21.桜
少女は、手の平に乗った一枚の桜の花びらを見ていた。
それは、既に少し萎れてしまっている。
少女の肩に舞い降りて来た花びら
昨日は、夜間中学の入学式だった。
風もない静かな夜
少女は、駅から夜間中学への道を、母親と共に歩いていた。
母親と外を歩くのは、久しぶりだった。
幼い頃の公園までの道のりが、少女の心を遠い日の思い出に立ち戻らせる。
少女は、自分でも知らぬ間に、隣に住んでいた女の子を探していた。
夜間中学に向かう人々を見ながら、もう一度、3人で一緒に歩けたらという、ほのかな望みを抱いてしまう。
やがて少女達は、校門をくぐり式場へと向かった。
少女にとって、いや、ほとんどの新入生にとって、生まれて初めての学校だ。
そこは、元々、定時制課程を併設していた女子高校だった。
その定時制課程も全日制課程も、志願者の減少により廃止となっていた。
少女の通うことになった夜間中学は、その残された設備や備品を利用し設置されたのである。
その校舎は、昼間は黒孩子専用の小学校として使われている。
少女は、物珍しさに、周りを見回してみた。
隣に住んでいた女の子がいないかと思い、新入生達の顔も見ているが、見つからない。
だが、少女は、あることに気が付いた。
多くの人が歩いているのにもかかわらず、話し声が、聞こえないのである。
そればかりか、新入生達の顔には、ほとんど表情というものがない。
それは、感情の起伏というものが、ほぼ失われていることを物語っていた。
人としてさえも扱われず、虐げられ続けて来た身の上が、全ての感受性を捨て去ることでしか、生きることを許さなかったのである。
少女が昇降口に近付いたとき、無風だった静けさの中に、僅かな空気の流れが生まれた。そよ風が、少女の長い髪を揺らめかせる。
そして、少女の視界には、数枚の薄桃色の花びらが舞い降りて来た。
少女は、視線を上げる。
そこには、大きな桜の木が植えられていた。
太い幹に支えられた無数の枝々が、空間を満たすようにいっぱいに延びて広がっている。
枝には、こぼれ落ちそうな満開の花々が咲き誇っていた。
その、こぼれ落ちそうな花が、僅かな風で少女の前に散り落ちてきたのである。
少女達が、生まれたばかりの小さな桜吹雪の中を歩いて行く。
一枚の花びらが、歩いて行く少女の肩に舞い降りて止まった。
その花びらを、少女が手に取る。
少女は、手の平の上の花びらを見ながら公園の桜を思い出していた。
東屋の周りの桜達も、満開の花を咲かせているのだろう。
薄桃色の霞に、もう一度、会いたい。
あの日見た桜色の公園を、また、歩いてみたかった。
自分は、公園の桜を、この先見ることが出来るのだろうか。
いつからか、根拠のない不安と寂しさとが、少女の中に潜み続けている。
「先生」の異変に気付いてから、公園には行っていなかった。
変わっていく「先生」を見ることが辛かった。
いや、怖かった。
人間が壊れていく姿を見続けることに、少女の心は絶えられない。
それが大好きな人であれば、なおさらだ。
朝、公園の脇を自転車で通り過ぎるとき、入り口には、いつも「先生」の白い車が止まっていた。
心を患っている先生が、あの東屋にいると思ってしまうと、少女は公園の前で自転車を停止することさえ出来ない。
今朝、自転車に乗りながら遠くから見える僅かな桜は、公園を少しだけ薄桃色に染めていた。
「先生」のいない時間に、行けばいいのかもしれない。
だが、それは、「先生」に対する裏切りのような気がしていた。
自分のことを大切に思い、待っていてくれる人を避けるような真似は、少女には出来なかった。
しかし、公園に足を踏み入れないこと自体が、自分のことを毎日待ってくれている「先生」から、逃げているのではないのだろうか。
桜の季節になっても、そんな後ろめたさが、少女の足を公園から遠ざけ続けている。
公園への複雑な思いが、少女の見ていた桜の花びらに凝縮していく。
隣の家に住んでいた女の子と一緒なら
少女は、三人と猫達とで過ごしていた公園での日々を思い返す。
もう一度だけ、隣の家に住んでいた女の子と一緒に、公園に歩いて行きたい。
もう一度だけでいい。
そして、もう一度だけ、公園の桜を見たかった。




