15.数式
青年の家には、駐車場があった。
それは、あまり広くない、普通自動車を停めるのが精一杯の駐車場だった。
そこに、一台の赤い車が停められている。
その車は、ほとんど見かけなくなったガソリン車だ。
1000ccのその古い車が、青年の愛車だった。
バッテリーを上げないために、休みの日には、出来るだけ運転するようにしている。
青年は、運転席のドアを開け、その車に乗り込んだ。
キーを挿し回すと、年代を感じさせず、一回でエンジンがかかった。
ブレーキを踏みギアをドライブに入れて、ザイドブレーキをおろす。
そしてアクセルを踏み、青年は、喫茶店に向かった。
青年の家は、住宅街にある。
その住宅街の最初の角を右に曲がり、次の角を左に曲がった。
そのまま真っ直ぐに100メートルほど走ると、住宅街が突然終わる。
代わりにそこに現れたのは、晴れた日の田舎町の風景だった。
昼を少し過ぎた頃の気持ちの良い春の日差しが、その景色に降り注いでいた。
懐かしい田園風景の中を、時代遅れの赤い車が走って行く。
ノスタルジックなその容姿が、時代に取り残された田舎町の風景に、どことなく馴染んでいた。
やがて森が見えてくる。
車は、右に曲がり、森の前の道に入った。
喫茶店の片流れの赤い屋根が見えてくると、青年は、アクセルから足を離し、軽くブレーキを踏む。
喫茶店の前でハンドルを右に切り駐車場に入る。
車を停め、サイドブレーキを引くとエンジンを止めた。
青年は、キーを引き抜きドアを開け、車から降りる。
ほんのりと甘い香りが漂う。
白亜の壁が、変わらずに青年を迎えてくれる。
青年は、片開きの扉を開け中に入った。
焼き立てのマドレーヌの香りが強くなる。
喫茶店の席は、3分の1ほどが埋まっていた。
店内を見回すと、前の時に座った奥の席が空いている。
青年は、その席に向かった。
ワインレッドのエプロンを身につけた少女が、忙しく立ち働いていた。
席に着くと、間もなく水を持って注文を取りに来る。
青年の座る席まで来た少女が、一瞬だけ戸惑いの表情を作る。
人との関係を築くこと自体に、少女は、どうしても強い恐怖を感じてしまう。
辛かった思い出と向き合えた今も、それは、あまり変わることは、なかった。
当惑する少女の様子が、青年に後悔と不安とを抱かせる。
戸惑いの表情を目の当たりにしてしまった青年は、自分がこの場所に来ることが、少女にとって、迷惑なのではないのかと思った。
それでも、笑顔をつくり
「この前は、ありがとう」
と、青年は、思い切って自分の方から少女に話しかけてみた。
他者に蔑まれることしか知らなかった少女に、感謝の言葉を向けてくれる存在が目の前にあった。
少女は、その言葉に大きな喜びを覚える。
他者の感情を素直に喜ぶことが出来た自分の心が、少女には、堪らなく嬉しかった。
その思いが、少女の表情に微笑みを生み出す。
愚者の侮蔑から逃げ出し、人の眼差しから逃げ続けていた自分が、他者の感情を何の躊躇いもなく受け入れられていることが不思議だった。
青年の顔にも、微笑みが生まれていた。
少女は、はにかみながら小さく頭を下げた。
顔を上げた後も、その微笑みは消えない。
少女は、青年の前に水と氷の入ったグラスを置いて、
「こちらがメニューでございます。」
と言って、メニューを差し出し、青年が、それを受け取る。
「注文がお決まりになりましたら、こちらのボタンを押してお呼びください。」
少女は、会釈をし、カウンターの方に歩き出した。
青年は、メニュー表に目を落とす。
幼い頃の思い出の中に在る品々が、まだ、メニュー表の中に懐かしく並んでいる。
父親が、あの日食べたものを、青年も注文しようと思った。
青年は、オーダー用の呼び出しボタンを押した。
少女の歩く音が、すぐに聞こえる。
「ご注文は、お決まりでしょうか。」
青年は、メニュー表を見ながら、ミートローフサンドとキリマンジャロコーヒーを注文した。
少女は、注文を繰り返すとメニューを受け取り、カウンターの方に去って行く。
青年は、森を見ていた。
苦しみからの逃避は、今は、もうない。
大切な思い出達は、青年を受け入れてくれていた。
ただ単純に、懐かしさを堪能している。
しばらく外を眺めていると、誰かが歩いて来る音がした。
「お待たせいたしました。ミートローフサンドでございます。」
テーブルの左脇に立った少女は、そう言いながらトレイの上のミートローフサンドを青年の前に置いた。
「キリマンジャロコーヒーでございます。」
そう言って、コーヒーをサンドウィッチの右に置く。
「御注文の品は、以上でよろしいでしょうか。」
そう聞く少女に、青年が頷く。
「ごゆっくりどうぞ」
少女は、会釈をして、またカウンターの方に歩いて行った。
カップから、湯気が白く立ち昇っている。
その湯気と共にコーヒーの香りが生み出され、広がっていく。
部屋の中を満たしていた焼き菓子の甘い匂いが、次第に駆逐される。
芳醇な香ばしさが、空間を支配する。
青年は、右手でカップを持ち、それに口を付けた。
自分の味覚と嗅覚とが、コーヒーの香ばしさに染まっていく感覚が心地良かった。
サンドウィッチには、ミートローフと一緒に沢山のレタス、それとトマトとチーズが一緒に挟んである。
それを三角形に切って、食べやすいようにペーパーナプキンで包んであった。
