22.告白
彼の国の少女の死とは、自分がもたらしてしまったものではないのか。
そんな自責の念が、青年を蝕み続けている。
少女を殺害したのは、宮崎という名の、負の価値のみが凝り固まっただけの存在である。それは、既に、社会にとっての単なる害悪そのものでしかない。
だが、それを彼の国に呼び寄せたのは、
少女の元に招いてしまったのは誰なのか。
全て、自分のせいではないのか。
彼の国の少女の最後を見てしまってから、青年の心の中で、そんな問いが繰り返されている。
少女が殺される動画を見てから、最初の休日
溜まっていた代休をとり、青年は、一人で自分の家にいた。
薄暗い部屋の中、たった一人で自分自身に問い続けている。
時間は、もう昼を回っていた。
青年は立ち上がると、数本の鍵が付いたキーホルダーを戸棚から取り出す。
それから玄関を出ると、車に乗り込みエンジンをかける。
青年の赤い車は、少女のいる喫茶店に向かって走り出した。
自分は、また、思い出の中に逃げ込もうとしているのか。
しかし、その問いに答えるられるだけ余裕が、青年にはない。
今の青年には、穢れの無い懐かしさの中に、その身を投じてしまうことが必要だった。
少女に会うことで、苦悶がより深くなってしまうかもしれない。
それでも青年は、麗らかな春の日差しの中に、車を走らせる。
森の前を通り、赤い屋根が見えてくるとアクセルを緩め、ブレーキを踏む。
ハンドルを右に切り、喫茶店の駐車場に車を停める。
車から降りて喫茶店のドアを開けると、焼き菓子の甘い香りと、コーヒーの香ばしさが青年を迎えてくれた。
まだ、昼の終わりかけの時間のせいか、席は、半分以上が埋まっている。
青年は、空いているカウンターの右端の席へと向かい、座った。
少女は、レジに立っていた。
客の支払いが済むと、少女は、すぐに青年の席に注文を取りに来る。
そして、トレイの水をカウンターに置こうとして、少女は、やっと青年に気が付いた。
少女は水を置くと、
「この前は、ありがとうございました。」
と言って、頭を下げる。
青年は、笑顔になって少女を見る。
青年の顔に笑みが浮かんだのは、常務の部屋で動画を見て以来、初めてだった。
そして、青年自身は気付かない。
今の、その笑みが、愛しい者に対してだけ、向けられるものであることを
頭を上げた少女の顔にも、笑みが広がっている。
いつからか、その笑顔には、少女に常に付き纏っていた臆病さの影が無くなっていた。
純粋な喜びだけが創り出せる笑みが、いつからか青年に対するときにだけ浮かんでいる。
「こちらがメニューでございます。」
少女は、青年にメニュー表を差し出した。
青年がそれを受け取ると、
「ご注文が決まりましたら、こちらのボタンでお呼びください。」
と言って一礼をし、去って行った。
青年は、前回と同じものを注文しようと思っていたが、何となく渡されたメニュー表を開いてみる。
あるメニューに目が止まった。
青年は、そのメニューに郷愁に近い懐かしさを感じる。
幼い日々の思い出の味が甦っていく。
そこには、今はもういない母親が作ってくれた料理の名前が載っていた。
「オムライス」という文字が、青年の心を惹きつける。
青年は、今更ながらに、強い空腹を覚えた。
今朝は、朝食をとっていない。
少女の存在そのものが、青年の心に安らぎをもたらしていた。
心地良い安らぎに安定させられた精神が、青年に食欲を思い出させたのである。
青年は、サイドメニューに目を移す。
ドリンクにも一通り目を通した後、青年はメニュー表を閉じ、オーダー用の呼び出しボタンを押した。
「ご注文は、お決まりでしょうか。」
すぐに少女がオーダーを取りに来た。
「オムライスとキリマンジャロ。あとマドレーヌを一つお願いします。」
注文をしてから、青年は、少しの恥ずかしさを覚え、はにかみの微笑をつくる。
コーヒー以外は、まるで子供用のオーダーだったからだ。
「ご注文を繰り返します。オムライスとキリマンジャロコーヒー、マドレーヌが一つでよろしいでしょうか。」
少女は、気にしたふうもなく、注文を確認する。
「はい」
「マドレーヌは、食後にお持ちいたしましょうか。」
少女が聞いた。
「はい、食後にお願いします。」
青年は返事をすると、メニュー表を少女に差し出した。
少女は、それを受け取ると
「失礼します。」
