表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒孩子  作者: カギシッポ
36/38

35.犠牲

 話し終わった工場長は、両肘をテーブルに着き、額を両手で支え俯いている。

 語ることにより蘇った大きすぎる悲しみが、工場長の心を深く蝕み疲労させていた。

 現実になった青年の絶望が、彼の国の少女の死と重なる。

 視点の合わない虚ろな青年の目が、工場長を見ていた。

 誰も話さなかった。

 誰も話し出すことが出来なかった。

 誰も何も話すことが出来なかった。

 工場長が少女の死について語る前の、冷たい沈黙だけが支配する時間が、再び店内に訪れていた。

 工場長が重たそうに頭を上げ、青年を見た。

 「連絡が出来なくて、申し訳ありませんでした。電話番号が分からなくて。待ち合わせの日に喫茶店には行ってみたのですが。」

 工場長は、絞り出すように青年に話した。

 「あの日の待ち合わせ場所は、公園でした。待ち合わせ時間を2時間ほど過ぎてから、私もここに来てみたんですが、入れ違いだったみたいですね。」

 青年は、自分の言っていることに何の感情も入ってないことが意外だった。

 大きすぎる悲しみから自分を守るために、自ら心が閉じてしまったのか。

 工場長が、スーツの内ポケットから、1枚のプリントされた紙片を取り出した。

 「これが明日の葬儀の案内です。よろしければ参列していただけますでしょうか。」

 青年は、右手でその紙片を受け取った。

 「ありがとうございます。参列させていただきます。」

 「そうですか、出ていただけますか。良かった。あの子も喜ぶと思います。」

 工場長の顔が、僅かにほころぶ。

 たとえ僅かでも喜びの感情が現れたことが、この場に居る者達に大きな安らぎを与えていた。

 「店にも迷惑だし、そろそろ帰りましょうか。」

 工場長がそう言うと、皆が椅子から立ち上がった。

 「タクシーで来られたようですが、ご自宅はどちらですか。」

 工場長が青年に聞いた。

 青年は、工場長に大体の住所を言う。

 「関口さん、家が近くみたいだから、乗せてってもらえないかな。」

 工場長が、一人だけいた女性に声をかける。

 「分かりました。いいですよ。」

 その女性は、既に工場を退職している。

 母親の元同僚で、少女にとっては優しい祖母のような存在だった。

 「そんな、申し訳ないですよ。」

 青年は、迷惑なのではと思い、遠慮しようとする。

 「私の家も、近くですから気にしないでください。どうせ同じ方に行きますから。どうぞ乗ってください。」

 それでも青年は、辞退しようとした。

 だが、少女のことで話しておきたいことがあると言われ、同乗させてもらうことにする。

 青年は、聞かなければならないことが、他にもあった気がした。

 何か大事なことが抜け落ちてしまっている気がする。

 少女にとっての大切な何かが

 青年を乗せたコンパクトカーが、夜の田舎道を走り始める。

 車内には、つきっ放しのカーラジオが流れていた。

 「あの子は、工場に働く人、皆の、大事な可愛い家族でした。」

 走り始めて間も無く、関口さんは、話し始めた。

 青年は、その寂しげな横顔を見る。

 「実は、あの工場、経営がとても苦しいときがあったんです。皆、先行きの不安から気分もふさぎがちで、工場全体の雰囲気そのものが、暗くなっていました。」

 関口さんの遠い目が、過去の日々を振り返っていた

 「そんなときでした。母親に連れられて、あの子が工場に来たのは」

 関口さんの横顔が、少しの笑みを含む。

 「あの子は、とっても辛い生き方をしているはずなのに、いつも前向きに一生懸命に生きていました。」

 関口さんの口調は静かで、とても穏やかだった。

 「勉強を教えたり、一緒に遊んだりするときには、必ず笑顔で「ありがとう」って言ってくれました。人に感謝する余裕なんてないはずの苦しい毎日なのに、いつも「ありがとう」って・・・」

 関口さんの声は、途中から震え出す。

 そして最後には、詰まって話し続けることが出来なくなっていた。。

 ブレーキをかけた時の軽いショックが、青年の体を揺らす。

 関口さんは、いったん車を停め、目頭を拭った。

 「すいません、取り乱してしまって」

 関口さんは、青年に謝った。

 「いえ、無理なさらないでください。」

 「もう大丈夫です。すいませんでした。」

 緩やかな発進の、僅かなショックが青年を再び揺らす。

 「あの子の笑顔が、工場を救ってくれました。沈んだ皆の気持ちを、明るくしてくれていたんです。一番辛いはずのあの子が。あの子は、工場の人達に助けられたと思っていました。でも本当は、あの子に工場の皆が救われていたんです。」

 自分のことを迎えてくれた少女の笑顔が、青年の中で彼の国の笑顔と重なる。

 青年は、前を向いた。

 「あの子は、感謝を忘れない子でした。でも、そのせいか、人に何かをお願いするといったようなことが、出来ない子だったんです。いつも遠慮してしまって、受け身だとでも言うんでしょうか。子供らしく人に何かねだるようことが苦手で、こっちから言わないと、ずっと大人しく黙っているような子だったんです。」

