なし(完成品)
序章 アストテラン城壁、領主の責務
今日も今日とて石が積まれる。
今まで幾十、幾百、いや幾千、幾万と積まれたのに、未だに石は積み続けられる。
幾百、幾千の人が汗と血を流し、石を積み続ける。
しかし、そんな徒労とも思しき作業を続ける人々の顔は明るい。
いや、作業をしている人だけではない。
皆、それぞれの仕事をしつつも、その表情は一様に明るく、どこか落ち着きない。
そう、今日のアストテランの城下はどこかそわそわと忙しない、いつもと異なる空気を漂わせていた。
まず石を積んでいる人数が今までよりも少ない。
そして石積みをしていない人々は、何かに備えるようにいつもと異なる行動をしていた。
農民はいつもより早く城壁外の畑へと向かい、食べ頃に成長した野菜を多めに収穫した。
パン屋はいつも焼いているライ麦の黒いパンではなく、めったに焼くことのない高価な小麦の白いパンを焼いていた。
ワイン職人はこの日のために作ったばかりの新鮮なワイン樽を表に出す支度をする。
肉屋はなんと、まだまだ大きくなるであろう子豚を捌いてしまっていた。
そして普段は見かけることのない旅芸人が出し物に使う道具を広場で整理している。
人々は何かを期待するように、石が積まれていくのを見やる。
その視線の中、石を積む人間は先を急ぎ、それに負けじと人々は夜の準備に励んだ。
アストテランの城下に薄い闇の帳が下りていた。
しかし、それを拒むように赤い炎が燃えたぎり、人々の声が響き渡る。
多種多様なレベックのような弦楽器や笛、打楽器の音を背景に人々が陽気に笑う。
あるものは音色に乗るように踊り、あるものはワインをがぶがぶと流し込む。
またあるものは旅芸人のジャグリングに目を奪われ、中には笑いながら殴り合いをしているような者までいる。
そんなかしましくも優しい広場の片隅に身なりのいい青年と子供が現れた。
「おっ! 今日の主役のご登場だ!」
酔い覚ましにか喧騒から少し離れていた大柄な親父がいち早く二人に気付き、大声を上げる。
その声に人々の目は二人へと集中した。
「おー、領主さま! あんた大したもんだ!」
「あんたのおかげで、これからは安心して寝ることができるってもんだ!」
「よっ、フローラントきっての名領主!」
皆、口々に領主を誉めたたえ、拍手を送る。
「そんなに褒めても何もでねーぞ」
出で立ちに合わぬ乱暴な言葉遣いで青年は手を振る。
「祝いの席に何もなしとは……しけた領主さまだな」
とても領主に対するものとは思えぬ暴言を先程の親父が吐いた。
「ふーん、しけた領主なもんで持ってきた酒には限りがある。お前以外の奴から配るとしよう」
「おい! そりゃないぜ!」
大げさに頭を抱える親父に、周囲の者がどっと笑う。領主様よ、俺にもくれよと哀れに手を伸ばす親父に、わかったからその手を引っ込めろと青年は親父の顔を押し返した。
青年が空いている手を挙げると、後ろの家の影から、それぞれに酒樽を抱えた二人が現れる。こちらも青年と子供で、それぞれ先の二人と同じ位の年に見える。こちらの二人も身なりはいいものの、その様相は異なりこちらの二人は革鎧を着ていた。
「ほら、それなりにいい酒だ。みんな心して飲めよ」
青年が言うも、酒に群がる男達の耳に届いているかは怪しい。
「……安酒を買ってくるんだった」
自分を無視する男達の姿にぼやく青年の肩を、こりもしない馴れ馴れしさで親父が掴む。
「まーまー、あんちゃんが飲まなきゃ始まらねえ。頼むぜ」
にやにやと笑いながら、いつの間に汲んできたのか、両手に持った木製のコップの片方を青年に勧めてくる。
「じゃあ、人の話聞けよ」
「わかった、わかった。まずは酒飲んでからな。ほら坊ちゃん達も飲むぞ!」
酒樽に群がる人々に領主と呼ばれる青年と連れ添ってきた少年、酒樽を持ってきた二人も取り込まれていく。
追加された酒に人々の喧しさはなおも増し、場はさらに熱を上げていくのだった。
宴もたけなわ、一体いつになればこの騒ぎは納まるのか。
酔い潰れてその場で寝入っているものがいる。起きているものも顔を赤らめ、足をふらつかせている。しかし、彼らは未だに大きな笑い声を上げていた。
領主と呼ばれていた青年は痛む頭を押さえながら、小休止のために未だ酒を飲み続ける親父達の輪から抜け出していた。ふらふらと落ち着ける場所を探していると、自分が連れてきた少年、自分の息子が机に突っ伏すように倒れているのを見つけた。
「ユーリイ、起きてるか?」
長椅子に倒れこむように座り、領主と呼ばれていた青年は息子の名前を呼ぶ。
「……死んでる」
気持ち悪そうにユーリイは弱々しい声を返した。一応、意識はあるらしい。
「全く……お前は俺の子なのにどうしてこんな酒の弱いガキになっちまったかな」
からかうように話しかける父親にユーリイは反論しようと頭を上げる。そして、ふらふらと危なっかしいがなんとか父親の顔を睨みつけた。
「僕が弱いんじゃなくて、父さん達の飲み方がおかしいんだよ」
頭を押さえながら話すユーリイに、父親はにやっと笑い返す。
「わかってねえな。酒の飲みっぷりがいい男の証明なんだよ」
「……必要もないのにお酒をそんなに飲むのは僕には理解できないよ」
反論しても無駄だと思ったか、それとも頭を動かしたことで酔いが回ったのか。捨て台詞を残しユーリイが再び机に頭をつける。
「やれやれ」
我が子の情けない姿に領主は苦笑する。こいつが将来、自分の跡を継げるのかね、と疑問に思わなくもない。まあ、優秀な騎士もついてることだし何とかなるかと、領主は酒樽を持ってきた少年を見た。その少年は未だに涼しい顔で大人に交じって酒を飲み続けていた。我が子と比べて情けない気分にならなくもないが、ユーリイはユーリイで勉学に優れている。この二人は自分たちのように、いいパートナーになるだろう。
それにこれからの世代に大きな贈り物もできた。領主は遥か先に聳える城壁を見た。今までアストテランの町は頼りない木の柵で守られていただけだったが、これからは違う。今日、城壁は完成した。あの城壁は広くアストテランの町を取り囲み、森のモンスターや、外敵から町をしっかり守ってくれるだろう。
「ユーリイ」
領主が話しかけるも、眠ってしまっているのか、ふてくされているのか。ユーリイは顔を上げない。しかし、構わずに領主は続ける。
「人って凄いと思わないか」
「え?」
思わぬ父親の言葉にユーリイは頭を上げた。
「人は協力することができる。一人で全てのことをできないから、それぞれがそれぞれの役割を果たす。そのおかげで一人で生きるよりもはるかに多くのことを得られる」
酔っているのだろうか? ユーリイはそう考えたが、いつにない父の様子に言葉を止める。そんなユーリイの目を導くように、領主は広場の中央を指差した。
「例えば、農民は小麦を作る。でもそれだけだと小麦を食べることしかできない。だから旅芸人に小麦を渡すことで楽しみをもらっている」
ユーリイの視線の先では仮装した旅芸人の芸を、農民が大きな声を上げて見ていた。
「そして人は物を作ることができる。これは協力することで、信じられぬような大きな物まで作ることができる」
ユーリイは父が指差す、城壁に目を移す。
「例えば今日完成したあの城壁。あれは、ここにいる皆が力を合わせたから作ることができた。多くの人が力を合わせれば、これだけのことができる」
領主はそこで言葉を区切る。息子が考える時間を与えるように。そして大事な話だと理解しているのだろう。まっすぐ自分を見つめ返す息子の目に領主は話を再開する。
「しかし、これだけの力もバラバラに動いては意味がない。誰かが力の行き先を、目的を示す必要があるんだ。それが領主の、俺と、将来のお前の役目だ」
領主は息子の頭に手を置く。ユーリイはその手をいつもより重く感じた。
「ユーリイ、ここは、アストテランは好きか?」
領主は息子に問いかける。ユーリイがその問いへの答えを考えるも、答えるより早く領主は続けた。
「俺はな、好きだ。気候は穏やかで、自然も豊か。何より、ここの人たちは暖かい。余計なことを考えず、自然のままに素直に生きられる」
その時、父はどんな顔をしていたのだろうか? 頭に手を置かれているユーリイにはわからなかった。
「だから俺は領主として、アストテランとみんなを守ってみせる」
いつもと異なる真剣な父親の言葉。
頭に載せられたずしりと重い手の感触が、ユーリイの心の深くに沈んでいった。
第一章 アストテラン復興、戦争前夜
Ⅰ難民問題
コンコン、と執務室にノックの音が響く。
しかし、ノックに答える声はない。では部屋の中に人がいないのかというと違う。わずかに少年の面影を残した年若い――二十歳に届かないだろう、青年が本に顔を落としている。短い金髪とダークグレーの瞳、白い肌は良く言えばインテリな雰囲気を感じさせる。しかし、小さくない背を丸め、嬉々として本を読むその姿はマニアと言った方が近いだろう。
コンコン、再びノックの音がする。
しかし、よほど本に熱中しているのか、本を読む青年の体はぴくりとも動かない。ぱらっ、と静かにページをめくる音がする。
「失礼します」
業を煮やしたか、許可なくノックの主が執務室に入ってくる。
声と気配に、ようやく人に気付いたのか。本に目を落としていた青年が顔を上げる。
青年が上げた視線の先では青年と同じ年の頃の男が顔をしかめていた。顔を歪ませながらも、どこか涼やかさを感じさせるアイスブルーの瞳と線の細い端正な顔立ち、流れる長い金色の髪。その青年は見る者が息を飲むであろう程、美しかった。しかし、その美貌の青年を見た部屋の主はしまったとでもいいそうな様子で顔を歪める。
「ユーリイ様、今日の執務は終わっているのですか?」
美貌の青年が部屋の主、ユーリイ=ノルシュタンにかけたのは問いというには猜疑のこもった質問だった。
「やあ、ユーグ。返事もしてないのに、部屋に入ってくるなんて感心しないな」
苦し紛れに話を逸らすユーリイを、ユーグ=ラスコーは澄んだ青色の瞳で見つめる。
「失礼しました。何度ノックしてもご返事がなかったもので。それで今日の執務の調子はいかがですか?」
形式通りに頭を下げながらも、ユーグは再度尋ねる。
「執務か? うーん、終わったといえば終わったような。うん、そうだな。今日の分は終わったんだったな。うん、終わった終わった」
「そうですか」
言葉では頷きながらも、ユーグはユーリイの執務机に歩み寄る。
「どうしたんだ? 用事があるならそこで言えばいいだろう?」
にじり寄るユーグにひるみながらユーリイが問いかける。
「いえ、大したことではございません」
応えるユーグが執務机の上の書類に目を落とすと、多くの物が、朝ユーグが置いた状態のままで手がつけられた様子がなかった。ユーグが無言でねめつけるとユーリイは観念したように両手を上げた。
「悪かったよ。アストテランの再建で、久しく本をゆっくり読めなかったからつい、ね」
ユーリイの言葉にユーグは仕方ないといった様子で溜息を吐く。欝憤も溜まっていたのだろう。ユーリイは本の虫という言葉がぴったりの人種だ。幼いころから難しそうな本も嬉々として読んでいた。そんな彼が領主になってからのこの一年は、確かに本を読む時間を削って仕事に専心してきた。多少の息抜きは必要だろう。……それでも目を離すと今のように本を読んでいることが多少というには多くあった気もするが。
「お気持ちはわかりますが、執務には支障を来さないでください」
「ああ、わかってるよ。それでユーグ、どうしたんだい? 何か用があってきたんだろう?」
その言葉にユーグは思い出したように姿勢を正す。
「はい、商人のアーリアが来ております。ユーリイ様にたってのお話があるとのことです」
ユーグの報告にユーリイは片眉を上げる。
アーリアは兼ねてからアストテランで様々な取引をしている商人である。ユーリイの父が領主をしていた頃も、彼女の父が伝えてくれた季節により育てる作物を替える新しい農法のおかげで領地の穀物の収穫量が安定して増加したこともある。いずれにせよ会って損のない人物だ。
「わかった」
答えてユーリイは名残惜しげに本を閉じた。
※
「これはユーリイ様、お久しぶりです」
年齢は二十を超えたといったところだろう、美しい長髪の女性商人アーリア=ラステルは膝を床についた姿勢で顔を上げる。
「ああ、久しぶりだ。君が半年ほど前にサファール帝国に行く際、立ち寄って以来だな。向こうの様子はどうだい」
「はい、先年からの内乱が未だ収まる様子も見られない有様です」
サファール帝国は、ここアストテランの東に位置する異教徒の大帝国である。アストテランにとっての本国、フローラントとは、人種・宗教の違い、フローラントの肥沃な土地の支配権争いなどの理由から敵対している。つい一年前まではこのアストテランの地でも戦いが頻発していた。それが昨年のサファール帝国内の内乱とフローラントの他国との戦争によりうやむやに途絶えている。
「そうか。君は無事だったようでなによりだ」
アーリアはそのような中、サファール帝国の領地に商業に出かけていた。他の商人が避けている帝国こそ、埋もれた宝の山であるという豪胆さから。彼女は表向きはおっとりとした大人びた女性であるが、しなやかに異国の商人とも商談を成立させてくるしたたかな商人だ。古くからの顔馴染みであるユーリイは彼女の内面に秘めた男顔負けの強さを知っている。
「ありがたいお言葉です」
「それで何か話があるらしいね?」
前置きもそこそこに、ユーリイは単刀直入に尋ねる。
「はい、いつも通りいくつかの品を取引させて頂きたいのと」
そこでアーリアが躊躇う様な素振りを見せる。
「ユーリイ様にお頼みしたいことがありまして」
いつもは見せぬ歯切れの悪さでアーリアは言った。
「君から頼み事とは珍しいね。いつも必要な物資、様々な情報を提供してくれる君には世話になってる。遠慮ぜすに話してくれ」
ユーリイの言葉に僅か安堵の色を見せたものの、厳しく表情を引き締め直しアーリアは続ける。
「ありがとうございます。その、ユーリイ様にこのようなことをお頼みするのは筋違いだとわかっているのですが……お頼みしたいことというのは、難民の受け入れなのです」
思わぬ要請にユーリイは息を飲み、物言わず傍らに控えていたユーグも顔を強張らせた。
「その難民というのは、まさかサファール帝国の民、アラム人ということかい?」
「はい」
意識して平静を装うユーリイの口調に、アーリアは申し訳なさそうに俯く。
「……何人程かな?」
「およそ百名ほどになります」
その答えにユーリイの表情は隠しきれない陰りを帯びた。
「幾人かは道案内や通訳、護衛ということで私のキャラバンで受け入れようと考えているのですが、さすがにすべてを受け入れることは不可能でして」
ユーリイの顔色を見てとったアーリアは懸命に言葉を繋げる。そんなアーリアを見てユーリイは尋ねる。
「なぜ君がそこまでするんだい? 君にとっては何の益もない話だろう?」
「それは」
アーリアが初めて言葉に詰まる。考えもしなかったというように。俯き、沈思したアーリアは決然と顔を上げ、ユーリイを見据える。
「苦しんでいる者を助けようとするのに理由が必要でしょうか?」
その言葉にユーリイは目を皿にした。
「確かにそうだね」
しばしの後、忍び笑いを漏らしながらユーリイは言った。アーリアはそんなユーリイを呆気にとられて見つめる。やがてユーリイは笑いを納めた。
「まったくいつの世でも若者の向う見ずな正しさは胸を打つね」
年の頃はアーリアよりも若いだろうに、ユーリイは嘯いた。そのユーリイの言葉にアーリアは勢い込む。
「それでは!」
「待ってくれ。かといってむやみに受けられる話でもない。少し時間をもらえるかい? ユーグと話がしたい」
アーリアは肩を落としながらも、受け入れる。
「分かりました、色よい答えを期待しています」
「うん、私もそのように努力してみるよ。別室にお茶でも用意させるからゆっくりと待っていてくれ」
召使いにアーリアを任せると、ユーリイはユーグを伴って一室に移動した。
「さて、ユーグはどう思う?」
席に着くなり開口一番ユーリイは尋ねた。
「正直なところ受け入れるのは難しいかと考えます」
向かいに腰かけたユーグは低い声音で呟く。
「それは難民がアラム人ということと関係しているかい?」
「……当然です。宗教の違いから住民と軋轢を生じることもあるでしょう。また本国も異教徒の受け入れには当然いい顔をしないと思われます」
どこか硬さのあるユーグの答えにユーリイは苦笑をもらす。
「そういう意味で言ったんじゃないことはわかっているだろう?」
「……はい。正直に言えば、心情的な抵抗もあります。ユーリイ様は、大丈夫なのですか?」
「ああ。難民ということであれば、直接の相手ではないだろう。それに戦の中では、父のことも仕方ないことだ。個人を憎むことはできないよ」
「ユーリイ様はお強いですね。私は、まだそこまで割りきれません」
躊躇いなく答えるユーリイにユーグは淡い笑みを浮かべた。
「いや、それも仕方ないことだよ。でもこのこととあのことは分けて考えなきゃいけない」
「……わかっています。けれど、私は感情で否定しているわけではありません。百人もの人間を受け入れられるほど食料にも家屋にも余裕はありません。それに先に述べた問題もあります」
「そうだね。けれど弱き者を助けないというのは騎士道に反さないかい?」
ユーリイの言葉にユーグは苦しげに顔を歪める。
「私とて苦しむものは助けたいと思います。しかしこれからは冬。ただでさえ食料に余裕はなくなります。そうでなくとも、いつ再燃するかも分らぬサファール帝国の進行に備え、食料の備蓄を増やしたいというのに」
「それはそう、だね」
困ったようにユーリイは肘をついて組んだ手に口を当てる。ユーグはユーリイの中で答えが決まっているのを察した。これはユーリイが何かを深く考えるときの癖だ。難民を受け入れなければ、話はそこで終わる。考えを巡らすということは、どうにかして難民を受け入れられないかと思索しているのだろう。
心情として受け入れたくとも、現実的には厳しい。どうにかして受け入れることはできないか。ユーリイは考えていた。しかしいい考えが浮かばない。なので、まずは現状を確認する質問をユーリイは口にする。
「サファールは今、どんな様子だったかな」
「アーリアも話していましたが未だ内乱が収まる様子を見せません。後継者争いから帝国は分裂し、もはや内乱というよりは二国に分かれての戦争といった様子です」
「ふむ。本国はまだノースアイランドとの戦いを終わらせる様子はないのかい?」
「はい。こちらも終わる様子が見えません。フラール地方を取っては取られてのいたちごっこです。長年敵対する彼の国と我が国です。互いに敵国への憎悪が煮えたぎり、停戦の様子は皆無です」
「本国に送った使者に対する返答は?」
「今こちらから引くことはできないと」
「……まずい状況だね」
「そうですね」
ユーリイの言葉を即座に理解したユーグも重く頷く。ユーリイはサファール帝国の再侵攻に備えるために、北方の島国ノースアイランドとの戦争を終結させるように本国に再三要請している。
もともと異教徒との戦争というものは前触れなく、どちらかの自分勝手な侵攻で始まる。終わりも侵攻側が目的を達成するか、何らかの理由で撤退するか、敗北するか。これらのいずれかがなければ終わることはなく、その停戦も一時的なものだ。どちらかが仕掛ければ、また戦争状態となる。
ただでさえ、そのようないつ戦争が起こるかわからない不安定な関係であるのに、現状のサファール帝国とフローラントは未だに戦争状態にある。サファールは内乱、フローラントは他国との紛争、互いが互いの都合で戦争を中断している、ただそれだけの状態なのだ。どちらかが勝利したわけでも、滅んだわけでもない。これは、非常に危うい状況だ。
にもかかわらず、本国の戦争が止む気配は見えない。もし、サファール帝国の内乱が終結し、再侵攻が開始されれば――最悪本国からの援軍が全くないということも考えられる。
「どうしたものだろうね」
嘆息をこぼすユーリイにユーグも言葉がない。いくらか経ち、ユーグが口を開く。
「やはり現状ではできる限り軍備を増強するしかないかと」
「そうだね、こうしてただ悩んでいても仕方ない。できることをできる限りやるしかないな」