と言って頭を下げ、去って行った。
青年は、その少女の後ろ姿を見つめている。
残酷な死と対極をなすもの
少女が体現している若い命の躍動のみが、それを確認する青年の心を救ってくれていた。
少女は、他のテーブルにある空き容器を片づけている。
少女の姿が、生き生きとした喜びに満たされているように、青年には感じられた。
それが、青年がもたらしているものだとも知らずに
青年は、振り返って窓の外を見た。
森は、今日も変わらずにいてくれる。
今は、それだけで救われる気がした。
「お待たせいたしました。オムライスでございます。」
森を見ていた青年に、少女の声が届いた。
青年は、前に向き直り少女の方を見る。
少女は、青年の前にオムライスを置いた。
オムライスには、別の小さな器に簡単なサラダが付いている。
「コーヒーでございます。」
少女がオムライスの右にキリマンジャロコーヒーを置いた。
青年の前に、心地良い香ばしさが立ち昇る。
「マドレーヌは、後程お持ちいたします。」
少女は、そう言って一礼すると、カウンター席から去って行った。
青年は、コーヒーを一口飲むと、オムライスの前に置かれているスプーンを手に取った。
程良い量がかけられているケチャップを、手にしたスプーンでオムライス全体に伸ばす。
青年は、スプーンをオムライスに突き入れた。
それから、一口分をすくい取って口に運ぶ。
程良い甘味と酸味が、口の中に広がっていく。
ケチャップの香りに隠れるようにして、バターが香る。
オムライスの卵は、薄焼きの卵焼きだった。
チキンライスをその卵焼きで巻いてある。
幼い日に、母親が作ってくれていたのと同じだ。
子供の頃に食べた懐かしさを、思い出していた。
青年は、その一口一口を、思い出を噛みしめるようにして食べていく。
オムライスを一気に食べ終えると、コーヒーを一口飲み、サラダを食べ始める。
サラダには、フレンチドレッシングがかけられていた。
青年がサラダを食べ終え、コーヒーを飲んでいると、足音と共に甘い香りが近づいて来る。
少女は、空いた器を下げると
「お待たせしました。マドレーヌでございます。」
と言って、青年の前に、皿に乗った焼き菓子を置いた。
焼き立ての強い香りが、青年の前に広がっていく。
初めてこの場所を訪れたときのことが思い出される。
父親とのたわいもない会話の記憶が、疲れ切った青年の心を癒してくれる。
「出来立てで熱くなっておりますので、お気を付けください。」
少女は、青年が火傷しないように注意をする。
「ご注文の品は、以上でよろしいでしょうか。」
「はい」
青年が返事をすると、
「ごゆっくりどうぞ」
と言って一礼し、少女は、また去って行った。
マドレーヌからは、まだ白い湯気が立ち昇っている。
青年は、熱さに気を付けながら、マドレーヌの底の薄紙を少し剥がした。
その部分からも、新たな湯気が立ち昇る。
マドレーヌは、生まれたときの熱さのまま、青年の手の中にあった。
青年は、湯気ごとマドレーヌを頬張る。
口の中で、思い出が蘇り始める。
優しい甘さが、バターの香りの中に溶け出していく
出来立ての温かさと柔らかさとが、それらを引き立てていた。
青年は、甘い焼き菓子を、素直に美味しいと思った。
甘いものを口にしたのは、いつ以来か。
彼の国の少女を見てしまってから、食への欲求自体が失われていた。
美味しいと感じられていることが、青年の心の再生を意味しているのか。
青年にも分からない。
ただ、今は、美味しいと思える感情を、何も考えずに、そのまま受け入れていたい。
マドレーヌを食べ終え、残りのコーヒーを飲んでいる青年の元へ、足音が近付いて行く。
青年は、足音の方を見た。
少女が、青年の方に歩いて来る。
その手には、何かの冊子と鉛筆を持っていた。
青年の近くまで来た少女は、恐る恐るといった様子で
「あの、お食事は、済みましたか」
「はい」
青年が返事をすると
「実は、お願いがあるのですが」
と言った。
「はい、何ですか」
「勉強をしていて、分からない所があるのですが、聞いてもいいですか。」
「いいですよ、どうぞ」
少女は、手に持っていた問題集をカウンターテーブルの上に開いた。
そして、持っている鉛筆で、ある問題を指しながら
「ここなんですが」
と言った。
少女の指しているのは、2次関数の問題だ。
