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黒孩子  作者: カギシッポ
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1.少女

 今日は、よく晴れていた。

 新しい命達が芽吹くための糧である陽の光が、静かな朝の空気に満たされていく。 

 静寂の朝は、少女の眠っている小さな部屋にも訪れていた。

 少女の閉じられた目の上に落ちた春の日差しは、夏に向けてその力強さを既に取り戻し始めているようだ。

 目蓋に赤く色付けされた眩しさが、少女の意識を覚醒させ始める。

 少女の目覚めの意思が、優しさと臆病さを湛えたその双眸を朝の光にさらそうとする。

 ベッドの上の少女は、ほんの少しだけ目を開いた。

 その瞳が、朝の日差しに照らし出される。

 視覚への強過ぎる刺激は、眩い痛みとなって少女の意識に届けられた。

 少女は、その眩しさに耐え切れずに再び目を閉じてしまう。

 眩しさから逃れるように、少女は顔を横に向け日差しを避けた。

 少女は、横を向いたまま再びゆっくりと目を開き始める。

 まだ光を受け入れきれない少女の視界には、白い闇の余韻が霧となり残っていた。

 その霧は、意識の覚醒と共に次第に打ち払われていく。

 目覚めを終えた少女は、部屋のすみを見つめていた。

 霧の晴れた少女の視界にあるもの。

 それは、朝日に照らし出され白く滲み浮かんだ机だった。

 少女はじっと、机を見つめている。

 まるで、愛おしいものを見つめるように。

 その机は、昨日、政府から少女に送り届けられたものだ。

 政府が何故、そのようなことをしたのか。

 それは、国の償いだった。

 少女への償い。

 少女の生い立ちへの償い。

 少女は、かつて黒孩子(へいはいず)と呼ばれる存在だった。

 黒孩子とは、その出生を届け出てもらえなかった者達のことである。

 公に出来ない、歓迎されない命を持って生まれてきてしまった者達。

 以前の少女は、そんな悲しすぎる宿命を背負って生きていた。

 では何故、国は少女に償いをしなければならないのか。

 それは、国が無力だったから。

 国があまりにも無力だったために、少女達は極めて過酷な生き方を選ばざるを得なかったのである。

 そして、力を失っていた国は、生きていることさえも認められないという深い絶望の袋小路のような現実から、少女達を救い出すことが出来なかった。

 そんな無力であることが招いてまった悲しい宿命に対する、国の償いなのである。


 国の力が失われた原因は、重篤な世界経済の混乱であった。

 世界的に台頭し始めた極端な保守主義が、先進諸国をドメスティックな経済政策に走らせた。

 その経済政策は、やがて世界経済そのものを極限まで縮小させてしまう。


 これに端を発した全世界規模の不況は、その後、考えられないほどに深刻度を増していった。

 いったんは浮上しかけた世界経済であったが、あることがきっかけで再び沈下が始まってしまったのである。

 そのあることとは、回復を牽引してきたアジアの某大国の経済成長が突如としてマイナスに転じてしまったことだ。

 発端は環境問題だった。その国の急激な経済発展は、自然環境への多大なる負荷の上に成り立っていた。自然環境の破壊を一切顧みない、ただひたすら効率性のみに傾倒していった開発と経済活動は、国民の日々の生活さえ脅かし始めていた。

 その国の大気は汚染され、場所によっては2メートル先が見通せない状態だった。呼吸をするという生命を維持するために最低限必要な行為自体が、苦痛となってしまっていた。河川は極彩色に染められ、その水を使わざるを得ない農作物は深刻な被害を受けた。水分の補給にはそれを飲用するしかないため、健康にも重大な悪影響を及ぼしていた。

 国内外に向けたプロパガンダのためだけに、場当たり的に小手先だけの環境対策が政府により行われたが、そのようなものが根本的な解決策になるわけもなく、所詮は健康被害が中央から地方へと場所を移しただけに終わってしまう。

 その国では、かねてより貧富の差の大きさが取沙汰されていたが、環境汚染の被害のほとんどは、国民の最も多くを占める貧しい者達が被らされていた。特に、見せかけの環境対策により激しい汚染に見舞われてしまった地方の住民達が、その犠牲者の中の多くを占めた。

