共食い
奥の六帖へのドアを開けた。ふっとローズの香りがした。昨夜のご乱行の跡は物入れへでも押しこんだのだろうが、香水までふってあるとは、ばか男二人にしてはなかなかの気づかいだ。しかしこれでは、とうてい「お部屋の香り」とは言えない。寝こんでいるこの部屋の主、稲盛そのひとなどは、かえって気分が悪くなるのではないだろうか?
稲盛はしっかりと、顎のところまでタオルケットに収まっている。枕元手前に小さな洗面器が置かれていて、そして稲盛自身の額にはきちっと折られたタオルが載せられていた。これを八田がやったのだと思うと、彼には悪いが、少々気持ちが悪い。
ドアを閉め、その枕元に膝を揃えて座った。
稲盛はすーすー寝息を立てている。まず額のタオルを手前の洗面器の水で冷やし、搾って載せなおした。
「やっと逢えた」
そう呟くと、目頭が熱くなった。
八田の様子からとりあえず落ち着いていると推測してはいたのだが、やはりほっとしたのだった。
部屋の四隅に視線をやったが、普通のしっとりとした薄暗がりである。空もそろそろ橙色が退き、夜の紺色を強めている。
なん度かタオルを取り換えているうち、稲盛の瞼が微かに開いた。
「起きた?」
と声をかけたが、まだその両眼はうっすらとしか開いていない。
「包丁が見つからないんだけど、どの段ボール?」
と聴いてみたが、ふたたび瞼が下がってしまった。どうせポテトチップスかカップ麺、せいぜいコンビニのお握りくらいしか食べていないのだろう。
会社ではできるだけパスタなどを出すようにしていたが、このばか男たちの個人生活までは、とても面倒見きれない。
美羽が刃物を求めているのは、料理以外の理由からだ。それで霊を刺すのだ。たしかに霊の影に突き立てた刃は、その気でいなければ空を切り、かえって態勢を崩すことにもなるのだが、念のこめようによっては、それなりの手応えが感じられることもあるのだった。
しかし具体的に「除霊」に取りかかる前に、やはり稲盛には卵酒を飲んでもらおう。そしてぐっすり眠ってもらおう。
それにしてもほんとにひどい部屋だ。鍋さえ出していないようなので、軽くふって当たりをつけ、ダンボール箱を幾つか開けた。
三つめの箱で包丁、鍋、フライパン、そして薬缶にヒットした。つまり薬缶さえ出していなかったわけで、カップ麺などはいったいどうやって食べていたのだろう?
湯呑みなどは出てこなかった。しかたがないので卵酒は茶碗に容れた。
奥の六帖にとってかえすと、タオルを傍らの洗面器の縁にかけ、そっとタオルケットを上げ、肩を揺すった。今度は稲盛も眼を擦りながら、しぶしぶといった感じで上体を起こした。
意外なことに敷布団は、ちゃんとシーツで覆われている。とはいえ彼が倒れるまでは、布団も出さずに雑魚寝していたのだろう。
「稲盛さん、卵酒です。飲んでください」
と言って美羽は、溶き卵状になった卵白をスプーンの上にのせ、差し出す。が、稲盛はアチッなどと言って顔を逸らしてしまう。
しかし美羽には、フーフーして食べさせるなどといった恥ずかしい行為が、自然にできてしまっている。またはっと我にかえれば、きっとその行為の主自身を当惑させることになるのだろうが……。
部屋の右手手前の隅で、闇が微かにその濃さを増した。きたな! と美羽は思った。
フーフーするときのスプーンをあえて稲盛の口近くまで寄せ、その顔に息がかかるような危険な構図を作り出す。
闇が揺れつつ濃くなってゆく。
女の霊? 嫉妬?
美羽は闇の揺らめきのなかに、青白い光のすじが走るのを幻視した。
「早く飲んで。そして眠って」
卵酒もだいぶ冷め、猫舌らしい稲盛も、どんどん卵白を食べられるようになっている。
「ちょっと待ってて」
そう言うと美羽は卵酒の茶碗を置き、洗面器を持って立ち上がった。なかの水を「清い水」に替えてこようというのだ。もっともその「清い水」は、ペットボトルに詰まった天然水にすぎないのだが……。
六帖の部屋に戻ると、右手手前の闇はくっきりした輪郭を持った、黒いアメーバ状のものに変わっていた。そして部屋の右の床半分、奥は窓の下辺りまで、その擬足を伸ばしていた。稲盛は大の字になって寝てしまっていたが、どうやら影は、布団の上には侵入できない様子だ。清潔なシーツが効いているのだ。
洗面器のなかには「清い水」だけでなく、稲盛の額に置かれていたタオルも、先刻キープしておいた包丁も容れてあった。
美羽はまずドアの手前で片膝をつくと、傍らにその洗面器を置き、あえて甘めに搾ったタオルをふりまわした。雫がぴちゃぴちゃ弾け、そして影がしゅーしゅーざわめいた。生臭い霧が闇のなかに浮かび、斑模様を描く。
その上でみたび、影に侵された部屋に入った。頼みの「清い水」の洗面器も、とうぜんしっかり抱えている。
稲盛の枕元でも気にせず片膝をつく。彼がその気になれば、デルタゾーンを覆う二重の布地の前半分を、ばっちりその眼にすることができただろう。彼女もそれを、忘れているわけではない。
ああ! なんでミニなんか穿いてきちゃったんだろう!
