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黒孩子  作者: カギシッポ
31/38

30.願い

 晴れた空が、白い雲を伴いながら、果てしなく広がっている。

 昼過ぎの過酷な日差しは、外にいる全てのものに平等に降り注ぐ。

 喫茶店への道が、夏に焼かれ陽炎を立てていた。

 その道をやって来る者を待つように、少女は、喫茶店の窓から外を眺めている。

 暑さに彩られた田園風景を見つめる少女の横顔は、心なしか、影が濃くなっているように見えた。

 昼の時間にも関わらず、店には、空席が目立つ。

 近くにある工業団地が、既に夏季の休業に入っていたからだ。

 明日から、喫茶店も3日間の休みに入る。

 休みの2日目が、青年との約束の日だった。

 その約束が、少女の中に喜びと不安とを生み出し、それは次第に大きくなっていった。

 少女は、外を見ながら、赤い車を待っている。

 青年の会社も、もう休みに入っているはずだった、

 会社が休みの日、いつも青年は、お昼を食べに来てくれる。

 もし来てくれたらという期待が、少女に窓外の景色を見つめさせていた。

 陽炎にぼかされた赤い色が、小さく見えた。

 少女は、立ち上がっていた。

 カウンターに行き水を用意する。

 喫茶店の駐車場に、赤い車が停まった。

 出入り口のドアが開き、青年が喫茶店に入って来る。

 「いらっしゃいませ。」

 少女は、微笑みながらそう言って青年を迎えた。

 青年も微笑みを返し、軽く頭を下げ、カウンター席に座る。

 少女は、青年の前に水を置いた。

 「ミートローフサンドとキリマンジャロをお願いします。」

 メニューを渡そうとする少女に、青年が注文をした。

 「ミートローフサンドとキリマンジャロコーヒーでございますね。少々お待ちください。」

 少女は、会釈をして去って行く。

 青年は、いつものように森を見た。

 同じ景色が、今もそこにある。

 何も背負っていなかった頃の自分が、そこにいた。

 何も考えずに生きていられた日々が、そこにはあった。

 大切なものは、失くしてから、そのかけがえのなさが分かるのかもしれない

 大切な時間は、過ぎ去ってしまって、初めて、その価値に気付くのだろうか。

 「お待たせいたしました。」

 少女の声が、青年の心を現実の空間に呼び戻す。

 「ミートローフサンドでございます。」

 少女は、青年の前に注文された品を並べた。

 「ありがとう」

 青年がお礼を言うと、少女は頭を下げ

 「ごゆっくりどうぞ」

 と言って、また歩き去った。

 少女が消えたカウンターの先で、何か小さな乾いた音が2回した。

 青年は、音のした方を見る。

 だが、それきり何も聞こえない。

 青年は、気にせず食事を始めた。


 恩師の死が、おぼろげになっていた青年の罪悪感を、鮮明に甦らせてしまった。

 自分のやってきたこととは、ただ単に、多くの不幸を生み出してしまっているだけなのではないのか。

 そんな痛烈な疑問が、恩師の訃報記事を読んでから、青年の中で常に渦を巻いていた。

 常温固体核融合技術を世に出したことで、果たして救われた者は、いるのだろうか。

 そう思ったとき、青年の足は、この店に向かっていた。

 かつて黒孩子としての人生を歩まされていた少女が、楽しそうに働き、真剣に勉強をし、嬉しそうに自分と会話している姿を、青年は、確かめたかったのである。

 せめて、常温固体核融合技術が、黒孩子達を過酷な運命から救ったのだと、青年は思い込みたかった。

 思い出の味を食べ終えた青年は、コーヒーをすすりながら、まだ空腹感が僅かに残っていることに気付く。

 青年は、呼び出し用のボタンを押した。

 すぐに少女は、やって来る。

 「ご用でしょうか。」

 「マドレーヌを一つお願いします。」

