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黒孩子  作者: カギシッポ
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29.訃報

 ある新聞記事が、青年の目を縛り付けていた。

 その記事には、ある人の写真が載っている。

 青年は、その写真の人物を知っていた。

 決して忘れられない人の顔

 それは、青年を教え導いてくれた人の顔だ。

 青年が核物理学を学び、核融合技術に携われたのも、全て、その人のおかげだった

 それは、青年が今の地位を得られたのも、全て、その人のおかげであるという事を意味している。

 某大学の核物理学名誉教授の訃報が、その日の新聞には、とても小さく掲載されていた。

 まだ大学生だった青年は、その人から核物理学を基礎から学び、その可能性がもたらす未来を教えられた。

 その未来は、夢のような世界であり、現実になり得ることだと信じた。

 青年は、その人の持っている常温固体核融合の特許ならば、混乱に陥った世界情勢を救うことが出来ると強く確信していた。

 だが、あまりにも革新的な技術というものは、得てして色物的な目で見られてしまうものだ。

 そして、常温固体核融合技術も、その例にもれなかった。

 世間は、世界を救い得るこの技術を、完全に無視してしまう。

 青年には、それが残念でならなかった。

 常温固体核融合技術を生かすためには、大きな力を持つ後ろ盾が必要だと感じた。

 青年は、エネルギー開発も手掛ける、大手グループ企業系列の総合電機メーカーに入社した。

 そこでなら、新規エネルギーの開発に携わり、常温固体核融合の実用化を、すぐにでも実現出来ると思った。

 しかし、現実は、そんなに甘いものではない。

 その会社でも、常温固体核融合技術は、色物として扱われていた。

 当然、その技術の重要性を訴える青年の主張も、青年自身さえも、同じ色物として見られてしまう。

 青年は、焦りを感じ始める。

 誰も、青年の話には、耳を貸さないかと思われた。

 青年が、入社して数年が経ったとき、一人だけ、その主張を面白いと思った幹部がいた。

 常務は、出世の道具の一つとして、その技術が有効かもしれないと直感したのである。

 ただ、単なる直感で、会社にリスクを負わせるような真似は出来ない。

 ある日青年は、常務に直接呼び出された。

 そしてその場で、常温固体核融合の特許を無償で譲渡してもらうことを条件に、青年の主張を後押しするとの話をされた。

 青年は、悩んだ。

 恩師が、生涯をかけて研究した特許を、無償で会社のものとするのである。

 青年は、全て正直に恩師に話すことにした。

 常温固体核融合技術を世に出すことが、全てにおいて優先する。

 そう考えた。

 まだ、年賀状のやり取りは続いていたが、恩師を直接訪ねるのは久しぶりだった。

 恩師の家は、青年の住んでいる町にある。

 恩師は、青年の在学中に既に定年退職をし、名誉教授になっていた。

 一人息子であったご子息を亡くされて、気落ちされているとの話もある。

 その葬儀には、青年も参列していた。

 恩師の悲しみに打ちひしがれた姿は、いつまでも忘れることが出来ない。

 その日、スーツ姿の青年が恩師の家を訪ねると、作務衣姿の男性がドアを開けた。

 青年の初めて見る恩師のラフな姿が、そこにあった。

 あらかじめ電話を入れておいたので、用件は分かっているはずだ。

 「おや、どうしたんだ、こんなに早くに。呼び鈴まで押して」

 恩師の言葉に不思議なものを感じながら、青年は、

 「こんにちは、ご無沙汰をしております。」

 そう挨拶をした。

 「何だ、おかしなやつだな。早く入りなさい。」

 そう言って、青年を家の中に招いた。

 青年は、時計を見てみたが、約束の時間より2分早いだけだ。

 ものの言い方も、大学で学んでいた時と、まるで違う。

 学生と話をする場合も、もっと丁寧な言葉使いをしていた。

 不自然なものを感じながら、青年はリビングに通された。

 リビングには、ソファーの応接セットが置かれている。

 二人がリビングルームに入ると、恩師は、さっさと自分だけソファーに座ってしまった。

 青年は、どうして良いのか分からず、ただ立ち尽くしている。

 「どうしたんだ、そんなところに突っ立って。早く座りなさい。」

 青年は、違和感を覚えながら、促されるままにソファーに座った。