そこまで言って、ユーリイの口が急に止まる。そして目を伏せ、沈黙する。そんなユーリイを前に、ユーグはただ沈黙を保った。ユーグはこのような時、ユーリイが頭の中でめまぐるしく思考を深めていることを知っていた。
「ユーグ、難民を受け入れよう」
顔を上げたユーリイが悪だくみを思いついた子供のような笑顔を浮かべる。
「何か考えが浮かばれたのですね?」
突然の宣言にもユーリイを理解し問い返すユーグ。そんな彼に、ユーリイは自身の計画を説明する。
「大変良きお考えかと思います」
計画をすべて聞き終えたユーグは今までの重苦しい空気を一掃するような晴れやかな微笑みを浮かべた。
※
アストテランの城壁の門の外でユーリイは難民達と向かい合った。
「アーリア、通訳を頼むよ」
そう難民の元まで案内をさせたアーリアに頼み、ユーリイは難民に向かって語り始める。
「私がこのアストテランの領主ユーリイだ」
穏やかだが、不思議と通る声でユーリイは話し始めた。これからの自分たちの運命を決める相手を難民たちはすがるような眼差しで見つめている。
「私は君達を受け入れたいと思う」
その宣誓に難民たちが歓喜の声を上げようとする。しかしユーリイはそれを遮る。
「ただし、これには条件がある」
その言葉に難民が落胆と焦りを込めた眼差しをユーリイに向け直す。
「一つ、君達には自身が食べる分を生産するため、壁外の森を開拓してもらいたい」
難民の中から悲鳴が上がる。アストテランの街を囲う壁の外は鬱蒼とした森である。これを切り開くのはいかほどの労力がかかろうか。
またそれ以上の問題がある。森には出来る限り近付かない。これはどこの国でも変わることのない常識だ。森には様々なモンスターが生きている。中には人間を襲うものもいる。事実、今でこそアストテランの城壁からはアスト川までの道が整備されているが、道が整備される以前は、川までの道程でモンスターに襲われたという話もかつてはあった。
「もちろんこれは危険なことだ。けれど、その危険を排除するために、開拓の際には我が騎士団をみんなの護衛として配備しよう」
難民の不安を払うように手を払い、ユーリイが続ける。
「二つ、私達は君達の故国と敵対関係にある。君達には故国と戦う覚悟をしてもらいたい」
ユーリイは自身の言葉が難民に行き届いているのを確かめるように難民を見回す。
「以上の代償として開拓した土地は君達のものだ。また君達には領民に対するのと同じ法を適用する。そして信仰の自由も認める」
難民は言葉を失い、その後に歓喜の叫びをあげる。異教異国の難民である彼らは本来奴隷とされてもおかしくない立場にある。それが自分の土地を持てる。領民と同等の待遇を受けられる。さらに信じがたいことだが、宗教の自由も許される。
「それじゃあ、以上の条件を受け入れて我が領民に加わりたいと思うものは一歩前に出てくれ。受け入れられないものは一歩下がれ」
「その前に確認がしたい!」
ユーリイの前で話を聞いていた浅黒い肌の筋骨隆々とした男が手を挙げる。
「なんだい?」
ユーリイは発言を許す。
「今の言葉に嘘偽りはないか? あんたを、信じていいのか?」
真剣な瞳で男は尋ねる。
「私はこんな状況で嘘はつかないよ。今話したことは私の神に誓って守ろう」
男の瞳に応えるようにユーリイも相手をまっすぐ見返す。
「……分かった、あんたを信じよう」
透き通ったユーリイの瞳に男は頷く。どのみち、男には信じるか、ここを立ち去ることしかできない。ならば、ひとまずはユーリイを信じるしかなかった。
「私こそ信じていいのかい? いざという時、君達が故国でなく私達の味方をしてくれると」
今度はユーリイが問う。
「俺達は故国で生かしてもらえなかったから、難民となった。今更、サファール帝国に敵対することに一分の躊躇いもない!」
強く男は言い切る。
「わかった」
唾でも吐きそうな男の様子にユーリイは男の心情を見た。
「では、我が領民となるか否か」
ユーリイの言葉に全ての難民が一歩前へと足を踏み出した。
Ⅱ壁外開拓
翌日から早速、開拓が開始された。
難民の当座の住居としては城の大広間や空き部屋が解放された。最前線の城として建てられたアストテランの城は堅固で無駄に大きい。
食料は戦時に備えて蓄えられたものが配布された。
難民のうち長旅による疲弊の激しい者は回復までの労役が免除された。
「ユーリイ様」
難民の受け入れ態勢の整備に忙殺されるユーリイをアーリアが呼び止める。
「なんだい、アーリア」
「お忙しいところ申し訳ありません。どうしてもお礼を述べておきたく。この度は誠にありがとうございます」
アーリアは深々と頭を下げる。
「いいよ、今回のことは私が自分で考えて決めたことだ。それに弱いものを助けたいという君の想いは美しくて尊いものだと思うよ」
「それでもお礼を言いたいのです。おそらく他のどの領主もこのような頼みは聞いてくれなかったでしょう」
アーリアの言葉はおそらく正しい。このような厄介事、他の領主は百害あって一利なしと取り合わないだろう。
「そうかもしれないね。ただ私は、何も君のように弱きものを助けるためだけに難民を受け入れたわけじゃない。領主としてそこに利があると判断した上でのことさ」
「それでも、このような高待遇で難民を受け入れる理由にはならないはずです」
そう、ユーリイの理屈でいえば、難民を奴隷としなかった理由にはならない。
「そうだね、そこまで恩義を感じてくれるなら、アーリア」
「はい?」
「私のために働いてくれないかい?」
「それは……」
ユーリイの誘いの意味することにアーリアは口元を手で覆った。
領主お抱えの商人になることは商人にとって一つの夢である。時と場合によって収入が変動し、安定した生活を望めない商人にとって、安定した収入を確保できる領主との関係はこの上なく魅力的なものである。
「商業は今まで通り行ってくれて構わないよ。ただ活動の拠点としてこのアストテランの地を使ってほしいんだ。君のような優秀な商人がもたらす情報はこの戦乱の世では貴重だ。戦に備えて入用なものも多い。それに難民との通訳として君がいないと困るしね」
最後はおどけるようにしてユーリイは笑いかける。
「私にはもったいない言葉です」
アーリアは感激に涙ぐんでいた。
「それでどうかな? 私のために働いてくれるかい?」
アーリアが落ち着くのを待って、ユーリイが確認する。
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
恭しくアーリアはユーリイに頭を下げた。
※
街を囲う城壁の外では騎士団と難民が開拓を進めていた。
門の前からサファール帝国との暗黙の国境線になっているアスト川へと続く道を広げるように両脇の木を切り倒し、根を引き抜き、地を耕す。
「なんで騎士である私がこんなことを」
まだ年若い騎士の一人が不平を洩らす。その騎士は、他の騎士に比べると線が細い。
「そう言うな。これもいい修業になる」
「ユ、ユーグ団長! 失礼しました」
年若い騎士は自分の言葉をたしなめたユーグへと向き直り、頭を下げる。恥じらいからだろうか、その頬は紅潮していた。
「マリヤ、その木を剣で切ってみろ」
ユーグは手で謝罪を制しながら、笑って言う。
マリヤ、その騎士は騎士としては珍しく女性だったのだ。短く切られた髪は少年のようだが、中性的な顔は格好良くもあり、しかし確かに女性的な柔らかさも秘めていた。
「は、はい」
思わぬ課題を課されたマリヤは緊張しながらも目前の木へと向き直る。
団長に恥ずかしくない姿を見せるため精神を統一する。
「やあぁーーー!」
瞬間、マリヤは甲高い掛け声とともに木を上段から斜めに切り下げた。
ガッという鈍い音がして、剣は刀身を木の中に隠す程度に埋まったのみで留まる。
かあっとマリヤの顔の赤みが羞恥に増した。
「恥ずかしがることはない。他の者も大体がその程度だ。剣でこの大木を切るということは相当に難しい」
ユーグは優しく笑ってマリヤを慰める。
「だが、だからこそやりがいがある」
「え?」
ユーグの言葉にマリヤは疑問の声を上げる。
「私が保証しよう。この木を剣で切れるようになった時、お前は今よりはるかに強くなる」
「は、はい!」
マリヤは感激したように返事をすると、躍起になって木に剣を振り下ろし始めた。
周囲にいた幾人かの騎士も今までよりも幾分表情を引き締め木に向き合っている。
「はっは、あんた人を乗せるのがうまいね」
ユーグが愉快そうな声に振り向くと、そこにいたのは難民の前で演説をしたユーリイに質問を投げかけた男だった。
「あなたはこちらの言葉が話せるのか?」
やや驚きながらユーグが問いかける。
「ああ、こっちから連れてこられた奴隷とも話すことがあったんでね」
奴隷の一番簡単な調達方法の一つは敵国の人間を攫うことだ。考えてみれば、サファールに先まで戦争をしていたフローラントの奴隷がいるというのは至極当然のことだった。
「なるほど。私は騎士団長をしているユーグというものだ。あなたのようにこちらの言葉がわかる人がいたのは助かる。これからよろしく頼む」
「俺はアル。気付いたら難民のまとめ役みたいな感じになっちまった。こっちこそよろしくな」
アルはユーグが差し出した手を握り返した。
難民と騎士団による森の開墾は順調に進んだ。
開拓した土地を自分のものにできる難民達の作業への意欲は高かった。
騎士団も団長のユーグが騎士達を励ますことで、作業へ誠実に取り組んだ。
斧などの作業道具は足りてなかったものも、順次アーリアが確保してきた。
また、ある作業に必要な道具がなかったとしても、やる作業は他にいくらでもあった。
木を切る。木の根を抜く。新たに開拓された地を耕す。作物の種をまく。切り倒した木を壁内に運び込む。そしてその木で難民が自分達の住む家や、穀物を保存するための倉庫などを建てる。さらに騎士団は時折現れるモンスターを撃退した。等々、並べ始めたら切りがないほどやることはいくらでもあるのだった。
※
「どうだい、作業のほうは?」
ユーリイが尋ねる。彼の視線の先では騎士団が倒したハールウルフを難民、領民、騎士が入り乱れて調理していた。
「順調です。この分であれば来年には難民も自給自足ができる程度の収穫が期待できそうです」
ユーグが柔らかな顔で答える。
「それなら再来年は」
「はい。ユーリイ様の期待通りかなりの余剰が産まれるでしょう」
収穫のない今でこそ、難民に備蓄食料を供給しなければならない。しかし、新たな作地から収穫が始まれば正当な税で穀物を徴収できる。長い目で見れば、確実に今の投資はプラスになる。さらに戦争の際には兵数は多いに越したことはない。そして難民はサファール帝国のアラム人だ。そんな彼らにしかできないことは多くあるだろう。
「こうなると、もっと人数を増やしたいところですね」
ユーグが呟く。
「そのための手は尽くしてるよ。再びサファールに向かったアーリアには積極的に難民を受け入れるよう頼んでおいた。本国でも騎士、傭兵や鍛冶屋、移民を受け入れるといった旨を周知させているところだ」
「あなたはつくづく」
感嘆したようにユーグは声を漏らす。
「傭兵については、いつ戦乱が始まるかわからない今、重要な戦力だ。だけど、傭兵の中には制御の利かない者たちもいるだろう。そのような相手を抑えるのはユーグ」
「はい、お任せください」
ユーリイの視線を受けたユーグはみなまで言わせることなく首を垂れる。
「私は恵まれているな」
そんなユーグを、続いて領民たちのほうを見やって、ユーリイは呟いた。
顔を上げたユーグは疑問の表情を浮かべる。
「我が国でも有数の騎士である君が仕えてくれている」
ユーグをユーリイは見る。
「領民たちは他宗教の者たちとの壁を越えて接してくれている」
獲物のハールウルフを囲んで夕食の用意をする皆をユーリイは見る。
穏やかに笑むその顔は、かつての彼の父が城壁の完成の宴で浮かべたものとそっくりだった。
「それは領主がユーリイ様、あなただからです」
そんなユーリイにユーグは微笑む。
実際、ここまで来るのは安楽の道ではなかった。当然、難民と元からの領民の間にはいざこいがあった。彼らは浅黒い肌の色から宗教、言語まで何もかも違った。その上、ほんの一年前まで殺し合いをしていた相手の民族なのだ。
アラム人に腕を切られた者がいた。家族を殺された者がいた。
「私はあなたに仕えられて、心から光栄です。領民が分け隔てないのも、何者にも分け隔てなく接しているユーリイ様、あなたを尊敬しているからです」
そんな彼らが少なくとも今は協力して生きている。もちろん、いさかいがなくなったわけではない。しかし、少なくとも大きな問題はなく一緒に生きている。それはユーリイが――誰よりも辛いはずのユーリイが、手本となって難民と接し、領民にも説得を重ねてきたからだ。
「らしくもないな。あまり恥ずかしいことを言わないでくれ」
ユーリイはユーグから目を逸らし、頬をかく。
「今、恥ずかしいことを言ったばかりのユーリイ様に言われたくはありませんね」
そんなユーリイにユーグは苦笑を返す。
そして陰ながら彼らのやり取りを見ていた領民たちは笑みを漏らしていた。
そこには自分達の領主と騎士に対する親愛と信頼があった。
Ⅲ傭兵雇用
難民を受け入れた翌年のアストテランの地には、前線の地として異例なことだが、難民、移民、騎士、傭兵、鍛冶屋等多くの者が移住してきた。
アストテランでの難民の受け入れとその高待遇、更には難民による新耕地での収穫の好調、そして何よりユーリイが発した領民受け入れの布告を聞きつけてのことだ。
その新たな難民・移民には先年の難民に対するものと同じ待遇が適用され、彼らは壁外に広がる広大な森を更に切り開いた。
鍛冶屋は有り余る労働力によって作られた新たな工房で、開拓に必要な作業道具、そして将来の戦乱に備えた武具の製作に追われた。
騎士は本国でも名高いユーグの下で従来の騎士団とともに訓練を受け、錬度を増している。
そして傭兵達は。
「ユーリイ様、ノーマッズ傭兵団の団長が来城しました」
来客を告げるユーグの声がいつもより硬い。
「わかった」
そのいつもと異なるユーグの様子をいぶかしみながらもユーリイは謁見の間へと足を運んだ。
「おう、あんたが噂の領主様か」
謁見の間へと入ったユーリイを迎えたのは髭面親父の慎むことを知らない言葉だった。
主君への親父の言葉遣いにユーグの顔がひくと引き攣る。ユーグの言葉の硬さの理由を悟りユーリイは苦笑を漏らす。
「ああ、私が領主のユーリイだ。あなたは?」
ユーリイは四、五十ほどに見える親父の名を尋ねる。
「俺はノーマッズ傭兵団の団長をやってるオーウィン=ガスツールってもんだ。よろしくな」
オーウィンはユーリイに手を差し出す。
友好的ながらも、とても領主に対するものではないオーウィンの態度にユーグの額に青筋が走った。そんなユーグとオーウィンに再び苦笑しながら、ユーリイは椅子から立ちオーウィンの手を握る。
「こちらこそよろしく頼む」
それを受けオーウィンの陽気な顔に、ほうっとでも呟きそうな感心した様子が浮かぶ。
「それで、まだ戦争は始まってないようだが俺たちは飯を食わせてもらえるのかな?」
どこか挑発的にオーウィンが聞く。
「もちろんだ。いつ戦争がはじまるかわからない今、使える戦力をできる限り常備したい。ただし使える戦力を、だけどね」
ユーリイも挑発的に『使える』という言葉を強調する。
「そこでノーマッズ傭兵団の戦力を聞いてもいいかな?」
続くユーリイの問いかけに、不敵な笑みを浮かべオーウィンは答える。
「数はおおよそ五百。うちほとんどが実践を経験済み。さらに俺を含めた三百人ほどはそれなりに場数も踏んでる。そこらの騎士団とやりあってもいい勝負をすると思うがね」
返答内容にユーリイだけでなく、ユーグも息を飲む。
予想していたよりもはるかに大規模な傭兵団だ。数だけでいえば、増兵したユーグ率いるアストテラン騎士団に匹敵する。こうなると別の問題が重要になってくる。
「あなた達を受け入れるにあたって、いくつか約束をしてもらいたい」
「ふむ、約束できるかはわからんが一先ず内容を聞こうか?」
真剣さを増したユーリイに余裕のままの態度でオーウィンは応じる。
「一、領内でのあらゆる無法行為を禁ずる
二、それを破った場合、私の采配で罰を課す
三、至上命令権は領主である私にある」
根なし草で失うもののない傭兵の中には無法者も多い。そういったものの略奪などを防ぐため規則は明確にしなければならない。
「ふむ、雇い主の命令は絶対と。もちろん出資者の意向は尊重するさ。ただし」
オーウィンの目付きが鋭くなる。
「それが団長である俺の納得できる命令ならだ。そうでない場合は従えないな」
「例えばあなたが納得しない命令とはどのようなものかな?」
威圧を増したオーウィンにひるむことなくユーリイは条件を確認する。
「俺の傭兵団を不当な危険にさらす命令。不当な行使。他にもなくはないが、とりあえずはそんなところだな」
まっとうな主張。存外に話せそうなオーウィンにユーリイはからかうように問う。
「なるほど、不当な危険に行使。あなた達を雇うにあたって、戦時以外何もしない者にただ飯を食わせるほどこの地にも余裕はない。当然、平時も働いてもらうけど、それは不当な行使に当たるのかな?」
「ほう? それはどういった仕事だ?」
オーウィンも面白そうに顎をなでる。
「戦時に備えた罠の敷設」
その言葉に耐えかねたようにオーウィンが大笑する。
「何かおかしいかな?」
にやにやとどこかいやらしい笑みで問うユーリイにオーウィンは手のひらを向ける。
「いや、すまん。まさか貴族様の口から罠なんて言葉が自発的に出るとは思わなくてな」
おかしそうに腹を抱えながらオーウィンは続ける。
「あんたは他の貴族より世間についても自分の領地の状況についてもわかってそうだし、話も通じそうだ。あんたが雇い主なら文句はない。あんたの意向は最大限尊重しよう」
オーウィンはユーリイに対し騎士のように跪いた。
「これからよろしく頼む、雇い主様」
オーウィンのノーマッズ傭兵団はユーリイが想像していたよりも早く領民に溶け込んだ。彼らは団長のオーウィンを中心として、地方の下手な騎士団よりも強く統制がとれていた。与えられた仕事はきちんとこなすし、機密を漏らすこともなかった。
お調子者も多く領民の婦女に声をかけるものも多かったが、それは強引なものではなかった。また罠の敷設に際し、森で大物のモンスターを倒した際は領民とともに祝杯を上げた。そうして彼らは領民とも友好的な関係を築いていった。
Ⅳ内乱終結
ノーマッズ傭兵団がアストテランの地を訪れて三年の月日が流れていた。以前は五千人ほどしかいなかったアストテランの領民は倍の一万人を数えるほどに膨れ上がっていた。開拓を進めた壁外の森では広大な畑から多くの作物が収穫された。壁内の城下も移住してきた人々の住居や新たに開墾された耕地で埋め尽くされつつある。
戦乱の世の最前線にあるにも関わらず、アストテランはかつてないほどの繁栄を見せていた。
「ここにいたんですか」
アストテラン城の庭外れ、代々の領主が眠る墓地で、ユーグが声をかける。
「ああ、ちょっとね」
一番端の墓石の前で膝をついていたユーリイが顔を上げた。そこには前領主、ユーリイの父が眠っている。
五年前、サファール帝国との戦乱で先陣を切ってアストテランを守ろうとして、彼は戦死した。ユーグの父と共に。まだ幼かった二人にはその時、どうすることもできなかった。
「もう、あれから五年も過ぎたのですね」
ユーグの端正な顔に静謐が宿る。彼の言葉にユーグも墓石を静かに見返した。
ざあっ、と物哀しい風が吹いた。乾燥した空気は肌寒く、冬が近付きつつあることを感じさせる。
「もう二度と、あんな思いはしたくない」
ぽつりとユーリイは呟いた。寒さのためか、それとも心から溢れるもののせいか。震えるユーリイの背中を見て、ユーグは思い出す。そうだ、あの時もこんな冷たい風が吹いていた。
戦で二人の父親が死んですぐ、サファールでは内戦が始まった。フローラントは体勢を整えるため、すぐにサファール帝国に攻め込むことはしなかった。その間に本国もノースアイランドとの戦争が始まってしまい、サファールとの戦争はうやむやに途絶えた。子供だったユーグは、怒りの矛先を失い、騎士としての力の向け場を失った。途方に暮れる彼は、この墓地でまだ子供だったユーリイを見た。その時、ユーリイの背は震えていた。
領主になる人間が、そのように弱くてどうするのか!
