コンビニ卵
美羽と三條とがオフィスに取り残される形になった。美羽はドアを背にする定位置をキープしていたが、その他の席はもともと流動的で、向かいの席から三條が言った。
「僕たちも一旦帰ろう。今日はとても、仕事にならないだろう……」
「いえ。部屋片づいたらすぐ連絡くださいって言ってありますから。入居してせいぜい三日ですよね? 五時までなんてかかるはずないんです」
ついつい強い口調になった。そもそも美羽としては、そのままの状態で一度部屋を視ておきたかったのだ。そうしたイライラが言葉の端につのった。
「だいたいAV祭りってなんなんですか? 二人ともいい歳ですよね?」
「あいつら独り者だし。それに竜崎君みたいなイケメンとも違うしな……」
竜崎の名前を潮に、三條がふたたび言った。
「彼には僕から連絡しておくから、とにかく今日は、ここを出よう」
「そうですね。光熱費、バカになんないですもん」
美羽はずっと唇を尖らせている。
オフィスを出しなに三條に言われた。彼にしては長めの話で、廊下もわざわざ、ゆっくり歩いていたような気がする。
「稲盛が隠れ霊感体質だっていう話、僕は信じるよ。それに僕たちはちゃんとした大人になれなかった人種だし、ああいう話をあえてしなければならなかった君の気持ちも、ほかのやつらよりは理解できるつもりだ。……でもね。いや、だからこそかな? 例えば霊感稲盛の無意識の戦略ってのは、あえて気づかないふりをして問題の状況をやりすごそうって話だろ? その点じゃ君の方が、かえって意地になっちゃってるって気がする……。だからその、なんちゅうか、一旦一人になって頭を冷やしてもらいたいんだ。いやその……。結局偉そうな言いかたになっちゃうんだけど……」
かえって意地になっちゃってる?
三條には「いまの稲盛の状況が、これまでのやりかたでは済まなくなっているってことは解る」とも、言ってもらえたのだが……。
自分の部屋に帰り冷水のシャワーを浴びた。しかし、どうしても予想外のところへ想いがいってしまう。
服はどれ着て行こうか?
下着のことまで考えている自分に、思わずはっとなった。その結果が先ほどからつづく、夕陽の駅前での晒し者の状態だった。
バックのなかでスマホが鳴った。周囲の男たちの視線が集まる。胸元でバックをごそごそやっているので、代わりに太腿が男たちの餌食になった。その視線のなか、美羽はふっと溜め息を吐いた。連絡してきたのは八田だったのだ。
『ごめん。美羽ちゃん。迎えにいけなくなった……』
「だいじょうぶです。もともと一人でそっち行けるって、言ってあったじゃないですか。でもわざわざ? まさか、まだ片づいてないんですか?」
『いやその、実は……。稲盛さんが倒れた……』
「ええーっ?」
男たちの視線など吹き飛んでしまった。恥も外聞もなくスマホをどやしつける。
「どうして知らせてくれなかったんですか! スマホはいつでも取れるようにしておくって、言ってあったじゃないですか!」
『うん、ごめん……。武士の情けっちゅうかその……。ヲタには絶対、女の子には見せられないものがあるんだ……』
「カッコつけてる場合か! ばかあああっ!」
美羽を視姦していた男たちが、一斉に硬直した。まるで「だるまさんがころんだ」である。そして肩をいからせ歩き出す彼女に、おずおずと道を開ける。こちらは何か、スペクタクル映画のワンシーンを連想させる。大軍勢をたった一騎、斬り開いて征く。
ついに彼女のイライラは、その沸点を越えたようだ。心のうちの声がダダ洩れになる。
「何がAV祭りだ、ばか! そんなもんの隠し場所は、こっちは端からお見通しなんだ、ばか!」
眼の先にコンビニを捉え、美羽は深呼吸して外見だけでも取り繕おうとした。水が必要だった。ペットボトルの天然水では「除霊」には心許ないが、彼女はほかに、方法を知らなかった。どこかの宗教団体に入りちゃんとした修行を受けようかとも思ったのだが、そもそもどの団体に入ればよいのか、まったく判らなかった。またときがきたらその団体を、自由に抜けさせてくれるのかどうか、そういうことも心配だった。ゆえに霊とは、我流で闘うしかない。恐らく霊感体質を持つ多くの者たちが、そうして生き抜いているのだろう。
コンビニに入り、美羽の一瞬はっとなった。
眼の端を例の黒い影が、よぎったような気がしたのだ。しかしそれは一瞬のことで、すぐにパートのマニュアル通りの挨拶が、チープな安らぎを押しつけてきた。
カウンターには主婦のパートにしては意外に若いおばさんが収まっている。目鼻立ちがくっきりしていて、可愛いらしえくぼがあった。額が広く、頭もよさそうだ。さらに無造作に束ねた髪も、よく見れば腰まで届きそうなほどで、一見地味にしていながらも、女を捨てていないことが明白だった。
今度は美羽自身のオーラの尾が、ちりちりと青白い炎を燃やした。彼女は正直、この手の女が苦手だった。
官能的な美羽の体はさんざん男たちの食い物にされたが、一方その旬が短いことも、彼女自身十分承知しているのだ。またその顔の造作も基本的にファニーフェイスで、この主婦のような美人顔のほうが、歳を取ってからの持ちはいいのだ。となれば、美羽みたいな女を食い物にした男たちが、最終的に家庭に収まるとき、こういう女を選ぶという結果になる。それでは美羽は、まるで噛ませ犬ではないか?
