[79]カエルゲコゲコ三ゲコゲコ
無防備なボクの身体を抉るべく繰り出された鋭い右ストレート。ボクは狭くなる視野の中でその拳を追いかけていた。
まるでスローモーションのような映像体験。これが極度の恐怖と緊張がもたらした錯覚だと理解できる程度には、ボクの意識は研ぎ澄まされていた。一方、武術の心得の無い身体の方はこの理不尽で一方通行な暴力にまるで無力だった。この間合いでは避けるどころか、身構えることさえできないのがもどかしい。
覚悟する猶予すら許さず迫り来る拳。身体にめり込んだ瞬間に訪れるだろう苦痛と恥辱。そんな逃げられない運命にただ絶望したまさにその時。
目前に美しい軌跡が翔けた。突如として目の中に飛び込んできた山吹色。まるで、モノクロームの世界の中に嵌め込まれた鮮やかな色彩。
次の瞬間――あろうことか、目の前にいたはずの男は壁に向かい吹っ飛んでいた。
ボクの脳味噌が今起きたことを理解するのに、まるまる一呼吸分の時間がかかった。
彼女の美しい身のこなしに思わず息を飲むのに、もう一呼吸分。
それは山吹色のイブニングドレスに身を包んだ津島さんだった。華麗な跳び蹴りで男の鳩尾に膝蹴りを喰らわせた彼女と翻るドレス。たなびく黒髪。太ももが露わになるのも躊躇わない彼女の、はだけた白く美しい脚が目に焼き付く。
勢いよく壁に叩きつけられた男は、そのまま崩れ落ちピクリとも動かない。
突然現れた津島さんの姿に見惚れていたのはボクだけでは無かった。ボクの両脇を押さえる男達は『え?』と呆けた声を吐いたっきり、まるで催眠術にかかったかのように身じろぎひとつせず。
静かなる山吹色の雷鳴。圧倒的な戦闘力を伴った美しき戦姫の出現――彼らも同じことを考えていたに違いない。しかし彼女の出現は、この拠り所を失った二人の男にボクとは正反対の運命をもたらすことになった。
津島さんは間をおかず、立て続けに二人の男を回し蹴りで吹っ飛ばした。その流れるような身のこなしに躊躇は無かった。大きく翻され舞い上がったドレスのすそが再び津島さんの美足を覆い隠した時、ここに立っていたのはボクと津島さんだけになっていた。
どうやらボクは津島さんに助けられたらしい。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「あの……」
言いかけた言葉に津島さんが身を硬くする。照れ隠しだろうか、キョロキョロと目を泳がせると、そのまま顔を真っ赤にして俯いてしまった。
おまけにドレスの裾を押さえもじもじしているし……さっきパンツ見えたの、気付いてたのかな? いえいえ、見えちゃったのは不可抗力ですよ? うーん、気まずい。
それにしてもドレスに黒下着というベタな組み合わせじゃ無いのですね津島さん。艶やかなナイトドレスだというのに、あえて地味な桜色をチョイスするとは、なんて清楚な。いえいえ、これはこれでとても良い感じだと思います。良く分かっております。
……って何を考えているんだ。しっかりしろボクの頭。ああっ……こんなシチュエーションでなんて声をかけたらいいんだよ!? こういったのは慣れていないし、それにどうしちゃったんだよ、津島さん!?
頭の中がこんがらかって何も言いだせない。だけどこの沈黙も長くは続かなかった。気まずい静寂を破ったのは彼女の方。
「ごめんなさい、私のせいで……」
その口から消え入りそうな声。よく聞き取れなくてボクの口から疑問符。
「え?」
「本当にごめんなさい。逃げるつもりは無かったの……って……思いっきり逃げちゃったのよね……あああっ! 私ってバカ! バカ! バカ!」
と、そのままポカポカと自分の頭を殴り出す。いや……ポカポカなんて可愛らしいものじゃなくって、かなりの本気殴り。自分で自分を倒しそうな勢いだった。
「ちょっと、どうしちゃったの!?」
思わず津島さんの手首を掴むと、彼女は反射的に身体をこわばらせて。
「きゃああっ! 男、嫌い!!」
「ご、ごめん」
手を離すと胸の前に腕を引っ込めて、おどおどと上目遣い。
そんなしおらしい津島さんはまるでらしく無かった――と思いきや。
「あああっ、またやっちゃった……さっきと同じ。私のバカバカバカ!」
「え?」
再び悶絶する津島さん……それにしてもさっきからボクと津島さん、同じことをループしてない?