その問題は、値の変域から、乗じられている数を求めるものだった。
「どうしても分からなくて、教えていただけますか。」
青年は、懐かしい数学の問題を見ながら、ずいぶん前の記憶を辿り、解き方を思い出そうとしている。
「少し、ここに書いてみてもいいかな」
「はい、お願いします。」
少女は、青年に鉛筆を渡した。
青年は、簡単なグラフを描き、方程式を描いた。
「いいかい、まず、yの値が正数だから、このaも正数だということになる。すると、グラフの形は、これになるわけで、2乗になっているからプラスマイナスに関わらず数字の大きい方が最大値になる。 それを方程式に表わすとこうなる訳だ、分かるかな。」
説明を終えた青年は、少女に鉛筆を返した。
少女は、青年が書いたものを見ながら鉛筆を動かしていたが、すぐにその手が止まる。
「分かりました。ありがとうございました。」
少女は、青年の顔を本当に嬉しそうな笑顔を浮かべて見ながら、お礼を言い頭を下げた。
「随分、勉強熱心だね。頑張ってね。」
青年も嬉しそうに微笑みを返す。
青年にそう言われた少女の様子が、少しだけ変わった。
少女は、何かを言おうとして躊躇っている。
青年は、それに何となく気付いた。
「どうしたの、何か言いたいことがあるのかい。」
微笑みを絶やさずに、青年が言う。
何か大きな決心をしたような、そんな張りつめた思いが少女を動かす。
「また、勉強を教えてもらってもいいですか。」
それだけを、少女は言った。
少女が、母親と工場の人以外に、頼みごとをしたのは、いつ以来だったろうか。
言葉という呪詛が、残酷な刃となって、少女の幼い心を千々に切り裂いてしまった日
愚者の虐待に怯えながら、大切な場所を逃げ出してしまった日
その日以来、少女は一体、誰に頼みごとが出来ただろうか。
最初に問題の解き方を聞いたときは、あまり思い詰めずに聞くことが出来た。
それは、前回、解き方を教えてもらった時の繰り返しのような気がしたからだ。
しかし、2回目は、自分が黒孩子であることを、何故か、とても強く意識していた。
自分のような者が、お願いなどしても良いのかと、そんな後ろめたさと怖さとに、心の多くを占められていた。
それを振り切るための決心が態度に現れ、やがて言葉と化したのである。
青年は、笑顔のまま
「いいよ。僕が分かることなら、気にせず何でも聞いて」
と言った。
少女の顔に、束の間の笑顔が戻った。
笑顔は、一瞬
ほんの一瞬だけ
すぐに、その顔が涙ぐむ
嬉しいのに涙が出ることが、少女にとっては初めてのことだった。
それまでの少女の人生は、喜びとは無縁に近いものだったからだ。
うれし涙というものを知らない少女は、軽いパニックを起こしている。
だが、青年は、少女以上に慌てていた。
普通に話をしていたら、急に相手が泣き出したのである。
それも相手は、まだ幼さの残る少女だ。
青年は、どうして良いのか分からなかった。
「どうしたの、大丈夫」
取りあえず立ち上がり、それだけを聞く。
後は、何も出来ない。
少女は、涙を手で拭いながら、笑顔になり、
「もう、大丈夫です。」
と言った。
青年は、胸を撫で下ろす。
「そう、良かった。でも、本当にどうしたの。」
少女は、まだ涙を拭いながら
「私、嬉しくて。今まで、あんまり人から何かをしてもらったことが、なかったから」
「そう」
青年は、それしか言えない。
何を言えばいいのかが、分からない。
だが、その顔には、愛しい者に対する笑みが戻っていた。
「私、いつも人から嫌わてるんじゃないかって思ってて、怖くて、私、黒孩子だから」
パニックが、少女から、いつもの言葉を選ぶ慎重さを奪い去っていた。
少女は、表情に動揺を隠せないまま、青年の顔を見る。
絶望感に苛まれながら
「そうなんだ、苦労したんだね。でも、そんなことは、気にしなくていい。さあ、また笑って」
青年は、変わっていなかった。
何も変わらない同じ笑顔が、少女を見ている。
上辺だけの笑顔でないことが、少女には、分かった。
理由は、ない。
それでも、心からの笑顔であることが分かった。
青年を見ていた少女の顔にも、自然と笑顔が戻る。
だが、また嬉しさの涙が溢れて来てしまった少女は、慌ててカウンターテーブルの上の問題集を手に取ると
「ありがとうございました。失礼します。」
と言って一礼し、歩き去って行った。