ユーグは怒りを心に抱いた。しかし悪戯に吹いた風はユーリイの独り言を彼に届けた。『大丈夫だよ、父さん。僕がアストテランを元に戻す。父さんが、僕が好きだった温かい場所に』
その言葉を聞いたユーグは己を恥じた。ただ腐っていた自分に比べ、ユーリイは前を見ている。父を失いながらも先に進もうとしている。その時、ユーグは誓ったのだ。騎士として必ずユーリイを守ると。
「大丈夫だよ、父さん。アストテランは私が守る。だから、安心して見ててくれ」
過去の言葉と重なるユーリイの言葉にユーグは儚げに笑む。父を失った過去の哀愁とユーリイの今の言葉への嬉しさが共にあった。再び風が吹いた。だめだ、この風は過去の想いを運んでくる。それを断ち切るようにユーグは頭を振った。
「ところでユーリイ様、今は何の時間か覚えておいでですか?」
ユーグはユーリイを探していた本来の要件に戻る。
「え? あー、何の時間だったかな?」
とぼけるユーリイ。それを見てユーグは疑わしげに眉をひそめる。
「まさかここにいたのも誤魔化すためではないでしょうね?」
「いや、まさか、そんなわけないじゃないか」
引き攣った笑みを浮かべるユーリイにユーグは確信する。やはり逃げてここに来ていたのだと。先までの思いが台無しである。
「そうですか。それではここでやりましょう」
「ええ? ここではまずいだろ?」
「アストテランを守るんでしょう? お父様に頑張っている姿を見せて安心させてあげてください」
言って、ユーグは木剣をユーリイに投げる。
「それにユーリイ様にはお父様から受け継いだ素質があります。もう少しでいいですから本のみではなく、剣にも力を向けてはどうですか?」
ユーグの言葉にユーリイは顔をしかめる。
「人にはそれぞれに役割というものがある。一人で全てをできれば問題はない。しかし、そんな人間はいない。だから私は私の、領主としての役割を果たす。領主が剣を振るうような事態になったら、それは負け戦だよ。それに剣の役割に関しては君がいれば大丈夫だろう?」
「ユーリイ様……」
信頼の言葉にユーグは感極まる。しかし、はっと首を振る。
「騙されませんよ! それでも何でもできる範囲でできるに越したことはありません! 鍛錬は鍛錬できちんと行ってもらいます!」
「……騙し切れなかったか」
「何か言いましたか?」
ユーグは見る者の背筋を凍らす微笑を浮かべる。そんなユーグにユーリイは慌てて首を振る。
「では、構えてください」
その言葉にユーリイはやれやれとばかりに剣を上げる。その態度に小言を言いたくもなるも、ユーグは黙って自分も剣を上げた。
ピン、と二人の間の空気が冷たく張りつめる。
その緊張感にユーグは笑む。そう、剣に対する熱意こそないものの、ユーリイには間違いなく父親譲りの武の才がある。残念なことにユーリイの興味は極端に本に向いているため、鍛錬はさぼりがちだが、本気で取り組めばかなりの領域まで登り詰められるはずだ。
そんな風に意識を別の方向に向けるユーグと違い、ユーリイには余計なことを考える余裕など無かった。動こうにもユーグには全く隙がなく動けない。意を決し、摺り足で距離を縮めるも、ユーグは微動だにしない。ゆすぶろうと立ち位置を左にずらすも、ユーグは体の向きをユーリイに合わすだけで、その場から動かない。ならばこちらが待ちに徹しようかとも考えるが、そうした瞬間に打ち破られそうだった。
緊張を滲ませるユーリイの頬から汗が滴った。流れた汗が地に落ちる。
瞬間、耐えかねたようにユーリイが踏み出した。
「はああ!」
ユーリイは甲高い掛け声とともに、剣をユーグの左肩口に振り下ろす。
それはとても騎士でもない一介の領主が振るった剣と思えぬほど、鋭く速い。
しかし対するユーグは落ち着き払ったまま、なめらかな足運びで左足を左斜め前に運ぶ。その左足に右足をひきつけユーリイの背側、絶対にユーリイの剣が届かぬセーフティゾーンに身を置くと、据え置くような優しさで愛用の剣をユーリイの喉口にぴたりと当てた。
ユーリイは木剣を手放し、両手を挙げる。
「降参、降参。ユーグに剣で敵うわけがない」
あっさりと負けを認めるユーリイにユーグは溜息を吐く。これでもう少しやる気と負けん気があればいいのだが。
「ユーリイ様!」
突然の叫びがユーグの思考を止めた。見ると緊張を露にしたアーリアが駆け寄ってきていた。
「サファールの内乱が終結しました!」
平和な時間は終わりを告げた。
※
「詳細を話してくれ」
会議室に先の二人、ユーグ、アーリアに加え、ノーマッズ傭兵団団長オーウィン、それぞれ難民と領民のまとめ役アルとコヴァーリが揃ったところでユーリイは口火を切った。
「はい。先ほど話した通りサファールの内乱が終結しました。
サファールは五年前に先王が病没して以来、正当後継者である第一皇子と幼い第五皇子を立てる先王の宰相との間で戦乱が繰り広げられていました。首都を占拠した宰相側に対し、第一皇子は辛くも帝国南方に逃れました。そこで自身の王位継承権の正当性を主張することで、第一皇子側にも多くの諸侯が集まりました。これにより両勢力は拮抗。小競り合いを繰り返しながらも睨み合いの状態が続いていました。
しかし昨年、宰相が病に倒れ、第一皇子が攻勢を強めました。それでも宰相側の抵抗は強く、攻めきれずにいました。
そこに現れたのが奴隷兵の軍を率いるサラーフという男です。彼は国を疲弊させる愚かな王族を排除するという名目を掲げ、主都内で挙兵しました。そして宰相側の軍勢が第一皇子の勢力の対応に出ている隙を突き、宰相と第五皇子の首級を取り、宮殿を占拠しました。そこで声高に先の名目を布告しました。彼は巧みな守城戦で第一皇子の軍勢の攻勢を耐え抜きました。そして布告を行っていた彼の側近が、布告に同調する民と諸侯を引き連れ首都に帰還。宮殿を包囲する第一皇子の軍勢を逆包囲、殲滅しました。
そしてサラーフは一月前にサファール王朝の終焉とサラーフ帝国の建国を宣言しました」
アーリアの報告が終わった会議室の空気は重く沈んだ。
「ユーグ、本国とノースアイランドの戦はどうなってる?」
「近頃は小康状態が続いているものも、未だ終戦の兆しは見えないとのことです」
ユーグの報告に皆の表情が一段と暗くなる。
「アーリア、君はサラーフという男がアストテランに侵攻してくると思うかい?」
「わかりません。内乱の続いていた元サファール帝国の地は荒廃しています。常道でしたら、その復興を優先するでしょう。しかし、サラーフは元奴隷軍の首領という武帝です。フローラントがノースアイランドと戦争状態にあるこの好機に進行してくるとも考えられます」
慎重に意見を述べるアーリアの言葉が終るとオーウィンが口を開いた。
「サラーフという男は十中八九来るぞ」
あまりに確信に満ちたオーウィンの様子にユーリイは疑問を呈す。
「なぜそう思う?」
「俺がサラーフだったらそうするからさ。
サラーフという男、元は奴隷軍の首領だったんだろう? その経歴といま話に聞いた内乱時の戦いぶり。戦機を見る目は暗くないはずだ。
加えてサファール帝国は国土に砂漠も多く、もともとが荒廃した土地だ。だったらそんな土地を復興するよりは、もっと豊かなこのアストテランから略奪するほうが手っ取り早い。
駄目押しをするならフローラントとノースアイランドの戦況だな。小康状態なんだろう? いつ戦争が終わるかわからないなら、戦争をしているうちに背後を突いておきたいって考えるのは至極当然な思考に思えるがね」
オーウィンの言葉は意外なほど理路整然としていた。さらに傭兵団の団長をしている彼はこの中で一番サラーフと立場が似ている。そんな彼の言葉は説得力に満ちているように思えた。
「どちらにしても、だ」
ユーリイは重さを増したように思える口を開く。
「最悪の事態を想定した対応をしておけば、どのような事態にも対応できる。したがって、この場はサラーフ帝国が侵攻してくるものとして対応を考えよう」
ユーリイの言葉に皆が頷き、賛意を示す。
「まずアーリア。君は備蓄されている食料、武具の確認を頼む。サラーフ帝国が侵攻を開始した際にはそのことがすぐ伝わるように連絡網を調えておいてくれ。最後に前に話していた毒物の用意を頼む」
「はい」
「ユーグとオーウィンは、それぞれ騎士団と傭兵団にこのことを伝え、いつでも出陣できる準備を。さらに騎士団は本国への連絡と救援要請。加えて城壁の確認、城壁上に丸太の用意を。傭兵団は罠の確認を頼む」
「はい」「はいよ」
「アルとコヴァーリはこのことを皆に伝えてくれ。そして壁外の畑の持ち主には事前に伝えておいたことを行う可能性があることを言い含めておいてくれ」
「はい」「ああ」
それぞれが覚悟の表情でユーリイの言葉に応じる。ユーリイは静かに立ち上がり、皆を見る。珍しく深呼吸をし、号令をかける。
「それでは各人の働きに期待する」
サファール帝国の内乱終結の事実はほどなく領民にも広まった。領民はその知らせに不安を覚えながらも、平静を装って生活を送るしかなかった。
Ⅴ戦争準備
「王朝も変わり、これまでの活動は無駄になっているかもしれない。それに多大な危険も伴う。それでもやって欲しい」
重々しくユーリイは頼みこんだ。
「頭を上げてください。わかっています、このような時に備えて今まで動いてきたんです。ここで止めては全てが無駄になってしまいます」
頭を下げられたアーリアは慈母の様に優しく笑む。
「大丈夫、これまでもずっと商売をしてきたんです。帝国内にも頼れる人は一杯いるんですよ? それにアルさんもいてくださいますから」
「……ああ」
そう話を振られたアルはどこか曖昧に頷く。しかし、戦支度に追われるユーリイも、そんなユーリイを気遣うアーリアも、そんなアルの異常には気付かなかった。
「そうか、助かるよ。それでは明日にでも向かってほしい。事は一刻を争う」
「わかりました」
請け負うアーリアに頷き、ユーリイは二人の前を歩み去る。
物資や各種通路、城壁の確認、城壁上への必要物資の運送、民兵の調練。やることはいくらでもある。
ユーリイが城前の広場に出ると、そこでは民衆の練兵が行われていた。
「弓構え! ……撃てーーー!!!」
コヴァーリの号令で一列目に並んだ民兵が的に向かって矢を放つ。一列目が下がり、二列目と入れ替わる。
「よし、休憩だ! 矢を回収しておけ!」
そこでユーリイの姿を見つけたコヴァーリが、教練を止める。
「おう、あんちゃん! 様子を見に来たのか?」
コヴァーリは片手を上げて気楽にユーリイに話しかける。
「ああ、調子はどうだい?」
ユーリイも年長のコヴァーリに軽く返す。領主と領民という関係性と思えぬ言葉の応酬だが、それは二人の仲が気の置けないものだからだ。コヴァーリは悪く言えば馴れ馴れしいおっさんだが、面倒見の良さとその人柄から領民のまとめ役になっている。そして、それは彼の父も同じであり、前領主、ユーリイの父とコヴァーリの父も親しい間柄だった。それゆえにユーリイは幼いころからコヴァーリと親交がある。ユーリイにとってコヴァーリは兄のような存在だった。
「がっはっは! 見ての通り絶好調よ!」
ユーリイの背中をばしばしと叩くコヴァーリ。訂正である、ユーリイにとっては兄というよりは親戚のおっさんのような存在だった。
「それは良かった」
背中の鈍い痛みに顔をしかめながらも、ユーリイは矢の的を見る。流石に騎士団のように全てが的に当たるというわけにはいかないものの、的の周辺へと多くの矢は集まっている。……中には大きく狙いを外している矢もあるが。
「元々ここに住んでたやつは五年前に戦を経験してるからな。そこまで心配いらんだろう。問題があるとすれば、難民や移住してきた新しい奴らだろうな」
コヴァーリはまじめな顔になり、まとめ役らしい意見を話す。
「……そうだね。まあ、そのための練兵だ。本番までにできる限りのことは頼むよ」
「任せとけ」
にかっ、と人のいい笑顔を見せるコヴァーリにユーリイは頷く。
「それじゃあ引き続き頼む」
「おいおい、もう行くのかよ」
そのまま去ろうとするユーリイをコヴァーリは呼び止めた。
「ああ、やることが山積みでね」
苦笑するユーリイにコヴァーリは顔を寄せる。
「今日の夜は月一の会合がある。みんなに顔を見せて安心させてやれ」
「そうしたいのはやまやまだけど、領主としての役目がね」
呟くユーリイの頭をコヴァーリがわしわしと撫でる。
「わかってるさ。俺の役目はみんなをまとめる村長みてえなもんだ。そして、お前の役割はみんなを導く王様だ。ただ、足元に目を向けなきゃ下が付いてこねえぜ」
がさつなコヴァーリから出たとは思えない意外な指摘にユーリイは目を瞬かせる。
「それにそう根つめてちゃ息持たねえぞ。自分の役割を果たすのは立派だが、たまには別のことをしてみるのもいい息抜きになるぜ。勉強にもなるしな」
にっと笑顔を向けて、年長者らしい助言をコヴァーリはした。
「……そうだね。わかった、行くようにするよ」
「おう、たんまり酒を用意して待ってるぜ」
「ひ、控え目に頼むよ」
顔を引き攣らせるユーリイにコヴァーリは苦笑する。
「やれやれ、前の領主様に似て飲める口なら良かったのにな」
「酒に弱くて悪かったな。でもあんなものを沢山飲めたってなんの役にも立たない」
この点に関しては思うところがあるのか、ユーリイは憮然と反論する。
「わかってねえなぁ。酒の飲みっぷりがいい男の証なんだよ」
「どこかで聞いたセリフだな」
顔をしかめるユーリイの背を、コヴァーリがまたもやどやす。
「まあ、重要なのは気持ちを示すことだ。飲めなくてもいいからちゃんと来いよ」
「いちいち叩かないでくれ。わかったよ、ちゃんと行くさ」
苦笑しながらユーリイは約束するのだった。
Interlude
【サラーフ帝国西方の街、エフサハーン郊外】
アストテランが臨戦態勢に入って一月後。
アーリアとアルはサファール帝国、いや今やサラーフ帝国となった地に踏み行っていた。帝国の外れの街エフサハーンの路地裏で二人は約束の相手と落ち合った。
「ああ、アーリアさん。お久しぶりですね」
恰幅のいい中年のサラーフ商人が顔を緩ませる。
「お久しぶりです、イラームさん。……少しお痩せになりましたか?」
商人の体型からすれば嫌味かとも取れるアーリアの言葉だが、そうではない。その体付きに似つかわしくないことに、彼の顔はやつれていた。以前は体に似つかわしく、顔もふくよかだったというのに。
「いやはや、新しい皇帝様に少なからず特別徴収をされましてね。それに国内の治安もまだ良くない。気疲れもするというものです」
乾いた笑みを貼り付け商人は愚痴をこぼす。
「それは災難でしたね」
アーリアは商人を気遣うように声を落とす。
「はは、本当ですよ」
商人は肩を落とし、苦笑する。
「特別徴収って何だ?」
アルが口を挟んだ。
「なんでも皇帝の親征の資金作りとのことですよ。まだ国内も落ち着いてないというのに」
商人は理解できないといったように頭を振る。
「そういえばアーリアさん。あなたはアストテランを中心に活動しているのでしたね?」
商人はアーリアに顔を近づけ、声を落とす。
「はい、そうですが」
アーリアも商人に合わせ、声を潜めた。
「悪いことは言いません。すぐに荷物をまとめてフローラントの奥地までお逃げなさい。親征の最初の目標がアストテランです」
商人の言葉にアーリアは息を飲む。が、すぐに顔を引き締める。予想はできていたことだ。帝国がフローラントを攻めようとするのならば、まずアストテランが標的となるのは自然なことなのだから。
「あれは……何だ?」
遥か先で荷を運ぶ人足を見るアルが、唐突に呟いた。
「アルさんは見慣れているでしょう? 奴隷ですよ」
商人は何を当然のことを聞いているのだと、首を傾げる。
「今度の皇帝は奴隷軍の首領だったんじゃないのか?」
「そうですよ?」
「では、あの奴隷は何なんだ?」
「決まっているでしょう。元サファール帝国の貴族など、サラーフ様に歯向かった者たちですよ」
呆れたように商人は答える。しかし答えを聞いてもアルに納得の色はない。
「そんなことよりイラームさん。早速ですがお取引をさせていただけますか?」
悄然と言葉を失うアルを見たアーリアは、商人に持ち掛ける。
「おお、そうですね。今、フローラントの商品は貴重です。いい取引をさせていただきますよ」
商人らしい満面の作り笑顔でイラームはアーリアへと向き直った。
二人が商談を進める間もアルは奴隷から目を離せなかった。アルの周りのかつて共にアストテランへと逃れた難民も同様に茫然と奴隷を見ていた。
よっぽど酷使されているのだろう。奴隷の足元はおぼつかず、中には足から崩れ落ちる者もいる。そのような者には容赦なく鞭がとんでいた。中にはそのような奴隷仲間に目を向ける奴隷もいるが、多くの者は見向きもせず作業を続ける。その瞳は虚ろで何も映していないようだった。
――何も、変わってないじゃないか。
奴隷を見つめるアル達の頭の中は真っ白になっていた。
「ありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ久しぶりにいい取引をさせていただきました」
アル達は、どれほど我を失っていたのだろうか。いつの間にか商談は終わったらしい。商人はやつれた頬に赤みを帯びせ、ほくほく顔を浮かべていた。
「アーリアさんとの取引は実にいい。これからも続けさせていただきたいものですな」
「こちらこそ今後もイラームさんとのご縁を大事にさせていただきたいですわ」