青年は、一旦コーヒーカップをテーブルの上に置くと、その一つを手に取る。
ペーパーナプキンを少しずらして、それを頬張った。
ケチャップと多めの野菜の歯ごたえがアクセントになって、ミートローフの豊かな味わいを引き出していく。
自家製の食パンが、その凝縮していく旨味を、少し硬めの食感と共に受け止める。
青年は、もう一度、森を見た。
そして、乗って来た車のことに思いを馳せる。
その車は、かつて青年の両親が運転していた。
青年が父親と、この喫茶店に来たのもその車だった。
その時が、父親が車を運転する最後の姿だったのだと、青年は、今更に思う。
その車にも、沢山の大切な思い出が詰まっている。
両親が青年に残してくれた、形見だった。
青年が喫茶店に入った頃から、客が少しずつ席を立ち始めていた。
ランチとしては、かなり遅めの時間だったからだ。
席を立った60歳ぐらいの作業服姿の客がレジで精算しているとき、持っていたバッグから薄めの冊子を取り出して少女に渡していた。
少女が喜びながらその客にお礼を言っているのを、青年は、何となく見ている。
ミートローフサンドを食べ終わったとき、その喫茶店の客は、青年一人だけになっていた。
青年は、残りのコーヒーを飲む前にトイレに立った。
用を済まして席に戻る途中で、カウンターに座る少女の姿が見える。
少女も昼食をとっているのだと、青年は思ったが、そうではなかった。
そばを通ったとき、カウンターの上には、少女が先ほど客から渡されたと思われる冊子が置いてあった。
そして、似たようなものが、もう一冊ある。
少女は、そのもう一冊の冊子を開いていた
その冊子は、数学の問題集だった。
おそらくは、中学の問題集だろう。
青年は、思わず立ち止まり、少し離れた所から懐かしくその問題を見ていた。
少女は、右手に鉛筆を持ちながら、左手に顎を乗せ、考え込んでしまっているようだった。
青年は、興味に負けて、その内容を覗き込んでしまう。
そこには、見覚えのある数式があった。
高校2年生の夏休み
青年は、その数式を見ていた。
両親と死別した青年は、母方の祖父母の家に引き取られ、暮らしていた。
その年の夏休み、青年は、母親の妹である叔母から、中学生の従弟の勉強を見てくれるように頼まれていた。
その時見た数式を、少女も見ている。
従弟も同じように、数式を応用問題にどう活用して良いかが分からず、考え込んでいたのを覚えている。
気配を察知した少女が、不意に後ろを振り返った。
その顔が恐怖に歪む。
少女は、自分に近付いて来る人間に恐れを感じる。
それは、誰に対しても反射的に想起されるイメージが、否応なく創り出してしまう感情だった。
あの日、愚者によりもたらされた虐待と蔑みとが、少女の中に他者への絶対的な恐怖という傷跡となって残っていた。
青年を視界に認めたとき、その少女の表情に変化が起こる。
青年が傍にいることが、自分の中に芽生えつつある不安を消し去っていく。
その顔を見ることが、何故か少女の心に安らぎをもたらす。
青年にだけ抱く感情の変化に、少女自身は気付いているのか。
顔からは、恐怖が去り、僅かな笑みさえ生まれていた。
「ごめんね、驚かしちゃったみたいだね。」
青年は、少しの後ろめたさと、申し訳のない気持ちで言った。
「いえ、大丈夫です。」
返事は、しどろもどろだった。
少女は、慌てている。
恐怖は去ったが、替わりに動揺が少女の中に広がっていく。
そして、その動揺が、楽しくもあり嬉しくもある。
少女自身は、気付かぬままに
青年は、カウンターに近付き、問題集の数式を指さした。
「これをXに、これをYに代入して考えてごらん。」
高校二年生の青年も、従弟に同じことを言っていた。
その時の従弟は、それでもすぐには分からずに、しばらく考え続けていた。
しかし、少女は、その青年のアドバイスにすぐに反応する。
分からずに悩んでいたことが霧消し、その目に輝きを溜めながら鉛筆を走らせ始める。
従弟の学校での成績は、かなり良かった。実際に数学を教えていた青年も、なかなか優秀な子だと感じていた。
少女は、その従弟以上に聡明だったようだ。
問題を解き終わった少女は、鉛筆を置きカウンター席から立ち上がって、青年の方を向いた。
「ありがとうございます。」
少女は、そう言いながら頭を下げる。
青年は、わざわざ頭を下げられるようなことをしたつもりは、なかった。
そこまでされてしまったことで、申し訳ない気持ちが、再び湧きかける。
だが、上げた少女の顔が、それを打ち消した。
人の創り出す笑顔というものは、こんなにも輝けるものなのか。
青年を見る少女の双眸からは、常に纏わりついて来た臆病な悲しみの影が、跡形もなく消え去っていた。
笑顔というものが、傍らの人までをも喜びの感情に浸らせることが出来るのだと、青年は、知る。
人を喜ばせる無上の幸せが、青年を笑顔にする。
少女に笑い返し、青年は自分の席に戻っていった。
少女は、またカウンター席に座り、問題を解き始める。
席に着いた青年は、森を見ながら考えていた。
彼の国の少女のことを
彼女もまた、中学生だったのだろうかと。
青年は、まだ、ほとんど知らなかった。
少女のことを
残りのコーヒーを飲み干すと、青年は、立ち上がった。




