11.蔑み
公園での一日を一人で過ごすことは、少女にとって、初めてのことだった。
「先生」が公園から去った後も、少女は、膝の上に仔猫を乗せたままうつむき続けていた。
膝の上の仔猫は、最初のうち、おとなしく座っていた。
だが、一向に動かない少女に飽きてしまったのか、やがて膝から降りてしまう。
仔猫の行動が、俯き続けていた少女の顔を上げさせる。
少女の視線が、仔猫の後を追う。
仔猫は、少女の方を向いて、また膝に乗って来た。
少女が頭を撫でると、仔猫は、その手に頭をこすりつけて来た。
かまってもらえることが、仔猫には、嬉しくてしょうがないようだ。
まだ母猫に甘えたいはずの仔猫は、少女にそれを見ているのかもしれない。
今の少女には、自分のことを必要としてくれているこの小さな命が、たまらなく愛おしかった。
自分は、一人ではない。
少女は、そんなふうに思っていたかった。
今だけは
まだ左手に持ったままだった、「先生」に渡された画用紙に目を落とす。
それから少女は、膝の上の仔猫に目を移した。
「好きなものの絵を描いてごらん。」
そんな「先生」の言葉を、少女は、思い出していた。
この子の絵を描いてみよう。
そう思った少女は、テーブルの上に画用紙を置いて、膝の上の仔猫を両手で抱き上げた。
少女は、そのまま仔猫をテーブルの上に座らせる。
仔猫は、大人しく座って、少女の顔を見ていた。
少女が頭を撫でると、気持ち良さそうに目をつぶって、喉を鳴らす。
少女は、自分のバッグから、鉛筆と消しゴムを取り出した。
画用紙に鉛筆で下描きを始める。
仔猫は、大人しく座っていた。
それでも時々、退屈なのか少女の手にじゃれついてくる。
そうすると、少女は、仔猫を撫でてやった。
仔猫は、そのたびに目をつぶり気持ち良さそうにしている。
そんなことを繰り返すうちに、座っている仔猫の絵の下描きは、描き上がっていった。
しかし、描き上がる頃には、仔猫はテーブルの上にいることに飽きて、少女が「先生」の置いていった布袋からクレヨンを取り出している間に、東屋から出て行ってしまう。
少女は、下描きに色を塗ることをあきらめ、仔猫の後を追った。
筆記用具をバッグにしまって、持っていく。
今の少女にとって、「先生」にもらったものであり、隣の家の女の子と一緒に絵を描き文字を練習したものである筆記用具は、それ自体が既に単なる物ではなくなっている。
それは、自分の前から去っていった大切な人達との、残された唯一の絆そのものだった。
仔猫は、階段の方に向かっていた。
少女もバッグを左手に持ち、仔猫の後について、階段の方に歩いて行く。
仔猫は、階段の手前で左にまがった。
この公園は土手を利用して造られていた。
土手の上の部分が舗装され、ベンチやテーブルのある東屋が建っている。
仔猫は、その土手の斜面を下り始めた。
斜面には、桜を初めとする様々な木々が植えられていた。
歩いていた仔猫が、一本の桜の木の下で立ち止まり、追っている少女の方を向いて、甘えた声で一声鳴いた。
少女は、仔猫のいる桜の下まで歩いて、しゃがみ込む。
仔猫は、少女の顔を見上げていた。
少女が頭を撫でると、仔猫は気持ち良さそうに目をつぶる。
少女は、仔猫の頭を撫でながら、桜の木を見上げた。
いつもの年なら、4月に入る頃には、桜が満開になって咲き誇っている。
だが、その年は、木々への春の訪れが少しだけ遅れていた。
4月になっても、桜は、蕾を割ることが出来ず、季節は、公園を薄桃色の霞で染めることを拒み続けていた。
桜は、土手の舗装路沿いに植えられている。
そして、東屋の周りにも、桜は植えられていた。
桜達は、時期になると、東屋を取り囲むように咲き競う。