商人は笑顔でアーリアの頭にサラーフ製のスカーフを被せる。
「ですので、もう一つ私からの忠告です。早く帝国から出た方がいい。今の帝国は略奪が横行しています。なにせ国王が自らを掠奪王と豪語するほどですからね。加えて軍も戦費を必要としている。貴方のような敵国の商人など絶好のカモです」
「……それは怖いですね。早々に立ち去らせてもらうとしますわ」
「そう、それがいいですな」
商人はアーリアから顔を離し、笑顔で頷く。
「私も軍に見つかって、妙ないちゃもんをつけられる前に商品を倉庫に入れるとします。旅のご無事をお祈りしていますよ」
「はい、イラームさんもお気をつけて」
そそくさと立ち去る商人にアーリアはひらひらと手を振る。そして商人が十分に離れた所でアルに声をかける。
「どうかされたんですか?」
いまだに奴隷を見つめていたアルはぽつりぽつりと語り始める。
「俺は奴隷軍の首領がサファール帝国を滅ぼしたと聞いて嬉しかったんだ。俺も元はサファールに奴隷としてこき使われてたんだからな」
アーリアは目を見張る。そうだ、アル達の立場からすればサラーフ帝国は最早敵対するものではなくなってしまっている。
「だから正直、迷っていた。俺は、俺達は、どうすればいいのか。恩義のあるアストテランの為に戦うべきか、自分と同じ元奴隷のサラーフ帝国に合流すべきか」
危機感を覚えるアーリアに目も向けずアルは遠い目で語り続ける。
「でもこの光景を見て、そんなことはわからなくなった。俺達を奴隷にしてた奴等が、今度は逆に自分達が奴隷にされてる」
ぎりぎりと歯を噛み締めていたかと思うと、ハッとアルは嘲笑した。
「ざまあみろだ! 因果応報さ! そりゃそうだろ? 今まで自分達がしてきたことだ。やり返されて当然だ!」
叫んで荒い息をつきながらも、アルの顔は晴れない。そんなアルが何を言おうとしているのか。アーリアはただ黙って続く言葉を待つ。
「そう、これは当然の報いだ。――なのに、そのはずなのに、なんでこんな気持ちになるんだ。どうしてこんなにもやもやするんだ。どうして、こんなに胸がうずくんだ」
アルは俯かせた顔を上げ、再びで奴隷を見た。
「……俺達が見たかったのはこんなのじゃない。きっと、こんなのじゃなかったんだ」
鬱積した想いを吐き出したアルは虚ろに奴隷たちを見続ける。そんなアルにアーリアは呟く。
「受け入れなければ終わらない」
顔を上げ、自分を見るアルに、元難民達にアーリアは続ける。
「あなた達を受け入れたユーリイ様に、なぜ受け入れたのか聞いた私へのユーリイ様の答えです。アラム人にお父様を殺されたのに、あなた達を受け入れたユーリイ様の」
知らなかった事実に、アル達は目を見開く。
「相手を受け入れないのなら、争うしかない。争うのなら、奪われたものを奪い返さなければ気がすまない。そうしていては、争い続けるしかない。お互いに傷付き合うしかない。そんなのは虚しいだけだ。終わらせなければならない。そのためには、いかに許せなかろうと、傷がうずこうと、痛みを伴おうと、相手を受け入れなければならない」
ユーリイの言葉をなぞったアーリアがアル達を見る。
「ユーリイ様はそう言って、お父様の仇のアラム人であるあなた達を受け入れました。ユーリイ様がそうしたからこそ、アストテランのみなさんもあなた達を受け入れました。そうしてできたのが今のアストテランです。私はそんなあそこを守りたい。人種を超え、人が笑いあえる得難いあの楽園を」
アーリアはアル達に語りかける。アーリアの訴えかけるような瞳に、アル達は何かを考えるように神妙な面もちで俯いた。
やがて、決然とアルが顔を上げた。
「そうだな。俺もこんなのはきっと見たくなかったんだ。昔、俺を使ってた人だって悪い奴ばっかりじゃなかった。それが立場が変わったというだけで、奴隷にされるのなんか見たくない。俺達だってみんなで笑えるあの場所を守りたいさ」
「それでは」
期待に瞳を輝かせるアーリアに、アルは頷く。
「ああ、まずはあいつらからだ」
アルは今までとは異なる意志のこもった瞳で鞭打たれる奴隷を見た。
Ⅵ抗戦宣言
三月の後、サラーフ軍がアストテランに向けて出立したとの報がユーリイに届いた。
「思ったよりも早かったね」
嘆息を漏らすユーリイにユーグが答える。
「そうですね。軍の再編などに時間がかかるとも思いましたが、お構いなしですね」
「こちらに着くまでは一月前後といったところか。本国への正式な救援要請を出しておいてくれ」
「はい」
「……あとはみんなにも覚悟を決めてもらおう」
翌日、領主のユーリイから重大な知らせがあることが、その日のうちに全ての領民に伝わった。
そして翌日の朝、領民が城前の広場に集まっていた。血気に逸る男が大声を上げてはいるものの、多くの領民はひそひそと何事かを囁きあっている。その空気は重く淀んでいた。
城のバルコニー上にユーリイが現れる。多くの領民がすがりつくような瞳でユーリイを見た。その瞳を向けられても、ユーリイは場違いなほどに落ち着いた様子を見せていた。
「みんな、知ってると思うけど、先頃サファール帝国の内乱が終わった」
ユーリイの切り出しに領民の顔に不安の色が宿る。
「そして新たに建国されたサラーフ帝国が、アストテランに向かって進軍を開始したとの報告が昨日届いた」
その可能性を知ってはいた。わかってはいた。それでも、それがいよいよ現実になってしまえば、領民達は溢れる不安を隠せなかった。中でも戦の経験のない新たな領民と女にその色が濃い。
「戦は怖いものだ。私達はそれをよく知っている。多くのものを傷つけるだろう。多くのものが傷つくだろう。そしてかけがえのないものを失うだろう」
ユーリイの言葉に領民は俯く。ユーリイの脇で話を聞いていたオーウィンはおいおい、と言いたげな慌てた様子でユーリイを見た。
「それでも私は戦おうと思う」
静かに、通る声でユーリイは宣言した。柔らかさの中に、決意のこもった宣言に領民は顔を上げ、ユーリイを見る。
「私達の先祖はモンスターの蔓延るこの森を切り開いた。私達の両親はその地を守るため、城壁を築いた。その地を守るために命がけで戦った」
ユーリイの言葉に代々この地に住む男の瞳に火が灯る。
「先祖から受け継いだ地で私達は生きてきた。その地をより発展させるため、森をさらに切り開いた。汗と血を代償に、私達は新たな恵みを得た」
危険を冒し、森を切り開いた難民と移民も歯を噛みしめる。
「この地は私達が耕した大地だ! 私達のものだ! 断じて侵略者のものではない!」
普段は見せぬ気迫でユーリイが叫ぶ。その叫びに領民は滾る想いを共有する。
「私達は、私達の大地を、守らねばならない! 先人が切り開き、私達が発展させた、緑溢れる豊かなこの大地を! 共に、この大地を守ってほしい! 皆、共に戦ってくれ!」
ユーリイの宣言に騎士団と傭兵団が自分を奮い立たせるように声を上げる。熱が人々に感染する。呼応するように領民も声を上げた。
力強い、熱い叫びが大地を震わすように響き渡った。
第二章 アストテラン会戦Ⅰ――城壁下攻防戦――
Ⅰ戦争前夜
サラーフ帝国の侵攻を布告してから一カ月がたった。
「敵の兵数は?」
城壁近くの掘立小屋、指揮所でユーリイはユーグに状況を確認した。
「物見によると、おおよそ十万です」
暗い声でユーグは答える。
「こちらの数は?」
「騎士団が五百、ノーマッズ傭兵団が五百、民兵が五千、女・子供の非戦闘員が五千です」
「本国からの救援は?」
「徴兵による民兵一万があと十日程度の距離まで到達しているとのことです」
「民兵が一万?」
救援の予想以上の寡兵ぶりに流石のユーリイも泡を吹く。
「ノースアイランドが再侵攻を開始したようです。本国の多くの騎士団はその戦線を支えるため、出払っているとのこと。また、スベルーンが国境線付近で動きを見せているようです。残りの騎士団もスベルーンへの牽制・防御のため動かせないとのことです」
やられた。ユーリイは予想していた中でも最悪の部類の現状に歯噛みした。サラーフの侵攻を知れば、ノースアイランドがここぞとばかりに再侵攻するのはわかっていた。そこまでは当然だ。問題は西で国境を接するスベルーンだった。スベルーンは海洋の北の貿易路をノースアイランドに、陸上の東への貿易路をフローラントにそれぞれ依存している。そのためノースアイランドとフローラントの戦争には中立の立場をとり続けていた。しかし、フローラントがノースアイランドとサラーフに挟撃されたこの機を逃さず動いてきたのだ。
「本国はスベルーンに使者を送っていますが、スベルーンの動きが収まらない限りこれ以上の救援は出せないとのことです」
愚かな。だからノースアイランドとの休戦を進言していたというのに。ユーリイは心の中で毒づく。
「本国はスベルーンの動きを抑えるために友好国パラティアにスベルーン牽制を頼む使者を、友好国ビラルには救援を求む使者を送ったとのことです。その上で、民兵の指揮など、あとのことは全てユーリイ様に任せると」
せめてもの気休めをユーグは口にする。
パラティアはスベルーンのさらに西方の国である。海洋貿易で栄えているが、それゆえに海洋貿易路を持たないスベルーン、海洋貿易で敵対するノースアイランドとそれぞれ敵対している。国境を接せず、また利害の敵対しない本国フローラントとは先の両国に対抗するため友好関係にある。
ビラルはフローラントと南で国境を接する小国である。小さいながらも多くの国で信仰されるネセウス教の聖地がある宗教国家のため、各国から庇護されている。また信仰を守るため独自の神殿騎士を抱えている。
現在の状況を改善するため両国に使者を送るのは適切な対応ではあるが、はたして間に合うかはわからない。
国一つ隔てたパラティアへ使者がつくには時間がかかる上に、それでスベルーンが動くかはわからない。スベルーンは実際に軍を動かさなくともいいからだ。スベルーンはパラティアへ対処するだけの軍を中央に置いておけばそれでいいのだ。その上で、フローラントとの国境線付近に軍の余剰部隊を置いておくだけでいい。そうすればフローラントはそれに対処するための軍を中央に備えておかなければならない。本来ならば、アストテランへの援軍となる軍力をだ。
ビラルは隣国で使者も援軍も比較的早く移動できるだろう。とはいっても、使者が届き、援軍の派兵が決まり、軍を編成し、援軍に送る。アストテランに援軍が到達するのにどんなに早くとも半月はかかるだろう。サラーフの軍はもう一週間とかからない地に迫っているのにだ。全てが後手に回っている。
「まあ、そう悪くもないだろう」
状況に合わぬ、あっけらかんとした声が響いた。ユーリイが目を向けると、オーウィンが似合いもしない好々爺めいた笑みを浮かべていた。
「そうか? 私には中々厳しい状況に思えるんだが」
正直に内心を表すユーリイにオーウィンは不敵な笑みを浮かべる。
「そんなことはないだろう。まず援軍が民兵ってのがいいね。下手に騎士団にでも出張られたら、面倒だった」
「どういうことだい? 練度の低い民兵と百戦錬磨の騎士団。どう考えても騎士団が来たほうがいいだろう」
「まあ、兵力だけを見ればな。だが指揮系統の問題があるだろう」
オーウィンにそこまで言われてユーリイはようやく気付く。中央の騎士団だ。下手に爵位の高い貴族の指揮官でも来たら、ややこしいことになる。最悪、指揮権がその指揮官に渡りかねない。
「そういうことだ。まあ、有能な指揮官ならいいんだが、馬鹿な貴族のぼんぼんでも来た日には目も当てられん。正々堂々とか言い出して今までの仕込みも無駄になりかねん。その点、ただの民兵なら貴族のあんたの言うことは聞くだろう。幸いなことに全てをあんたに任すって話だしな」
全てを任す、というのは最悪の事態になった際の責任の所在を明らかにした、ということだろうが、
「確かに悪くない、か」
元々、アストテランを渡すつもりなどユーリイにはない。アストテランを守り切れば、責任も何もない。ならば、指揮権が残り、今までの仕込みを使えるだけましだろう。
「なーに、異教徒の侵攻となればビラルはすぐに援軍を送ってくれるはずだ。半月後には到着するだろう。それ位なら、侵攻路が森の中の小道しかないこの土地だ。指揮官があんたで、ユーグと俺が補佐すれば持ちこたえられるだろうよ」
手を広げ、オーウィンは不遜に請け負う。いつもと変わらぬその傲岸さは、この非常時においてこの上なく頼もしかった。
「だから、あんたはそんな眉間にしわを寄せんこった」
「……そうだな。すまない」
そう、オーウィンの口上は本来、指揮官であるユーリイが、不安を抱く兵卒に行わなければならないものだ。指揮官が不安を抱いていれば、兵が強く戦えるはずがない。ユーリイは心から恐れを除き、いつものように余裕を心に抱くように努めた。
「それじゃあ、かねてからの作戦をみんなに説明するとしよう」
「はい」「おう」
いつもの笑みを取り戻し、席を立つユーリイに、ユーグとオーウィンが付き従った。
※
「報告、周囲に敵兵の姿は見られません」
「まあそうだろうな」
伝令にサラーフ第一軍の将、ハラールは嘲るように頷いた。侵攻目標であるアストテランの城門へと繋がる小道。周囲はモンスターがいつ出るとも知れぬ森だ。こんな所に敵軍がいるはずもない。
「野営の準備を始めろ。モンスターよけの焚火の見張りを忘れるなよ。モンスターに襲われて無駄な損害を出してもつまらんからな」
「はっ!」
指示を受けた伝令がテントを出る。その背を見送りながらハラールは物足りなさを感じていた。ここに来るまで敵との戦闘は一度も起きていない。こちらを叩くのに絶好の機会であったはずの渡河中も敵の妨害は全くなかった。その上、道脇の畑は収穫も済んでおらず貴重な食料が置き去りにされ、畑の見張り小屋もそのままに放置されていた。敵は一キロルほど離れた城壁の中に亀のように閉じこもっている。そのあまりの静けさが不気味と取れなくもないが、森に挟まれた一本道。奇襲の恐れもない。単にこちらの侵攻への対策がなされていないと考えるのが妥当だろう。敵が御しやすいのは喜ぶべきなのかもしれないが、あまりにあっけないというのもつまらぬものだ。
「ふん、まあいい」
今日は城門からの夜襲のみを警戒し、兵に遠征の疲れを癒す休息を与えるのみだ。戦闘は明日からになるだろう。
※
城門付近の小屋でユーリイは、ユーグとオーウィンに尋ねた。
「サラーフ軍の様子はどうだ?」
「予定通り野営の準備を始めました。今夜はこのまま兵を休めるつもりでしょう」
ユーグは淡々と答えた。
「予想通りだな。……予定通り行けそうか?」
「ああ。確認してきたが道も火種も罠も全て完璧だぜ」
オーウィンはテーブル上に広げられた地図を指差し、不敵な笑みを浮かべた。
「物見は当然いるものの、サラーフ軍の警戒は薄そうに見受けられます」
ユーグも望み通りの状況を笑みで保証する。
「よし」
ユーリイは自分の計画通りの現況に満足げに頷いた。
「風は穏やかで、雨が降る様子もない。後はモンスターのご機嫌でも伺う位かな。予定通りサラーフ軍に一泡吹かせてやるとしよう」
ユーリイは両の拳を二人に向ける。
「はい」「ああ」
二人はその拳に自らの拳を合わせることで答えた。
Ⅱ夜襲決行
夜が深まり、サラーフ軍は寝静まっていた。
その静寂の中、ノーマッズ傭兵団一の射手、アーチンは森の樹上に作られた櫓で弓を引き絞っていた。深夜の森は闇に包まれているが、サラーフ軍は篝火を獣除けに盛大に炊いている。森の暗闇に比して小さな光ではあるが、アーチンの目にとってそれは十分すぎる灯りだった。
全てはアーチンが放つ矢から始まる。モンスターに襲われるかもしれない森中、外してはならない一矢。アーチンは普段にないほど慎重に狙いを定める。狙い、定め、ついに矢を持つ手を離した。火矢は赤い線を引いて空を飛び、畑の見張り小屋の上のつぼを壊した。
つぼの中の油が燃え盛る。その火はつぼの周囲に置かれた火種に移り、勢いを増し、見る見るうちに燃えやすい木小屋全体に広がった。
「火事だ!」
サラーフ軍の物見の声が響き渡る。その声に兵たちが目を覚ましていく。喧騒が伝染していき、やがて怒号がサラーフ軍を支配した。統制のない混乱に包まれる兵に叱声が飛ぶ。
「静まれ! 第五隊、小屋の兵糧を可能な限り運びだせ! 物見は周囲の警戒を厳にせよ! 敵の夜襲があるぞ! 残りの隊は戦闘態勢を整えろ! 敵を迎え撃つぞ!」
混乱の中でも、その声は大きく響く渡り、兵は落ち着きを取り戻した。その指示に従って兵が動き出す。
凛とした声で指示を出し続けるその男にアーチンは狙いを定め、引き絞った弦を離す。アーチンの強弓から放たれた矢は鉄の甲冑で覆われていないその男の額を見事に貫いた。
「サラル隊長!」
周囲の兵が倒れた男へと駆け寄る。重要な役目を果たしたアーチンは、倒れた男へと駆け寄る兵を適当に狙い、矢を放ち続けた。鉄の鎧で身を固めた指揮官と違い、革鎧でしか守られていない一兵卒は革鎧ごと体を貫かれる。アーチンが矢を放つごとに、サラーフ兵は一人、また一人と倒れていく。そのアーチンに習うようにして同様に櫓にいる傭兵も矢をサラーフ兵へと射掛けていった。
※
アーチンが矢を放ち続ける木の下、森の中に開かれた道。
「おーし、いい状況だな」
混迷を極めるサラーフ軍の様子を見ながらオーウィンが呟く。
「野郎共、狩りの時間だ! 見ての通り獲物はおいしく出来上がってる! 稼ぎ放題だ!