しかしそんなことはおくびにも出さず、営業スマイルには営業スマイルで応じた。
一・五リットルのペットボトルを二本、おばさんはさも重たそうに籠から出し、バーコードリーダーでピッとやった。そのほかに紙パックの日本酒、六個パックの卵などが、ピッピと鳴った。
「なんか珍しい取り合わせね?」
ぷんと甘くローズが香った。近ごろはコンビニにも香水がキツすぎる店員がいる。特にこの手のおばさんの匂いは、男嫌いの美羽には不潔感さえ感じさせる。
ほんとうに男たちに媚びているのは、あなたたちでしょう!
が、おばさんはあくまでにこにこしている。
「卵、潰れちゃわないよう別にしておきますね」
いちいち口にせず黙ってやれよと、心のなかで毒づく。ただし、表面上はスマイルの応酬がつづく。
おばさんのねっとりしたスマイルを背に、コンビニを出た。
問題のアパートは一見なんの変哲もないアパートだったが、霊的に見れば、黒い靄のようなものでくすんでしまっている。やはりよくない建て物だった。
二〇三号室──。
コンビニ袋を床に置き、小さくノックを響かせる。すぐに顔を見せた八田は、お坊ちゃまカットの髪をねとつかせ、頬もぶくぶく浮腫ませている。やはり憔悴しているようだ。しかし容赦なく、重い方のコンビニ袋を手渡す。
「これお願い。別に冷やさなくていいから」
「そっちは?」
「卵とお酒。稲盛さんに卵酒飲んでもらおうと思って。彼、風邪みたいな症状なんでしょ?」
「うん。よく分かるね」
「冷気に捕まるって言いかたあるでしょ? あれって霊的には、ものすごくいい言いかただって思う。悪い霊って、青白くて生臭くて、そして冷たいの……。卵酒、効くと思うよ」
水のコンビニ袋と一緒にリビングの中央にへたりこんでしまった八田を背に、美羽は冷蔵庫を探った。
「やっぱなんもないわね」
パックのまま卵を放りこむ。そしてやや気合いを入れ、リビング中央に向きなおった。ミニなので胡座は掻けない。腰に手を当て、ちょっと偉そうなポーズだ。
「どうせ近所への挨拶もまだなんでしょうけど、とりあえず知ってる範囲で、あやしそうな住人とかは?」
八田が顔を上げたが、美羽の太腿に喰らいつく元気もない。
「二〇一の婆さんがなんか妙に馴れ馴れしいんだけど、でも足はちゃんとあったな。あと顔合せたのは一〇一のおっさんぐらいか……。まあ、感じのいいひとだよ」
そして沈黙が落ちた。しばらくして、八田が言った。
「僕はこれから、どうすれば……」
帰っていいと伝えると、彼は心底、ほっとした様子だった。稲盛が入居する前、八田も竜崎もなん日かここに泊まってみて、その上で何かしら、感じたようなことは言っていたのだ。となれば昨夜のご乱行も、ほんとは怖いのを誤魔化すための、空元気だったのかもしれない。
「ごめんなさい。もっと真剣に君の話、聞いていたらって思っています。でも今日は、どっちかって言うと、稲盛さんのほうが頑固だったって感じで……」
八田は帰り際、美羽に詫びの言葉を残していったが、もう彼女の眼は奥の六帖に釘づけだった。とりあえず、霊気は感じられないようだが……。