情が湧いてこなかった。
悲しみだけなのか。
いや、それ以外の感情も全て欠落してしまったかのように、ただ、空虚さだけが、心の中に在った。
葬儀は、工場の人達を始めとした少女に近しい者だけの手で行われた。
それだけに、そこに満ちている悲しみは、より一層深くなる。
工場長が、やつれ果てた母親の代わりに葬儀を仕切っていた。
関口さんが、倒れそうな母親を支えるように、立っている。
泣き崩れていく人々を見ながら、まるで傍観者のような顔をした青年の視界だけが、曇りを知らない。
少女の死を知ってしまってから、涙というものが、その存在自体をやめてしまったのだろうか。
スクリーンの中で展開されていくような悲しみを見ている。
そんな感覚が、葬儀の間中、青年に付き纏っていた。
出棺を見送り、青年は、少女が大切にしていたこの場所へと向かった。
この、公園へと
少女の言っていた仔猫の隠れ場所とはどこなのか。
東屋に隣接している植え込みがあった。
だが、そこに仔猫の姿はない。
夏の日差しが、青年の黒いスーツを焼き続けていた。
それが、突如として雨雲に遮られる。
強い風が吹いてきた。
大粒の雨が一つ、青年の肩を叩いた。
すぐに雨粒は、二つになった。
次第に雨粒は増えていく。
雨粒は、無数になり豪雨にまで成長した。
青年の全身が、大粒の雨に激しく打ち叩かれる。
その衝撃と冷たさとが、青年の閉じていた心を揺さぶったのか。
それとも、少女が大切に思っていたこの場所が、青年の感情を蘇らせたのだろうか。
抑圧され押し込められていた悲しみが、一度に全ての戒めを解かれる。
抑えていた感情が一気に解放され、涙が、その存在する理由を思い出す。
魂の奥底から湧き上がってきたような熱いものが嗚咽となって漏れ、堰を切ったように涙が流れだした。
青年は、大粒の雨に絶え間なく叩かれ続けた。
だが、その間中、辛さは感じていない。
冷たさも、全身を叩かれる痛さも、大きな音も
感情と引き換えに、青年の感覚器官は、全て麻痺してしまったようだ。
ただ一つを除いて
青年に残された感覚
それは、視覚だった。
植え込みを見つめる目だけが、青年の感覚器官の中で、唯一正常に情報を伝えていた。
仔猫を待つ青年は、ただ植え込みを見つめ続ける。
涙と雨とが、その視界を曇らせていた。
雨のはねる音が、いつの間にか減り始めていた。
冷え切った青年の体に、暖かな陽光が落ちる。
夏の蒸し暑さが、戻って来ようとしていた。
一匹、二匹と、蝉が鳴き始める。
麻痺していた青年の感覚器官が覚醒していく。
仔猫は、夕立の間中、姿を見せなかった。
だが、青年は、ただ待ち続けるしかない。
左の方で、不意に何かが動く気配がした。
青年は、とっさにそちらを向く。
そこには、根本が少し斜めに生え出している、一本の木が立っていた。
周りの桜よりも一回り大きく、かなり幹が太い。
気配は、青年から3メートルほど離れた所に立っている、その大木からしていた。
大木には、地上から70cmほどの部分に洞がある。
そこから、青年を見つめる小さな顔があった。
青年にも見覚えのある顔が
少女との待ち合わせの日に、青年を迎えてくれたキジトラ猫が、青年を見つめていた。
猫は、一声鳴くと斜めになった幹を伝い、青年の方へと歩き出した。
そして、洞からは、もう一つの小さな鉢割れが顔を出す。
新しい顔は、キジトラ猫よりも小さい。
顔にキジトラ模様はあるが、それは、右側だけだった。
その新しい顔の左側の鉢は、茶トラ模様だ。
そこには、縞三毛の仔猫の顔があった。
仔猫は、キジトラ猫の後を追うように、覚束ない足取りで洞から出て歩き始める。
キジトラ猫は、仔猫のことを心配するように、何度も立ち止まっては、後ろを振り返っていた。
仔猫が無事に木を降りたことを確認すると、キジトラ猫は、真っ直ぐに青年の足元へと歩いて来た。
キジトラ猫は、前と同じように青年を見上げる。
青年も、キジトラ猫を見ていた。
だが、今回は、その左隣にもう一つの小さな鉢割れが加わる。
仔猫もキジトラ猫を真似するように、青年を見上げた。
青年は、体を曲げ猫達の頭を撫でようとした。
仔猫は、自分に向かって伸びてくる手に驚き、体を縮め右にいるキジトラ猫を見る。
キジトラ猫も安らかな顔で仔猫を見た。
仔猫は、そのキジトラ猫の顔で安心したのか、体を縮めるのをやめた。
青年は、二つの小さな頭を優しく両手で撫でる。
猫達は、目を細め、気持ち良さそうに撫でられていた。
しかし、青年は、非常に困ったことに気付く。
猫についての知識が皆無である青年には、仔猫をどのように扱って良いのかが、全く分からない。
青年の持っている動物についての少ない知識の中に、動物の親が子供を扱うのに、首の後ろを噛んで運ぶというのがあった。
猫達は、気持ち良さそうに撫でられながら、行儀良く二匹並んで座っている。
青年は、取りあえずその仔猫の首の後ろを掴んでみた。
そこを掴まれたことが心地良いらしく、仔猫が喉を鳴らし始める
青年は、そのまま仔猫を持ち上げてみた。
仔猫は、何の抵抗もせずに、大人しくしている。
青年は、そのままでは仔猫が可愛そうだと思い、左手で下から支えた。
仔猫は、大人しいままだった。
青年が仔猫を抱えたまま車に向かって歩き出そうとすると、キジトラ猫が急に青年に向かって激しく鳴き始めた。
まるで、可愛がっている妹が連れ去られるのを、必死に阻止しようとでもするかのように、その姿は見える。
青年は、申し訳ない気持ちに捕らわれたが、前を向いて歩き始めた。
キジトラ猫は、歩いていく青年の足に纏わりつきながら鳴き続ける。
車までたどり着いた青年は、仔猫を左手に持ち替え、車のロックを外し、ドアを開けた。
キジトラ猫は、纏わりつくのをやめ、青年を見上げながら鳴き続けていた。
青年が車に乗り込むと、仔猫が少しもがき始め、青年の手から逃れようとした。
青年を見上げるキジトラ猫の鳴き声が、ひときわ大きくなる。
青年は、キジトラ猫を見た。
遠くへ連れ去られてしまいそうな妹のことを心配する、その切なそうな両の眼が、真っ直ぐに青年を見つめていた。
青年と目の合ったキジトラ猫が鳴くのをやめる。
青年は、手の仔猫を見た。
仔猫は、キジトラに向かって前足を思い切り伸ばしている。
助けを求めるように
青年は、もう一度、キジトラ猫を見た。
哀願する瞳が、青年を刺し貫く。
青年は、右手で自分の膝を2回たたいた。
「おいで」
その声を待っていたかのように、キジトラ猫は、青年の膝に飛び乗って来た。
その瞬間、仔猫は青年の手から身をくねらせ、逃れていた。
だが、猫達は、車から逃げ出さない。
キジトラ猫は、仔猫の毛繕いを始める。
仔猫は、大人しく青年の膝の上で座り続ける。
青年は、車のドアを閉めた。
猫達は、その音にも驚く気配はない。
青年は、シートベルトを締め、エンジンをかける。
青年と猫達とを乗せた車は、雨上がりの夏の午後の光の中を、ゆっくりと走り始めていた。




