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黒孩子  作者: カギシッポ
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2.青年

 青年は国際線の飛行機の座席に座りながら、出張先の国で見た光景を思い出していた。

 ごみ置き場にあまりにも無造作に打ち捨てられ、朝日を浴びて横たわる少女の亡骸。

 実際には、思い出してはいない。

 忘れられないのである。

 青年の頭の中には、まだ幼さの残る少女のどこか無機的な死顔が強く焼き付いてしまっていた。

 その光景が思考を独占してしまい、青年の心は片時も開放してもらえない。

 青年は、少女が亡骸となって発見された前の日、まだ溢れるほどの生命の潤いに満たされている少女に出会っていた。

 そのときに少女がくれた一瞬の安らぎのようなあどけない笑顔を、青年は今でも鮮明に覚えている。

 もしかしたら、それが、少女が人前で見せた最後の笑顔なのかもしれない。

 そんなことを考えてしまうと、その後の痛ましい少女の姿が余計に忘れられなかった。

 今回青年が出張した先は、東南アジアにある最貧国だった。

 その国にいる者は皆、今生きているという現実を非常に強く実感せざるをえない。

 それは、リアルな生命の危機というものが誰の傍らにも常に存在し続けているからだ。

 別に内戦や暴動といった具体的な戦火があるわけではない。

 国の力が極限まで失われてしまったために、各行政機構自体が一国の政府としての体を既になしていないのである。

 特に治安を維持するために存在しているはずの警察組織は、壊滅に近い状態であった。

 警察官は公務員であるため失業の心配こそなかったが、財源不足故にその賃金水準は極めて低く、政府から支払われる給与だけで日々の生活費を賄うことは事実上不可能であった。

 この極端な警察官達の低賃金が、やがて警察組織そのものの腐敗を招いてしまう。

 日々の生活が成り立たなくなるまでに追い詰められてしまった警察官達は、やむを得ずその職性を利用し始めてしまったのだ。

 困窮した警察官達は生活費の不足分を補うために、身の安全を守る条件として住民に対し賄賂を要求し始めた。

 しかし、最貧国であるその国の一般的な国民には、賄賂を使えるだけの経済的な余裕を持っている者などほとんどいない。

 そのため警察官達は、自分達の生活を維持出来るだけの賄賂を一般の国民から取ることは出来なかった。

 だが、警察官達は足りない分の生活費をどうにかして手に入れなければならない。

 そして、その方法は一つしか残されていない。

 それは、払うことが出来る者達から賄賂を取るということである。

 要するに警察官達の大部分の生活費を、経済的に余裕を持つ富める者達からの賂により賄うということだ。

 賄賂に頼り始めてしまった警察官達は、当然のように本来の職務よりも賄賂を支払う側である政治家や企業家を始めとする富める者達の言うことを最優先させた。

 それはあたかも、その国の警察組織自体が賄賂を支払う者達の私警察と化してしまったかのようであった。

 賄賂を払うことが出来ない貧しい一般国民達は、自分の身の安全を守るために警察官を頼るという極めて当たり前の、国家の果たすべき最低限の義務インフラをも利用することが事実上出来なくなってしまった。

 それでも一般国民達は身の安全を確保していかなければならないが、警察力を頼れない以上、自分達でどうにかするしかない。

 しかし、個人個人では身を守るのにも自ずと限界というものがある。

 そんな状況の中裕福でない一般国民達は、自分の身の安全を守るため自然と寄り添い集まり始め、お互いに団結していった。

 また、団結した一般国民達の多くは未だに極限の貧しさに襲われていて、その人達もなにがしかの方法で足りない分の生活費を補填しなければ生きていくことが出来ない。

 何かを手に入れるための最も有効で単純な手段とは、必要な物を他者から奪うことである。

 その必要な物、つまり生きていくために必要なだけの金品を持ち得る者とは、一般国民の僕であるはずの警察官達に特別に守護され、特権階級と化した富める者達だ。

 やがて、日々の最低限の生活さえもままならないほどの貧困に喘いでいる団結した一般国民達は、力を合わせて富裕層と呼ばれる人々からの略奪をし始めた。

 そして、特権階級を守護している警察官達は、当然、略奪し始めた人々と衝突し戦わざるを得なくなった。

 ついに国民を守るべき立場にある警察官達が、本来守護すべき対象である一般住民達と戦い始めてしまったのである。

 富を持たない者達と警察官達との戦いは、熾烈を極めた。

 その戦いは、最初のうちこそ装備が整っていて武器の取り扱いや戦いに慣れている警察官達の方が圧倒的に有利であったが、戦火を交えるにつれ人数で勝る一般住民が次第に盛り返していった。