てめえの食ってきた分くらいは働けよ!」
「おおーーーー!」
傭兵の野太い声が森に響き渡る。
「突撃!」
号令一波、オーウィンは自ら先頭に立ち、サラーフ軍の側面を襲撃した。
※
「敵襲! 敵襲―――!」
アストテランの城門に最も近いサラーフ軍の先頭からでなく、軍の中腹から起きた敵襲を告げる声にサラーフ第一軍将軍、ハラールは眉をひそめた。敵兵は一体どこから姿を現したというのか。
「こいつら正気か!? 森だ! 森から敵が来るぞ!」
ハラールの疑問にはるか遠くの兵の叫びが答えた。馬鹿な。モンスターが蔓延る夜の森を進軍するなど。自殺行為である。しかし、見張り小屋の燃え方。第一隊隊長の狙撃。その後の襲撃。どう見ても、これは計画立てられた夜襲である。である以上、森の進軍も何かしらの仕掛けがあるということか。
「フラル! 出るぞ!」
「はっ!」
ハラールは思考を中断し、自らの副官に叫んだ。奇襲をかけてきた敵は寡兵ながらも、統率がとれており一人一人の兵も強い。隊長を失い混乱している第一隊では手がつけられないだろう。また、恐らく城門からも敵の加勢が来るはずだ。迎え撃つには混乱している兵をまとめあげなければならない。
ハラールが馬に跨り出陣しようとした、その時。
「木、木が!」
ハラールが救援に向かおうとした先で多くの木が雪崩を起こして道に倒れこんだ。多くの兵が木の下敷きになり、悲鳴を上げた。さらに木にどこからかの火矢が火をつけ、道を完全に塞いでしまった。木の下敷きになりながらもまだ息のあった兵の絶叫が辺りを満たす。危難を逃れたサラーフ兵は同胞が無残に焼けただれる姿を見ることしかできなかった。
「くっ!」
ハラールは怒りに顔を歪めたが、第一隊の救援の道を断たれたことをどうすることもできなかった。
※
「全てが作戦通りだ! 後は不逞の侵略者を撃滅するのみ! 侵略者に我らが力を見せてやろうぞ!」
「おおおーーーー!!」
ユーグの号令に騎乗した騎士の鬨の声が答える。
「アストテラン騎士団、出るぞ!」
民兵の手で城門が開かれ、騎乗したユーグを先頭に騎士団が混迷を極めるサラーフ軍に突撃した。
※
「て、敵だ! 城門からも敵が!」
サラーフ第一軍の兵が悲鳴をあげる。隊長を討たれ、援軍は断たれた。左右を森に閉ざされ、前後を挟撃された。時折、生き残りの小隊長が指揮をとろうとするも、彼が号令をかけるとどこからかの狙撃が彼を討つ。この絶望的な状況にサラーフ第一軍が士気を保つことなどもはや不可能だった。サラーフ第一軍はもはや軍として全く機能しなかった。あるものは集団で突撃してくるオーウィン騎士団とアストテラン騎士団に困惑したまま個別に立ち向かい、討たれ、あるものは無謀にもモンスターがはびこる森に逃げ込んだ。
「徹底的に潰せ! 一人も逃がすなよ!」
歴戦のオーウィン傭兵団はここぞとばかりにサラーフ軍の兵力を刈り取る。
「突き破れ! オーウィン達の退路を確保する!」
アストテラン騎士団は奇襲したオーウィン傭兵団の安全を確保するため一直線にオーウィン傭兵団の元へと突進していく。
「はっは、こいつら弱え! 楽勝だぜ!」
アストテラン騎士団の一人が笑いながら、サラーフ兵に剣を振り下ろす。
彼が言うとおり傭兵団と騎士団からなるアストテラン軍は草を刈り取るような容易さでサラーフ兵を葬っていた。そして両団が合流しようとしたその時、異変は起きた。
「突撃! これ以上の蛮行を許すな! 卑劣の輩を撃滅せよ!」
「おおおおーーーー!!!」
サラーフ第一軍将軍、ハラールの号令に無数の声が唱和する。サラーフの騎兵が森から続々と湧き出る。味方の死体を踏み砕き、サラーフの騎兵隊がオーウィン傭兵団の背へと突進していった。
※
「オーウィン隊長! サラーフの騎兵隊が!」
オーウィン傭兵団の傭兵が今日初めて、狼狽の声を上げた。
「見りゃわかる!」
オーウィンも思わず苛立ちながら叫び返す。燃え盛る倒木で塞いだわずかな距離とはいえ、まさか何の保証もない夜の森を抜けてくるとは! しかも騎兵で! 両脇の森には、このような場合の備えや逃げたサラーフ兵を刈り取るための様々な罠を設置していた。援軍に来たサラーフ軍にも犠牲が出てるはずだ。にも関わらずこれほど早く援軍が来るとは! 犠牲を顧みず味方の命を踏み台に森を抜けてきたということか。
「錐行隊形! 敵軍残党を直線で突破! 敵の歩兵を敵騎兵への盾とする!」
歩兵で突進してくる騎兵の相手など出来たものではない。素早く現状での対策を練ったオーウィンの指揮に、傭兵達は素早く従い隊列を整える。
「アーチン! 何としても敵援軍の指揮官を討ち取れ! 野郎共、死にたくなけりゃ死ぬ気でついてこい! 突撃!」
オーウィンは足元を通り過ぎるサラーフ軍を息を潜めやり過ごし、未だ生きているであろうアーチンにすがるような指示を残す。そして、援軍によって息を吹き返しつつあるサラーフ軍の残兵に突進した。
※
「突撃! 一刻も早くオーウィン傭兵団の背につく! 敵騎兵隊を迎え撃つぞ!」
号令一喝、ユーグは後ろを顧みず敵歩兵の大軍を貫いていく。敵援軍の出現に動揺していた騎士たちも、毅然としたユーグの姿に、その背を追う。ユーグは無人の野を行くかのように敵歩兵の波を進み、その背を騎士たちは必死に追った。
※
「フラルに一刻も早く道を塞いでいる倒木を片づけろと伝え、向こうの状況を確認してこい」
「はっ!」
伝令に指示を残し、ハラールも森から出る。こちらに背を向けている敵歩兵。武具はそれぞれにバラバラだが、統率はとれており、練度も高そうだ。傭兵か。その傭兵団は一直線に第一隊を抜き、逃げていく。対照的にこちらに一直線に向かってくる騎士。こちらは装備が統一されている。敵の騎士団か。先頭をかけてくるものは素晴らしい腕前で、サラーフの正規歩兵をものともしていない。
「面白い」
ハラールの顔に獰猛な笑みが浮かぶ。敵の傭兵団も騎士団もこの状況に最適な判断をしている。さらに向かってくる騎士団の隊長らしき男の腕前。歯ごたえのありそうな敵だ。
「サラーフの勇猛な歩兵よ! 逃げていく敵を逃がすな! 退路を塞げ! ただし背は追う必要はない! 追い打ちは騎兵がかける!」
「おおおーーーー!!!」
森を揺らす大音声に指揮を取り戻したサラーフ歩兵の雄叫びが答える。
「アラーク! 敵歩兵の追いうちの指揮を執れ!」
「はっ! お任せあれ!」
先頭を駆けるサラーフ騎兵が獣のように笑う。
「残りの騎兵、わしに続け! 敵騎兵を迎え撃つぞ!」
叫び、突撃しようとしたハラールの脳を警鐘が鳴らす。ハラールは唸りを上げて迫った矢を剣で切り落とした。
「将軍! 将軍を取り囲め!」
ハラールの傍に控えた騎兵が素早い反応を示す。
「いらん」
しかしハラール本人がそれを制止した。
「ふん、無粋な」
言葉とは裏腹にハラールは笑む。腕に残る痺れ。尋常な弓使いではない。
「し、しかし、将軍に万一のことがあっては」
食い下がる騎兵にハラールは指示を出す。
「わしに矢はあたらん。それより貴様は百ほど率いて、森に潜むこの弓使いを刈ってこい」
「は、はっ! そこの一団行くぞ!」
近くの集団を引き連れ、騎兵が森へと進む。それを尻目に、ハラールは正面へと向き直った。
「楽しませてくれるのう」
ハラールの視線の先では敵の騎兵隊の隊長らしき男が歩兵の群を抜け、敵の傭兵団に追い打ちをかけようとするサラーフ騎兵を迎え撃っていた。
「くっくっく」
ハラールが喜びを隠しきれぬように声を漏らす。
「かっかっかっか! もっと、もっともっともっと、わしを、楽しませろ!」
喜悦を残し、ハラールはユーグへと突撃した。
※
「敵の騎兵が現れた!?」
報告を受けたユーリイが思わず叫ぶ。
「は、はい」
その様子に伝令は躊躇いながら頷いた。
「……いや、すまない。それで状況は?」
伝令の姿を見て、心を落ち着け、ユーリイは問う。
「オーウィン傭兵団は退却しようとしていますが、敵歩兵の残兵に退路を塞がれています。アストテラン騎士団はオーウィン傭兵団に追討ちをかけようとする敵騎兵団を迎え撃つ構えです」
……まずい。ユーリイの顔色が曇る。オーウィンもユーグも最善を尽くしてくれているが、このままでは間に合わなくなる。今回の作戦は火をつけた倒木がサラーフ軍の後軍を足止めしている間に、孤立化し、混乱した敵先鋒を殲滅、退却するものだ。しかし、敵援軍が現れたことによって敵先鋒が立ち直ってしまった。さらに騎士団が敵援軍への対応に回るという後手に回されてしまっている。このままではアストテラン騎士団とオーウィン傭兵団が退却する前に、道を塞ぐ倒木が片付けられ、大群の中に取り残されてしまう。いや、そもそも現在も多勢に無勢だ。このままでは両団は殲滅されてしまう。そうなってしまっては、残されるのは正規の訓練を積んでいない民兵のみ。もはや戦線を支えることなどできようはずもない。
「……やるしかない、か」
呟きユーリイは席を立つ。
「コヴァーリに今すぐ物見を除く皆を城門前に集めさせてくれ」
「は、はい!」
慌てて部屋を出る伝令を見て、ユーリイが呟く。
「指揮官が剣を振るうような事態になったら、それは負け戦――なんて言ってもいられないか」
テーブル上の兜を手に取り、ユーリイは部屋を出た。
戦闘に備え、城壁近くに待機していた民兵はすぐに城門前に集結した。
「みんなよく集まってくれた」
ユーリイは努めて状況にふさわしくないほど静かな声音で話し始めた。
「状況はわかってると思う。奇襲は成功し、敵に多大な損害を与えた。けれど、敵援軍が現れた。騎士団も傭兵団も奮戦しているが、退路を確保できていない。このままでは敵の大群の中に孤立してしまうだろう」
ユーリイは民兵を見回す。脅えるように涙を目端に浮かべるもの、沈鬱な表情で自分を見つめるもの、興奮で顔を赤らめるもの。反応は様々だが、多くの者には決意が見えた。
「事は一刻を争う。彼らを見殺しにするわけにはいかない。退路を塞ぐ敵軍の後背を貫き、彼らを救いだす。皆、力を貸してくれ!」
「おおおーーー!」
自らを奮い立たせるように民兵達は声を上げる。動揺を現していたものもやけくそのように、迷いを振り切るように、顔をゆがめて叫ぶ。
「アストテラン軍、出るぞ!」
ユーリイが号令を発する。その声に城門が開いていく。民兵を進ませるため、勇気づけるため、ユーリイは自ら先頭に立ち突撃した。
※
「敵軍だ! 城門から敵の軍勢が出てきたぞ!」
オーウィン傭兵団の退路を断っていたサラーフ軍の兵が叫ぶ。その声にサラーフ歩兵に動揺が走る。
「迎え撃て! 敵は民兵だ! 農民どもにサラーフ流の戦争というものを手痛く教えてやれ!」
歩兵の動揺を見て取ったサラーフ第一軍騎兵隊隊長が、はるか後方から大音声を発した。その号令に落ち着きを取り戻したサラーフ歩兵は敵を見た。装備もバラバラの敵軍。ただ勢いに乗っただけの突撃。確かに相手が民兵だと確信したサラーフ兵は獰猛な笑みを浮かべた。
「たかが農民風情が調子に乗りやがって! 戦争の怖さを思い知らせてやる!」
サラーフ歩兵の誰かが雄叫びを上げ、それを聞いた周りの者が獣のような声で呼応した。
「くそ! 可能な限り民兵を援護する! 早く敵を突破するぞ!」
猛るサラーフ歩兵の波を抜いていくオーウィンが叫ぶ。
「ったく、無茶言いますね! こっちゃこっちで手一杯ですぜ!」
側面から槍をついてきたサラーフ歩兵の首を切り飛ばしながら、オーウィンの部下も叫ぶ。
「んなこたぁ分かってる! 早くあの援軍に合流できにゃあ、俺達も終わりだ! 無茶だろうがなんだろうが、民兵が崩れる前に合流すんぞ!」
言いながら、オーウィンは自分の前を塞ぐサラーフ歩兵を一人、また一人と殺していく。余力を残すため、また部下に合わせるため抑えていたスピードを上げて、今まで以上に激しく猛進する。
「あーあ、今夜はもうちょい楽できるかと思ってたんですがね。わーりましたよ! やりゃいいんでしょ、やりゃ! ほら野郎共、付いてこいよ! 遅れた奴の面倒は見ねえぞ!」
ぼやきながらもオーウィンの部下はオーウィンの指示に応える。
「ういーす!」
四方を敵歩兵に囲まれる厳しい状況の中、それでもオーウィン傭兵団は落ち着きを保ったまま進撃していく。
「この状況下で大したものだが、容赦はせんぞ!」
そのオーウィン傭兵団の背を捉えたサラーフ騎兵隊隊長、アラークの声が響く。
「げっ、まず」
背に迫るサラーフ騎兵隊の突撃を見た傭兵はさすがに動揺の声を上げた。
「させん!」
そこにサラーフ歩兵の群を突破したユーグが現れた。歩兵を突破した勢いそのままに、サラーフ騎兵隊の側面へ迫る。
「ちっ! オール、後ろを率いて敵を迎え撃て! 俺はこのまま敵を追撃する!」
「はっ! 三百騎ほどついてこい!」
指示を受けたサラーフ騎士がユーグへと駆ける。そしてすれ違いざま一閃、ユーグの刃が煌き、騎士の首がとんだ。
「オール様! 貴様ぁ!」
首を飛ばされた騎士の背を負っていたサラーフ騎兵が怒号を上げ、ユーグへ迫る。
「ユーグ様! 敵をユーグ様に近づけるな!」
ようやくユーグに追いついたマリヤが怒号を上げるサラーフ騎兵に突撃した。
「なんだと!?」
サラーフ騎兵の怒号に振り向いたアラークが驚愕の声を上げる。あのオールが討たれた!? こうも容易く? 見る間にもオールを討ちとったらしき敵の男が部下の騎兵を切り捨てていく。
「くっ!」
アラークは離れていくオーウィン傭兵団の背を一瞬悔しげに見つめた後、後背のアストテラン騎士団へ向き直った。このままでは部下の被害が大きくなり、ひいては自身が後軍と分断されかねない。
「まず敵騎兵隊を討つぞ! 仲間の恨み、百倍にして返してやれ!」
叫び、アラーク自らユーグへと突進する。
「オールの仇、取らせてもらう!」
怒声一閃、アラークの切り下ろしの一撃がユーグの脳天へと迫る。
「むっ!」
正面のサラーフ騎兵を切り捨てたユーグは頭上に剣を上げる。アラークの両手での重い剣の振り下ろし。それが剣に触れた瞬間、ユーグは剣を持つ腕の力を抜き、アラークの剣を受け止めるように剣先を下げ、そのまま剣を左斜め下へと向ける。
「なにっ!?」
ユーグの剣に導かれるように、アラークの剣はユーグの剣を滑る。全速でアラークは背筋と腕で剣を引き戻す。右斜め下から迫るユーグの剣を、腕をひねり体の横に下げた剣で受ける。ユーグの剣の威力に押され、アラークの剣がアラーク自身の鎧へと押し付けられる。線の細い顔立ちに似合わぬ恐ろしい膂力だ。
ユーグの剣は流れるように今度は右斜め上からアラークへと迫る。左切り下ろし、左切り上げ、左横切り、直上振り下ろし、右切り下ろし!