 青年は、少女のことを思い出していた。

 そう言えば、少女からは、いつもお礼を言われていた気がする。

 「自分のやりたいことも言い出せないで、ずっと我慢しているような。それが、いつからか、少しずつですが、自分から行動するようになっていったんです。」

 信号が赤になり、車が停止した。

 関口さんが、助手席の青年を見る。

 「丁度、あなたに勉強を教えてもらい始めたあたりからのような気がします。」

 青年の中で、自分の忘れた書類を届けるために、必死に走って来てくれた少女の姿が思い浮かんだ。

 だが、そのときの青年の感謝の言葉と安堵の表情が、その後の少女の生き方を変えたことを、青年は知らない。

 「前のあの子のままでは、本当に人間としての人生を生きていると言えたでしょうか。」

 信号が変わり、車が走り出す。

 「まだ、黒孩子のままの人生の中を彷徨っていただけなのではないかと、私には、思えていました。それは、心無い人達によって自分と言う存在そのものを否定され続けてきた辛い経験が、自分から何かを主張するという行為を、決して許されないものとして強制的に認識させていたのでしょう。」

 青年は、前を向き少女のことを考えてみた。

 明るく振る舞っていた姿の影には、一体どのような思いがあったのか。

 一体どのような思いが、積み重ねられていたのか。

 「だから、あの子が自分の意思で本当に生きていこうという姿勢が見えたとき、私は、とても嬉しかったんです。」

 信号で車が停まり、関口さんは、また青年を見た。

 「あの子を変えてくれたのは、あなたなのではないかと、私は思っています。」

 青信号になり、車が走り出す。

 車内には、沈黙が訪れていた。

 青年は、最後に少女と会った日のことを思い出す。

 集合場所の変更を言い出したのも、そんな変化の一端だったのだろうか。

 少女にとって、公園は特別な場所だった。

 青年は、なぜ、少女が衰弱しきった体でありながら、わざわざその特別な場所まで行かなければならなかったのかが分からない。

 「あの子は、なぜ、公園まで行ったんでしょうか。」

 「公園の猫の世話をしていたようなんです。持ち物の中にキャットフードが入っていましたから」

 少女が猫の世話をしていたことは、母親が小さなバッグの中を見るまで、誰も知らなかった。

 「どうして、死んでしまうほど体が衰弱していたのですか。」、

 青年には、少女が死ななければならなかったことが、どうしても理解出来ない。

 聞かなければならないと思っていたこととは、なぜ、少女の体がそこまで衰弱してしまったのか、その理由が何なのかということだった。

 「あの子の荷物の中に、「避妊21,600円 去勢10,800円」と書かれていたメモ書きがありました。その費用と餌代を貯めるために、食事を朝食だけにしていたようなんです。黒孩子だったあの子には、昼食代と夕食代が支給されていましたから。それを貯めていたんだと思います。夏の暑さも、余計に体力を消耗させてしまったようです。」、

 待ち合わせ場所を変更した日に見た、少女の後ろ姿を思い出す。

 心なしか小さく見えたその後ろ姿は、気のせいではなかったのである。

 「あの子の家は、そんなに家計が苦しかったんですか。」

 国からの補助とは、どの程度だったのか。

 青年には、分からない。

 「あの子の母親は、最近まで体を壊して入院していました。苦労が多い人でしたから。黒孩子の医療費は、全て国が払ってくれますが、その家族の分までは免除されないみたいです。その医療費が大きかったのかもしれません。工場長達も随分助けてくれていたみたいですが、私は、工場を退職しているので詳しくは分かりません。すいません。」

 少女は、たった一人で家計を支えていたのか。

 だが、「先生」が亡くなった後、残された猫達を放っておけなかったのだろう。

 追い詰められた少女は、猫達の餌代と手術代のために、自分の食事を極端に節制してしまった。

 まだ成長期であることを考えれば、極めて危険な行為だった。

 青年には、最後に会った日の少女の態度が忘れられない。

 猫達の話をしていた少女に、急に暗い影が差した。

 あれは、少女の出来た精一杯の心の苦しさの発露だったのかもしれない。

 どこかの時点で、少女を救うことは、出来なかったのか。

 救えた者は、いなかったのだろうか。

 少女を救い得た唯一の存在とは、

 それは、青年自身に他ならないのでは、ないのか。

 人に頼みごとをすることが苦手な少女が、唯一、助けを求めていた相手が青年だった。

 猫のことを話しているときの少女の気持ちを、もっと分かってやれなかった自分の未熟さが、悔恨の刃となって青年の心を切り裂く。

 沈黙の車内に、カーラジオの音だけが流れていた。、

 街灯の少ない夜の田舎町の闇が、青年の心の流した血の色と溶け合うような感覚に陥る。


 聞き流されているカーラジオの音声が、突如として青年の思考を刺激した。


「・・・今夏流行しているインフルエンザは、バイオテロであるとの犯行声明が・・・」


 彼の国の犯罪組織の報復であることを、ラジオは報道していた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