18.彼の国
自分の部署に戻った青年は、訳文をシュレッダーにかけようとした。
あまり、他の者に見られて好ましい内容の文書とは、言えなかったからだ。
投入口に近付く青年の手が、不意に止まった。
彼の国の少女のことが書かれているものが切り刻まれることに、理屈に出来ない漠然とした抵抗感があった。
青年は、自分の席に戻り、訳文を読み返し始める。
その訳文を読み返すとき、青年の中には、街角に立つ少女の姿が常にあった。
少女と出会った日、青年は、莫大な金額の契約を彼の国の政府と取り交わした。
その契約の内容は、常温固体核融合を使った発電所の建設工事だ。
その契約を締結することが、青年には、重すぎる負担になっていた。
青年が部下と共に渡航したのは、契約締結の3日前だった。
渡航前に、実質的なほぼ全ての打ち合わせや根回しは、既に済ませている。
形式上の契約書を作るだけの、渡航でしかなかった。
それでも、スケジュールは過密だった。
関係各所への挨拶回りや、建設予定地の視察、最終的な打ち合わせ等で、3日間は忙殺された。
挨拶先には、正体のよくわからない組織もあった。
そして、その組織の人間が、青年の滞在中、常に行動を共にした。
現地のガイドなのかと、青年は関係者に聞いたが、返事は濁されはっきりしたことは分からないままだった。
予定地の視察の日までは、
3日目までに挨拶回りを済ませた青年達は、あとは、契約書を取り交わすだけとなっていた。
その契約締結の前の最終現地視察に行ったのは、4日目だった。
青年達は、入国してからずっと首都の中にいる。
治安の辛うじて機能している唯一の場所が、首都の中でしかなかったからだ。
青年達が首都の外に出たのは、その現地視察が初めてだった。
核融合反応に必要な重水を得るために、建設場所は、どうしても海の近くに限られてしまう。
そのため、常温固体核融合発電施設の建設予定地は、首都に一番近い海岸の傍らにあった。
青年達は、現地の関係者と共にその場所に向かった。
同行者の中には、正体の定かでない組織の人間もいた。
青年達が現地に着いてみると、そこに建設予定地らしきものは、どこにもない。
そこにあったのは、バラックが連なる、ただの街だった。
貧しい人々が、精一杯生きる日々を、ただ必死に紡いでいくだけの場所
着る物もないのであろう裸の子供達が、楽しそうに笑いながら走っている。
洗濯物の入った大きな籠を抱えた主婦らしい女性が、その子供達を眺めながら微笑んでいた。
弱い者同士が、肩を寄せ合って懸命に生きている。
そんな暮らしが、そこにはあった。
そしてそこが、常温固体核融合発電施設の建設予定地なのである。
その場所に発電設備が建設されてしまったら、この貧しい人々の暮らしはどうなるのか。
そんなことを、青年は、考えずにはいられない。
建設予定地を見回していた青年の耳に、子供の叫び声が聞こえた。
幼い子供が木の棒を振り上げながら、青年達の方へ走って来る。
子供は、現地の言葉で何かを叫んでいた。
そのとき、一人の男が青年達の前に進み出た。
それは、常に青年達と行動を共にしていた、正体の定かでない組織の人間だった。
子供は、その男を知っているのか、急に叫ぶのをやめる。
走るのもやめ、男の顔を見ながらゆっくり歩いていたが、すぐに立ち止まり、木の棒も降ろした。
男は、歩いて子供に近付き少し身を屈め、その手を掴んだ。
そしてそのまま歩き始め、バラックの一つに入って行った。
男は、この町の人間だったのだろうか。
青年には、思い当たることがあった。
今回のプロジェクトの予算の中に、契約締結事務手続現地預託金というのがあった。
その予算の使用目的は、契約手続きが滞りなく順調に進むようにするための手数料というものだった。
では、実際にどんなことに使われているのか。
それは、契約の際、自社に有利に話を進めてもらうよう、現地関係者に取り計らってもらうための預託金だ。
何のことはない。
要は、現地関係者へのリベートのための予算なのである。
今回、青年達に同行している者達や、その上司達にも、かなりの金額のリベートが手数料と言う名目で渡されていた。