 「ご無沙汰いたしまして申し訳ありません。先生のお加減は如何ですか。」

 青年が改めて挨拶をすると、恩師は、怪訝そうな顔をする。

 「何だ急に先生だなんて、お加減も何も毎日会っているだろう。お前、おかしいぞ。」

 青年は、自分が誰かと勘違いされていることに気付いた。

 しかし、それにしても様子がおかしい。

 恩師に電話を入れたときに、用件については、かなりの部分を伝えていたはずだ。

 だから、訪ねて来た自分のことを、恩師が誰かと勘違いするとは思えない。

 そして、青年と間違えるような年齢で、恩師と毎日会っている、いや、会っていた男性というは、一人しかいなかった。

 「お父さん」

 青年は、そう恩師を呼んでみた。

 「何だ。」

 恩師は、何も怪しむことなく青年に返事をする。

 ご子息が亡くなられたときの年齢は、恩師と話している青年と、あまり変わらなかったように記憶している。

 40を過ぎてから、やっと授かった子供だった。

 年を経てからの待望の子供は、恩師夫妻にとって、この上なく可愛い存在だったろう。

 大切に育て上げた子供が、ある日突然、交通事故に尊い命を奪われてしまう。

 その悲しみは、如何ばかりか

 心が壊れてしまっても、仕方がないのかもしれない。

 それとも、精神を倒壊させないための、辛い現実からの逃避なのか。

 青年は、恩師の老いさらばえた姿に、大きな悲しみと戸惑いとを抱きながら、どう対処すれば良いのか、判断に迷っていた。

 特許の譲渡を交渉すべきなのか。

 このまま帰るべきなのか。

 自分がご子息でないと正すことは、毛頭、考えていなかった。

 それは、一人息子が亡くなったという現実を、恩師に突きつけることになる。

 指摘しないことが例え間違いだとしても、青年には、それが出来なかった。

 「あの、お電話の件なのですが」

 青年は、電話したことを覚えているか、確かめることにした。

 「電話。電話なんかもらったっけ。」

 やはり、覚えていない。

 恩師の記憶は、部分的に失われているようだ。

 「核融合の特許の件なのですが。」

 青年は、おそるおそるといった感じで聞いた。

 「ああ、あの特許か。あんなもの誰も取り合わないよ。誰でもいいから、社会のために使ってもらいたいけどな。」

 恩師は、言った。

 青年は、沈黙してしまった。

 用件は、承諾されたようなものだ。

 だが、それでいいのか。

 青年は、自分に問い続けていた。

 自分のことを亡くなったご子息と勘違いしたまま、特許の無償譲渡契約をすることが正しいことだとは、どうしても青年には思えない。

 青年は、恩師に無償譲渡であることと、会社名を伝えてみた。

 それに対しても、恩師は、快く承諾する。

 「私の生涯をかけた研究を世の中の役に立ててくれるのなら、こんなに有り難いことはない。」

 恩師は、そう言った。

 それでも、青年は、契約書を出すことが出来ない。

 自分のことを、正しく認識出来るときに、契約書にサインをもらうべきである。

 そう思わずには、いられなかった。

 「今日は、これで失礼します。」

 青年は、席を立って頭を下げる。

 恩師は、青年の方を見て

 「何だあらたまって。そうか、もう帰るか。」

 そう言って立ち上がった。

 青年は、帰ろうと玄関へ歩き始める。

 恩師は、その青年を玄関まで送ってくれた。

 二日後、青年は改めて恩師の家を訪ねた。

 だが、やはり前回と同じやり取りが繰り返されてしまう。

 普段の恩師は、ご子息が亡くなる前と同じように、普通に過ごせていた。

 だが、亡くなった当時のご子息とどことなく似通ったところのある青年に対するときにだけ、深い悲しみから心が逃避してしまっていたのだった。

 「あの、奥様は」

 青年は、気になっていたことを聞いてみた。

 「何だ、奥様なんて。お母さんだろう。いつものようにパートに行ってるよ。定年になってから研究費が随分かかって、年金だけじゃ心もとないんだろう。」

 清貧という言葉が、青年の中に思い浮かんだ。

 大学を定年退職し、名誉教授になった後も、恩師は細々と研究を続けていた。

 その研究には、大学からの補助はない。

 研究室を使わせてもらえるだけだ。

 では、必要な研究費は、一体どこから捻出するのか。

 それは、全て自費で賄われていたのだった。

 蓄えを切り崩し、借金をして調達していたのだろう。

 そうまでして得られた、大切な特許だった。

 「この特許は、どうしても世に出したかった。必ず世界を救うことが出来るはずなのに。」