しかしそれは敵である影には、かっこうの挑発行為になった。タオルから散った雫に焼かれ、しゅーしゅー生臭い霧を吐き出しながらも、必死に凝集し、なんらかの形をなそうとする。
美羽は長身でそれなりに力もある。
稲盛の上半身を抱き起すと、卵酒の茶碗をその口元にあてがい、さらに頬に指を入れ口を開かせ、一気に流しこんだ。そして静かに横たえると、タオルケットを頭まで被せてしまう。
いよいよ影とのラストバトルだ。
左手にほとんど搾らないタオルを持って、床をばしばし叩く。そうしてできた影の裂けめに足をかけると、今度は右手の包丁を、がつっと突き立てる。生臭い霧が濃くなる。闇がゆらゆら揺れる。しかしどこか、痙攣したような揺れかただった。
がつっ! がつっ!
包丁が床に突き立つ。影が部屋の隅に収縮してゆく。どうやらその濃さを維持するためには、大きさの方を犠牲にしなければならない様子だ。
最後に美羽は、それが染み出てきた部屋の隅に五センチ大にまで縮こまった影に向かい、膝立ちの股をがばっとひらき、両手逆手持ちでふりかぶった包丁を一気にふりおろした。しかしその手には、床よりも軟らかいものを刺し貫いたような感覚が、残る。ひとの腹だろうか? 胸だろうか? あるいは?
闘い終わってもその高揚感、いまだ覚めやらず……。
美羽はそんな感じで、ずっと眠れないでいた。
実はあの卵酒にも、美羽は念をこめていたので、今日の昼すぎまで、稲盛は目覚めないだろう。しかし彼女は、あのあとまず、彼をタオルケットで覆ったまま部屋の灯りを点けてみたのだ。とうぜん床は水浸し、疵だらけ……。下の階への影響も心配だった。
とりあえずタオルを搾り、水だけは拭いておいた。
そして稲盛の頭を、タオルケットから出してやった。よく眠っていた。
ばか男たちは薬缶さえ出していなかったくせに、テレビはしっかり二つも繋いでいた。いや。六帖の方のモニターはPC専用のものなのかもしれない。そう言えば、あのマシーンのことも心配だ。壊れてしまったかもしれない。
美羽はリビングの方のテレビを見ている。見るとはなしにずっと見ている。トイレのドアに背中をあずけ、フレアミニから突き出た脚を、惜しげもなく晒して……。
稲盛が起きてしまうようなことは絶対にないはずだったが、テレビの音は絞ってある。
朝のニュースが始まり、やがて地方のニュースになった。テロップだけでもだいたい内容は解る。
『四一才男。傷害容疑』
ああこれかな? 今朝のニュースには間に合わないかな?
『三八才女性。パート。自宅リビングに倒れているのを、帰宅した夫、発見。病院搬送後死亡確認。体中に無数の痣痕、火傷痕』
やっぱりこれかな?
あの影に最後の一撃を与えた直後、まず臭ったのは堪らない腐敗臭だった。だがその臭いが退いていくなか、ふっとローズが香ったのだ。奥の六帖に入ったとき感じた、あの香りが……。だが、たしかその少し前にも……。そう。あのコンビニのおばさんの匂いだ。
あんなに黒くて強い霊は、絶対死霊だと思っていた。だからローズの香りが一致しても、美羽はそれを意識しなかったのだ。しかし、DVなら……。
それは存在自体を否定される、徹底的な暴力なのだという。
逃げることなんて考えられない。だって私が悪いんだから……。
美羽もかつてはそう思っていた。私ぜんたいが悪なんだ……。そういう最低の感情のなかから、少しでも優しそうな何かに縋ってしまう。たとえば、自分にしか視えないオーラの光などを信じて……。
闘いのあとの高揚感。男を守ったという満足感。そうした感情が鎮まる兆候はなかったが、それと矛盾する虚しさも感じていた。
なんだ、わたし、同類を殺っちゃったんだ……。