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作者: 味噌田楽

 いらっしゃいませ。ああ、あなたでしたか。そう言えば今頃この店に来ると言っていましたね。まあ立ち話もなんですからどうぞ奥へ。

 ……ささ、どうぞおかけになって下さい。絵具だらけの店ですがこの客間だけは小綺麗にしてあるのですよ。お茶を淹れましょう。お砂糖、あるいはミルクは必要ですか。必要ない、そうですか。今お湯を沸かしますから少し待っていて下さい。

 ところで、今日は何のためにいらっしゃったのでしたかな。……そうそう、私の半生について話を伺いたいと。どうして私が似顔絵師になったかを知りたいと。そんな箸にも棒にもかからないようなことを知りたがるなんて物好きな方もいたものです。分かりました。お話ししましょう。ただその前に、どうやらお茶の用意ができたようです。

 ……すみませんね、こんな古ぼけたカップしかなくて。ええと、私がどうして似顔絵を飯の種にして暮らすようになったかでしたね。その話は少しばかり長くなりますがよろしいですか。ええ、分かりました。だったらお話ししましょう。


 ――それはざっと四十年ほど前のお話です。その時、私はこの町から少し離れた田舎で暮らしていました。静かで優しい村でした。しかし田舎ですから家と畑、それとわずかばかりの店の他には森や山しかないような何もないようなところでした。それ故に娯楽というものには全く乏しく、冬はなおのことでした。そう、全てはあの冬から始まったのです。

 一人の女性が村にやってきました。放浪の画家を名乗った彼女は冬の間だけ軒を貸してくれる家を探していました。田舎の冬は雪も寒さも厳しくて旅をするには向かないこと、その一方で真白に染められた田舎の冬をカンバスの中に描かずにはいられないというのが理由でした。私と家族が住んでいた家には幸い余裕がありましたから彼女は私たちの家に居候することになりました。

 端正な顔立ち、洒落た衣服、精密な細工の施された道具箱。鄙びた田舎には不釣り合いなことこの上ないほどに美しくい彼女はまるで一つの芸術作品の様でした。しかしその一方でその人柄は明るく誠実で、彼女はすぐに村の若者、男女問わずの憧れの的になりました。

 無論、私も彼女にあこがれた一人でして。正直に言えば彼女は私の初恋でした。冬というのは何もすることのない季節ですから私は他の人たちの隙をついては彼女のもとへ通い詰めました。そして話をしたものです。最近読んだ本のこと、村の祭事、ありふれたお伽噺。彼女は物知りで賢く、どんな話題に対しても熱心に耳を傾け、解釈を述べました。空はなぜ青いのか。かつて私は彼女に尋ねました。すると彼女は答えました。それは水底から生まれた命が遠い故郷に思いはせ、それを不憫に思った神様が遍く命に授けた優しさなのだと。彼女は賢い人でした。

 そして私は彼女の絵を何度も見せてもらったものです。彼女の絵はそれまで私が見てきたものとは全く違うものでした。輪郭はぼやけ、色は滲み、まるで雨ざらしにしたかのようでした。ところが彼女はそんな絵を立派な完成品だと言って誇りにしていたのです。後になって知ったことですが、彼女はいわゆる印象派と呼ばれる人だったのでしょう。とにかく、彼女に恋していた私は彼女とより長く時間を共にするために彼女に絵の先生になってもらいました。私の絵の素養はその時に身に着けたものです。最初は「雨ざらし」にさえ遠く及ばない腕前でしたが彼女と一緒にいるために練習を重ねていくうちに段々と上手くなっていくのを私は感じました。それでも彼女の足元にも及ばぬものだったのですけれどもね。


 しかし楽しい時間はそう長くは続きません。雪原に小さな若葉が芽吹いているのを誰かが見つけました。春です。彼女は言いました。そろそろ行こうかしら、と。彼女のそばには真白な冬の村が描かれたカンバスがありました。僕は何も言わずに頷いただけでした。この田舎を去って欲しくない。ずっと一緒にいて欲しい。私はそう思いましたが、そう言うことはできませんでした。彼女が冬とともに旅立つのははじめから決まっていたことなのですから。