「私、なんて恥ずかしい子なの? しっかりしないとだめよ津島深央!」
「は?」
「あああっ、でもやっぱり恥ずかしいところ見られちゃったかしら? どうしよう……」
「え?」
「暴力女と思われたかしら……いえ違うのよ! ピンチの王子様を助けたい一心で私」
「あのう……」
「そう、颯爽と現れたヒロインは敵をバタバタと倒し……って、ちがーーーう! 全然違う、こんなんじゃなくて!」
「…………」
「はっ!? そうだ……魔法を使えば良かったじゃない!? もっと可愛らしく、さり気なく、彼が気付かないように! 何で気が付かなかったの? うわぁぁぁぁっ、私のバカバカバカバカ……」
ええと……かなり故障気味なのでしょうか。
「さっきからどしたの? ねえ、ちょっと……しっかりして?」
「はっ!?」
ようやく我に返る津島さん。よし、今がチャンスだ。
「ありがとう! 助かったよ」
命を助けられたのだからお礼を言わないと。まあ、『命を』だなんて言いだすと大げさかもしれないけど、事実、さっきのボクはその位の恐怖を味わっていた。
そんなボクを救ってくれた津島さんが光り輝く女神様に見えて仕方が無い。感極まったのだろうか、思わず津島さんの手を取り握りしめる――と。
「ふひぃぃぃぃっ!?」
津島さんはそんな意味不明な悲鳴を上げると、顔を真っ赤にした。そのままグルグルと目をまわし――火にかけたケトルがピーという音と共に吐き出す湯気のようなものを、彼女の頭上から見たような気がする――遂に卒倒してしまった。
ここで意識を保っているのは、とうとうボク一人となってしまったらしい……。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「――私としたことが。とんだ粗相を」
「いえいえ、こちらこそ……」
いつしかボクと津島さんは正座で向き合っていた。別に正座でいる必要は無いのだけど、何故か二人して畏まっている。
とにかく困った。どう切り出せばいいのだろう。
ボクが『果無美彌子』だとこうこと、津島さんは知らないし気付かれる訳にもいかない。通りすがりの男子Aを演じ切らなければならないけれど、彼女とはそれこそ毎日顔を合わせている仲。気を付けないと、つい馴れ馴れしい態度が出てしまうみたいだ。このことはさっき、浅見さんからも注意されていた。
偶然再会した正体不明の男子の仮面をかぶったまま、不自然にならない程度に彼女と親しくする――ボクに与えられたミッションは、かなり難易度の高いものらしい。言葉が浮かんでこない。
沈黙は続く。かなり気まずい。とても気まずい――このプレッシャーに耐えられず、無意識のうちに今さっき心の中に浮かんだ単語を口にしていた。
「強いんだ」
女の子に対してちょっと失礼な言葉だったかな? 少し後悔。だけど津島さんは気にしなかったらしい。こんなボクの冷やかしに、彼女は恥ずかしそうに顔を赤らめて答えた。
「淑女の嗜みよ?」少しはにかんだ彼女はすっと立ち上がり「そう言う貴方は、ずいぶんと弱いのね?」
手を差し伸べながら津島さんはからかう様に言った。ボクは、導かれるがまま彼女の手を握り――その瞬間、僅かに身を固くした津島さんだったけれど、今度こそちゃんと――手を引かれて立ち上がる。
「自覚はある、かな?」
とぼけてみせるボクに津島さんは優しげに微笑み、何を思ったのかペコリと頭を下げた。腰まである美しい黒髪が、さらさらと肩を滑り落ちる。思わず見惚れるボクに彼女は気付いていないだろう。津島さんは俯いたままボソリと言った。