 青年は、追加注文をした。

 「マドレーヌを一つですね。」

 「はい」

 少女は、注文を確認すると、頭を下げて、また歩いて行った。

 青年は、恩師のことについて、考え始める。

 青年の会社に、長年の研究の成果である特許を譲渡してしまったあの日から、恩師は、どのように日々を過ごしていたのだろうか。

 恩師は、亡くなるまで一体どのような思いで、毎日を過ごしていたのか。

 青年は、思いを馳せる。

 近付いて来る足音が、青年の思考を中断させた。

 「お待たせいたしました。マドレーヌでございます。」

 少女が、青年の前にマドレーヌを置いた。

 「ありがとう」

 少女は、小さく頭を下げてから

 「今日も、後で勉強を教えてもらってもいいですか。」

 と聞いた。

 「いいですよ。後じゃなくて、今からでもいいですよ。」

 「でも、まだお食事中だし」

 少女は、遠慮をする。

 「そうだ。マドレーヌを一つは、少し多かったみたいなんだ。半分食べてくれないかな。」

 マドレーヌを待つわずかな時間が、青年の満腹中枢を刺激していた。

 「でも・・・」

 憧れの人からの思わぬ申し出に、少女は戸惑う。

 「今日は、お客さんもいないみたいだし、遠慮しないで。それとも、マドレーヌは嫌いなのかな。」

 いつの間にか店の客は、青年だけになっていた。

 「すいません、ありがとうございます。いただきます。あの、問題集を持ってきます。」

 少女は、そう言って問題集を取りに行く。

 その時の少女の中には、ただ勉強を教えてもらうときと、違う感情が生まれていた。

 青年の前から、いなくなってしまいたい自分がいる。

 そして、青年の横に座っていたい自分もいた。

 だが、そこに座ることに強い抵抗がある。

 強い恥ずかしさが、生まれていた。

 少女には、自分の中に起っている心の葛藤の理由が、一体何なのか分からない。

 平和だが小さくて何もない人生を、少女は、歩んで来ていた。

 自宅と工場の小さな部屋、それと通勤する母親との道行きだけが、それまでの少女の世界の全てだった。

 その小さな世界の中では、理由もよく分からない葛藤が起るような不思議な気持ちなど、存在したことがない。

 その小さな世界の中では、皆、少女に優しく接してくれた。

 工場の休み時間には、従業員の人達が遊び相手になってくれた。

 分からないことがあれば、親切に教えてくれた。

 とても平穏で幸せな毎日だったのかもしれない。

 だが、他には、何もなかった。

 変わらない狭くて小さな毎日だけが、少女の日常だったのである。

 それが、急激に変わっていく。

 少女は、まず初めに、工場長の紹介で喫茶店に勤め始めた。

 工場の人達がよく行っていた喫茶店だった。

 工場長の知り合いのマスターは、かつて黒孩子であった少女にも、優しく丁寧に仕事を教えてくれた。

 慣れ親しんだ工場の人達も、お客様として来てくれる。

 工場での日常の延長のような職場だった。

 皆の配慮が、少女の社会への第一歩を助けてくれていた。

 無事に職場に馴れた頃、少女は思い出の場所である公園を訪れる。

 そこには、大切な思い出と、辛い出来事とが同居していた。

 少女は、そこで、封印していた悲しい記憶と向き合うことが出来た。

 少女は、大切な場所で大切な人との再会を果たす。

 学校というものにも通い始め、友達も出来た。

 新たな大切なものや人達が、少女には出来ていった。

 少女の小さかった世界は、次第に大きくなっていく。

 しかし、広がっていった少女の世界の中で、青年のことだけが分からないでいる。

 嬉しさと苦しさが入り混じり、一緒にいたいのか、離れていたいのかさえも分からない。

 青年に対する感情が複雑すぎて、少女には、理解出来ないままだ。

 その感情が何なのかを、誰かに聞くことは、出来なかった。