おそらくは、支出済みの現地関係者へのリベートの内の何割かは、犯罪組織にも渡っているはずだ。
なぜなら、この国で何か大きな事業を行おうとした場合、最も大きな力を持つのは、犯罪組織の者達だからである。
男は、犯罪組織の人間か、その関係者なのだろう。
それも、この貧しい街を仕切っている組織の
青年達に向かって来た子供の姿が、この街の人間の中に発電設備建設の反対者がいることを物語っていた。
その反対者達の妨害行為に対処するため、この街を仕切る犯罪組織の者が、常に青年達をガードしていたのである。
この街を仕切る犯罪組織にも、当然、リベートは渡っているはずだ。
だが、住む場所を奪われてしまうこの町の一般の人々には、一体、何が残るのだろうか。
貧しいながらも、ここに住む者達は、笑顔と共に生きていた。
その笑顔は、もうこの場所には戻るまい。
ここに生きる人々から笑顔を奪っていくのは、誰なのか。
それは、自分達ではないのか。
自分達に向かって来た子供の姿が、過酷な重石となって、青年の心にのしかかる。
現地視察を終えた青年達は、首都へと戻り、昼食をとった。
午後になり、契約書の調印場所である政府の施設へと向かう。
余裕を持って下準備を整えられたおかげで、契約の締結は、滞りなく終わった。
実際には、リベートの効果が大きいのだろうが。
心の重石は、無事に契約締結を終えた後も、変わることはなかった。むしろ、発電設備の建設を決定してしまったことにより、それは、より重さを増している。
過重を支え続けなければならない青年の心は、疲弊しきっていた。
悲鳴をあげ続けながら、破壊されまいと必死に耐え続けている。
現地でのスケジュールを終えた青年は、それが例え偽りだとしても、心に安らぎを与えようと、打ち上げと言う名目で部下を誘い繁華街へと向かった。
まだ、街は明るかった。
歩いている青年達に付き纏う影がある。
建設予定地の人間だろうか。
既に、青年達にガードは、付いていない
青年は、それを気にしないことにした。
考えるという行為から、少しでも遠ざかっていたい。
そう思った。
昼過ぎの陽光が、街の影を僅かに長くしていた。
南国の気候は、陽に過剰な力強さを与えている。
逢魔が時のような、昼と夜の狭間が生み出す空虚な時間が、繁華街から人の足を遠ざけていた。
その時間の中に、青年達は足を踏み入れる。
魔の時間は、それが合図であったかのように終わりを告げた。
閑散とした中を、厳しい南国の日差しに焼かれながら、あてもなく歩く青年達の後に続くように、人々が次々に街に入って来る。
魔の時間が、賑わいの不浄な喧騒へと変わっていく。
どこかに入れる店はないかと、周りを見回しながら歩く青年の視界を、一瞬だけ白いものがかすめて横に流れた。
ほんの一瞬だけ
足が止まっていた。
青年は、白いものの方を見る。
そこには、まだ幼さの残る笑顔があった。
僅かな風が、シフォンのワンピースの裾と長い髪を靡かせている。
厳しい日差しと対照的な白いシフォンの柔らかな優しさが、それとそれを着る者を、幻想的に映えさせる。
喧騒の街角に、少女は立っていた。
青年には、白い衣を纏い微笑みながら佇む姿が、穢れた街には相容れない存在のように思えた。
この薄汚い欲望のみに支配された場所にいてはいけない存在
少女の立つ街角が、異世界の入り口ででもあるかのような錯覚を覚える。
その微笑みの隙間から垣間見える物憂げな表情は、この穢れた街を憂えてくれているのか。
自分は、この街と同じなのかもしれない。
青年は、そう思った。
企業の利益のためだけに、建設予定地にある街の人々の暮らしを奪うことに加担している自分は、欲望が支配するこの街と何も変わらないのではないか。
そんな自分を憂えてくれているのだろうか。
少女は、青年を見ていた。
その微笑みは、青年に向けられたものだった。
そして、少女の眼差しの中には、少しの怯えが隠されている。
立ち止まっている青年に気が付いた部下達が、青年の元に戻って来た。
青年は、それにも気が付かずに、少女の立つ街角へと歩き出す。
青年の目に、少女以外のものは、何も映っていない。
部下達は、青年が少女に向かって歩いているのが分かると、素知らぬふりをして、また、街の中をあてもなく歩き始めた。
