33.母親
青年から絵葉書を渡された日、少女は、夕方になって激しく咳き込むようになっていた。
見かねたマスターから早く家に帰るように言われ、少女は、大事を取っていつもより早く帰路に着く。
家に着くころには、微熱があるように感じた。
帰った少女は、すぐに大人しく床に入る。
夜になると、突然の高熱と極度の倦怠とに襲われた。
体の自由がきかない満足に動くことさえ出来ない状態になり、そのまま寝込んでしまう。
昼間から咳が出始めていたため、勝手に風邪だと思い込んでいた。
眠ってしまえば治るかもしれない。
そう思った。
だが、翌日になっても症状は改善せず、熱も高いままだ。
喫茶店は、今日から夏休みだった。
それでも、いつもの時間に起き、母親と自分の朝食を用意する。
少女は、母親に余計な心配をさせたくなかった。
もともと丈夫でなかった母親は、母子家庭を支えるために無理をし続け、最近まで体を壊していた。
そんなにまでして自分を育ててくれた母親に、心労をかけるような真似は、絶対にしたくない。
そんなことを思いながら、動かない体を引きずるようにして母親を起こしにいく。
母親に声をかけた後、少女は「先生」から返してもらった小さなバッグを手に持ち、玄関を出て行った。
用意した朝食には、手を付けていない。
食欲というものが、全く起きなかった。
少女は、前カゴに小さなバッグを入れると、自転車に乗り、公園の方角に向かってこぎ出した。
高熱のせいで視界が歪む。
それでも、少女の乗った自転車は、少し蛇行気味にではあるが、無事に走り始めていた。
よろめきながらもバランスを保ちつつ、何とか公園の前まで走り続ける。、
そこで少女は、左に曲がり自転車を止めようとした。
少女は、ブレーキをかけ、左足を伸ばし、敷かれている石畳に着く。
着いた足に力が入らない。
体重を支え切れない左足を補うために、少女は、右足を踏み出そうとした。
しかし、その意思は、衰弱しきった体に拒絶される。
右足は前に出ずに、体だけが前に行き、バランスを崩す。
少女は、掴んでいた自転車のハンドルを後ろに投げ出すように離していた。
スタンドを立てていない自転車では、体勢を立て直すための何の助けにもならなかった。
倒れていく体が石畳にぶつかるのを防ごうと、少女は、両手で体を支えようとする。
だが、その両手にも力は入らない。
額に衝撃があった。
頭の芯が痺れた。
薄れ行く意識の中で、少女の方に心配そうに鳴きながら駆け寄って来る猫の姿が見えた。
少女は、キャットフードが入っている小さなバッグを探して手を伸ばす。
その手が、不意に落ちた。
視界に、夜の帳が降りて来た。
そして、少女の意識は、暗闇の中に飲み込まれていた。
救急車が到着したときも、その傍らには、1匹の猫がいた。
少女を発見した人は、最初、何も気が付かずに公園を通り過ぎようとしていた。
その人の前に、鉢割れのキジトラ猫が急に飛び出す。
猫は、何かを訴えるように鳴き始めた。
通行者は、立ち止まり猫を見ている。
猫は、鳴きながら公園に入って行った。
通行者は、そのまま猫を見続ける。
猫は、少し歩くと立ち止って、通行者の方を向き鳴き続けた。
猫の踏む石畳の縁が黒い。
その黒さの中に、一人の少女が横たわっていた。
少女の横たわる石畳には、血が溜まっていた。
その黒さとは、少女の額から流れ出した血だったのである。
猫は、心配そうに少女の周りを歩き回り始めた。
大きな驚愕が、束の間、通行者を呪縛する。
しかし、それが解け始めたとき、通行者は少女の元へと駆け寄っていた。
人通りの少ない場所に、その公園はあった。
そのため、救急車で病院に運び込まれたときには、既に少女が意識を失ってから1時間ほどが経っていた。
少女の症状は、風邪のためではなかった。
新型のインフルエンザに罹患してしまっていたことが、高熱と強い倦怠の原因だったのである。