 何故か、それを聞くことさえも恥ずかしいと思ってしまう。

 問題集を持ってきた少女は、そんな青年の隣に座った。

 勉強を教えてもらうときと違い、恥ずかしさが緊張となって少女を支配していた。

 そして、同じくらいの嬉しさがある。

 少女は、かつて黒孩子であった自分がそんなことを許されるのかという思いが、いまだに拭い去れない。

 青年は、マドレーヌの敷紙を少し剥がし、半分に折った。

 敷紙のついている方を皿に戻すと、少女の前に置く。

 「どうぞ」

 そう言って青年が勧めると

 「ありがとうございます。」

 少女は、照れながらそれを手に取った。

 それから二人は、黙ったままマドレーヌを食べ始める。

 少女は、そこに座っているだけで精一杯で、マドレーヌの味がまるで分らなかった。

 「実は、ここのマドレーヌは、僕が父親と最後に外食をしたメニューなんだ。」

 青年は、マドレーヌを見ながら、少女に話しかけた。

 少女は、青年の顔を見る。

 青年の両親が、既に他界していることは聞いていた。

 「あのときと変わらない味がする。スーパーで売ってるやつじゃない、手作りのマドレーヌを初めて食べた。子供の僕には、びっくりするくらい美味しかった。」

 そう言って、青年はマドレーヌを頬張る。

 少女は、マドレーヌを食べるのを忘れて、青年の頬張る横顔を見ていた。

 「うん、どうしたの」

 青年は、少女のその視線に気付く。

 「あの、私、お水を持ってきます。」

 少女は、慌ててマドレーヌを手に持ったまま、水を汲みに行ってしまう。

 おかしな少女の様子が、青年には気になった。

 青年は、歩いて行く少女を見て、その後ろ姿が今までと僅かに違うような気がした。

 何か、ほんの少しだけ線が細くなったような、気のせいだと言われればそれだけで納得してしまうような、本当にあるかなしかの僅かな違いが。

 少女が水とマドレーヌを手に、戻って来る。

 青年の視線に気付いた少女は、恥ずかしさで下を向いてしまった。

 その少女の様子に、青年も慌てる。

 「いや、あの、ごめん。」

 青年は、そう言って視線を前に向けた。

 少女は、カウンター席にまた座った。

 「今日は、何の教科を聞きたいのかな。」

 青年は、少女に視線を戻した。

 「今日は、数学をお願いします。」

 少女には、笑顔が戻っていた。

 マドレーヌを皿に置いて、少女は、問題集を開いた。

 その問題集は、高校生用のものになっている。

 少女は、既に独学で中学の勉強を終わらせてしまったようだ。

 少女にとって、勉強とは、楽しいことだった。

 黒孩子として生き始める前の少女が、最も人間らしく生きていられた時間。

 公園で「先生」と過ごした時間こそが、少女にとっての最初の学びであり、無邪気に楽しさだけを追い求められた唯一の場所だったのである。

 勉強をしているときの少女は、普通の人間でいられる幸せを、何よりも強く感じていられた。

 「勉強の前に、先にマドレーヌを食べてしまおう。」

 「はい」

 青年に言われ、少女は、マドレーヌを手に取って口に運んだ。

 少女が、喫茶店のマドレーヌを初めて食べたのは、まだ工場にいたときだった。

 工場長が、お土産に買って来たものを食べさせてもらった。

 その美味しさに、青年と同じような驚きを覚えたことを思い出す。

 憧れた人と同じ思いを抱くことが出来た。

 それが、少女には、たまらなく嬉しい。

 緊張が薄らいできたのか、少女は、マドレーヌを素直に美味しいと感じた。

 青年と並んで同じものを食べていられることが幸せだった。

 青年と一緒に、薄桃色のかすみのかかった公園を並んで歩いてみたい。

 そう思ったとき、少女は、青年の顔に目を向け話しかけていた。

 「あの、明後日の待ち合わせ場所なんですが」

 「待ち合わせ場所がどうかしたの。何か都合が悪いのかい。」