 それから私は彼女に隠れて一枚の絵を描き始めました。今までお世話になった先生へ、教え子としての贈り物です。僕は想像を巡らせて、青々と、瑞々しい春の田舎を描きました。そしてその片隅に一組の男女を描きました。それらが誰であるか。言うまでもないでしょう。とにかく私は彼女が田舎を発つその前に贈り物を描き上げたのでした。

 そして別れの時が来ました。田舎中の人たちが彼女を見送るために集まりました。ある者は彼女の為に歌い、またある者は袋いっぱいの食べ物を彼女に手渡しました。私は大切に包んだ春の絵を彼女に贈りました。そして「さようなら」とだけ言いました。言えなかったのです、それだけしか。うつむき、涙をこらえる私。そんな私を彼女は優しく抱き寄せると子供をあやすかのように私の頭を撫でました。そして言いました。「またね」と。


 それから季節は巡りました。私は彼女のことを考えずにはいられず、畑に種をまくときも、水を撒くときも、作物を刈り入れるさえも彼女は常に私の心の中にありました。特に冬は一段と彼女は私の心を占めていました。私は仕事の間を縫っては絵を描きました。少しでも彼女といた時間を思い出すために。しかし彼女のいた部屋にはもう誰もいません。絵は全く私の心の慰めにはなりませんでした。

 やがて春になりました。私は田舎の風景を絵にしました。カンバスの片隅には女はもういません。ただ、男が一人、寂しげな姿でいるだけです。私は絵を描き上げると、持ち出せるお金と衣服、古びた画材を袋に詰め込むと村を出ました。彼女を訪ねることを決意したのです。幸い私は三男坊でしたから気兼ねはありませんでした。こうして田舎の春から男もいなくなったのです。


 やがて私はある町につきました。そして道行く人々に彼女のことを聞いて回りました。しかし彼女のことを知る人は誰もいません。それでも私は諦めずに彼女について情報を探して回りました。

 あるとき、私の言葉に立ち止まった一人の旅人が私に尋ねました。

「それで、彼女はどんな顔をしていたんだい。」

 私は答えました。端正な顔です。それはまるで精巧な人形のような美しい顔です、と。旅人は呆れたような様子で私にいました。

「いや、どんな目、鼻、口をしていたか。そういうことを俺は聞いているんだよ。」

 私は、私は言葉に詰まりました。言葉に詰まる私を見た旅人は黙って去っていきました。日暮れを告げる鐘の音が遠くで聞こえました。

信じられないかもしれませんが、私は彼女の顔を思い出せなかったのです。理由は簡単。私は彼女の顔をろくに見ていなかったからです。恋焦がれる故、私は彼女の顔を直視することができなかったのです。私の記憶の彼女の顔はあの「雨ざらし」より遥かにぼやけ、滲んでいました。

 私は悲嘆にくれました。悲嘆にくれ、町をさまよい、町と町の間をさすらいました。彼女はどこにもいませんでした。いたとしても見つけることなど不可能でした。それでも私は彼女を探すことをやめられないでいたのです。

 そして私はまた別の町にたどり着きました。木々も色づいた秋のことです。私は街角で一人の年老いた男に出会いました。男は私の身の上話を聞くと言いました。しからば似顔絵師になってはどうか、パズルのように人々の顔の部分を寄せ集めて彼女の顔を再現できるかもしれない、と。彼は似顔絵師でした。私は、言うまでもなく彼の勧めに従い、彼に師事しました。こうして私は似顔絵師になったのです。


 ――それからの話ですか。私は師匠の下で日夜、似顔絵師として働きました。やがて師匠が年老いて死ぬと店を継ぎました。ええ、そうです。その店こそ、この店です。今まで描いてきた顔は幾つに及ぶでしょう。ざっと特徴を言われればどんな顔でもすぐ絵にすることができますよ。ありとあらゆる顔を描くことができます。たった一つ、彼女の顔を除いては。いくら顔の部分を知っていても彼女の顔はいつまで経っても思い出せないのです。きっと私はこうして永遠に彼女のことを思い出せず、かと言って忘れることもできずに死ぬのでしょう。

もしかすると私はあの冬、彼女の顔を一度たりとも見ていなかったのかもしれません。今となっては彼女が本当に存在していたのかさえ、私には答えられる自信がありません。暇を持て余した若者に神様が見せた幻だったのかもしれませんね。


私の話はこれでおしまいです。長くなってしまいましたが、ここまで聴いて下さってありがとうございました。


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