少女の前に立った青年は、自分に微笑みかけてくれる少女の目を見つめる。
少女は、恥ずかしそうに視線を外し、少し下を向いてしまった。
「Do you speak English.」
青年は、英語が話せるかを少女に聞いてみた。
少女は、顔を上げ、青年の顔を再び見つめながら答えた。
「a few」
少しだけなら英語が分かるようだ。
「可愛い子ですねー」
突然に、耳障りな声の日本語が右から聞こえた。
青年が声の方を向くと、下卑た顔の日本人が立っていた。
人とは、他人にこんなにも嫌悪感を抱かせる表情を創り出せるものなのか。
それとも、人ではないのか。
青年達に付き纏っていた影
不愉快そのものの、にやけた顔が少女を見ていた。
「宮崎」
青年は、小さく呻く。
その顔を青年が初めて見たのは、会社のエントランスだった。
その日のエントランスは、受付の前に立つ卑しい男に対する、周りの人達からの強い違和感に支配されていた。
愚者が放つ、特有の強烈に不快な雰囲気が、その原因である。
男は、就職活動に来ていた。
エントランスに入って来た者は、例外なく、男を遠巻きにする。
人間には、それぞれに自分の立ち位置というものがある。
しかし、この男には、そんな概念自体が欠如していた。
自分が嫌われていることが全く分からないのである。
受付の職員は、嫌悪感を隠すための必死の努力を強いられていた。
嫌われる原因は、外見ではない。
むしろ、目鼻立ちは、整っている方だった。
だが、内面の例えようもないほどの卑しさが滲み出し、それが、整った外見を軽く凌駕してしまうほどの、表情と雰囲気の醜さとなって、露骨に表出している。
外見が整っている分、その不快感はかえって際立っていた。
だが、本人には、それが全く分からない。
同類である親に育てられたことで、完全に自覚不能に陥っている。
核融合発電設備製造工場の建設場所の選定に絡み、男の父親が、会社側に接触してきたことがあった。
男の父親は、まだ候補の一つであった工場建設地に常務と青年を含む関係者が視察に訪れたとき、事前の連絡もなく、突然、現場に現れた。
そして、何の前置きもなく、隣町で議員をやっている自分の持つ土地へと、工場建設を勧誘し始めたのである。
だが、男の父親が持っているというその土地は、交通の便や環境も、従業員の手配も、土地の価格も、全く工場建設の条件に向いていなかった。
地方議員をやっているから、町のために来たと言っていたが、本当の勧誘の理由を要約すると、自分がそれを望んでいるから、というものだった。
男の一族は、過去に隣町で町長も輩出していた。
俗に言う地元の名士というやつだ。
だが、名士というのは名ばかりで、実際には、土地成金の一族が、金の力を使い町役場や地元企業に潜り込み、好き勝手をしながら私腹を肥やしているだけの存在だった。
その栄華は、一族の代表が再選を狙った町長選に落選するまで続いたが、新町長によってそれまでの不正を暴かれると、一族の主だった者は、皆、検挙されてしまった。
一度知ってしまった権力の味を忘れることが出来ない一族は、検挙されていない者の中から新しい代表者を選び、最後の望みを託し町議会議員選挙に立候補させる。
新しい代表者は、大量の金をばら撒くようにして選挙を戦い、どうにか町議会議員に当選することが出来た。
この一族の新しい代表者こそが、男の父親だったのである。
青年達と話す男の父親の態度は、まともな社会人のものとは、到底思えなかった。
井の中の蛙とでも言うのだろうか、あまりにも拙い社会性が、場違いにも不遜な態度となって表れていた。
男の父親は、言わば工場誘致のプレゼンテーションをしに、青年達の前に現れたのである。
ところが、その話しぶりには、命令口調に近いものがあった。
自分の持っている土地があるから、そこに工場を建てなさい。
自分の一族には、金が必要だから、その土地を高値で買いなさい。
有り難く思いなさい。
要約すると、たったそれだけの、極めて失礼な内容の話だった。
相手は、一応は議員の肩書を持っていたため、初めのうちこそ普通に話を聞いていた。
だが、あまりにも内容の無い無礼な言いぐさを繰り返す単なる田舎議員に辟易し始め、いつの間にか誰も相手にしなくなっていた。