 「いえ、あの、場所を変えたいんですがダメですか。」

 明後日の待ち合わせ場所は、この喫茶店だった。

 それは、二人の知っている共通の場所が、この喫茶店だったからだ。

 「いいですよ。どこかいいところがあるのかな」

 「工場の先に公園があるんですが、そこの駐車場は、どうですか。そこなら家から近くて、歩いて行けるんです。」

 「分かった。そこにしよう。時間は8時で大丈夫」

 「はい、大丈夫です。ありがとうございます。」

 青年と一緒に公園にいられるかもしれないと思った少女の顔に、自然と眩いほどの笑みが生まれていた。

 その笑顔の輝きが、青年に質問をさせる。

 「何か特別な公園なのかな。」

 そう聞かれ、少女は驚き焦って青年から視線を外し、前を向いてしまう。

 青年に、自分の心を見透かされたような気がしたからだ。

 「小さかった頃、毎朝通っていた公園なんです。私、幼稚園に行ってなかったから」

 少女の焦っている様子が、青年には、何か触れてはいけないことを聞いてしまったような勘違いを起こさせる。

 「そうなんだ。そこに行けばいいんだね。」

 「はい。お願いします。場所、分かりますか。」

 「前を通ったことがあるから、多分大丈夫だと思う。」

 青年は、ずいぶん前の記憶を辿ってみた。

 他の場所に行く途中に、確かにそこの前を通ったことがある。

 「あの公園には、猫が沢山いるんです。とっても懐こくて、私、そこに通っていた時、よく一緒に遊んでたんです。」

 少女は、また、青年の顔を見ながら話しかけた。

 「猫がいるんだ、知らなかったよ。」

 青年は、ほとんど猫というものに接したことがなかった。

 「そこには、年を取った男の人もいて、一緒に御飯をあげたりしてたんです。」

 少女は、「先生」から文字や絵の描き方を教えてもらっていたことを話した。

 既に少女から、焦りは無くなっている。

 そこには、人に自分の大切な思い出を楽しそうに話す、普通の16歳の少女がいた。

 憧れの人に、自分の思い出を聞いてもらえることが、少女には嬉しかった。

 青年は、楽しそうに少女が話すのを、微笑みながら聞いている。

 だが、「先生」が、かつて大学の教授であったことと、その大学名を、少女が青年に話したとき、青年の顔が突然に変わる。

 その大学は、青年の出身大学であった。

 青年は、「先生」の名前を聞いてみた。

 少女が、青年の知っている人の名を口にする。

 大学を退職してからも、恩師は、幼い者や小さな命のために力を尽くしていた。

 青年には、常温固体核融合技術の特許を譲渡してしまってからの、恩師の生き様が分かったような気がした。

 青年の理想だった恩師は、いつも変わらずに在り続けたのだろう。

 「あの、「先生」を知ってるんですか。」

 青年の雰囲気が変わってしまったと感じた少女が、「先生」のことを聞いてみた。

 「あ、いや、仕事上のことで関係のある人かと思ったんだけど、勘違いだったみたいだ。」

 青年には、その人が自分の恩師であると言うことが躊躇われた。

 恩師の特許を無償譲渡させたことが、後ろめたさとなって青年の口を噤ませる。

 「とっても立派な良い人だったんだね。」

 青年は、知らないふりをして話を続けた。

 「はい。とっても良い人でした。そして、そこの公園にいる猫は、皆、可愛い子ばかりなんです。」

 少女は、気にせず猫の話をし始める。

 猫と接したことのない青年には、猫についての知識が皆無に等しい。

 「猫のことは、あまり知らないんだ。どんなところが可愛いの。」

 青年は、聞いてみた。

 「皆、とっても人懐こいんです。体を擦り付けてきたり、座ってると膝の上に乗ってきたり、前足で抱き付いてきたりします。撫でてあげると、目をつぶって気持ち良さそうにしながら、ゴロゴロ喉を鳴らします。そのままいつまでも、大人しく座ってるんです。」