「ぐっ! くぁ!」
怒涛の勢いで絶え間なく続くユーグの剣戟をアラークはかろうじて防いでいた。しかし、右切り下ろし後、緩急をつけ、今までよりもさらに速度を増したユーグの突き! 防ぐことも、避けることも叶わず、アラークは喉を貫かれた。
「アラーク様!?」
サラーフ騎兵隊の悲鳴が木霊する。動揺が伝わるように悲鳴が伝染していく。
「くっくっく、見事だ! アラークをそうも容易く破るとはな!」
その悲鳴の反響の波を、心からの喜悦の声が遮る。
「ハ、ハラール様!」
アラークの死に動揺していたサラーフ騎兵が声を上げる。その声と顔には安堵の色が浮かんでおり、サラーフ兵のハラールに対する信頼がうかがえた。
「我が名はサラーフ第一軍将軍ハラール!」
空気を震わす大音声でハラールは名乗りを上げる。獣の遠吠えのようなその名乗りの迫力にアストテラン騎士団の騎士は気圧されるように上半身を引いた。しかし、その名乗りを正面から受けたユーグは何ら動じずハラールを見返す。
「貴様の名は?」
揺るぎないユーグの姿に、ハラールは口角を吊り上げ笑う。
「我が名はアストテラン騎士団団長ユーグ!」
ユーグが名乗り返す。ハラールのように空気を揺るがすような迫力はないものの、凛と夜の大気に清み通る声だ。ハラールを前にしての堂々たる姿と、ユーグから発せられる針のように鋭いプレッシャーに歴戦のサラーフ騎兵がたじろいだ。
「くっくっく。いいぞ、貴様ほどの獲物は久しぶりだ」
獰猛に笑み、ハラールは満足そうにユーグを見る。
「騎士としての決闘は望むところだが、時間が無い。討ち取らせてもらう」
哄笑を上げるハラールを睨み、ユーグは馬を駆った。
※
向けられるサラーフ歩兵の槍を剣で切りはらい、ユーリイは自ら馬を駆って歩兵の波へと切り込んだ。民兵を勇気づけるため、ユーリイはサラーフ兵を一人また一人と切り払う。
「領主だけに戦わせたとあっちゃあ、領民の恥だ! 野郎共、男の意地ぃ見せろよ!」
民兵を鼓舞し、コヴァーリがユーリイの背を追う。
「おおお! ユーリイ様を守れ!」
コヴァーリの鼓舞と自ら先頭を行くユーリイに勇気づけられ、民兵が決死の突撃をする。ユーリイが切り開いたサラーフ兵の穴に民兵がなだれ込み、サラーフ歩兵の大群に楔が打ち込まれる。
「くっ、民兵ごときがぁ!」
「先頭の騎兵の男が指揮官だ! 討てえ!」
思わぬ民兵の勢いとユーリイの武に気圧されながらも、サラーフ兵は体勢を立て直し、応戦する。
「あんちゃん、退がれ! 領主が討たれちまったら、終わりだ!」
言ってコヴァーリはユーリイの脇のサラーフ歩兵を手斧で革鎧ごと切り倒す。
「それじゃあ言葉に甘えて……って言いたいところだけ、どっ」
横から迫る槍を、息を吐いてかわしながらもユーリイは答える。
「そうも言ってられない。戦を知らない者もいる。彼らは自分だけでは敵兵に突撃などできない。領主の私が先頭に立たなければ、みんなが戦えないだろう」
話しながらユーリイは、左右のサラーフ歩兵の頭を剣で斬り割る。自身も実戦は初めてだというのに、落ち着いた様子を見せているユーリイだが、内心では血臭と獣の所業に胃から込み上げるものを耐えていた。それでもユーリイは騎馬の勢いを弱めることなく、サラーフ歩兵の壁を切り開く。ただ懸命に、城門を目指し進むオーウィン傭兵団を目指して。
「進め! 今なら数はこちらが上だ! オーウィン傭兵団ももうそこまで進撃している! このまま行けばオーウィン達と私達で敵を挟撃できる! 怯むな! 恐れることはない! このまま敵を殲滅する! 私の背に続け!」
初めての戦場の高揚からか。胃から込み上げるものとは別のものが胸を熱くする。滾る何かに思いを乗せてユーリイは叫んだ。実際、話はそう簡単ではない。サラーフ歩兵は訓練を受けた軍人であるのに対して、ユーリイが率いるアストテラン軍は全員が付け焼刃の教練を受けただけの民兵。オーウィン傭兵団も四方を敵に囲まれて戦い続け相当に消耗しているはずだ。しかし、ユーリイは自信に満ちた声で領民を鼓舞し、敵の波を切り裂いていく。
「おおおーーーー!!!」
その自らの領主の檄に、姿に、アストテラン民兵は奮い立ち、サラーフ歩兵へと襲いかかる。まだ戦いを経験したことのない者も多い反面、最前線の地ということもあって民兵の中でもかつて戦を経験した者も多い。彼らが中心となり、アストテラン民兵は徒党を組み、サラーフ歩兵に対抗していった。
※
風を切り、ユーグの剣がハラールの左肩口へと走る。
鋭く、早い、その剣戟を、ハラールはユーグのものよりも一回り大きい剣で難なく受ける。そして手首と腕を返し、防御から流れるように攻撃をする。今度はユーグの左肩口をハラールの剣が襲う。唸りを上げるその剣戟をユーグは受け、威力を流す。返す刀でハラールの胴へと剣を切りはらう。それに対し、ハラールはユーグの脇へと流された剣を力づくで横殴りにユーグの胴にぶつける。通常ではありえぬ超至近距離からの斬撃というよりは押し込み。それに対し、ユーグは馬上で上半身を極限まで右前の半身に捻り込み斬撃を継続。同時に自分の鎧を力づくで切りぬこうとするハラールの剣を甲冑に覆われた左肘で打つ。ハラールは動じることなく、左から無理にふるわれるユーグの剣を甲冑に覆われた左腕の肘から先を叩きつけ、打ち落とす。左へと半身を落とし込んだ反動で、ユーグにバランスを崩された剣を振り上げ、ユーグの頭へと振り下ろす。ユーグは神速で両手で剣を掲げ、刃をたててハラールの剣を受ける。
今度は力を受け流すことができず、剣が折れたのではないかと思うほどの金属音が響き渡る。ハラールの重い斬撃に、互いの剣が刃こぼれするものの、ユーグは見事に受け切った。致死圏内での鍔迫り合いの中、ハラールは喜悦を顔に浮かべている。
「久しいぞ。わしの剣を正面から受け止めた男は」
言葉こそ返さないものの、ユーグも口の端に笑みを浮かべた。これほどの相手、これほどの戦い、久しく経験がない。騎士として嬉しくないはずはなかった。できるなら、この戦いを楽しみたい。しかし、守るべきアストテランの地、ひいては主君が危険へとさらされる今、そんなことは言っていられない。
鍔迫り合いの中、ユーグは再びハラールの剣を流す。そしてさらにスピードを上げ、剣をふるう。ハラールも呼応するようにスピードを上げる。
激しい剣戟の乱舞が始まった。ユーグのふるわれた剣にハラールも剣をふるう。ハラールのふるわれた剣にユーグも剣をふるう。剣戟と剣戟がぶつかりあい、甲高い金属音が鳴り響く。もはや剣戟を甲冑に覆われた手で撃ち落とすような余裕はない。互いに一心不乱に剣をふるうのみ。
飛び込んだ羽虫が形を残さないであろうほどの斬撃の嵐の中、ハラールは今にも笑いだしそうに笑みを深くしていく。対照的に、時間のないユーグは表には出さないものの心の中で焦燥を深めていった。
興奮からか、それとも変わらぬ状況への業を煮やしたのか、ハラールの振りがわずかに大きくなる。ここだ、とユーグはハラールへと突きを放つ。
つまらなそうに、ハラールの顔の笑みが消えた。ハラールの斬撃は止まっていた。
罠だ! ユーグは悟ったものの、間に合わない。ユーグの突きは頭をずらしたハラールの兜を滑る。その致命的な隙にハラールがユーグへと剣をふるう。殺られた、絶望的な確信がユーグの脳裏を支配した。
矢が、風を切った。
ハラールは咄嗟に剣をふるい、自分へと迫る矢を切りはらった。この状況で狙撃に反応するハラールは流石だった。しかし、隙ができた。空いたハラールの首横へと、ユーグは咄嗟に剣腹で渾身の打撃を叩きこむ。
「かっ!」
息を吐き出すような声を漏らして、ハラールが馬上に崩れた。
「ハ、ハラール様! 貴様等、卑劣な!」
ハラールとユーグの決闘を見守っていたサラーフ騎兵が、怒りの声を上げ、ユーグへと迫る。
「ユーグ様を守れ!」
同じく決闘を見守っていたアストテラン騎士団がサラーフ騎兵を迎え撃つ。
「ユーグ様、大丈夫ですか!?」
ユーグの身を案じ、マリヤが駆け寄る。
「ああ、大丈夫だ」
答えながら、ユーグの背には冷や汗が流れていた。状況が状況とはいえ、あまりに安直に相手の誘いにかかった。救いの矢がなければ今頃、自分は死んでいただろう。ユーグは森に潜むアーチンへと目礼を送る。
「ユーグ様、こいつはどうしますか? 殺さないんですか?」
マリヤは恐れの色が浮かぶ目をハラールへと向けた。その言葉にユーグはハラールを見た。未だかつてこれほどの敵は経験したことがなかった。恐ろしいほどの腕。敵ながら賛辞を送るべき相手だ。ユーグは先ほどの決闘を謝罪したいほどだった。
状況から致し方なかったとはいえ、狙撃での横やり。また、自分の心の未熟からあの程度の誘いで決闘を終わらせてしまったことを。普段だったら、あの程度の誘いに自分はかかっただろうか? 指揮官としての考えに気を取られ、騎士として恥ずべき戦いをした。
後悔、それがユーグの心にあった。また、これほどの男を殺したくないという思いが湧き上がる。そして叶うならば、何の憂いもない場でもう一度ハラールと神聖な戦いをしたいという願いが頭をよぎった。
「捕虜とする。厳重に拘束し、連れ帰ってくれ」
無事に退却できるかもわからない状況ではふさわしくない判断かもしれなかった。それでも気付いたら、ユーグはそう口にしていた。
「ええっ? わ、わかりました」
マリヤは腫れものに触れるようにしながらも、ユーグの命に従いハラールの馬の手綱を馬上から引いた。それを見たユーグは戦場へと目を戻す。驚くべきことに、遥か遠くではアストテランの民が戦いに参加しているのが見えた。ということは、ユーリイ様も。普段はやる気のない素振りを見せつつも、あの人が領民に戦わせて、自分がおとなしくしているはずがない。忠誠を誓う主君のことを考え、ユーリイは指揮官へと戻る。
「敵は指揮官を失った! 残兵を打ち破り、全速でオーウィン騎士団の背を追う!」
言うが早いか、ユーグは仇打ちへと燃えるサラーフ騎兵へと駆けた。
※
「オーウィン! 無事か!?」
ついにサラーフ歩兵の大軍を貫き、オーウィン傭兵団の元へと至ったユーリイが叫ぶ。
「ああ、なんとかな」
指揮官を討たれた上にアストテラン民兵とオーウィン傭兵団に挟撃される形となり、潰走したサラーフ歩兵を尻目にオーウィンが答える。
「すまんな、雇い主に助けられるとは本末転倒もいいところだ」
恥じらいを隠すように頬をかきながらオーウィンは謝罪した。
「いや、敵が予想以上にやったと言うべきだろう。よく生きて戻ってくれた。ここで君達を失ったら早くも敗戦が決まるところだった」
「は、よしてくれ。自分の命が惜しいから気張っただけだ」
「そうかい? なんにせよ助かったよ。後は下がって休んでいてくれ」
手をひらひらと振るオーウィンをユーリイはねぎらう。
「言葉に甘えさせてもらおう、と言いたいところだがそうも言ってられん。道を塞ぐ倒木もそろそろ限界だろう。早いとこ騎士団を救出して退却しよう。それにこの敵はやる」
オーウィンは指揮官を失い混乱するサラーフ歩兵軍を見て獣の笑みを浮かべる。
「ここでできる限り、刈っておくとしよう」
「……そうだね。前列と後列、交代だ! アストテラン騎士団の救出に向かう」
侵略者を撃退したアストテラン民兵は興奮冷めやらぬ叫びで応じた。
※
「アストテラン騎士団、退却するぞ! 我が背に続け!」
ユーグは潰走しつつあるサラーフ歩兵軍へと突進する。隊形も組まず、ばらばらに動いていた歩兵軍が騎馬の突進を受けることができるわけもなかった。ユーグを先頭にアストテラン騎士団はバターを切るように容易く歩兵の群を切り裂いていった。その背に残されたのは壊滅したサラーフ第一軍騎兵隊だった。
「バ、バカな」
生き残りのサラーフ騎兵が茫然と呟く。ハラールを失い、それでも将軍の仇を取るべく、サラーフ騎兵達は戦意を失っていなかった。しかし、あの男が強すぎた。将軍と相対した敵騎兵隊の指揮官は、ハラールとの激しい一騎討ちの疲れを感じさせることもなく、再び自ら先頭に立った。そして将軍の敵を討つべく襲うサラーフ騎兵を、草を刈るように容易く刈り取った。まるで神話にある戦神のごとく、無人の野を行くように、前に立つ敵を文字通り蹴散らしていったのだ。
※
もはや戦いは一方的だった。指揮官も核となる戦力もないサラーフ第一軍は統率を欠いた。そこをアストテラン騎士団と民兵に挟撃された。多くのサラーフ兵はなすすべもなく討たれ、中には森に逃げ込むものもいた。そのようなものの多くはオーウィン傭兵団が森中に用意していた罠の餌食となった。中にはモンスターの餌食となった者もいるだろう。アストテラン騎士団と民兵は早々に合流を果たし、アストテラン軍は順次退却を始めた。退却の間にもアストテラン騎士団を中心に残兵を殲滅し、アストテラン軍はサラーフ第一軍を完膚無きまでに叩いた。サラーフ第一軍将軍ハラールの副官がようやく倒木を処理し終わったころには、アストテラン軍は退却を終えていた。そして、孤立させられたサラーフ第一軍先鋒はもはや立て直しが不可能なほどの壊滅的打撃を受けていたのだ。
※
報告を聞いたサラーフ親征軍・指揮官サラーフは、ばきっと手中のクルミを握り潰した。ひっと声を漏らした伝令を無視し、サラーフは思索を深める。
物見小屋の炎上。いかに古い木建て小屋とはいえ、火種もなく炎上するはずもない。森中からの奇襲。モンスターの蔓延る森をどのように抜けたのか。なにか仕掛けがある。そしてそれは一朝一夕のものであろうはずがない。周到に準備されたものだ。
敵奇襲部隊。数百ほどの寡兵でありながら万の軍勢に奇襲を敢行。それでいて戦力の主軸を失うことなく退却する練度。夜間の森中から各指揮官を狙撃する弓使い。
敵騎士団。こちらも数百ほどの騎兵ながら万の軍勢に突撃、退却を敢行。精兵揃いの第一軍騎兵隊を打ち破る。
援軍の民兵。ごく短距離とはいえ、危険を顧みない森中進軍で、孤立した軍の援軍に駆け付けたハラールは流石である。しかし、想定外の事態であろう援軍に、即座に対応した敵軍。しかも率いていたのは領主自身らしい。領主、敵指揮官は有能である。そして、その指揮に即座に対応できる程度には民兵の統率も取れている。
第一軍の被害。将軍ハラール、第一軍騎兵隊隊長、第一軍第一隊隊長、他四名もの指揮官・小隊長の喪失。第一軍三万のうち一万の損失。騎兵隊の壊滅。副官フラルが存命とはいえ、指揮系統は崩壊。主力の騎兵隊も失った。第一軍はもはや軍としての機能を失っている。
そしてハラールの敗北。信じがたい。戦いの師でもある、あの傑物がこのような辺境の騎士に負けるなど。しかし、報告では横槍が入ったとはいえ、一騎打ちでの敗北である。少なくとも、ハラールと切り結べるほどの強者が敵軍にいる。
敵軍の評価。数百人の精兵からなる奇襲部隊と第一軍騎兵隊を破るほどの騎士団が存在。ハラールと切り結ぶほどの戦士の存在。民兵も十分な戦力となっている。そして、この奇襲の準備を整え、作戦を立案した指揮官、恐らくはこの地の領主。極めて有能だ。……手強い。油断は出来ぬ。
しかし、今回の奇襲で敵の戦力は見て取れた。ハラールの援軍は敵からしてみれば想定外かつ、致命的なものであったはずだ。その救出に現れたのが領主と民兵。つまり、敵には数百人の奇襲部隊と騎士団以外には確たる戦力を持っていないのだ。少なくとも今は。ならば話は簡単だ。その精兵を葬り去れば敵軍は瓦解する。もしくは指揮官、領主の首を取るか、あるいは力押しで敵軍を飲み込むか。大したことではない。どの選択肢もこちらは取ることができる。まだこちらには九万の兵力があるのだから。
「サラーフ様!」
サラーフの思索を喚声が遮る。血にまみれた騎士の一団が狂気の色を浮かべていた。
「何事だ?」
思索を邪魔され鬱陶しそうに眉を上げるサラーフの様子に気付きもせず、興奮した騎士は殺意を現し応える。
「サラル様とハラール様を狙撃した敵軍の弓使いを捕えました!」
言葉が終らぬうちに縛りあげられたアーチンと数名の傭兵が騎士の群の中から蹴りだされる。捜索隊に追われ潜む身でありながらユーグを、ひいてはアストテランを救うためにハラールへの狙撃を断行したアーチン。彼はその一矢と引きかえに、自身の安全を失った。
「ほう?」
残人な笑みを浮かべるサラーフ。指揮官の仇に殺意を募らすサラーフの騎士達。アーチン達は舌を噛み切っての自害と、わずかな生き残る希望で揺れる。そんなアーチン達の眼前、サラーフは笑みを浮かべながらも、捕虜の処遇について考える。
ハラールの決闘に泥を塗った卑劣漢として散々になぶり殺し、兵の溜飲を下げる。その後、死体を弄び、敵軍に向けて掲げる。民兵が多くを占める敵軍の士気に与える被害は大きいだろう。悪くない。
しかし、ある可能性にサラーフは問いを発する。
「貴様、名はなんという?」
荒々しいが、確かにフローラント語でサラーフはアーチンに語りかけた。彼だけでない。サラーフ軍の元奴隷の中には異国の言葉を話せるものは多くいた。アル同様に奴隷としてとらえられた異国民との交流を通して自然と言葉を身につけているのだ。
「ア、アーチンといいます」
そのことを知らないアーチンは、同じ言語で話しかけられたことに驚きながらも応える。
「ハラール、貴様達が一騎打ちに水を差し、敗北した我が軍の指揮官がどうなったか見えたか?」
氷のように冷たいサラーフの目に威圧されながらもアーチンは答える。
「マリヤ、我が方の騎士が馬に乗せて連れ帰るのを見ました」
「ふん、そうか」
それだけ聞くとサラーフは興味を失ったようにアーチン達から目を逸らした。
「牢に閉じ込めておけ」
「こ、殺さないんですか!?」
血に濡れた騎士達は皇帝に向かって叫ぶ。表にこそ出さないものの、一目で納得していないのが見て取れた。
「ハラールは捕虜となった。ならばそいつらは取引に使えるかもしれん。そしてそいつらを殺せばハラールも殺されるかもしれん。拷問も同様だ」
つまらなそうに眼だけを向け、サラーフは説明する。そしてその言葉を聞いてしまってはいかにアーチン達を憎んでいようと、騎士達は手を出せなくなってしまった。凄まじい怒りの形相を浮かべながらも、騎士達はアーチン達の縄を引き、連行していった。
それを見送り、サラーフはずっと控えたままだった伝令に目を向ける。