 心の声が小さな呟きとなって、恩師の口から漏れ出していた。

 生涯をかけた研究が、単なる色物としてしか認識されない悔しさが、その声ににじみ出ている。

 その声に、青年は突き動かされたようだった。


 当時の記憶が、あまりはっきりとしない。


 気が付くと、鞄から契約書を取り出し、恩師の前に開いていた。


 それは、まるで無意識下のうちに行われたことのようだ。


 その時、何者かに操られているような感覚が、青年を支配していた。


 だが恩師は、それに喜んでサインをした。


 その瞬間から、世界経済の再生は始まったのである。



 会社は、常温固体核融合技術に関する特許の無償譲渡を極秘事項とした。

 企業が一個人の持つ有力な特許を無償譲渡させ、それを使って自分達だけが利益を上げていくことは、世間的に見ると、倫理的にとても許されないことだろう。

 その特許は、全て、自社の研究開発部の成果である。

 会社は、そのように、事実を歪曲し公表することにした。

 恩師は、心を患っている。

 そして、本当の事情を知っているのは、常務と青年だけだ。

 こうして、特許の無償譲渡など、どこにも無かったかのごとく、常温固体核融合技術の実用化は進められていくことになる。

 無償譲渡された特許は、非常に素晴らしく、ほぼ実用化に支障がないほどの汎用性が備わっていた。

 その特許の従来のものとの大きな違いは、核反応を大きくさせるために特殊な攪拌をすることにあった。

 エネルギーを得るためには、常に小さなエネルギーを使い続けなければならないという、一見矛盾しているように見える点が、他者の技術と根本的に違っており、盲点だったのである。

 会社は、実用実験を繰り返し、瞬く間に商業ベースに乗るほどの常温固体核融合技術を使った発電に成功する。

 一度実用化に成功してしまえば、あとは、規模を大きくして同じことを繰り返すだけである。

 大きな資本の後ろ盾に支えられ、実用段階の常温固体核融合施設が次々と稼働していく。

 世界経済の深刻な衰退も、常温固体核融合技術の実用化を後押しした。

 世界中の民は、あまりにも先の見えない経済の行き詰まりに、強い閉塞感を覚えていた。

 それは、自分の日々の生活に対する強い不安へと転化される。

 不安を少しでも解消するため、蓄えを少しでも増やそうと、民は消費を極限まで抑えた。

 そのことがより一層の経済の衰退を招き、世界は、不景気のスパイラルに陥っていた。

 経済の衰退は民だけでなく、既存のエネルギー利権にも大きな打撃を与える。

 民がエネルギーの消費を抑えてしまえば、当然それに伴う利権も縮小してしまうからだ。

 とにかく、誰もが、現状を打破出来るだけの、何ものかの出現を待ち望んでいた。

 活発な経済活動を喚起出来るだけの起爆剤

 そんな存在になりうるものの出現を

 誰もが、そう強く待ち望むさ中に、常温固体核融合という画期的な技術革新は、もたらされたのである。

 何の抵抗もなく、それが世界に受け入れられたのは、必然だったのかもしれない。

 世情も味方につけ、常温固体核融合技術によるエネルギー革命は、瞬く間に世界中を席巻していった。


 恩師の訃報は、青年の心にわだかまり続けていた澱を、大きくし始めていた。

 常温固体核融合技術の本当の生みの親であり、世界を経済恐慌から救った人の訃報が、新聞の片隅に、ほんの小さく掲載されている。

 恩師が受けるべきだった称賛は、全て会社に、常務に、青年にもたらされていた。

 果たしてそれは、恩師の意思に、本当に沿った結果であったのだろうか。

 青年には、それが、どうしても正当な評価だと、受け入れることが出来ないでいる。

 常温固体核融合技術が生み出したものとは、果たして、豊かさと平和だけなのか。

 その技術の恩恵は、非常に偏在している。

 特に青年の会社の関係者には、醜い欲望のみを肥え太らせ、下劣な品性そのものと化している輩が増殖してしまった。

 それらと対を成す者達

 彼の国の少年は、住み慣れた場所を奪われ、追い出されていくだろう。

 彼の国の少女は、惨たらしい死の牙にその将来をかけられ、残酷に命を奪われていった。


 それらをもたらした者とは、一体、誰なのか。


 常温固体核融合を、本当に世に出した者は、誰なのか。



 それは、他ならぬ青年自身だったのである。


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