 銃器や防弾チョッキで武装した警察官達に対し、住民達は夜の闇を味方にしながら山刀や弓矢といった音のしない原始的な武器で応戦した。

 住民達は、まず夜陰に乗じて標的の建物に忍びこみ、暗闇の中から警備している警察官達の様子をじっとうかがう。

 そして、あたりの様子がだいたい分かると今度は攻撃に移る。

 警察官達は、見つかり次第住民達に殺害された。

 闇に潜む住民から少し離れた場所にいる警察官は弓矢で射殺され、近くを通った者は音もなく忍び寄ってきた住民に刺し殺される。その攻撃は、特権階級の人々に対しても同様に行われた。

住民達の攻撃には容赦がない。

 警察官達の放った銃弾は何人もの住人を貫き、その命をいとも容易く奪っていった。

 本来ならば一般住民の味方であるはずの警察官の銃口が、自分達に向けられているのである。

 そのとき芽生えた身の腑をえぐられるような恐怖は、どす黒い怒りとなって住民達の心を蝕んだ。

 その警察官達に対する激しい憎悪が、住民達を容赦のない殺戮に駆り立てるのである。

 警察官達は、赤外線スコープや防犯センサーを使い住民達の見えない攻撃に対処しようとしたが、息を潜めて愚直なまでにただひたすら待ち続ける多数の一般住民達の攻撃に対して、思うような成果をあげられない。

 絶望的な命の危機に直面してしまった特権階級達は、やむなく高額な対価を支払い傭兵や退役軍人等の戦いのプロ達を雇うようになった。

 だが歴戦の経験をもってしても、犯罪組織としての有り様が既に確立されてしまっていた住民達の凶行を防ぎきることは、容易ではなかった。

 自分の身を守るために始めた住民達の団結は、いつしか略奪のための徒党と化してしまっていたのである。

 このような非常事態に陥ってしまった場合における治安維持のための最終手段とは、警察よりも強力な武装組織である軍隊を投入することだ。

 ところがこの国の政府は、危急の事態にも関わらず軍隊に対し治安出動を命じなかった。

 理由は、アジアの某大国のような内乱状態になることを危惧したからである。

 軍隊が出動したとしても速やかに治安を回復出来なければ、それは政府軍と徒党を組んだ住民達による反政府組織との全面的な内戦に発展しかねない。

 もしそうなってしまった場合、軍隊を出動させた政府高官達が反政府組織の最終的な標的になってしまう。

 住民達の矛先が自分達に向くことを恐れた政府高官達は、己の保身のためだけに軍隊の出動をあっさりと見合わせてしまった。この国の権力者達は、治安の回復や国民の平穏な生活などよりも己が身の可愛さを優先させてしまったのである。

