霊感体質
もう一つのコンプレックス……。彼女には小さいころから、人々の背後に何かが見えてしまうことがあった。それはときに虹の縞の一色、あるいは二色か三色のグラデーションだったり、金色の後光のようなものだったり、そしてときには稲盛の背中に見たような黒い影のようなものだったりした。
小学校低学年のころ、級友たちと妖怪のアニメを観ていて、子泣き爺のような抱きつき型の妖怪が出てきたとき、思わず、
「あっ! こうゆうのよく見るよね!」
などと言ってしまい、気味悪がられたり、嘘吐き呼ばわりされたり、さらには妖怪の仲間呼ばわりされたりした。
小学校高学年になると彼女の胸はむくむくと膨らんできて、それは男子たちのかっこうのからかいの対象になった。大人たちからの性的虐待もはじまった。特に教師たちからのそれは何かの罰のようにも感じられ、中学校に上がるころには、「私ぜんたいが悪なんだ」と思うようになった。何かが見えてしまうことと一緒に……。
本の世界に逃げこんだ時期もあった。しかしそこも彼女にとって、決して安住の地ではなかった。グラビアアイドルのような体はどう見ても図書室には不似合いだったし、また思春期の読書家たちの多くが手にするSFのジュブナイルには、「エスパー狩り」の話がたくさん出てきた。もちろん本では狩る側が悪なのだが、現実では常に、彼女の方が罰を受けている。あるカルト教団が起こした事件も、その青春に暗い影を落とした。あの教団のメンバーたちは自称「超能力を持った光の戦士」たちで、つまりは彼女の同類たちなのだった。
処女膜は中二の春、暴力教師たちの一人によって裂かれた。数学教師だったか? 体育教師だったか? とにかくバレー部の顧問だった。その教師曰く──。
「心の乱れが胸に出ている」
しかし、男を知ってからだろうか? 彼らが「発情」しているときの光の観察を通じて、以前よりも詳細に、それらを識別できるようになった。赤みが強ければ怒っている。青みが強ければ落ち着いている。つまり、アレを断わってもだいじょうぶ……。ただし、人魂のような青白い光はいけない。それはねちねちした怨みの光だ。彼女自身の眼の端にも、そんな光がちらつくことがあった。そして稲盛の背中にも見た、黒い影……。それらはときに独立した意志を持って動いているかのように見えた。赤ちゃん? そんな影がある級友の肩越しに伸び、ボウタイの辺りを這いまわったりした。その級友は他の級友たちから、「誰とでも寝る女」などと陰口を叩かれていた。
ところで、問題のばかオヤジ。稲盛健夫なのだが……。彼女の見立てでは彼にもその「能力」があるのだった。とはいえご当人はまったくの無自覚──。
「俺、ジャンケンとかめちゃくちゃ弱いんだ。毎度毎度、面倒なこと押しつけられちゃう」
しかしそれは美羽に言わせれば、「生兵法は大怪我の基」、とでも言うべき状態なのだ。たとえば彼が賭け事などして、無意識のうちにその能力を使ったりなどしたら、相手の守護霊の過剰な介入を招いたりもするだろう(ちなみに美羽の霊的知識はネットからの寄せ集めで、彼女自身稲盛の「生兵法」を、とやかく言えるような立場ではないのだが、それはさておき……)。
本人も知らぬ間に雇い止めに遭い、知らぬ間に再雇用されていた稲盛だったが、彼は美羽の対面の席に、ひとまず落ち着くことになった。トコロテン式に押し出された三條は、小さめのデスクをお誕生日席に用意された。三條にはほかにも勤め先があり、ここは彼の夫人が経営するマンション──。つまりは税金対策のような、または名義貸しのような、とにかく実務にはほとんどかかわっていなかったので、小型のデスクで十分なはずだった。ところが稲盛の「在宅勤務」(美羽に言わせれば「引きこもり」……)がつづくと、三條が以前の席に戻ってきてしまい、そしてまたトコロテン式に、まだ若い竜崎が、美羽の前の席にきてしまうのだった。竜崎はこんなオフィスには不似合いなイケメンで、美羽にも自信満々のオーラを送ってくる。それが苦手というほどではないが、とはいえやはり、少々ウザい。
「竜崎さん、近いうちに大庭先生のHPの更新がありますので、その席、空けておいてもらえませんか」
「ああ。美羽ちゃんと稲盛さんの、愛の共同作業ね。ふふっ……」
「変な言いかたしないでください」
しかし、竜崎がそんなふうに揶揄するのも、下司の勘繰りとばかりは言いきれないのだった。稲盛が霊を拾ってくる……。彼女が気にしているのは「そのことだけのはず」なのだが、久しぶりに顔を見せた彼の背中をじっと見詰めてみたり、それだけでなく、とつぜん大きな溜め息を吐いてみたり……。
稲盛とはじめて意識的に会ったあの日、あの日の影は単なる浮遊霊にすぎなかったのだが、それ以後も彼は、さまざまな霊を拾ってきた。そしてときには危険な霊も拾ってくるので、そんなときには頼まれもしないコーヒーを淹れ、彼女なりに念をこめ、出してみたりしたのだった。もしもそれを竜崎たちに見とがめられていたら……。傍から見ればラブ注入だ。
美羽自身混乱していた。
第二次性徴以後の過酷な体験により、基本的には男嫌いだ。まして歳上の男となると、教師たちから受けた性的虐待がフラッシュバックする。スマートな三條ならあるいは、とも思うのだが、稲盛は歳ばかり取ったキモヲタにすぎず、もう一人のキモヲタの八田とともに、このオフィスのファッション・シーンを下げに下げまくっている。
ああ! それなのに!