「……さっきは本当にごめんなさい」
「ん?」
「こんな思いまでさせてしまって」
顔を上げた彼女の心配そうな視線は、ボクの殴られた頬に向けられていた。
「さっき私が逃げたりしなければ、こんな事にならなかったのに……」
そして津島さんは、まだズキズキと痛む頬に掌をかざした。彼女の体温を感じると共に痛みがすうと抜け、ヒリヒリとした感じや口の中の違和感も消えていく。
「え……どういうこと?」
ニコリと微笑む津島さん。ボクは思わず呟いた。
「ひょっとして魔法?」
「ええ、魔法よ」
「そっか……そうだったね」
「あら、知っているの? 私、魔法が使えること?」
ちょっと自信ありげに、彼女は魔法のステッキを回すような仕草をしていた。もちろん、その手にはロッドはなかったけれど。
「それにしても今日はびっくりすることばかりだよ」
「そうなの?」
「うん。ていうか何で最初からやっつけなかったのさ、さっき……」
あんなに強いのに――と言いかけたボクは思わず声を上げた。
「あれ!? あの男達、何処に行ったの」
いつの間にか三人とも消えていた。主人のいないタキシードだけが三着、床の上に落ちている。
ギョッとして辺りを見回すボクに、津島さんは悪戯っぽく語りかけた。
「言ったでしょ? 私、魔法が使えるのよ?」
「え……」
まさか魔法で存在を消しちゃったとか……それヤバ過ぎない!?
肝っ玉の小さいボクの狼狽を察したのだろうか。彼女は開け放たれたドアの方を指差した。視線を移すと、三匹の大きなカエルがピョコピョコと跳ねていた。どうやら逃げ出そうとしているらしい。
「私ね、悪い魔女なの」
「うわ……カエルにしちゃったの? で、あの三人……ずっとあのまま?」
「まさか。そこまで酷いことはしないわ。三十分もすれば元に戻るから」
「そっか……安心した」
彼らを待ち受けている過酷な試練に溜飲が下がる思いというか、気持ちに整理が付いたというか。これから三十分、ハードなサバイバルだ。
「お仕置きにしてはユル過ぎるかしら?」
「まさか。三人とも、人間に戻った後も精神的に立ち上がるのは難しそうだ」
「その間、誰にも踏まれなければ……ね?」
「あ、あはは……」
少し乾いた笑いを交わすボクら。だけど次の瞬間、ボクの背筋に冷たいものが走る。
「まさか、ボクもカエルになったりしないよね?」
「どうして?」
「だって見ちゃったんだよ!? 君が魔女だってことバレたんだよ? 生き帰してはもらえなさそうなんだけど……」
「そうだったわね……どうしましょう?」
「げ、まじで!?」
不安に駆られたボクは思わず問い返す。津島さんは思案気な表情。でも、その様子を見て逆に安心した。どうやら確信犯らしい。天然ボケモードの津島さんなら、今頃慌てふためいているはずだ。いつの間にか彼女はヒメサユリの君――完璧美少女に戻っていた。
「嘘よ。嘘に決まってるじゃない」
「あはは……良かった。思ったより魔法少女の掟――? って緩いんだ」
「そんなこと無いわ。偉い人からしょっちゅう罰を受けたりお仕置きされているわよ?」
あ、津島さんらしい。つまり、しょっちゅう粗相をしているし今更という訳か。
「……さすがは津島家のご令嬢、大物だね」
呆れ声でそう言った時、彼女の顔が曇った。何がいけなかったのだろう。
だけど、今のボクの言葉が彼女の中で埋もれていた疑問を揺り起こしたのは確からしい。津島さんは、ボクが恐れていた質問を口にした。
「あなた、誰?」
今回少し長め。らしくない展開なので恐る恐る更新です。