単なる公園のベンチは、花の咲く僅かな間だけ、幻想的な桜の園でいることを許される。
前の年に初めて、少女は、それを見ていた。
少女は、美しいと思った。
少女は、そのときまで、景色というものの美しさを知らないでいた。
少女は、家の外を自由に出歩くことが出来なかった。
少女は、自分の家と、その周りしか知らない存在だった。
少女は、自分の家と、その周りしか知ってはならない存在だった。
少女は、世の中に出て行くことを許されない存在だった。
少女は、黒孩子だった。
そんな少女が、初めて、景色を心から美しいと思った。
少女は、美しい景色というものを見ていた。
少女は、美しい景色というものがあることを知った。
少女は、それを見ていたいと思った。
来年の桜も、その次の年の桜も、ずっと見続けたいと思った。
その年の桜も蕾が膨らみ、間もなく咲くだろう。
少女は、その日を待ち続けている。
前の年の桜が散ってしまってから、ずっと
もう一度、この景色を見ることが出来るのか。
何故か、そんな理由も分からない漠然とした不安が、前の年の満開の桜を見上げて以来、少女の心の中に力強く芽吹いていた。
撫でられていた仔猫の頭が、不意に桜を見上げている少女の手をすり抜ける。
仔猫は、少女の手を離れて、また歩き出した。
少女は、桜を見上げるのをやめ、仔猫の後を追う。
仔猫は、再び斜面を下り始める。
斜面は、人間が下るには勾配が少しきつ過ぎた。
少女は、普通に歩いて行く仔猫の速さに追いついて行けない。
仔猫は、少女が半分も行かないうちに、土手の斜面を下りきってしまった。
土手の横には、1メートル幅ほどの舗装路があり、その先が広場になっている。
広場には、遊具等が設置されていて、小さな駐車場とトイレもあった。
その広場が、子供達のメインの遊び場所だった。
少女が斜面を下りきる頃、仔猫は、もう舗装路を渡り、その広場を歩いていた。
仔猫は、やっと斜面を下りて自分の方に歩いてくる少女のことを、心配でもしているように振り返る。
その姿は、まるで幼い子供が母親が自分について来てくれているかを、自分のそばにいてくれているかを、確認しているかのようだった。
少女は、仔猫のそばに少し速足で歩いて行く。
仔猫は、少女が一緒に歩いてくれることが嬉しいのか、喜びを表現するように少女の足元に頭をこすりつけて来た。
少女は、身をかがめ仔猫の頭と首の周りを撫でる。
仔猫は、動きを止め、目をつぶって気持ち良さそうにしていた。
その日の公園は、静かだった
広場には、いつも何人かの子供達が遊んでいる。
その子供達が、たまにベンチまで来て、少女達と一緒に絵を描いたりしていた。
そして、お昼になると子供達はいつも、ベンチで揃ってお弁当を食べる。
猫達も一緒に
仔猫を撫でていた少女は、いつもと違う、子供達の声のない広場に違和感を覚えた。
早朝のような静けさに少女は、仔猫から顔を上げ、広場の方を見回してみる。
その日、広場には誰もいなかった。
そのとき、その公園にいたのは、少女と猫達だけだった。
少女は、もう一度周りを見回してみる。
やはり、誰もいない。
今日は、誰もベンチに来ないかもしれない。
そんな思いが、少女の孤独を蘇らせる。
一人で食べなければならない昼食は、それをいや増してしまう。
少女は、また、一人になってしまった寂しさを感じ始めている。
満開の桜を見上げて以来抱き続けていた言い知れぬ不安が、確信に変わり始めたとき、仔猫がまた、少 女の足元に体を摺り寄せてきて一声鳴いた。
少女は、足元の仔猫を見る。
仔猫は、少女の顔を見上げたあと、広場の中を歩き始める。