「貴様は全軍に指令を伝えろ。物見を増やし、警戒を厳にせよ。だが、見張り以外の兵は休息をとれ。各指揮官もな。今日はもう夜襲もないはずだ。本番は明日だ」
「はっ」
不審の表情をわずかに浮かべたものの、そのまま出て行こうとする伝令に独り言のようにサラーフは続ける。
「兵力で劣るものが敵に奇襲をかけるならば、一番効果のある初撃でできる限りの被害を相手に与えなければならない。次の攻撃からは警戒され、初撃ほどの効果を望めないからだ。今回の相手はそこそこやる。この程度のことは分かっているだろうよ。また今回は想定外のハラールの援軍に対し、敵は民兵まで動員している。もう一度夜襲をかけるほどの余力は敵にはあるまい。こちらの士気を削ぐため、散発的ないやがらせはあるかもしれないが、その程度だ。地の利がある相手を夜間、捕えようとするだけ無駄だ。今日のところは休息を取り、明日の本番に備えることだ」
「は、はっ!」
重要な役割である伝令にはそれなりに優秀なものを選んでいる。この説明で、自身の役割はわかっただろう。混乱し、敵に怯える指揮官、ひいては兵にできる限り現状を理解させること。そして、明日の本番に支障をきたさないよう休ませること。難しい状況ではあるが、最低限の努力はするはずだ。
そう、これ以上の夜襲はないはずだ。理由は正に伝令に伝えたとおり。無事脱出したとはいえ、多勢の第一軍を相手取った敵の奇襲部隊、騎士団ともに相当消耗しているはずだ。ここで無理をさせては肝心の明日の昼のこちらの攻撃に対応できない。民兵などもってのほかだ。奇襲の成功で意気が上がっているかもしれないが、ここで御さなければ長期の籠城戦が持たない。相手も消耗しているのだ。あるとすれば、兵を用いない襲撃。木建て小屋と倒木、火計。いや、これもない。これをやるにしても兵は必要だ。何より、敵は火を抑えている。そう、森中の小道に十万の大軍。よく考えればこれほど火計に適した状況はない。今回の襲撃で軍全体の退路をあの倒木の計で断たれ、森自体に火をはなたれたらこちらの軍は崩壊していた。それをしなかった。当然のことではあるが、自分の領地を犠牲にしての焦土作戦などできないということだろう。
ここまで考え、サラーフはようやく安心したように息を吐く。まさかこんな辺境の初戦からこれほど疲弊させられるとは思わなかった。いいことでも考えるとしよう。
ハラールが生きている。それは吉報だった。この遠征はこの地で終わりではない。アストテランの地を抜いて、フローラントのさらに深くまで豊かな大地を奪いに行かなければならない。そのためにはハラールが必要だ。いかに兵がいようと優秀な指揮官なくしては意味を持たぬ。いざという時に全軍を率いられるだけの度量を持つ男をこんな初戦で失うわけにはいかない。それにハラールはこれからも帝国に必要な男だ。皇帝の剣としてこれからも働いてもらわねばならない。また、彼には剣と戦を教わった恩義もある。なんとしても取り戻さねばならぬ。
決意を胸に、サラーフの意識はようやく眠りに落ちた。
Ⅲ二日目
日が昇る。常は暖かさをもたらしてくれるその光も、今は痛い。地獄の始まりを告げる明りだった。
「偉大なるサラーフ帝国の強者共よ! 貴様等は強い! 体焦がす熱砂の大地で我らは育った! 不毛の大地で我らは木の根をかじり飢えをしのいだ! 我らは苦難の日々を生きぬいている!」
サラーフが壇上から見まわす兵の目に火が灯る。
「見よ! この豊かな大地を! 緑芽生え生命を育む地を! このような恵みの中、ぬくぬくと生きてきた者に我らが負けるはずはない! そしてそのような軟弱者にこの地は必要ない! 進め! 恐れるな! この遠征が終った時、我らは新たな地を手に入れる! そこは有り余る恵みと優しい日の登る豊かな大地だ! 殺せ! 奪え! 奴等の流血の上に我らは楽園を築こう!」
「おおおおお!」
皇帝の宣言にサラーフ兵が滾る胸の咆哮を迸らせる。
「栄えある先駆けを貴様に託す! ウルード!」
「はっ!」
皇帝の指名に第二軍指揮官ウルードが答える。
「勇猛なるサラーフ兵よ! 我らが力を示せ! 卑劣に流された第一軍の血! それは倍する奴原の流血でしか拭えぬ! 野蛮の輩に我らが誇り高き戦いぶりを見せつけろ!」
そこでウルードは第二軍を見回し、息を大きく吸う。そしてはるか先に聳えるアストテランの城壁をきっと見据える。
「全軍! 突撃ぃーーー!!!」
「おおおおおおおおおおおお!!!!」
天を裂くウルードの号令一下、サラーフ歩兵が突進する。森の小道を、その脇の畑を波のように蹂躙していく。城壁上から放たれる無数の矢にある者は傷つき、ある者は命を奪われる。それでも怯むことなく、サラーフ兵は倒れた屍を踏み越え猛進する。
アストテランの決して低くはないが、上りえぬほども高くない城壁にサラーフ兵が迫る。
「今だ! 引けい!」
城壁上で何かの指示が響く。
「おいさー!」
それに応える野太い声。ぎしっ、という木の軋む音。砂の下から突進するサラーフ兵へと切っ先の向けられた木杭が現れる。
「と、と、と止まれええーーー!!!」
先頭のサラーフ歩兵が叫ぶがもはや間に合わない。止まろうと踏みとどまるも後続に背を押され、木杭に体を埋められる。
「ぎゃああアアア!?」
最前列から三、四列目の歩兵までもが餌食となった。体を穿たれた犠牲者を見て、後続の歩兵が短く悲鳴を漏らす。
「臆するな! 前の屍を踏み越えても突き進め! 同胞の恨み、思い知らせてやろうぞ!」
兵の怯懦を見て取ったウルードがすかさず檄を飛ばす。野太く重いその声が、そしてウルードへの信頼が歩兵の怯えを掃う。
「おおおおおオオオ!」
後続の兵は杭に貫かれた仲間の屍の壁を乗り越え進もうとする。しかしそうして頭を出したものから、城壁上からの矢の餌食となる。
その様子を見てとったウルードはガギリと音が聞こえそうなほど歯軋りをする。
「正面から戦おうとせぬ卑劣の輩共が。弓兵! 歩兵の援護だ! 野蛮な手法で同胞を辱める者に鉄槌を下せ!」
「おおおオオオ!」
その指令を待っていた弓兵が力一杯引き絞った弓から矢を放つ。道も狭しと幾重にも並んだ無数の弓兵から、城壁上からの矢をはるかに上回る数の矢がアストテラン軍を襲う。ヒンと空気を切る矢に、城壁上のアストテラン軍は頭を押さえられる。その隙にサラーフ歩兵は木杭に貫かれた味方の肉壁を乗り越える。城壁内のアストテラン兵が山なりの矢を放つも、歩兵の勢いを完全に止めうるものではない。城壁下へとサラーフ歩兵が到達し、梯子をかける。サラーフ軍の侵略の手が、アストテランの城壁下まで届いたのだ。
※
「ふむ、こんなところだろうな」
戦況を見ていたサラーフは一人ごちる。
「フラル、参りました」
サラーフの下に第一軍副官フラルが参上する。片膝と片手を地につけ、皇帝へと対する。敬意からか、それとも恐れからか、地に向けた目を上げようとしない。
「フラル」
「は、はっ!」
サラーフに名を呼ばれたフラルはびくっ、と体を硬直させ、声を上げる。
「貴様は第一軍を率いて、昨夜、敵が夜襲をかけてきた森を洗え。ただ無策に森を抜けてきたとは思えん。恐らく我らの知らぬ道があるはずだ。それを探し出し、そこから奴らに逆襲をかけろ」
サラーフの指示にフラルは一瞬ぽかん、と間の抜けた表情を表に現す。皇帝サラーフは手柄には褒美を、失敗には罰を厳粛に与えてきた。彼は昨夜の第一軍の失態について責任を問われるものとばかり考えていたのだ。しかし、ここで更なる失態を重ねるほどフラルは無能ではない。すぐにサラーフの命を承服する。
「はっ! すぐに取り掛かります」
「うむ、油断するなよ。昨夜も森中には罠が仕掛けられていたと聞く。その道にもおそらくは何かが仕掛けてあるだろう。何よりもどのようなモンスターがいるかわかったものではない」
「ありがたきお言葉。細心の注意をもって、任務を遂行したく存じます」
フラルは右の拳を左の掌に当て皇帝へと頭を上げる。
「よし、行け」
「はっ!」
素早く第一軍へと戻っていくフラルから戦場へと、サラーフが目を戻すと、戦況に変化が生まれていた。
※
「敵襲だー!」
サラーフ弓大隊で悲鳴が上がる。城壁へと弓を放っていた彼らは側面の森から現れたアストテラン騎士団と、そして逆の森から現れたオーウィン傭兵団に挟撃を受けていた。
「迎え撃て! 剣に持ちかえろ!」
ウルードは指示を出しながらも自ら救援に駆け付けようとする。しかし、道を埋める自軍が障害となり、それもなかなか叶わない。その間にもアストテラン騎士団とオーウィン傭兵団は、弓を捨て、剣を持ち直そうとするサラーフ弓兵を刈り取る。ようやくサラーフ弓兵が迎撃態勢を整えた時には、両団は再び森中へと姿を消していた。
「ぎゃあああ!」
怒りのままに追撃をしようとするウルードの耳に前線からの悲鳴が木霊した。ウルードが城壁へと目を戻すと、梯子と登っていた歩兵が丸太の下敷きになっていた。またサラーフ弓大隊の矢が絶えた今とばかりに、こちら、サラーフ弓大隊へと矢が雨あられと放たれている。奇襲隊の攻撃に浮足立った弓兵の被害がさらにかさむ。
「くっ!」
ウルードは歯噛みをしながらも、考えを巡らせる。
「勇壮たるサラーフ兵! 怯むな! 幾度でも城壁を目指すのだ! その壁を乗り越え、今までの恨み、敵兵へと叩きこめ!」
まず前線の兵へと檄を飛ばす。
「おおおおおおお!」
以前変わらぬ檄に、先よりは弱いながらも、変わらぬ唱和の雄叫びが上がる。
「サラーフ弓大隊! 第一、三、五隊は弓にて前線を援護! 城壁下の歩兵を守るのは貴様等の役目だ! 第二、四、六隊は装備を槍と剣へと変え、森からの襲撃に備えよ! 第一、三、五隊を守るのは貴様等の役目だ! 各自、怠るな!」
「おおおおおおおお!」
ウルードの明快な指示にサラーフ弓大隊は息を上げてこたえる。そこまで指示を出してからウルードは森へと視線を戻す。さて、卑劣な奇襲部隊をどうしてやろうか、と。
「ウルード様!」
復讐に燃えるウルードの元に、本陣からの伝令である青旗の騎馬が訪れる。
「何事だ?」
「はっ。サラーフ様からの伝言です。森は第一軍に任せ、第二軍は正面からの突破に注力せよ、とのことです」
流石はサラーフ様、お見通しかとウルードは力を抜いて笑う。
「了解した。お任せくださいとお伝えしろ」
「はっ」
去っていく伝令を見送り、ウルードは城壁へと向き直る。
「攻め上がれ! 仇の奴腹はすぐ上にいるぞ!」
※
「こんなものを作っていたとはな」
森中の道へとたどり着いた第一軍代理将軍フラルは、半ば呆れ、半ば感心したように声を漏らした。昨夜、夜襲を受けたと報告のあったあたりから、森へと進軍した。森に仕掛けられた罠、そして稀に遭遇したモンスターに犠牲を出しながらも、顧みずに進んだ先には優に五メルトルはあろうかという道幅の道があったのだ。これだけの道ならば、モンスターを警戒しながら進軍することも可能だろう。木々茂る森中では多くのモンスターが人間よりも圧倒的に優位を誇るが、平地においては数の揃った軍の敵ではないからだ。もちろん竜などの一部のモンスターを除いてだが。
「サラーフ様にお伝えしろ。敵の隠し道を発見したとな」
「はっ」
抜け目なく伝令を発し、フラルは小道へと目を戻す。隠し道に辿り着けたはいいが、ここからが更なる難所だ。敵はこの道を使ってこちらに襲撃を仕掛けている。この道は敵の生命線であり、同時に弱点でもある。ここから襲撃を仕掛けているということは、この道は敵の心臓部まで通じている。森中に罠を仕掛けている敵だ。この生命線を素通りさせてくれるとは思えない。森中以上の罠が仕掛けてあるだろうし、ここで襲撃を受ければこの地に精通している敵が圧倒的に有利だ。気を引き締めていかなければいけない。
「進軍だ! 気を抜くなよ、どこから敵が出てくるかわからんぞ!」
自らに言い聞かせるようにフラルは檄を飛ばし、軍を進めた。
※
「状況はどうだい?」
声も重くユーリイが尋ねる。
「大方は想定通り、ただ思ったより進行が早いな」
オーウィンは軽く答えるが、その表情は渋い。
「こちらの見通しが甘かった、というよりは敵が想像を超えて優秀ですね」
「そう、だわな」
同様に暗い顔で唸るユーグに、オーウィンは参ったといったように頭をかく。
「正面は拮抗しています。敵指揮官の森からの襲撃に備えた布陣により、弓大隊への強襲は封じられたと言っていいでしょう。あそこへ飛び込んでは逆にこちらが袋の鼠にされてしまいます」
「そうだな。まさか一回の襲撃だけで即座に対応されちまうとは。あと一、二回は刈らせてもらえるかと思ったが」
「そうですね。あまり弓兵を削げなかったのは城門守備としては痛いところです。しかし、あの布陣を敷かせたのは弓兵が半減したという意味では助かったとも言えるでしょう」
「確かに。それに敵の侵入していない西側の隠し道からの弓による攻撃はまだ残ってるしな」
軍の指揮官としてユーグとオーウィンが正面の戦況について分析していく。
「油断は出来ないけど、城門に関してはまだ備えもある。ひとまずは良さそうだね」
「そうですね。今日、明日で落ちるといったようなことはないでしょう」
結論付けるユーリイにユーグも賛同する。
「で、急を要するのは東側の隠し道の方だな」
オーウィンの言葉に二人が目を細める。
「そちらの状況は?」
「場所は東側の隠し道の本道だ。どうも昨日捉えたおっさんが指揮官をやってた軍の残党が進軍してきてるみたいだな。入りこまれると厄介だからしこたま罠を仕掛けといてやったんだが、やっこさん怯むってことを知らねえ。味方を犠牲にして罠を突破してきやがる。残党っつっても二万近い数だ。今の調子で来られると時間の問題だな」
率直なオーウィンの意見に場の空気が重くなる。
「昨夜のように敵指揮官を討つというのは?」
ユーグが提案する。
「それができりゃあ助かるんだが、敵指揮官は罠を警戒しながら進んでるんでね。かなり部隊の後ろにいやがる。辿り着くのも厳しそうだ」
オーウィンの言葉からも軽さが消え、重々しい。
「いっそのこと森ごと燃やしちまえれば楽なんだがね」
自らの暗さを振り払うためか。両手を広げ、ふざけたようにオーウィンは言う。
「それは、できない」
目を伏せ、ユーリイは沈鬱に言う。ユーリイは敵を撃退したいのではない。アストテランの地を守りたいのだ。その守るべき場所を焼き払うことなどできるわけがなかった。
「分かってるよ。ちょっとした冗談だ。そんなマジに取らんでくれ」
困ったようにオーウィンは頭をかく。
「仕掛けてある罠で一日、二日はもつだろうが、それを突破されたらそれまでだ。守る場所が城門と隠し扉の二か所になって戦力が分散される上に、こちらの攻め手が一つ潰される。状況的には……まあ大分苦しくなるだろうな」
オーウィンの言葉はどこまでも容赦がなく、何より的確だ。だからこそ、何とかしなくてはならない。
「……しかし、この状況を逆手に取ることが出来れば、二万の敵を葬るチャンスというわけだ」
ユーリイは自らを奮い立たせるように、余裕を感じさせる笑顔を浮かべる。
「ふっ」「はっ」
こんな時でも諦めず、前を向く主君の姿に二人の指揮官は笑みをこぼす。全く頼りになる、と。
「さて、なにかいい方法がないか考えるとしよう」
ユーリイの提案を境に三人は口をつぐむ。
ユーリイはいつものように組んだ手に口を当て考えを巡らせる。このままいけばオーウィンの言葉通り、東の隠し道からの攻め手は潰される。その上、そこから敵が攻め上がることになり、こちらの守備は二分される。それは想定される最悪の部類の戦況だ。何としても避けなければならない。避ける方法として考えられるのは、敵を引かせるか、殲滅するかだ。引かせる方法として考えられるのは、城門前本道の敵に大打撃を与え、そちらの救援に回らざるを得ない状況を作ることか。しかし、そんなことができれば苦労はない。本道での戦いも苦しいものであり、現状維持が出来れば文句のつけようもないほどである。……引かせるのは無理か? ならば殲滅。こちらは火計を使えば容易ではあるが。だめだ。延焼を避けえるほど、畑があり幅広い本道と違い、隠し道は狭い。あそこで火計など使えば、森ごと燃えてしまう。守るべき地を燃やすことなどできない。何かほかに方法はないのか。西の隠し道という攻め手を失わないような。否、その考えが甘いのではないか。もはや何も失わず守れるような状況ではない。せめて、あそこから敵が攻め上がり、守備が二分される状況を防ぎうる策は……そう考えた時、ユーリイの頭にある閃きが浮かんだ。
「あった」
「本当ですか!?」「本当か!?」
二人が食いつくように詰め寄る。
「ああ。悪いねオーウィン。苦労して作ってもらったが、東の隠し道は捨ててもらうよ」
人の悪い笑みを浮かべ、ユーリイは嘯く。
「この状況を打開できるならそんなことはどうでもいいだろう。で、どうするんだ?」
呆れたように答えるオーウィンにユーリイは笑みを深める。
「そうか。なら、さらに悪いけど、また苦労してやってほしいことがある。それも大急ぎでだ。人手は何人割いても構わない」
ユーリイの説明を聞いていくうちに、オーウィンも笑みを深めていく。
「くくっ、無理を言ってくれる。それだけのことをこれだけの短期間でやれと?」
「無理でもやってもらわないとね。他に手はない」
「確かに。それじゃあ、俺は行かせてもらう。あんたの言うとおり、大急ぎで準備せにゃならん」
オーウィンが立ち上がり、出口へと向かう。そして出口へと差し掛かったところで振り返る。
「不満か? ユーグ」
問いかける先では、ユーグが思い悩むように顔を伏せていた。
「騎士のお前には受け入れがたい作戦かもな。だが、それを言うなら正面の丸太落としの先もそうだっただろう?」
ユーグの肩がぴくりと動く。思いだしたのだろう、もう一つの手についても。
「まあ、無理もない。正直、しがらみを捨て傭兵になった俺でもどうかと思わなくもない手立てだからな、両方とも」
そこまで話すと、ふと思いついたようにオーウィンがユーリイを見る。
「なあ、雇い主さんよ。あんたは一体何なんだ?」
「どういうことだい?」
「あー、勘違いしてほしくないが、あんたに不満があるわけじゃない。むしろ、傭兵の俺としちゃ、領主なのにここまで手段を選ばない雇い主と出会えたのは望むべくもない幸運だと思ってる」
「誉められてるのか貶されてるのか分からないな」
「まあ、半分以上は賛辞だと思ってくれ」