 政府自らがくだらない利己的な理由のためだけに、国の平和や国民の生活をあまりにも安易に切り捨ててしまったということだ。

 既に国家デフォルトをしていた彼の国は、この時点で完全に国際社会からの信用を失ってしまった。

 長年にわたる経済不況が世界中の国家の力を完全に削ぎ落としていたため、国力に余裕を持つ国など世界中のどこにも存在していない。

 そんな国際情勢の中、このような国に救いの手を差しのべようというような奇特な国家などあろうはずがなかった。

 内政が崩壊し国際社会からも見放されてしまったこの国の秩序は、やがて根底から瓦解していった。

 そして後に残されたのは、形式ばかりの国という名を冠しただけの、ただの無法地帯だった。


 けたたましい笑い声が、青年のそれまでの思考を突如として中断させた。

 座席に座る青年の耳に、少し耳障りな女性の声が聞こえる。

 人々が会話する声に、青年は、ふと、周りの座席を見回してみた。

 そこには老若男女、幅広い年代の男性と女性が座っていた。

 スーツ姿のビジネスマンや学生等、その職業や身分も様々だ。

 そんな種々雑多な乗客達だが、そのほとんどの人には、ある共通点があった。

 そのある共通点とは、乗客の会話する言語や国籍だ。

 青年の周りに座っている乗客達は、皆、日本人だと思われた。

 国際線であるのにも関わらず、他の国籍の者がほとんどいないのである。

 飛行機の行き先が日本であるため日本人が多いのは当然かもしれないが、他の国籍を有する者が皆無というのには少し不自然さを覚える。

 その不自然さの理由は、青年の座っている座席にある。

 青年の座っている座席は一般の人がよく使うエコノミークラスではなく、ファーストクラスだった。

 世界は経済恐慌の危機的な状況を脱したとはいえ、ほとんどの人々は未だに裕福さとはかけ離れた毎日を送っていて、高価なファーストクラスを使う経済的な余裕などない。

 それどころか彼の国のように一部の地域では、今現在も極めて深刻な貧困により生命の危機にさえ晒されている人々が、まだかなりの数存在している。

 ところが、そんな世界情勢の中で、例外的にかつての経済的な繁栄をいち早く取り戻した国があった。

 それは、常温固体核融合という全世界規模の革命的な科学技術の実用化を成功させながら、その誇るべき成果が生み出す利権を一手に握ってしまった国。

 日本である。

 特に一部の巨大企業は、経済危機の反動でもあるかのように自社とその系列会社の利益のみを徹底的に追求し、本来ならば全人類が平等に受けるべき恩恵をほぼ独占してしまっていた。

 青年の周りに座っている人々も、おそらく何らかの形でその恩恵にあずかった者達なのであろう。

 そして当の青年自身もその独占企業の社員であり、今も常温固体核融合発電設備を莫大な金額で受注しての帰路だった。

 彼の国では、常に軍隊が青年達を警護していた。

 正確には、青年達のような国外からの来訪者が滞在している施設を警備していた。

 彼の国の政府は、自国の治安を回復させるために軍隊を出動させることは決してない。

 しかし、自分達政治家のいる官公庁等の公共施設と、金を落としていく国外からの旅行者の滞在するホテルや歓楽街の警備のためには、おしみなく軍隊を投入しているのである。

 身勝手さと金銭欲と暴力のみが、彼の国を支配していた。

 そんな絶望のはびこる街に少女はいた。

 不浄が喧噪となって満ちているような街角に、少女はただ静かに立っていた。

 南国の過酷な日差しに白いシフォンのワンピースがよく映えていた。

 白い衣を身に纏い物憂げに佇むその姿は、欲望によどんだ街の中にあっては何か異質な、穢れを知らぬ異世界のもののように、青年には思えた。

 先ほどと同じ笑い声が青年の回想を再び打ち破る。

 耳障りな声が青年を現実に引き戻していた。

 青年は、声のする方を振り返ってみた。

 分不相応に豪奢なファーストクラスのシートにふんぞり返りながら、大口を開けて呆けたように笑う人々。

 そこには己の欲望に全く抗うこともせずに、目の前の裕福さと保身だけを追求してきた人間のなれの果てがあった。

 それらは、人の姿をとってはいる。

 だがそれらは、人が持っていなければならない倫理や品位といったものから完全に乖離してしまっているように青年には見えた。

 青年の頭の中に、彼の国の少女の死顔が再び滲み浮かび始める。

 果たして、この利己的な欲望の従者達と彼の国の少女の命の重さにどれほどの違いがあるのだろうか。

 一体、彼の国の少女があんなにも無惨な死を遂げなければならないどのような理由があるというのか。

 一体、今、目の前にあるこの具現化したおぞましさ達が生き長らえ、思いのままに豊かさを享受出来るどのような正当な理由があるというのか。

 一体、何故、このような者達が創り出されてしまったのだろうか。

 一体、誰が・・・・・・

 異様な富の消費者達の醜態を前に、青年は焦燥にも似た強い違和感を覚えていた。


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