楓の過去
そこは、悪臭と暴力で満たされた貧民街だった。
楓が生まれたのは、南米のとある町。ストリートチルドレン、乞食、ギャングやマフィアが人口の大半を占めるような、そんな町。
灰色の建物に同色の空。弱者は食い物にされるのが当然の環境では、強くなるしかない。
だから、楓は、10歳になる前に人を殺した。
楓を拐い、娼館に売り飛ばそうとしたマフィアの下っ端だった、落ちていたガラスの破片で喉を突いて、肉を刺した感触と、相手の返り血、そして自分の手を切って出た血液と痛みを手に張り付けて幼い楓が思ったことは
(なんだ、こんなもんか。)
だった。そこからはタガが外れた。生きるために殺し続け。殺した相手の仲間に追われ、逃げ続けた。
そんなある日。楓は彼と出会った。
「カルーアファミリーのやつらが騒いでたけど、君がやったの?」
その日、マフィアの追撃から逃れ、路地裏で休んでいた楓に話しかけたのは、金髪をボサボサのウルフカットにした少年だった。
目には、この町の人間にしては珍しく光がともっている。
「だからなんだ?失せろ、童貞も捨ててねーガキが話しかけんじゃねぇ。」
楓が口汚くいい放つ。
気に入らなかった、その目の光が、自分が失ったものを誇示されているようで。
「いや?別に、ただ、凄いなと思って。強いんだね。」
あっけらかんと少年が言う。楓はポカンと呆けたように口を開ける
「…別に、強くはねぇよ……死なないために必死なだけだ。」
弱いからこそ足掻くのだ。楓は強いわけではない。
「そっか。」
少年は特に気にした様子もなく頷いた。そして、
「僕はイヴァン。君は?」
楓に手を差し出してきた。その顔は、あまりに無邪気で、楓はつい答える。
「シェイクハンドか?悪いな。まだあんたのこと知らねぇから。……あー、あたしは名前はない。親は顔も知らねぇし、んなこと気にする暇もなかったからな。」
そう、このころ、楓は楓ではなかった。イヴァンがそれを聞いて一瞬だけ、顔に悲しさを滲ませる。だが、楓がそれに気づく前に微笑みを浮かべて
「僕も、親は顔も知らないよ。でも、妹がいるから。彼女とお互いに名前をつけあったんだ。」
そんなことを言った。
「足手まといを抱えてご苦労なこった。」
多分に、他者との繋がりを持っているイヴァンへの嫉妬があったのだろう。そんな楓の憎まれ口に、彼は怒るでもなく、笑顔を絶やさずに、言う。
「うん、お兄ちゃんは大変なんだ、だからいまさら一人兄妹が増えても問題ないよ。」
その言葉に楓が間抜けな顔を晒す。困惑して、またもやポカンとする。
そこに、止めとばかりにイヴァンが畳み掛ける
「僕の家族になってよ。“カエデ”」
今だから言える。その言葉は、その時行われた”名付け“は、楓にとっての福音で、同時に悪魔の囁きでもあったのだと。
あと数話続きます。