男の父親は、その態度に激高し、何事かを大声でまくし立てていたが、その内容は意味不明なほどに幼稚なものだった。
大音量の騒音のような愚者のために、視察に支障をきたすと判断した常務が、一歩前に進み出る。
常務の目つきは、まるで汚物を見ているかのようだ。
「うるさい。さっきから失礼だぞ。邪魔だから、さっさと出て行け。」
常務は静かにはっきりと、言い放った。
男の父親は、さらに激高し、下品な言葉を並び立て続ける。
元々、男の父親は、町役場の職員をしていた。
もちろん、公務員試験にコネを使い、不正に採用されたものだ。
ところが、賄賂を使い無理やり採用させたものだから、全ての能力が周囲の人間よりも、極端に低い。
その無能ぶりが災いし、どのような仕事も満足にこなすことは、出来なかった。
周りの職員は、あまりにも何も出来ないことを馬鹿にし、嘲り笑う。
男の父親は、幼い頃から常に馬鹿にされ続け、性格の悪さを嫌われ続けて来た。
それがトラウマとなって、自分への負の感情に対すると、多動性障害のようなパニックを起こしてしまうようになっていた。
そのパニックを役場で毎日のように起こし、辞職を迫られることになる。
世間体を気にした一族は、一応働いているということにするために、形の上でだけ、一族の系列会社の社員にした。
だが、実際には何の仕事もしていない。
それは、あらゆる能力が一族の中でも突出して低かったからである。
その能力の低さ故、男の父親は、何の仕事も任せてもらえなかった。
ところが、町議会議員になった後、今まで自分のことを馬鹿にし続けた周りの人間の態度が一変する。
見せかけだけの権力に媚び諂う下賤な輩は、その町には、事欠かなかった。
毎日「先生」と呼ばれるうちに、すっかり自分自身のことを有能であると勘違いしてしまう。
男の父親は、町議会議員という肩書に異常なほど執着し、誇大な幻想を抱いていた。
それは、極端に能力が低いことへの裏返しであり、それにすがることでしか自分を保てないという人格の無価値さの証左だった。
しかし、今、目の前にいる者達の態度は、議員である自分のことを馬鹿にしている。
そう思ったとき、またパニックが始まっていた。
常務は、部下の方を向いて
「警察に電話してくれ。これは、立派な業務妨害だ。」
と言った。
「警察」という言葉を聞いて、男の父親の表情が凍り付いた。
自分が頼りにしてきた一族の者達が、次々と検挙され連行されていった。
そのときの恐怖が甦る。
無能な田舎議員は、何の前触れもなくパニックを起こし、何事かを叫びながら、突然に走り出していた。
青年達には、それが、警察から逃げ出したのだということが分からない。
ただ呆気にとられて、立ち尽くしている。
「何だあいつは、急に走り出して。一体何をしに来たんだ。」
そう言いながら、常務は、青年達の方を振り返った。
男は、そんな父親の元で我が儘放題に育てられていた。
その性質は、父親に輪をかけて愚鈍で自分勝手であった。
物心ついてから、常に、一族特有の卑しい性格と能力の低さが災いし、馬鹿にされ、嫌われ続けて来た。
それが、父親が議員になってからは、僅かだが、無能な自分のことを特別扱いしてくれる人間が周りに現れるようになった。
昨日まで自分のことを嘲り笑っていた者達が、今日は、何でも言うことを聞いてくれるようになる。
元々歪んでいた男の魂が、なおも醜く形を変えていく。
自分の思い通りにならないことが、いつしか許せなくなっていた。
だが、子供の世界では、そんな事情など通用しない。
学校では、男のことを特別扱いする者は、誰もいなかった。
それどころか、性格の醜さが災いし、いじめの対象となってしまっていた。
父親は、取り巻きを通じて、男へのいじめをなくそうと動いたが、子供達にとっては、ただ単に煩わしいだけだ。
自分の性格の悪さがいじめを招いているのにもかかわらず、それを直そうともせずに、厚かましく子供の世界に口を出してくる親のいる男を、子供達は無視し始めた。
不快な存在達とは、関わりたくないと思ったのである。
やがて男は、不登校児となった。
それは、小学校から中学まで続いた。