孤独がもたらす悲しみからの、ほんの一瞬だけの逃避行が、少女の幼い心を辛うじて救っていた。
少女は、仔猫の後について再び歩き出す。
仔猫は、公園の出入り口になっている道路の方に向かって歩いていた。
駐車場とトイレは、その道路の脇にある。
その日、少女は、少しも空腹を覚えなかった。
時間は、もう、お昼に近いかもしれない。
思いもかけない辛い出来事の連続が、食に対する欲求を跡形もなく消し去っている。
少女は、歩きながら「先生」の用意してくれたお弁当のことを思い出していた。
昼食を食べることは、その時の少女にとって、とても出来ないことだった。
公園には、少女達以外、誰もいない。
おそらく誰も、ベンチにお昼を食べに来ることはない。
あんなに沢山のお弁当をどうしようと、家まで一人で運べるかを心配していた。
それと、少女は、誰もいないベンチのことが気になり始めていた。
せっかく先生が置いていってくれた物が、無くなってしまわないか心配だった。
少女は、速足で仔猫に追いついた。
そして、身を屈め、歩きながら仔猫の背を撫でる。
仔猫は、歩みを止め、少女の顔を見上げた。
少女は、しゃがんで仔猫の頭や首の回りを撫でながら
「少し、ここで待っててね。」
そう言って、立ち上がった。
仔猫は、少女の言ったことが分かったのか、分からないのか、座って少女の顔を見上げている。
少女は、ベンチに向かって歩き始めた。
ベンチに向かう途中、土手の斜面を登り切ったところで仔猫を振り返る。
仔猫は、大人しく座ったまま、少女を見上げていた。
さっきと何も変わらない。
そう思った少女の視界の片隅には、意識出来ないほどのほんの小さな変化が起こっていた。
そこには、一瞬だけ、黄色い自転車に乗った人の姿が映し出されていた。
少女は、それに気付かない。
大人しくしている仔猫を確認した少女は、ベンチに向かって歩き出した。
蕾の膨らみに薄く彩られた東屋が、再び少女を出迎える。
誰もいなかったベンチには、「先生」の荷物も、描きかけの少女の絵も、そのままの状態で置いてあった。
少女は、どうしようかと悩みながら御弁当を持ってみた。
少女にとっては、とても重い。
しかし、何とか少女にも持ち運べそうな重さだった。
その日の御弁当の中身は、パンのようだ。
少女は、「先生」から貰ったサンドウィッチのことを思い出す。
ハムエッグと共に挟まれた千切りのキャベツが、とてもシャキシャキしていて美味しかったのを覚えている。
普段、食べることが出来ない味が、少女の食への喜びを喚起した。
猫達と一緒になら、お昼を食べることが出来るかもしれない。
そんな思いに少しだけなれた少女の耳に、仔猫の悲鳴のような鳴き声が届いた。
少女は、すぐに御弁当をテーブルに置いて、何も考えずに、ただ、走り出していた。
仔猫の待つ広場に向かって
そこに、何が起こっているのか
少女は、まだ、何も知らない。
そして、自分が誰なのかを、まだ、知らなかった。
転びそうになりながらも、少女は、土手の斜面を駆け降りる。
仔猫は、元の場所から、いなくなっていた。
少女は、仔猫のいた場所から周りを見回してみる。
土手の近くに人の姿があった。
中学生ぐらいの少年が右手に70cmほどの棒を持って、少女に背を向けて立っている。
その少年の先から、危機から身を守るための、必死な威嚇の声が聞こえていた。
仔猫は、威嚇の声をあげながら、少年を睨み上げている。
少年は、右手に持った棒を振り上げ、仔猫に向かって振り下ろした。
少年は、虐待者だった。
仔猫は、右に跳んでそれを躱すと、そのまま走って逃げ出した。
虐待者は、なおも仔猫を追いかけようとする。
「やめてーっ」
そう叫ぶと同時に、少女は、仔猫のもとへと走り出していた。
