トマトとネーブルオレンジ
「トマトかわいい」
シーザーサラダに入っていたミニトマトのヘタを掴んで言うと、隣で焼き鳥を頬張った先輩が、はあ? とドス効かせてそういった。昼間はキマったリクルートスーツ姿の先輩も今はブラウスの第二ボタンまで開放し、胸元がちらっと覗くだらしない格好になっている。いい年した女がよくやる。
「ほら見て下さいよ。真っ赤でツヤツヤ。丸っこくてかわいいじゃないですか」
「くってみ。トマト汁ぷしゃーしてくるから」
俺はそのトマトを口にひょいと投げ入れて、トマト汁がぷしゃーするのを感じて、
「うまい!」
先輩はため息を漏らした。
「何か不満があるんですか?」
グラスの氷が崩れる。居酒屋の喧騒の中でこの音は心地よい。
「お前がトマトフェチだったとはな……」
「なっ! トマトに失礼でしょ、トマトさんはツンデレだけど食うものを拒まない心優しい娘なんですよ?」
つい先程まではネタのつもりだったが、この美味しいトマトを悪く言われたらトマトに情が移ってしまった。ここにきて、トマトは可愛いと本気で思い始めていた。
「だから彼女いない歴=年齢なんだよ。悲しくはないのか」
「俺、嫁ならいっぱいいますよ……。……画面からは出てこないけど…………」
「自分で言って虚しくなるなよ……」
はいはい、俺はどうせ奥手ですよ。二次元の女のことはスムーズに会話できるけど三次元の女の子に話しかけるだけで緊張しますよ。一生童貞ですよ。
「ああ、先輩がこのトマトのような女の子だったらな……」
「ツンデレでもなくて、二次元みたいにお前ラブじゃない女で悪かったな」
先輩はグラスのカクハイ一気飲みし、店員に、お兄ちゃん角ハイおかわり! と元気よく言った。
「先輩こそ、男いるんですか? 人に言える立ち場なんですか?」
「私は……ほら、お前がいるだろ?」
「それ苦し紛れですよね」
「男がいたら、こんな変態に付き合って飲みに行ったりなんかしないよ」
先輩も独り身だった。二人の間に寂しい風が吹き抜けていく気がした。
俺はサラダに乗っかっているトマトを見た。
「トマトって冷蔵庫の中でオレンジと戦ってるんですよ」
先輩がまた、覚めた視線を送ってきた。
「唐突に何? 意味分かんないんだけど」
「まあまあきいてくださいよ」
「ほら、こんな感じですよ――」
トマト『私ったら、いつもサラダとお父さんのツマミにしかならないわ。かなしい……』
オレンジ『今日もお弁当に入ってきまーすw』
トマト『オレンジはいつも子どもたちに美味しそうに食べられて羨ましい』
オレンジ『こどもさん、トマトさん嫌いですからねw いつもお母さんにいやいや食べさせられて、マズイ顔しますもんねw』
トマト『今日もオレンジは綺麗に皮だけ残ってきて……。わたしの存在価値ってなんだろう……』
オレンジ『正直、この家にはありませんよw 畑に戻ったほうがいいっすよw』
「どんだけオレンジに偏見持ってんだよ。……あっ、そのぼんじりいただきっ♪」
「ああっ! 最後の一串!」
俺は先輩に抗議の眼差しを向ける――が、ぼんじりはもう串だけになっていた。先輩は口いっぱいのぼんじりを笑顔で咀嚼していた。もう泣きそうだ。
「すいませーん、ファジーネーブル一つ」
「……もしかして、先輩はオレンジの味方ですか……?」
「あんたがオレンジの話するから、オレンジ味が恋しくなったのよ」
まもなく、ファジーネーブルが到着し先輩は一気にグラスの半分まで減らした。
「飲み過ぎじゃないですか? ベロンベロンになって送ってく俺の身にもなってくださいね?」
らいじょぶ、らいじょぶ、ともう大丈夫じゃない答えが返ってくる。
「オレンジもな、悩みを持ってるんだよ」
やはり先輩はオレンジの肩を持つらしい。
「すこし癪ですが、先輩の言い分を聞いてみましょう」
先輩はほてった顔をパタパタと手で仰いでから、真剣な顔つきで語りだした。
「それでオレンジはイケメンなんだ。トマトが弁当で残されて帰ってきてもオレンジは慰めてくれるんだ。こんな風に――」
トマト『……ただいま、また残されて帰ってきちゃった』
オレンジ『おかえりなさい』
トマト『オレンジ……、おかえりもなにもあなた弁当箱に一緒に入ってるじゃない。……あなたは皮だけの姿だけど』
オレンジ『トマトさん、いやみでは無いですよ』
トマト『そんなの建前でしょ、本音では、私の事いつも残って返ってくる嫌われ者だと思ってるんでしょ!』
オレンジ『トマトさん……、俺はただ、お帰りって言える相手がいて嬉しいんです。トマトさんがいてくれないと弁当箱の中で一人寂しい思いをするんです』
トマト『オレンジ……』
オレンジ『トマトさんには感謝してるんです。いつも寂しい思いをしなくて済むのはトマトさんのおかげだから……』
トマト『ごめんなさい。あなたの苦労も知らないで勝手なことを……』
オレンジ『いいんですよ。トマトさん、その代わり三角コーナーでも僕の話し相手になってくれませんか? トマトさんの愚痴も聞きますよ』
トマト『……わたしで良ければ喜んで!』
「超乙女! 今日の先輩なんだか可愛いですよ? 大丈夫ですか?」
「夢見がちで悪かったな! 仕事のストレスを発散するためにはこういう妄想が効くんだよ!」
「仕事しない上司と頼りない後輩を持った中堅社員は大変だなぁ」
俺は目線をあさっての方向へ投げ、角ハイを一口含んだ。
「頼りない後輩はだれなのかなー? んん?」
先輩がずいっとにやにや顔を寄せてきた。
「さ、さー? 誰でしょうねー?」
「自覚があるんだったら頑張れよ、後輩!」
いきなり背中を叩いてきて冷たい電撃が全身を走った。先輩は座り直して、酔いで視点がおかしい顔に戻った。グラスを両手に。
「なあ、お前ゴールデンウィーク暇だろ」
「何を言わずと知れた事を。いやみですか?」
俺も酔っているらしく少し眠くなって顔を伏せた。
「いや、提案なんだが……」
先輩を見上げると酔っているせいか、赤みがかってちょっと色っぽく見えた。
「うちさ、トマト農家なんだよ」
「え?」
先輩はさらに赤くなって言った。
「……ゴールデンウィーク、うち来ないか? 植え付けの時期で人手がほしいんだ……。……そんなにトマト好きなら、……手伝わせてやるよ……」
いつも毅然としている先輩だが、終始緊張した様子だった。
俺は、
「やったー! 先輩の実家だー!」
飛び起きてバンザイをしてしまった。
「そこはトマトやったー! だろっ! っ~~ちくしょーっ! なんか恥ずかしい」
「楽しみだなぁ~、先輩のアルバム探すの」
「そんなことさせるか!」
調子に乗った俺の頭に先輩がグラスをコツンとした。
「いいか、うちの父親はよそ者には厳しいから、心して望まないと痛い目見るぞ」
先輩は赤くなりながらも、どこかとても嬉しそうだった。
ここ数年、独り家で過ごしてきたゴールデンウィークに、はなまる付きのスケジュールが埋まった。