12.待ち人
少女は、階段を昇り切ったところで立ち尽くしていた。
一度に押し寄せて来た様々なもの達が、強い戸惑いとなって、束の間だけ、その足の自由を奪い去っている。
やがて、溢れ出した記憶の波が 少しずつ心の中で流れを整えていく。
少女は、蘇った思い出と共に、ゆっくりと歩き始めた。
老人が、少女に微笑みかけながら、膝の三毛猫を撫でている。
東屋には、他にも数匹の猫達が、朝食を食べに集まって来ていた。
木製のテーブルの上には、老人のバッグやスケッチブックが置いてある。
そこには、あの日の公園と何も変わらない光景があった。
大切にしていた思い出の光景が
少女が東屋に近付いていくと、老人が、もう一度微笑みかけてくれた。
老人は、少女の顔を見ながら、猫を撫でている。
少女が東屋の中に入ると、一匹の猫が足元に近付いて来た。
その猫の小さな姿に、少女は見覚えがある。
昨日、少女を公園まで誘ったキジトラの仔猫が、少女の足に頭をこすりつけて来た。
少女が、しゃがみ込んで頭を撫でると、仔猫は、大人しく座って、少女の顔を見上げる。
その様子を見ていた老人が、猫を撫でるのをやめ、テーブルの上に置いてあったバッグを手前に引き寄せた。
そして、老人は、バッグを開け中からキャットフードを取り出した。
その気配を察したのか、猫達は、老人の座っているベンチの周りに集まり始めた。
御飯を貰えると分かったのだろう。
仔猫も、撫でている少女の手をすり抜け、他の猫達と同じようにベンチに向かって走り出した。
少女は、立ち上がって、仔猫の後を目で追う。
仔猫は、ベンチの上に跳び乗った後、そのままテーブルの上まで登ってしまう。
老人は、テーブルの上で、プラスチックの器にキャットフードを入れているところだった。
そのキャットフードを入れているそばから、猫達は、器に顔を突っ込んで食べようとする。
老人は、少しでも早く食べようとする猫達の頭が邪魔で、キャットフードを器に入れることが、なかなか出来ない。
少女は、猫達が競うようにしてキャットフードを食べる様子を、静かに眺めていた。
キャットフードを、どうにか器の一つに入れて、老人は、それを床に置いた。
皆、床のキャットフードを食べようと器に群がるが、それにあぶれた猫は、再びテーブルに乗って、 キャットフードを器に入れる邪魔をする。仔猫も、その一匹だった。
それを見かねた少女は、仔猫に近付き、両脇から抱え上げる。
仔猫は、それでも何とかキャットフードを食べようと、もがいて少女の手から逃れよとした。
老人は、少女を見ながら
「ありがとう」
とお礼を言ってくれた。
少女は、あの日と同じ声を聞いていた。
あの日と同じ、穏やかな優しさが、救いのなかった日常に、僅かばかりの、それでいて唯一の許しを与えてくれていたことを思い出す。
老人は、他の猫に邪魔をされながらも、キャットフードを3つの器に入れ終え、その器の内の2つを床に置き、残る1つをテーブルに置いた。
それを見た少女が、仔猫をテーブルに降ろす。
仔猫は、急いで器の所に行き、キャットフードを食べ始めた。
少女は、猫達が夢中になってキャットフードを食べる様子を見ていた。
テーブルの仔猫を見ていた少女は、老人のバッグの横に、もう一つ小さなバッグが置かれてあることに気が付く。
そのバッグに、少女は、見覚えがあった。
少女は、この場所に来るとき、いつも、そのバッグを持っていた。
そのバッグには、少女のかけがえのない大切な思い出が詰まっていた。
あの日、少女は、そのバッグと一緒に、母親以外の大切にしていた全てを失った。
大切にしていた物も
大切にしていた場所も
大切にしていた存在も
思い出も
人であることさえも
そのバッグと一緒に、あの日に置いて来てしまった。
それが、どんなに大切なものでも
それを失うことが、どんなに辛くて悲しくても
二度と帰って来ないと、あきらめざるを得なかった。
そんなバッグが、今、少女の目の前にあった。
少女は、身動きもせずに、ただ、そのバッグを見つめていた。
バッグを見つめたまま黙り込んでいる少女の様子に、老人が気付く。
老人は、スケッチブックを手に取ると、その表紙をめくった。
そこには、既に破り取られている、描きかけの絵が挟んであった。
老人が、少女を見る。
少女は、老人の視線に気が付いた。
そして、老人の手にあるスケッチブックに目を移した。
少女は、見ていた。
まだ、自分の境遇を知らない、ただの無邪気な子供でいられた最後の時間を
そこに描かれているものは、幼い者の手によって拙く描かれた、まだ色を塗る前の仔猫だった。
その拙い絵は、少女が安心して人間でいることを許された最後の時によって、生み出されたものだ。
それは、少女が、かつて人として生きていられたことの、最後の証であった。
少女は、その証を大切に持っていてくれた人を見る。
老人は、テーブルの上の猫を撫でながら、少女に微笑みかけていた。
あの時と同じように
老人は、スケッチブックをテーブルの上に置いた。
そのスケッチブックから、描きかけの仔猫の絵を手に取り、立ち上がる。
それから、少女のところに向かって歩き出した。
老人は、少女の前に立つと、テーブルから小さなバッグを手に取った。
少女は、目の前に立つ老人の顔を見つめている。
老人は、描きかけの仔猫の絵と小さなバッグを、少女の前に差し出した。
少女は、それに視線を落とす。
その時、この場所からは、全ての言葉が失われていた。
辺りを、ただ、静けさだけが支配する。
少女は、差し出された絵とバッグを手に取った。
それらは、何も変わることなく、少女が失くしてしまった時のままの姿で、そこにある。
長い時を経た思い出達は、色褪せることなく、少女の手の中で息づいていた。
少女は、手にした絵とバッグを、静かに見つめている。
今手にしているものは、少女にとっての、本当にごく僅かでしかない、楽しい過去の思い出そのものだった。
黒孩子であった自分の中にも、人間としての小さな幸せが、思い出という形で存在していたことが、少女には堪らなく嬉しかった。
少女は、自分のことを、あの日からずっと、この場所で待っていてくれた人の顔を見上げる。
「おかえりなさい」
「先生」が、少女に微笑みかけながら、声をかけてくれた。
少女の中で、今までの様々な思いが溢れ、その微笑みに何も返せない。
言葉に詰まって、ただ、「先生」の顔を見つめることしか出来なかった。
猫の鳴き声が、少女の足元から聞こえた。
三毛猫が、少女の足に頭を擦り付けている。
少女は、しゃがんで三毛猫を撫でようとする。
三毛猫は、撫でようとする少女の手をすり抜け、階段の方に歩き出した。
あの日と同じように
仔猫が、三毛猫の後を走って着いて行く。
少女も、その後ろを歩き出す。
この場所は、あの日と同じように、少女を迎え入れてくれていた。
10年の時を経た再会
この場所を逃げ出してから、10年もの歳月が流れていた。
大切な人達との、いくつもの絆を失ってから
少女は、帰って来ていた。
あの日と同じ場所に
少女は、やっと人間になれた気がした。