中学卒業後は、通信制の高校に入学する。
そして、一日も出席していないのにも拘らず、なぜか大学まで卒業した。
そんな男は、世間でもてはやされている常温固体核融合に関係する仕事に就きたかったらしい。
会社の中で、その仕事の実質的な責任者は、青年だった。
もし入社すれば、男は、青年の部下になる。
その関係で、試験が終わった後、男の履歴や答案を見せてもらったことがある。
それらは、選考に値するものでさえなかった。
おそらく、試験問題の問うていることの内容そのものさえ、理解出来ていない。
男が来る前に、父親から会社の方に不正採用を要請する電話があったらしいが、有無を言わせず断ったようだ。
男は、その日、受付で書類を受け取ってもらえただけで、帰された。
父親が接触してきたときに、既に一族の素性は調べてある。
関わるべき相手ではないと、判断したのだろう。
試験が終わり、結果を通知した時点で、男との関わりは断ち切れるものと思っていた。
それが間違いだと分かったのは、ある派遣会社が営業に来たときだった。
その日、青年は、新規の発電プラントの計画書に目を通していた。
電話が鳴り受話器を手に取ると、受付からだった。
「新規エネルギー開発部にお客様がお見えです。」
そう言って、受付の社員は相手の社名と、それが派遣会社であることを告げた。
聞いたことのない社名だった。
「分かりました。通してください。」
青年は、そう言って受話器を置く。
少しすると、部屋の出入り口のドアが静かに開いた。
だが、社員の誰も、それに気が付かない。
開いたドアから、下を向いたスーツ姿の若い男が、何も言わず黙って部屋の中に入って来た。
それに気が付いた男性社員が、席を立って男の方に歩き出した。
男性社員は、男の前に立って話しかける。
「あの、どちら様でしょうか。」
男は、立ち止まって顔を上げた。
急に目の前に現れた存在が、男を驚きと恐怖の坩堝へと叩き落す。
男は、パニックに陥ることを必死に堪えながら、ぶっきら棒に会社名だけを言った。
「です」も付けずに、本当に会社名のみを言ったのである。
相手の顔を見ることも出来ずに、おどおどと狼狽した態度は、不審者以外の何者でもない。
青年も、やり取りに気付き、立ち上がって二人の所まで歩いて行く。
何も言わない男のことを、男性社員は訝しんでいる。
男は、再び下を向いたまま動けずにいた。
青年は、男性社員の肩を軽く叩き、
「その人は、私のお客様らしい。」
と振り向いた男性社員に話しかける。
男の顔が上がり青年の顔を見た。
そこには、見覚えのある顔があった。
内面の卑しさが溢れ出し、見るものすべてを不快にする顔が
男性社員は、会釈をして自分の席に戻って行った。
「こちらへどうぞ。」
青年は、そう言いながら、男を応接セットに案内する。
二人が腰を下ろすと、女性社員がお茶を運んできた。
青年が進める前に、男は置かれたばかりのお茶を飲み始める。
その後も男は、それを飲み干すまで何も話し出さなかった。
まだ、挨拶も交わしていない。
営業に来た人間の態度ではなかった。
「どういった御用件でしょうか。」
青年は、男がお茶を飲み干すのを見計らって訪ねた。
「俺は、ここで働きたい。」
いきなり、男が言った。
「只今、人手は足りております。」
言葉使いだけでは、どちらが営業に来たのかさえ分からない。
「俺は、ここで働きたいんだ。」
自分のやりたいことしか言えない。
幼子が、自分の我が儘な希望を聞いてもらえずに、同じことを繰り返すのを、今、目の前にいるこの男はやっている。
「何か、我が社の役に立つ特技でもあるのでしょうか。」
青年が聞くと、男は黙ってしまった。
「御用件がお済でしたら、もう、お帰り下さい。」
青年は、席を立った。
「パパに言って、ここに入れてもらうからな。」
男は、急に立ち上がり青年の顔を見ながら言った。
しかし、青年が男の顔を見返すと、下を向いてしまう。
そしてそのまま、出入り口に向かって走り出した。
やることが、父親と全く一緒だ。
その日のうちに、父親から会社に電話があった。
採用試験のときの文句も言っていたようだ。