虐待者は、自分以外の人間が公園にいないと思っていた。
他の人のいるところでは、何も出来ない者
そんな卑劣な虐待者が、驚愕の表情を浮かべて、少女の方を振り向いた。
少女は、少しでも早く仔猫の所に行こうと、虐待者を追い越し走り続ける。
だが仔猫は、虐待者が少女に気をとられている隙に土手を駆け上がり、少女達の前から姿を消していた。
少女は、仔猫が無事に逃げられたことが分かると、走るのをやめた。
「お前、誰だよ」
少女の背に、虐待者が声をかける。
少女は、虐待者の方を振り向きながら少し恐怖を感じ始めていた。
相手は、自分よりもずっと大きく、棒も持っている。
そして少女には、虐待者がとっている残酷な行動が、理解出来ない。
その不可解さが得体の知れない怖さとなって、少女の心を怯えさせる。
「何で、あんなことするの」
少女は、心を克己させ、何とかそれだけを聞いた。
「うるさいな。お前、何だよ。何でここにいるんだよ。」
虐待者は、狼狽していた。
まだ6歳の少女に対して
恐怖が、少女の心を支配する。
言葉は、少女のもとを去っていた。
何も言うことが出来ない少女は、黙ったまま虐待者の目を見ている。
「お前、学校は、どうしたんだ。何で、今の時間に、こんなところにいるんだよ。」
虐待者は、自分しかいないと思っていた公園に、少女がいたことが、よほど嫌なのだろう。同じような言葉を繰り返していた。
虐待者自身が学校に行っていないという事実さえも忘却している。
不登校児
それが、虐待者の正体だった。
卑怯で愚劣で無能な虐待者は、どこでも皆に嫌われていた。
学校では、誰にも相手にされない。
虐待者は、無能ではあるが、どうしようもなく醜い性格の他に、もう一つ持っているものがあった。
それは、その性格と反比例したような意味もなく高いだけの自尊心だ。
その自惚れという名の、高いだけの自尊心が学校に行くことを拒み続けていた。
「おい、何か言えよ。何でここにいるんだよ。」
何も言えない少女に、虐待者の語気が次第に荒くなっていく。
この卑劣な者の虐待の対象とは、人、動物の関係なく、自分より幼い者や弱い者であった。
そして少女は、虐待者よりも遥かに幼く、弱い。
それは、虐待の対象にほかならなかった。
「おい、どうしたんだよ。さっきは、生意気なこと言ってたじゃねえか。何か言ってみろよ。」
そう言いながら、虐待者は、少女に向かって歩き出した。
少女は、怯えて思わず後ずさりする。
少女に向かって歩いていた虐待者の足が急に止まった。
その顔には、薄ら笑いが浮かんでいた。
何か思い当たったことがあるのだろう。
「お前、黒孩子だろう。」
汚らしい薄ら笑いを浮かべながら、虐待者は、言った。
少女には、虐待者の言ったことの意味が分からない。
黒孩子とは何か。
少女は、知らなかった。
ただ、今は、黙っていることしか出来ない。
「こんな時間に公園にいるなんて、お前、黒孩子なんだろ。」
言葉を返さない少女に、虐待者は、なおも繰り返す。
「この公園には、変なじじいがいて、黒孩子を集めて勉強を教えてるらしいな。お前も、その一人なんだろう。」
「先生は、変なじじいなんかじゃない。先生は、とっても優しいし、大学の偉い先生よ。」
虐待者が「先生」のことを言っているらしいことだけは、分かった。大切な人を悪く言われた少女は、反射的に言い返していた。
「何だよ、お前。黒孩子のくせに。生意気だぞ。」
虐待者は、再び狼狽している。
6歳の少女に少し言い返されただけで、虐待者は、まともに会話することさえ出来なくなってしまった。
「お前達、黒孩子は、みんな汚らしいことしてんだろ。しゃべるなよ。きたねえだろ。」