あのとき(梅雨のはじめのあのとき──)、霊的におかしな部屋に、その稲盛を入居させようという話が進んいたのだ。美羽は机をばんっと叩き、椅子を蹴るように立ち上がった。
「何言ってんですか! 稲盛さんに霊とか関係ないだなんて、それってぜんぜん、真逆じゃないですか!」
三條が仰け反りぎみに、
「美羽ちゃん? どっ、どうしたっ?」
と言うのを無視し、さらに大声でまくし立てた。
「あのひと、隠れ霊感体質なんです! いつもいつも変な霊、拾ってくるんです!」
八田と竜崎はまだ軽口を叩こうとしたが、さすがに三條は何か察したようだ。
「分かった。とりあえず悪かった。でも僕はあいつとは長いつき合いで、あいつってほんと、霊とか免疫なんだよ」
「だからそれは──」
が、美羽がキッと睨みつけているので、三條はどもりながらも、話をつづけるしかない。
「いや、その、例の旧街道の幽霊トンネル、学生時代に行ってみたことがあるんだ。そしたらみんな、そのあといろいろ嫌なことがあって……。僕も自損だったけど事故っちゃったりなんかしてね……。でもその、あいつだけは……」
そこで美羽ははっと我に返った。
やってしまった! それもあんなばかオヤジのために!
恥ずかしやら情けないやら……。とうぜん幼いころ、級友たちにいじめられた苦い経験もフラッシュバックする。涙を隠すためキッチンに走った。
三條はあれでなかなかのリーダーだった。まだ何か言おうする竜崎たちを制し、
「まあ俺たちにはよく分からないけど、美羽ちゃんには美羽ちゃんなりの、理由があるんだよ。……となりゃ、障らぬ神になんとやら、さ」
と言うのが聴こえた。その言葉を背中に受け、大恥は掻いたが辛うじて救われた、と思ったのだが……。稲盛がさっさと、その部屋に荷物を運びこんでしまったという。発端のあの日から数日、月曜朝一のバッドニュースとして、三條が伝えてきた。そして──。
「……たしかに妙な部屋なんだよな。年なん日以上泊まるやつは同居人扱いになるから、家賃半額分払えだとか、それじゃ又貸しんなっちゃうから敷礼もう一回分払えだとか、うちの女房だってもうちょっといろいろ言ってんのに、そういう話は一切なしで、とにかく入ってって感じなんだよ」
玄関で立ち話していると、ドアの向こうから能天気な笑い声が聴こえてきた。稲盛と八田だった。二人ともいつもはお昼ごろにやってきて、夜もだらだらと作業して帰るのだが……。問題の部屋に泊まったのだと、美羽は覚った。
がちゃっとドアが開いた。
そうして入ってきた「稲盛らしいもの」を見るなり、美羽は絶句した。
「……稲盛さん、そっ、それっ……。だいじょうぶなんですか?」
──と言うのが、稲盛の上半身はかんぜんに真っ黒く塗り潰されていて、八田と話す声によって、辛うじて彼だと分かる状態だったのだ。黒い上半身が揺れた。影がぼわっと広がる。こちらへ向き直ったのだろう。声も圧縮しすぎの音声ファイルのように、耳にちくちくした。
「何が?」
「何がって、そんな……。ふつう立ってられないと思うんですけど……。頭痛とか。吐き気とか。……ほんとにだいじょうぶなんですか?」
稲盛が何か応えたようだが、美羽にはもはや、聴きとることはできなかった。その場で三條に早退を申し出て、ただちに問題の部屋へ向かう旨、了承を得た。ところが稲盛に八田まで加わり、それは困ると騒ぎ出した。断片的に聴こえてくるのは、オールナイトのAV祭りがどうしたこうしたという話である。
「そんなこと言ってる場合じゃないんです!」
美羽は大声で繰りかえしたのだが、男たち二人は(特にいまやその部屋の主である稲盛が──)、「そこだけは絶対ゆずれない!」と言い張った。
そして、美羽の通常の退社時刻までに部屋を整理しておく、という話になったのだが……。