常務が対応したのだが、試験の結果あなたの息子は全てにおいて極めて無能である、という趣旨のことを、慇懃無礼に説明したらしい。
その後、男が青年のいる会社に直接来るようなことはなかったが、郵便や電話を使い青年に接触を謀ろうとしてきた。
昼食の場所に現れたこともある。
だが、あまりの執念深さに、次は警察に通報すると警告すると、また前と同じように走って逃げ出した。
そのときは、もうこれで終わりだと思っていた。
宮崎の常温固体核融合という最先端技術に関わろうとする欲求は、既に妄執と言える段階のものになっていた。
それは、一族の没落と共に、自分に対する周囲の態度が一変したことが原因だった。
自分のことを特別扱いしてくれていた者達が、あからさまに無能であることを嘲り出す。
無能力者は、愚かにも、何としても人々に媚び諂われる存在に戻らなければならないと思った。
宮崎は、身の程を知るということ、そのものの意味を分かっていない。
むしろ、自分のことを有能だとさえ、思っていた。
裏付けの欠片もない自信だけが、宮崎を突き動かす。
その自信が実力を伴っていることを証明したいがために、世界を奈落の淵から救った常温固体核融合に関わる仕事に就かなければならいと、本気で思い込んだのである。
全ては、極めて自分勝手な、穢れた思い込みに過ぎない。
その卑しい妄執の主が、青年の前に現れていた。
偶然では、有り得ない。
どこで嗅ぎ付けたのか、どうにかして常温固体核融合施設の建設計画に絡みたいとでも思ったのだろう。
しかし、宮崎の目は、青年を見ていない。
より不快さを増した眼差しが、少女をねめつけるように見ている。
醜い欲望に基づく他人への悪意のみが、思考の根源に存在する者
それが、そこにいた。
その視線が、少女を貫く。
宮崎の視線を受けてしまった少女の表情が、まるで物理的な苦痛を受けたように歪む。
青年は、斜め右に一歩踏み出し、少女への汚穢な視線を遮った。
宮崎の方を振り返ると、少女に向かって歩いて来ていた。
「この人は、私と話しているんだ。邪魔をするな。」
青年が厳しく言うと、宮崎は、立ち止まる。
しかし、その視線は、青年越しに少女を追うことをやめない。
「俺が、その女と話したいんだから、お前、どっかに行け。」
青年の顔を見ることも出来ない宮崎は、視線を泳がせながら、まるで幼子が文句を言うように言い返した。
「この人が、嫌がっているだろう。文句があるなら警察を呼ぼうか。親父の威光も、ここじゃ通じないぞ。」
宮崎は、警察という言葉を聞いても逃げ出さなかった。
それだけ少女への執着が、強いということだ。
少女の双眸が、宮崎をこの場に止まらせていた。
遠い日の記憶の中にある幼子に酷似した、その双眸が
少女は、怯えていた。
自分に迫って来ようとする宮崎の狂気じみた顔が、得体の知れない恐怖となって、少女の心を締め付ける。
少女は、走り出していた。
宮崎の醜い眼差しから、一刻も早く逃れたい。
ただ、その思いだけが少女を支配している。
少女が走り出したことに気が付いた宮崎は、青年の左側に回り込もうとした。
青年は、それを阻止しようと左に一歩踏み出す。
すぐに宮崎は、青年の右側に回り込もうとする。
青年も右に一歩踏み出した。
宮崎は、なおも少女の後を追おうとした。
「いい加減にしろ」
青年が、大きな声で宮崎を怒鳴りつける。
宮崎の体が痙攣したように、一瞬大きく震えた。
やがて、その顔が震え出す。
宮崎は、幼い子供が親に叱られてそうするように、大声で号泣し始めた。
学校にも行かず、家で甘やかされて育った宮崎は、一度もまともに怒られたことがない。
怒鳴られた経験など、初めてのことだった。
この場所には、いつも頼りにしていた父親もいない。
宮崎は、号泣しながら後ろを振り向き、無意識のうちに走り始めていた。
誰にも守ってもらえない。
そんな経験したことのない不安な状況から、逃げ出したかったのだろう、
青年は、少女の逃げて行った方を振り返る。
そこには、賑わい始めた繁華街を歩く人の群れがあった。
少女の姿は、その流れが無事に隠してくれたようだ。
青年は、安堵の吐息を漏らした。
そしてその顔に、微笑みが浮かび上がる。
青年も、人の群れに向かって歩き出した。