 少女は、夢中になって公園の猫のことを一気に話した。

 「猫って、人に懐かない印象があったんだけど、違ったみたいだね。」

 青年は、自分の知らない猫の姿に、少しだけ驚いている。

 自分の大好きなものの話を、憧れの人に聞いてもらえていることが、少女に無上の喜びを与えていた。

 「あと、一緒にお散歩も出来るんですよ。大体、猫の方が先に歩いて行くんですが、時々振り返って、私がついて来てるか確かめるんです。その時の仕草がとっても可愛いくて」

 「へえ、そうなんだ。それは、可愛いね。」

 青年は、素直にそう思った。

 「公園の植え込みの中には、仔猫がよく隠れてます。仔猫は特に懐こくて、寝てるとき以外は、一日中ジャレついて来るんです。」

 「仔猫は、可愛いよね。」

 幼い動物の持つ特有の可愛らしさは、青年にも分かる。

 「その子達は、親猫と一緒なのかい。」

 青年は、仔猫達の生活のことが気になった。

 「親が一緒の子もいますが、仔猫だけの場合の方が多いですね。」

 明るかった少女の表情に、濃い影が差す。

 青年は、その少女の様子が気になって、慌てて話を続けようとした。

 「猫達は、ご飯は食べられているの。」

 「はい、ちゃんとご飯は食べられているみたいです。でも」

 少女は、青年から視線を外し口ごもる。

 「でも、どうしたんだい。」

 青年が聞くと、

 「いえ、何でもないです。」

 そう答え、青年の顔を見る。

 少女には、明るい表情が戻っていた。

 だが、少女が無理に明るく振る舞っているように、青年には、感じられた。

 そして、青年は、公園の猫達に、彼の国の少年と、少年の住む平和な町の人々の姿を重ね合わせる。

 それは、貧しいながらも穏やかな幸せの中で暮らしている人達を、青年自身が、その住み慣れた町から追い立ててしまうかもしれないという現実をも、思い出させた。

 「ずっと平和に暮らしてほしい。」

 青年は、前を見ながら呟くように言った。

 少女に言ったのかさえも分からない。

 まるで、独り言のように

 「本当にそう思います。せめて、仔猫が大きくなるまで平和に暮らせれば」

 答える少女は下を向き、その表情が再び曇る。

 「何か心配なことでも、あるのかい。」

 青年には、少女のどことなく暗い顔が気にかかった。

 「いえ、無いです。今のところ」

 少女の顔に、笑顔は戻らない。

 「今のところ」

 青年が聞き返した。

 「いえ、ただ、何かあったら」

 少女は、そこまで言って、言いよどんだ。

 「どうしたの。何かありそうなのかい。」

 「いえ、もし、何かあったら、せめて仔猫だけでも誰か面倒を見てくれないかと思って」

 少女は、暗い表情のまま青年の顔を見た。

 青年には、返す言葉が見つからない。

 ただ、少女を見つめ返すことしか出来なかった。

 「ごめんなさい、変なこと言ってしまって。本当に何でもないんです。」

 少女は、そう言って微笑んだ。

 だが、その微笑みには、何か不自然さのようなものが含まれている。

 「あと、あの公園、桜が綺麗なんです。堤の上が一面桜色に染まって、その下を猫と歩くと最高なんです。」

 少女は、青年の戸惑いを消そうとでもするかのように、突然に話題を変えてしまった。

 だが、青年に公園の桜のことを笑顔で話すときの少女は、本当に楽しそうだった。

 「そんなに桜が綺麗だったなんて、知らなかったよ。僕も来年、見てみたいな。」

 楽し気に桜の話をする少女の姿が、青年の気がかりを忘れさせてしまう。

 「絶対、見た方が良いです。とっても綺麗ですから。私、ご案内します。」

 少女は、そう言ってしまってから、青年の顔から視線を外し黙り込んでしまう。

 それは、青年を誘っていることに他ならないと気が付いたからだ。

 急激に恥ずかしさがこみ上げ、心を溢れ出す。

 「君は、桜が好きなのかい。」

 そう聞かれ、少女は、再び青年の顔を見た。

 青年のその顔は、不快さを感じていないことを物語っている。

 「はい、大好きです。」

 答える少女の顔には、笑顔が戻っていた。

 「ちょっと待ってて」

 青年は、そう言って喫茶店を出て行った。

 少女は、青年の突然の行動に呆気にとられ、喫茶店の出入り口のドアを、ただ見つめることしか出来ない。

 1分ほどして、喫茶店の出入り口のドアが再び開いた。

 そして、戻って来た青年の右手には、何かの紙片があった。

 青年は、再度カウンター席に座り、手に持った紙片を少女の前に置いた。

 少女は、自分の前に置かれた紙片を見る。

 それの表面は、光沢を放つ印刷がなされていた。

 そこには、ある場所の景色があった。

 海に囲まれるようにして岬に立つ灯台が、満開の桜達に薄桃色の色付けをされている、ある晴れた日の風景

 それが、絵葉書となって少女の前にあった。

 「良かったら、それをもらってくれないか」

 少女が青年の顔を見る。

 光を増したように見える青年を見つめる目と、眩しいほどの輝きを放つ笑顔が、少女の中で打ち震えている感動を物語っていた。

 少女は、絵葉書に視線を移し、それを手に持った。

 それから、もう一度青年を見て

 「ありがとうございます。大事にします。」

 そう言った。

 「大したものじゃないのに、そんなに喜んでもらって、僕も嬉しいよ。そこは、明後日行く場所の近くなんだ。」

 少女は、また絵葉書を見る。

 「そうなんですか。とってもきれいです。明後日、すごく楽しみです。」

 少女はそう言って、その景色に見入る。


 そして青年は、そんな少女を、見守るように見つめていた。


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