27.約束
いつの間にか、少女は、週末を楽しみに待つようになっていた。
だが、本当に待っていたのは、週末ではなく、青年の来訪だった。
青年は、週に二日、昼過ぎにランチを食べに来る。
その二日の、青年に勉強を教えてもらう時間が、少女にとっては何よりも楽しく大切な時間になっていた。
少女が夜間中学に通い始めて、もう3ヶ月が経とうとしている。
学校は、毎日、楽しい。
クラスでも年長者の少女は、学級委員としても、よく働いている。
給食も、楽しみの一つだった。
栄養のバランスが考えられ、丁寧に手作りされた料理が、毎日出される。
どれも、とても美味しい。
勉強は、ほとんどが教える方の立場だったが、自分を頼ってくれる仲間達がいること自体が、少女には、たまらなく嬉しかった。
そこには、間違いなく、少女の居場所があった。
だが、もうすぐ夏休みが来る。
他の生徒達は、どんなふうに夏休みを過ごすのだろう。
仲の良いクラスメートの顔が、思い浮かぶ。
そんなことを考えているとき、喫茶店の出入り口のドアが開いた。
待っていた人の顔が現れる。
純粋な喜びが、自然な笑顔となった。
「いらっしゃいませ。」
そう言って、少女は青年を迎えた。
青年も微笑み返しながら、カウンター席に向かう。
そこが、いつの間にか少女と青年との、勉強の場になっていた。
青年は、ナポリタンとコーヒーを注文した。
店の席は、3分の2ほどが埋まっている。
青年は、振り返って窓外に目を向けた。
料理が出てくるまでの間、青年は、思い出の景色の中に、自分の意識を溶け込ませる。
この店に来たとき、青年は、いつもそうして待っていた。
そうしている間に、少女がナポリタンとコーヒーを運んで来た。
「今日も勉強を教えてもらってもいいですか。」
料理を並べ終わった少女が、青年に聞く。
「はい、いいですよ。遠慮しないで」
「ありがとうございます。後で、よろしくお願いします。」
少女は、そう言って一礼し、去って行った。
青年は、コーヒーを一口飲んだ。
それから、、フォークでナポリタンを巻き取り、口に入れる。
昔ながらの味が、懐かしさを乗せて口の中に広がっていく。
トマトケチャップが加熱されたことで生まれたシンプルな甘さが、酸味を伴った奥深い美味しさとなって味覚を快く刺激する。
青年は、休日の昼に、母親がよく作ってくれていたのを思い出していた。
オムライスと同じ思い出の味が甦っていく。
青年は、もう一度振り返って、窓外の景色を眺めた。
青年の心が、幼い頃の日々に戻っていくようだ。
ナポリタンを食べ終え、コーヒーをすすっていると、少女が容器を片付けに来る。
昼を随分すぎたせいか、店の客は、青年だけになっていた。
少女は、容器を片付けながら、
「そろそろ勉強を教えてもらっても、よろしいですか。」
と聞いた。
「いいですよ、どうぞ。」
「ありがとうございます。失礼します。」
少女は、また、そう言って一礼し歩き去る。
青年は、歩いて行く少女の後ろ姿を見つめていた。
勉強を教えているうちに、少女の身の上のことが、いくつか分かった
少女は、世間の人が一般的に思い浮かべる黒孩子とは、かなり違う環境で育ったようだ。
戸籍が無いため、公教育を受けられず、外出することもままならなかったが、母親や工場の人達の庇護を受け、少女の高い基礎能力と相まって、かなりのレベルの学習を積んできていたことが分かった。
それを知ったとき、青年の中に、何かほっとしたような気持ちが湧いた。
そして、青年は、自分に問う。
自分も、他の人達と同じように、黒孩子である少女を偏見の目で見ていたのかと。
少女がプリントを持って、カウンター席に歩いて来た。
「今日は、地理を教えてください。お願いします。」
少女は、そう言って、カウンターの上にプリントを広げた。
実は、少女には、青年に聞かなければ分からないような問題は、なかった。
それに、分からなければ、学校の教員に聞けば済む。
少女は、青年に教えてもらいたかった。
少しでも、青年と話をしたかったのである。
青年は、少女のそんな気持ちを知らない。
プリントには、日本地図と、そこの地名や湾の名前等を問う問題が載っていた。
青年は、少女に関東の地名を教える。
千葉の岬を教えているとき、
「ここの近くには、僕の家の墓があるんだ。」
と言った。
「そうなんですか。じゃあ海とか近いんですか。」
「ああ、近いよ。墓は切り立った所の上にあって、その下は、すぐ海になってる。墓からの景色は、とっても素晴らしい。絶景ってやつだ。」
少女は、海を見たことがなかった。
夜間中学に通学する以外、町の外には、ほとんど出たことがない。
海を見てみたい。
そんな思いが、少女の心に湧き上がる。
青年は続けて言う。
「あ、それで来月は、墓参りに行くから、一回ぐらいここに来れないかもしれない。」
それを聞いた少女の顔が曇っていく。
青年に会う機会が一回減ることが、思いのほかの寂しさを少女にもたらしていた。
「そうですか。海、良いですね。私、本当の海を見たことがないから」
その悲しそうな表情が、青年を慌てさせる。
「一回だけだから。それに海が見たいんなら、一緒に行くかい。」
取りあえず、慰めようとして出た言葉だったが、少女の表情が変わった。
「本当ですか。海に連れて行ってもらえるんですか。」
「ええ、いいですよ。でも、海以外は本当に何もないところだし、墓参りだから海水浴も無理だけど、いいのかい。」
「はい、海、すごく楽しみです。」
嬉しそうに話す少女に、青年は、安堵を覚える。
「そう、良かった。じゃあ、連れて行くって約束しよう。」
「はい、お願いします。」
少女は、前に誰かと約束をしてもらったのは、いつだったのか。
誰かに何かをしてもらったという、そんな記憶が極端に少ない道を、少女は歩いて来た。
嬉しさだけが、自分の中に満ちている。
少女は、初めての感覚に少しの戸惑いを覚える。
約束の日、学校は、おそらく夏休みだろう。
もうすぐ、本格的な夏が訪れる。
少女は、初めて、それが楽しみだと思った。