 やがて死者が出るに至り、生命の危機を感じるまでになった人々は、大国の政府に対して暴動を起こし始めた。

 最初は、地方の村の小さな衝突だった。それは、申し合わせたように同時に様々な場所で起こった。

 政府は高圧的な態度で臨み、徹底的にこれらを鎮圧していった。そして、この段階では情報統制の厳しいこの国では、海外に自国の不利な情報が洩れることは、まだなかった。

 ところが、同時に起こった小さな小競り合いは、お互いの間で運命共同体のような奇妙な連帯感で結ばれていった。それぞれの騒乱は相互に結びつき始め、次第に大きな暴動になっていき、政府も一方的な鎮圧が難しい状況となった。それは、事実上の内乱状態であった。

 海外への情報操作は限界をむかえ、自国の内情を海外のマスメディアが報道し始めた。

 政府も国民の生活環境に配慮せざるを得なくなり、経済効率にのみ特化してきた政策の変更を余儀なくされた。

 その大国の続けてきた過度の経済成長は、全てバブルであった。そして政策変更と同時に、その国の地価は大幅に下落し、バブルは跡形もなくはじけ飛んでしまった。急激な成長の分、その落ち込み方は激しいものであった。

 他の新興国も大方同じような状況であり、世界の経済成長の旗手の座は、空位となってしまった。

 その影響は、あっという間に各国を席巻し、景気の二番底などという生易しいものでは済まない、深刻な恐慌に世界中が陥ってしまったのである。

 少女の国もその例外ではなく、終戦直後を思わせるような不景気に襲われた。人々は、その日その日を生きるのに精一杯で、多くの家庭が子供の教育費さえ捻出できないでいた。

 政府には、子供の養育を援助するだけの経済力はすでになく、各家庭でも子供を満足に育てるだけの余裕のある家は、ほとんどなかった。

 出生率は0.5人を割ってしまっていた。

 日本では、子供が生まれると同時に、親には教育を受けさせる等の義務が生じる。その義務を果たすためには、いくらかの額のお金が必要になってくる。そのお金をどうしても捻出出来ない親は、ある苦渋の決断をした。それは、生まれた子供の出生届を出さないという決断だった。

 出生届が出されなかった子供は、当然学校には行けず、表には出せない闇の職場で働くことになった。

そのような子供達は次第に数を増していき、新生児の1割ほどにもなっていった。

 かつて、ある大国が「一人っ子政策」をとったときに、戸籍を持たない無籍の子供達が生まれてしまった。その子供達は、「黒孩子へいはいず」と呼ばれた。

 日本の無籍の子供達も同じく「黒孩子」と呼ばれ、社会問題となっていた。

 少女もそんな「黒孩子」の1人だったのである。

 そして残念ながら、少女達を救う義務を負うべき国には、最早そのための力は残されてはいなかった。


 アジアの某大国の経済成長がマイナスに転じてから十数年が経ったとき、全世界レベルのある革命が起こった。

 それは、エネルギー革命だった。

 そのエネルギー革命は、最初に少女の国で起こった。

 そのエネルギーとは、一種の核エネルギーである。

 しかしそれは、核エネルギーであるのにも関わらず、核爆発とも放射性物質による汚染とも無縁な、極めて安全なエネルギーであった。

 人類はついに、常温固体核融合エネルギーの実用化を成功させたのである。

 海水を原料とする、ほぼ無尽蔵で非常に安価で安定したエネルギーの誕生は、長く続いていた経済危機を脱する原動力となった。

 世界各国の経済成長は、ようやくプラスになり、化石燃料の奪い合いが原因となっていた様々な無益な争いも自然と終息した。

 少女の国の政府にも、どうにか国民の生活環境を考えるだけの余裕が生まれ、黒孩子に対する政策が考えられ始めた。

 出生届を遅れて受理することが認められ、黒孩子ではなくなった人達のために経済不況で閉鎖されていた夜間中学校も再開された。

 16度目の誕生日を迎えた少女も、この春、夜間中学に入学する予定であった。

 少女に送られた机も、生み出されてしまった黒孩子に対し何らの救援策も講じられなかった己の無力さに対する国の償いの一つなのである。


 少女はゆっくりと身を起こし、ベッドから降りた。

 そして、光の中に白く輝き浮かぶ机のもとまで歩くと、そっとその天板の上に右手を置いた。

 それは、少女が焦がれ待ち望んでいたものの象徴だった。

 人が人として認められ、普通に生きられる。

 少女が望んでいたものとは、そんな何気ない当たり前のこと。

 少女は、じっと机を見つめている。

 そして、いつしかその顔は優しく微笑んでいた。


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