罹患したインフルエンザは、強毒性ではなかったため、通常であれば何もしなくても数日で回復するはずだった。
だが、少女の体は。インフルエンザの罹患前の段階で、既に著しく衰弱していたようだ。
病院に着いたときには、額からの出血も止まっていたが、大量の失血が少女の残り僅かな体力をも無情に奪い去っている。
少女の身元は、持っていた学生証ですぐに分かった。
病院は、少女の母親に連絡をした。
連絡を受けた母親は、その内容のあまりの重大さに強過ぎる衝撃を受け、心が遊離してしまったような感覚に捉えられる。
電話を切った後、膝の力が勝手に抜け、知らぬ間に、その場にへたりこんでしまう。
それでも、生きるための必死の戦いを続ける娘のため、どうにか我に返り、工場長へと電話を入れた。
連絡を受けた工場長は、すぐに少女の家へ母親を迎えに行き、一緒に病院へと向かった。
酸素マスクを着け、集中治療室に横たわる少女の姿が、母親と工場長を迎えた。
投薬と点滴による治療が続いていた。
輸血も受け、青かった顔色が僅かに戻っている。
様々な機械に繋がれ、頭に白い包帯を巻かれた痛々しい娘の姿が、母親の目頭を熱くさせた。
医師の話では、少女は極端な低栄養状態にあったという。
何故、そのような状態になったのか、母親には分からない。
極端な低栄養状態が、少女に単なるインフルエンザの症状ではない、生死の境をさまようような重篤な状態をもたらしていた。
治療の効果か、容体は少しだけ持ち直している。
病状が落ち着きさえすれば、回復の見込みは充分にあるということだった。
急変による症状の悪化だけが気がかりだったが、その可能性は低いだろうと言っていた。
母親と工場長は、二人で付添用の椅子に座っていた。
そこに座りながら、ただ、少女の回復を祈ることしか出来ない。
少女の意識が戻らないままに、時間だけが過ぎていく。
母親の心労が心配だったが、工場長は、間もなくして仕事に戻らなければならなかった。
工場長が帰り、少女の意識が戻るのを一人で待つ間、母親に少女の持っていたバッグが渡される。
いつも持っている物とは違う小さなバッグを見たとき、母親は不思議な感覚を覚える。
母親は、そのバッグに見覚えがあった。
娘の幼かった日々が、母親の中で甦っていく。
かつて、娘と一緒に公園まで歩くことが出来ていた日々に、その小さなバッグは、確かに少女の幼い手の中にあった。
幼いながらも、大切なものをその中に一生懸命に詰め込み、失くさないように、いつも離さず持ち歩いていた。
だが、少女が自分の本当の境遇を知ってしまった日から、そのバッグは失われていたはずだった。
永遠に
それが、今、目の前にある。
母親は、そのバッグを手にしたまま、しばらく見つめていた。
そして、幼い日の大切な思い出の在り処は、母親によって、その扉を開かれる。
バッグの中には、キャットフードと一枚のメモ書き、そして、いくらかの現金が入っていた。
幼い頃の少女から、公園での日常をどのように過ごしていたのかは、聞いている。
まだ拙い言葉で、公園での毎日を懸命に伝えようとしていた、幼い日の娘を思い出す。
大好きな人に、楽しかった出来事を聞いてもらえる喜びが、その姿には溢れていた。
母親には、そんな娘のいじらしい姿が何とも微笑ましく、この上なく可愛らしく思った。
だが同時に、自分の本当の境遇を知らない少女が、たまらなく不憫でもあった。
やがて訪れた残酷な現実との邂逅が、少女から全ての喜びを奪ってしまった。
真実を語ってやれなかった自分が、少女の心の傷をより深いものにしてしまったことを思うと、斬鬼の念が絶えない。
その日のことを思うとき、母親の目に溜まっていた熱いものが、こらえきれずにこぼれ落ちていた。
涙を手で拭い、母親がメモ書きを手に取ったとき、固く閉じられていた少女の目が、ゆっくりと開き始めた。