虐待者は、既に追い詰められていた。
自分が、この場に居続けるためには、虐待者が少女よりも強い存在であらねばならない。
強迫観念にも似た強過ぎる思いが、虐待者を支配する。
虐待者にとって、少女が黒孩子であることだけが、追い詰められた自分が相手よりも強い存在でいることの唯一の確証だった。
そんなことが、人の生存の価値を決めるものでは、あり得ない。
しかし虐待者は、幻想の価値観にすがることだけでしか、己の存在意義を意識することが出来なかった。
そして追い詰められた虐待者は、相手を傷つけること以外の、自分を守る術を知らない。
「お前らは、皆、やらしいことしてんだろ。やらしいことして、金を貰ってんだろ。」
「やらしいことなんか、してない。そんなこと、してないもん。」
少女は、激しい口調で罵るように言葉を吐き続ける虐待者に、必死に言い返し否定した。
「何だよ、お前ら。じゃあ、黒孩子のくせに、どうやって金を貰うんだよ。おい、言ってみろよ。お前の親も、どうせ、やらしいことして金を貰ってんだろ。えっ」
「やらしいことなんかしてない。お母さんは、絶対そんなことしてない。」
少女は、涙ぐんでいた。
今まで、こんなにも敵意をむき出しにされたことはない。
こんなにも敵意をむき出しにされる理由など、少女には、なかった。
「お前、売春て知ってるか。金を貰って、やらしいことするんだよ。今日は、公園に誰もいないみたいだな。皆、売春に行ってんじゃないのか。お前も売春するんだ、きっと。あー汚い。」
矢継ぎ早の理不尽な刃が、幼い命の無垢な心に突き立てられていく。
少女は、既に号泣していた。
言葉は、形を成していない。
時々小さく、違う……違う…... 、という呻き声だけが聞こえる。
「何、泣いてんだよ。本当のことを言っただけじゃねえか。」
そう言って虐待者は、棒を左手に持ち替えて、石を幾つか拾った。
「汚いな。どっか行っちゃえよ。」
虐待者は、少女に向かって石を投げつけ始める。
「痛い」
投げられた石の一つが、まともに少女の腹部に当たる。
少女は、しゃがみ込んで、うずくまってしまう。
「なんだ、黒孩子でも痛がるのか。生意気に」
虐待者は、また石を拾って、少女に投げつけた。
「痛い。やめて」
少女は、小さくそう言いながら、持っていたバッグで頭を覆い、体を丸めることしか出来なかった。
虐待者は、黒孩子に対してなら何をしても良いと、親から言われていた。
黒孩子には、戸籍がない。
社会的には、世の中に存在していないことになっている。
つまり、黒孩子は、警察に訴えることが出来ない。
黒孩子とは、絶好の虐待の対象だった。
前触れなく、少女を打つ礫が途絶える。
そのすぐ後、うずくまる少女の耳に、猫の威嚇する声が聞こえた。
少女は、顔を上げ、声のする方を見る。
短い足で力の限り大地を掴む、小さな影がいた。
少女の前に立った仔猫は、体中の毛を逆立てながら、唸り続ける。
まだ幼い暴力へのレジスタンスは、もう一人の仲間のために戻って来たのか。
少女を守るため、虐待者の前に立ちふさがっていた。
戸惑いが、卑賎な行いに束の間の空白を作る。
虐待者には、理解できない。
誰かのために、己の身を危険にさらすことなど
他者のために犠牲になるという概念自体が、生来、欠落していた。
虐待者にとって、自分に理解出来ない者、逆らう者は、皆、敵だった。
仔猫は、敵だった。
石礫の標的が、仔猫に移る。
虐待者は、新たな標的に向かって、無慈悲に石を投げつけた。
だが、それが仔猫を捉えることは、ない。
何度投げてみても、虐待者の放った石は、標的を外れていた。
仔猫は、少女のように無抵抗では、なかった。
