32.家族
早く行かなければならないという強い焦燥だけが、青年の中にあった。
夏休み明けの日、青年は、会社帰りに喫茶店に向かっていた。
喫茶店の夏休みが明けるのも、その日だったからだ。
墓参りからの帰りに、青年は、もう一度、喫茶店に行ってみた。
だが、「CLOSE」の札がかかったままで、やはり誰もいない。
翌日も昼と夕方に行ってみたが、喫茶店は、ただ孤独に静まり返っているだけだ。
青年には、少女の運命が、彼の国の悲劇と同じ道を辿ってしまうように思えて、仕方がなかった。
少女との約束の日から、絶望を前提としたどうしようもない不安が青年の心を苛み続けている。
青年の会社帰りは、喫茶店の閉店時間よりも遅い。
その日も閉店時間を過ぎてしまっていたが、どうしても行かなければならなかった。
どうしても、少女に会わなければならない。
いや、その無事な姿だけでも確認出来れば、それでいい。
そう思いながら、タクシーの車窓越しに、青年は喫茶店の方を見ていた。
閉店時間を一時間ほども過ぎていたが、店からは、まだ明かりが漏れている。
タクシーを降りて喫茶店の白いドアの前まで行くと、そこには既に「CLOSE」の札がかかっていた。
青年は、ドアノブに手をかけ引き開けた。
店の中から漏れた明かりが、青年と夜とを照らし出す。
青年は、閉店したはずの店内に座っている人達を見た。
そこには、コーヒーを飲んでいる7人ほどの人がいる。
6人は、スーツ姿の男性だが、1人は女性だった。
座っている人の中に、いつか少女に問題集を渡していた男性がいた。。
青年は、その人の名を口にする。
「遠藤さん」
青年が名前を口にした人が立ち上がって、青年の所まで歩いて来た。
「お待ちしておりました。今日来て下さるのではないかと、何となく思いまして。電話番号が分からなくて、連絡が取れませんでした。取りあえず、お入りください。」
前に、その男性を少女から紹介されたことがある。
少女の話の中に度々登場してきた工場長が、その人だった。
その人は、少女にとって、祖父のような存在だったのかもしれない。
工場長は、青年に席を進めると、自分も元の椅子に座った。
青年は、改めて先に座っていた7人を見てみる。
工場長の他にも、青年の知っている人が何人かいた。
どの人も、少女に紹介された工場の従業員達だ。
席に座っている人は、皆、工場で働いている人達なのだろう。
少女の成長を、工場で共に見守っていてくれた人々。
少女にとっての、祖父であり、祖母であり、叔父であり、兄達であった。
そこには、何よりも大切な存在である家族が座っていた。
7人は、年齢も性別も違っていたが、たった一つだけ共通点があった。
その服装が、皆、黒い。
ネクタイの色も黒であった。
そこにいる人達が着ていたもの、それらは、全て喪服だったのである。
青年の中の絶望は、最早、現実との境界を失いつつあった。
誰も話し出さない。
いや、誰も話し出すことが出来なかったのである。
その場の重苦しさが凍てつくような沈黙となり、店の中を支配し始めていた。
「どなたかのお通夜の帰りですか。」
青年は、沈黙に耐え切れず、工場長に話しかけてしまった。
工場長は、青年の顔を見る。
早く話をしなければならないと思いながらも、底知れぬ悲しみをもたらした現実について語らなければばならないという心の苦しさが、工場長の口を重くしていた。
工場長は、下を向いた後、もう一度青年の顔を見た。
「今日は、あの子のお通夜だったんです。」
そして、静かに話し始めた。




