ATM
ある日の夕方、私は銀行を訪れた。ATMで金を引き出すためだ。
もう窓口は閉まっていて、ATMと空調のファンの動く音がするだけの室内は町が眠ろうとしているみたいだった。
ATMの操作が終わり、万札を財布にしまおうとすると、隣から弱々しい声が聞こえた。
「すみません」
腰の曲がった老婦人が立っていた。
仕事で健常な社会人ばかり相手にしているせいか、その見るからに弱い姿に驚いてしまった。
「申し訳ありませんが、この機械の使い方を教えていただけませんか? ボケちゃって、何回教えてもらっても忘れちゃうの」
私はまた驚いた。ATMの操作というのは大人であれば日常的に行うものだし、音声案内に従えば誰でもできる簡単な操作だと思っていた。そもそも操作を忘れるという発想が私にはなかった。そういった人もいることを知った。
面倒くさい気はしたもの、私は仕事で身に着けた営業スマイルで了承した。
「お引き出しですか?」
「そう、一万円おろしたいの」
老婦人はまるで少女のような無垢な笑顔で答えた。
私はその小さい体に寄って、パネルの『引き出し』を押した。
「では通帳かキャッシュカード入れてください」
老婦人は手提げからカサコソと小さなケースを取り出し、ATMの横に中身を広げた。異なる銀行の通帳、キャッシュカード。それから数字の並んだメモの切れ端。四桁の数字――暗証番号だ。
気づいたとき、胸の奥の小さな何かが膨張して体を支配していくのを感じた。
――これを奪えば大金が手に入る。居心地の悪い会社ともおさらば。奨学金だって返せる。遊べる――。
私が目の前の大金を見つめている間、老婦人は音声案内に従って操作をしていた。暗証番号を入力するときも隣の私を気にせず、口で数字を確かめながらパネルをタッチしていた。
「ありがとうね。とっても助かりました」
自分の醜い感情に気づいた時には、何事もなく終わっていた。
老婦人はこんな私に丁寧に頭を下げていた。
「途中からなにもしていませんが、どういたしまして」
私は足早に銀行を出た。外の喧騒で自分を隠したかった。
近くのコンビニで缶コーヒーを一本買ってから、喫煙スペースで胸ポケットをまさぐった。今日の朝買った煙草の箱はひらぺったく潰れていた。
(あんなこと考えてしまったなぁ……)
煙草の煙が空に溶けきっても、つまらない感傷は胸にこびりついたまま残った。