虐待者の石礫は、それほど早くないため、野生動物である仔猫には、簡単に避けられてしまう。
本当に幼い人間の子供ぐらいにしか、無能な虐待者の暴力は、通じない。
しかし、それでも虐待者の卑劣さは、終わらなかった。
虐待者が少女を見る。
そして、棒を右手に持ち替えながら、少女に向かって歩き出した。
虐待の対象を、少女に戻したのだろうか。
少女は、虐待者を見ていた。
仔猫は、威嚇の声を上げ続けている。
虐待者の足は、止まらない。
公園に向かう白い車が小さく見えたとき、うずくまる少女の傍らには、唸り続ける仔猫と、悍ましいだけのだけの存在が立っていた。
虐待者が棒を持った右手を振り上げようとしたとき、少女は、うずくまるのをやめ、立ち上がる。
少女は、無抵抗でいることをやめていた。
バッグを前に出して、少しでも身を守ろうとしている。
虐待者は、少女の勢いに押されて後ろに下がってしまう。
まだ6歳の少女の抵抗に、驚愕だけでなく、恐怖さえ感じていた。
短い戸惑いの時間が流れる。
虐待者は、再び右手を振り上げた。
少女は、棒が体に当たらないように身構える。
虐待者が、棒を思い切り振り下ろした。
少女にでは、ない。
棒の軌道は、少女の右に大きく外れていた。
少女の右側には、虐待者に向かって唸り続ける仔猫がいた。
虐待者は、少女を見たまま、脇にいる仔猫を標的にしていたのである。
愚者の卑劣な願いは、幸いにも成就しなかった。
仔猫を見ずに放った一撃は、的を外れ、仔猫は、大きく右に跳んでいた。
虐待者は、追撃しようと仔猫を追いかける。
少女は、仔猫を助けようと、虐待者を追って走り出した。
「やめてっ」
少女は、夢中で叫ぶ。
その叫びに応じるかのように、虐待者が急に立ち止まった。
虐待者の思ってもみない行動がもたらす驚きが、少女の足をも止める。
理解を超えた出来事が、瞬く間に恐怖となって少女を支配し始める。
虐待者が振り向いた。
そして、虐待者を追っていた少女は、間近で、その目を見てしまう。
虐待者の目は、少女を見ていた。
しかし、虐待者の目は、人を見てはいなかった。
生き物としてさえも
物を見る目
それも、汚らわしい物を見る目だった。
世の中から放棄されたゴミに向けられる眼差し
その眼差しが少女の瞳を射抜き、穢れを知らない純粋な心を深く抉りながら、突き刺さっていく。
侮蔑の意味さえ、まだ、知らない。
そんな幼い少女が、激しい憎悪にも似た、穢れた蔑みに晒されている。
このときの少女の中には、恐怖を遥かに超えた、存在の全てを否定されたような、とてつもない大きな悲しみだけが、ただ、在った。
少女は、動けない。
まるで、何ものかに呪縛されているように
その何ものかとは、受け入れきれないほどの大きな悲しみなのか。
それとも、少女自身の運命そのものなのか。
虐待者が、右手を振り上げる。
少女は、虐待者の邪悪な眼差しに居竦まれたように、まだ動かない。
「この汚らしい黒孩子がっ」
吐き捨てるように言いながら、虐待者は、右手を振り下ろした。
バッグと棒とが、激しくぶつかる。
バッグの中で、何かが割れるような音がした。
少女の意志とは関係なく、体が勝手に動いていた。
少女は、手に持っているバッグで、反射的に、その振り下ろされた棒を受けたのである。
それは、防衛本能がもたらす無意識の行動だった。
少女の意識は、まだ、動き始めてしまった自身の悲愴な運命に捕らわれたままだ。
少女を見る虐待者の顔には、薄ら笑いさえ浮かんでいる。
残酷な虐待行為を行うことでしか、無上の喜びを感じられない精神の異常さが、醜汚な狂人の相を創り出していた。
その冷酷さが創りだす醜い邪気が、少女の心と体を凍てつかせる。
邪な喜びの虜が、もう一度、その右手を振り上げ、少女に向かって振り下ろした。
容赦のない一撃が、少女の持つバッグを、また襲う。
何かが壊れる音と共に、強過ぎる衝撃が少女の手からバッグを奪い去っていた。
バッグの中には、母親が苦しい家計をやり繰りして一生懸命に作ってくれた御弁当と、「先生」から貰った大切なノートと筆記用具が入っていた。
そんな大切なもの達が、バッグと一緒に地面に落ちていく。
地に落ちたバッグから、壊れた物同士がぶつかり合う音がする。
その光景が、少女には、いやにゆっくりと感じられた。
その時、少女は、自分のかけがえのない思い出達が、壊されていく音を聞いていた。
バッグを失った少女は、無防備になっていた。
少女を見る虐待者の薄い笑みが、より邪悪になり、濃くなる。
虐待者の右手が、もう一度上がったとき、車が急に停まるときのタイヤが軋む音がした。
右手を上げたまま、虐待者が駐車場の方を見る。
そこには、白いセダンが停まっていた。
セダンの運転席のドアが開く。
そしてそこから、白髪の眼鏡をかけた老人が、急いだ様子で降りてくる。
老人は、「先生」だった。
「何をしてるんだ。」
そう言いながら、少女達の方へ走り出す。
「先生」の声が、少女を残酷な呪縛から解き放つ。
虐待者は、「先生」の姿を見た途端に、自分の自転車の方に走り出している。
少女は、走って来る「先生」を見た。
そして、足元の仔猫を見る。
仔猫は、少女の顔を見上げている。
その仔猫の顔は、心なしか少女のことを心配しているように見えた。
「先生」は、少女のそばまで来て走るのをやめた。
「大丈夫」
息を切らせながら、「先生」がそれだけを聞いた。
少女は、もう一度、「先生」の方を見る。
心配そうな「先生」の顔が更に曇った。
そこには、何の特別な表情も存在していなかった。
少女の顔からは、如何なる感情をも見出すことが出来ない。
全ての感情を奪い去られた、死者の顔が、そこにはある。
唐突に思い知らされた、蔑まれることを余儀なくされる過酷な運命が、少女から全ての感情を奪い去っていた。
少女の目は、本当に「先生」を見ているのだろうか。
虚ろな眼差しだけが、少女の心の痛ましさを伝えてくる。
「先生」は、少女を一人で残して来たことが心配で堪らず、長男の容体を確認してから、すぐに公園に 向かったのである。
車を運転している間中も、胸騒ぎが治まることはなかった。
そして、その胸騒ぎは、現実のものとなってしまっていた。
最悪の形で
「先生」は、落ちているバッグを拾って、少し土を払い、
「はい」
そう言って、少女の前に差し出す。
少女の視線がバッグに移る。
そこには、無残に破壊されてしまった大切な思い出の残骸があった。
もう、戻らない思い出の残骸だけが
面のようだった少女の表情に、少しだけ変化が生まれる。
唇を強く結び、目が潤み始めた。
絶望が生み出す悲しみの感情だけが甦り始める。
少女の視線が「先生」に戻った。
少女は、「先生」に何かを聞きたかった。
少女は、「先生」に何かを言ってほしかった。
少女は、「先生」に何を聞けば良いのか、分からなかった
少女は、「先生」に何を言ってほしいのか、分からなかった
少女は、自分が、今、何をしたいのか、分からなかった。
少女は、自分が、今、何をしてほしいのか、分からなかった
少女は、自分が、一体、誰なのか、分からなくなっていた。
少女は、自分が、一体、何者なのか、分からなくなっていた。
少女は、走り出していた。
公園の出口に向かって
少女は、逃げ出していた。
何も持たずに
何から逃げ出しているのか
それさえ、少女には、分からなかった。