「残りはやはり貶されているのかな?」
苦笑するユーリイにオーウィンは目を細める。
「いや違う。怖い……いや、薄気味悪いんだな」
「何だって?」
予想外の言葉にユーリイは眉を上げる。
「わからんからな。俺達は傭兵だ。ユーグは騎士だ。それが仕事で生き方だからな、戦う。でもあんたは一体、何なんだ? どうして、そこまでする? ここまでの準備をして、そこまで準備をして、戦おうとする?」
「それを言ったら私も領主だからね。この地を守る責任がある。当然、戦うよ」
真剣なオーウィンに当然のようにユーリイは答える。
「まあ……それはそうなんだがな。その想いがどこから来るのか、ということさ。他の貴族様なら城でがたがた震えてるか、あるいは放っぽって逃げだしててもおかしくない。どうしてだ? どうしてここまでして、ここを守ろうとする?」
「それは……」
その言葉にユーリイは初めての疑問を抱く。確かに、何で自分はここまでアストテランを守ろうとしていたのだろう。でも、そんなことは考えるまでもない。誓ったのだ。父の代わりにアストテランを守ると。そう、だから、
「私が守りたいから、では足りないかな」
オーウィンはユーリイの目を見据える。真っ直ぐな、どこか危うさを感じさせるほどにあまりに素直な瞳だった。それを見てオーウィンは諦めたように頭をかいた。
「まあ、そうさな。傭兵の俺が戦う理由としちゃ、十分だ。それで、ユーグ。お前は大丈夫なのか?」
問いに答えるユーリイの様子を見ていたユーグが答える。
「ええ、思いだしましたから。私はこの地を、そしてユーリイ様を守ると誓ったことを」
「……そうか。ならいい」
その答えに、まだ若い二人を見て何かを言おうとしかけるも、結局オーウィンは外へ出ようとする。しかし、今度はユーリイがオーウィンの背に問いかけた。
「それを言うならオーウィン、君達こそなぜここまでしてくれるんだい? 普通の傭兵ならとっくに逃げ出していてもおかしくない状況だろう?」
「……俺達が守りたいから、では足りんか?」
ユーリイの言葉をそのままにオーウィンは返す。振り向かず答えるその姿は似合いもしない憂いを帯びて見えた。
「……いや、それで十分だよ」
それ以上追及せず、ユーリイは首を振る。オーウィンは右手を挙げて、ようやく外に出て行った。
※
日が暮れていく。しかし、サラーフの目に映る戦況に大きな変化はなかった。城壁を攻める第二軍を指揮するウルードの攻めは堅実で誤りはない。だが、だからこそというべきか。戦況は大きな変化もなく、順調とすら言える様相で進んだ。まあこれは仕方ない。本来、城攻めといったものは守る側が有利なのだ。なにせ相手には城壁という圧倒的なアドバンテージがあるのだから。それを崩そうとするなら、相手をはるかに上回る物量で時間をかけて攻め続け、相手が弱り崩れるのを待たねばならない。今回に関して言えば、数では相手をはるかに上回っているが、かわりに森によって攻める範囲を狭められている。これによって一度に攻め上がる兵数を限られているので、結局は時間をかけて攻めざるを得ない。
だが、それは城門攻めだけを見た場合の話だ。サラーフが期待しているのは隠し道を発見したという第一軍のフラルだった。時折もたらされる報告によれば、用意された数々の罠に苦労させられているものの、順調に城壁までの距離を縮めているとのことだった。このままフラルが城壁に達すれば、サラーフ軍は二か所から攻撃を仕掛けることが可能になる。さすれば、寡兵の相手は城壁を守り切ることができなくなるだろう。
日が、落ちた。
「撤退の鐘を鳴らせ」
サラーフは控える伝令に指示を出す。伝令は、はっ、と短く答えテントを出る。
もうすぐ目前の町は落ちる。
その時を思い描き、サラーフはいやらしくも妖艶な笑みを浮かべるのだった。
Ⅳ停戦工作
ユーリイとユーグが普段足を踏み入れることのない城の地下へと下っていた。やがて見えた扉を開くと、その中にはいくつかの鉄格子の牢があった。一番最奥の牢、その中にはこの戦いにおいて重要な役目を果たすであろう男が幽閉されている。
「来るのが遅くなって申し訳ない」
ユーリイは獄中にサファール語、いや今となってはサラーフ語というべきだろう、で話しかけた。難民との交流を通して、アストテランの民の多くはサラーフ語を身につけていた。先の戦いでユーグがハラールの言葉を解したように。
「お前もサラーフ語を話すか。よほど周到に準備をしていたらしいな」
古い木のベッドに横たわっていたハラールが身を起こす。顔には不敵な笑み。獄中にあり、手枷をはめられながらその振る舞いは勝手知ったる我が家にいるかのような堂々たるものだった。
「それほどでもないけど多少はね」
サラーフ語を話したことだけでも、こちらの手の内を読み取りそうなハラールの言葉をユーリイは否定しない。あえて手札をさらすこともないが、これからの交渉を考えればこちらに力があると見せておくにこしたことはない。
「ほう? まだ何か楽しませてくれるのか」
目をギラギラと輝かせ、ハラールは口の端を吊り上げる。意識してか、それとも無意識でも溢れ出してしまうのか。その巨体から発せられる闘気にユーリイは内心呆れる。
「穏やかではない物言いだね。こちらとしては人殺しの策など出さないにこしたことはないのだけど」
「なに、遠慮することはない。我らは全身全霊をもってその策を受け止めよう。その上で、乗り越え、踏み潰し、貴様等を叩き折る」
ユーグから多少の話は聞いていたがなるほど、とユーリイは戦士としてのハラールの片鱗を理解する。そして思う。これからの交渉の相手としては厄介だと。
「物言いと、そいつを従えてるところを見るとあんたがここの大将ってところか? わざわざ大将が捕虜のところに顔を出した理由は何だ?」
ユーリイの脇に控えるユーグにわずか視線をやり、ハラールは問う。
「あなたのような人を相手に遠回しな交渉をしても時間の無駄というものだろうね。率直に言おう。和睦の交渉をしたい」
「……まあ、そんなところだろうとは思っていたがな。それは無理というもんだ。新興の帝国の最初の親征だ。帝国の今後に関わる。絶対に失敗するわけにはいかん」
鼻で笑うようにハラールはユーリイの申し出を突っぱねる。
「それ位はわかってるよ。なにも親征をやめろとはいってない。アストテランを攻めるのをやめてくれと言っているんだ」
淡々と語られるユーリイの言葉にハラールが目を見開く。
「ほう? そいつはつまり?」
「あなたほどの人なら言わずともわかるだろう?」
ハラールの確認の言葉にユーリイも問いかけで返す。二人の視線が交錯し、やがてハラールが大笑する。
「はっはっは! なるほど、なるほど! できる相手だとは思ったが、まさかここまでの異物だとはな」
おかしくてたまらないというようにハラールは手で膝を打つ。
「だが、足りんよな? この場所の重要性はあんたみたいな人間なら当然わかっているだろう? ここアストテランは我が帝国の喉元に突きつけられたナイフだ。たとえ、俺達がここを避けて隣の地から侵攻したとしても、ここを通って背を突かれたら終わりだ。他を攻めるにしたってここは真っ先に落としとかなきゃいけない要地だぞ」
そうアストテランは蛇行するアスト川に沿ってサラーフ帝国に突き刺さるようにして伸びるフローラントの土地だ。フローラント、ひいてはネセウス教圏にとっては、サラーフ帝国、ひいてはアラール教圏へ攻め込む前線基地とでも言うべき橋頭堡だ。そしてサラーフ帝国にとっては侵略するにあたって最も邪魔であり、取り除いておきたい障害だ。だからこそサラーフは真っ先にここに攻め込んでいる。
「わかってる。だけど、今、フローラントにサラーフの後背を突くほどの余力はない。西への防衛に騎士団を回しているからね」
「ほう……。ずいぶんあっさりと明かすな」
ハラールは細めた目でユーリイを見やる。
「交渉で隠し事をしても仕方ない。これ位は明かさなければこちらの覚悟をわかってもらえないだろう? それに、フローラントの現状を明かしただけで、我がアストテランの力を明かしたわけではないよ」
よるべき母国の現状を明かして覚悟を見せながらも、これからの戦いに直結する自分の力を匂わせる。確かな思索と意図を匂わせるユーリイの語り口にハラールはにやにやと口元を歪める。
「なるほど。あんたみたいな人間が言うからにはただの強がりっていうわけでもなさそうだ。だが、この俺はそういう相手とこそ戦いを望んでいるのだがな?」
獣のような息を吐き、ハラールが獰猛に笑む。
そう、ここだ。ユーリイは息をのむ。頭は切れる、話も通じる。何より一軍を率いるものとして恐らく地位も相応に高いはずだ。その点を考えれば、ハラールは交渉相手として申し分ない。だが彼は将軍である前に、根に戦士としての獣の本性を持っている。強者との戦いを望んでいる。脅しが通用しない。こちらが手札として力を示せば示すほど、こちらに噛みつこうとする狂犬だ。
「新興帝国の最初の親征。絶対に失敗するわけにはいかないんだろう?」
ユーリイは力をこめてハラールを見据える。ハラール自身の言葉を返し、ハラールを折れさせようとする。ここは押し切るしかない。しばしの睨みあいの後、ハラールが声を漏らす。
「ふっ。まあ、そうだな。できるならば、戦神アラムのように真の闘争を望みたいところだが、今は時ではない。湧き上がる衝動は堪え難くもあるが、ここで失敗しては今後の戦いが続かなくなる。ここは親征の成功に力を注ぐべきだろうよ」
ハラールの言葉にユーリイは安心したように息を漏らし、肩を落とす。これで停戦への足掛かりができる。
「だが、どううちの皇帝を説得する? 俺が進言したとしても受け入れられるとは限らんぞ? フローラントに余力がないにしてもネセウス教勢力の橋頭堡が残ることに変わりはないしな。ビラルからの援軍もあるだろうからな」
小国でありながらネセウス教圏の中核たるビラル。ネセウス教圏をアラール教勢力が進行する時は必ず彼らが動く。
「それならビラルを攻めればいい。アストテランと隣接し、さらに南は海に守られている。ここを攻めるのをやめるとしたら、攻めるのに適当なのはあそこだろう」
今度こそ信じられないといった様子でハラールがあんぐりと口を開く。
「貴様、ネセウス教徒ではないのか?」
「ネセウス教徒さ。でも、それ以上にアストテランの領主のつもりだよ。アストテランと領民のためなら信仰も母国も捨てよう。私にとって一番大切なことは先祖が守ってきたこの地と領民の笑顔を守ることだ」
真っ直ぐに、あまりに真っ直ぐに、ユーリイは言い切る。自分に向けられる幼い、盲目な瞳に壮年のハラールは頭を振る。
「なるほど。掴めぬ男と思ったが、核はそこだったか」
「ああ。それだけが私のすべてだ」
「……それは誰の言葉だ?」
「何?」
唐突に声の調子を変えたハラールに、ユーリイは訝しげに眉をひそめる。
「一体貴様はどうして、こうも歪んだものかな」
「私が、歪んでいる?」
「ほう、自覚もないか。愚直なほどに盲目。あまりに未熟だが、盲信もここまでいけば面白い。……くく、いかんな。自分のものではないとはいえ、これだけの芯を持った男とは戦いたくもなる。全く我ながら難儀な気性だ」
「……悪いが私は君のような獣と戯れる趣味はない。大人しく他の地を目指してくれ。大事な帝国の未来がかかってる」
ユーリイはハラールの妄言に眉をひそめ、ハラールを邪険にする。つれないユーリイにハラールは肩をあげる。
「まあ、その方が賢明そうだ。お前のような男を敵に回す愉悦は魅力的だが、今は時ではない。だが、先も言ったが保証はしかねる。あいつもお前に負けず熱を持った男だ。威信にも関わる」
「その時は仕方ないけど、できる限りそうはならない事を祈るよ。ビラルのヴィラティアでも落とせば、今回の遠征の成果としては十分だろう? 今、こちらの西方諸国は互いを牽制し合っている。おまけにビラルの軍勢の一部はここの援軍として出立している頃だろう。そちらの軍勢をもってすれば時さえかけなければ攻略は十分可能なはずだ」
「まあ、そうだな」
南に海に突き出した形の国土を持つビラル。その国土の北東地域はアストテランの南方にあり、サラーフ帝国の領土に向かって伸びている。その付け根にある海洋都市ヴィラティアは海洋貿易で栄える商業都市であると共に、重要な軍事拠点となっている。ネセウス教圏へ大きく進行するためにはアストテランの地の方が重要性は高いが、経済的な面からみればヴィラティアの方が大きく勝る。
「あと皇帝を説得する材料が足りないというのならば、こちらから兵糧の支援をする準備もあると伝えてくれ。なんならその後の継続的な貢物についてもな」
「おいおい、本国にばれでもしたら大問題だぞ」
もうユーリイの常識はずれぶりには慣れたのか。ハラールは軽く返す。
「ばれたらね。ばれなければ問題じゃない」
ユーリイもしれっと受け流す。
「くく、情報に、今後の侵攻先に、兵糧、さらには貢物ときたか。至れり尽くせりだな。そこまでの覚悟と準備があるなら良かろう。皇帝様には前向きに伝えるとしよう」
「ああ、よろしく頼むよ」
そこで話が落ち着いたのを見て取ったユーグが牢の鍵を開ける。
「あいつがこの話を呑まなかったら、また貴様と闘う機会もあるかもしれんな」
牢から出たハラールの手枷を外すユーグにハラールが言う。
「再戦は望むところだが、今回に関してはそうならないことを願う。貴殿とは何の憂いもない場で全霊の決闘をしたいものだ」
ユーグは凛とした瞳でハラールを見返し応じる。
「くっく、憂いのない場で、か。わしは戦場でも決闘の場でも構わないんだがな。お前が全霊で戦える場が決闘の場ということであれば異論はない。そうなることを祈るとしよう」
最後にハラールは再びユーリイを見る。
「次にお前と対峙するときは、自身が芽生えた貴様を見てみたいものだな。このまま摘むには惜しい。今のままでも十分すぎるほど魅力的ではあるが、真の闘争に臨むには、確たる個を持つ者同士が相対せねばならん」
そう妄言の続きをユーリイに残し、ハラールは牢を出て行った。
※
皇帝サラーフのテントにサラーフ軍の主たる面々が揃っていた。第一軍将軍代理フラル、第二軍将軍ウルード、第三軍将軍ウラル、元サファール王家親衛隊将軍ハミール。そして言うまでもなくその将軍たちの頂点に立つ皇帝サラーフ。
「さて、まずは報告を聞くとしよう。ウルード、城壁攻めの様子は?」
サラーフが口火を切る。
「はっ。敵の備えに予想以上に兵力を削られています。また木杭と丸太の落木攻撃により、破砕槌による攻撃を城門に仕掛けることができません。しかし攻め続けることで状況を動かすことはできました。城門前の木杭に関してはもう使い切ったでしょう。梯子と登る兵に落としている丸太に関しては、この森を開墾した時のものだとすると無尽蔵と言える数を備えているでしょうが、数が増えればこちらの兵が城壁に上る足場を作ることになります。そうそう使い続けることはできないでしょう。兵数ではこちらが大きく上回り、さらに相手は民兵です。このまま攻め続ければ城壁突破は時間の問題と考えます」
ウルードは偽ることなく、ありのままの戦況を語った。皇帝サラーフに偽りを話すことの無為を知っているからだ。サラーフは事実を事実として受け止める。そしてそれに対処する策を考える、聡明で有能な皇帝だ。偽りを語る意味などなく、偽って戦果を語ろうものならそれに対する罰が待っている。
「ふむ、そんなところだろうな。こちらとしては無理をする必要はない。明日は第三軍のウラルと交替し、兵に休息を与えると共に、被害状況の確認、必要があらば陣容の再編をしろ。ウラル、明日はウルードに代わって引き続き頼むぞ」
「「はっ」」
ウルードとウラルはサラーフの指示に唱和する。至極当然の指示、異論などあろうはずもない。二人とも武人として武功に逸る気持ちが無いとは言えないが、そうして戦況と皇帝の心象を悪くするほど愚かではない。
「さて、こちらの方が重要だが、フラル。隠し道の攻略状況はどうだ」
「はっ。隠し道からの逆襲を恐れてでしょう。仕掛けられている罠は多岐にわたり、進軍を妨害されています。こちらへの襲撃のための別れ道も多く、中には道ごと落とし穴となっているようなものまであり時間を取られています。少々の被害には顧みず先を急いでいますが、城壁にたどり着くまであと二日はかかるかと」
ハラールの副官であったフラルは、皇帝と軍団を束ねる将軍のみで行われる軍議に参加するのは初めてだ。緊張はしていたが、必要なことのみを話す。あのハラールの副官をしていたのだ。このようなことで一々気後れしていては務まらない。
「一日だ」
「はっ?」
「明日で攻略しろ」
「なっ。そ、それは」
皇帝のあまりの物言いにフラルは言葉を失う。初日の夜襲の惨状から自分に対する皇帝の印象は良くないだろう。ここで反論していいものか。フラルは迷う。しかし、一軍を預かる者として、悪戯に兵を危険に晒すわけにはいかない。フラルは覚悟を決めるとサラーフを見据え、訴えた。
「お言葉ですが、皇帝。一日で攻略することは不可能ではありません。しかし、そうするには今以上に罠を顧みることなく、兵数に物を言わせて進軍せねばなりません。被害が倍増します。第一軍を預かる身としては賛同しかねます」
「ほう」
部下から明確に反論されたにも関わらず、サラーフはどこか面白そうに口を歪める。
「どの程度の男かと思ったが、あのハラールの副官を務めるだけはあるといったところか。皇帝たる我に逆らってでも必要なことは反論する。その姿勢、悪くないぞ」
フラルには意外なことに、サラーフはむしろフラルを誉めてさえ見せた。フラルが返礼の言葉を述べるのを遮って、サラーフは鋭く続ける。
「だが、今回に関しては命令に変更はない。侵攻の目的地がこのアストテランであるなら貴様のやり方で文句はない。しかし、今回の侵攻はそのような小さなものではない。異教徒共の豊かな大地を大きく刈り取り、略奪するものだ。そのためには時が何より肝要だ。異教徒共が事の重大性に気付き、団結して反抗する前に奪えるだけ奪う。そして足場を固め、迎え撃つ準備をしなければならぬ。そのためにはこのような辺境で時間はかけておれん」
フラルは言葉に詰まる。確かにサラーフの言には一理ある。しかし、それを飲めば彼が率いる第一軍は今度こそ崩壊するに等しい被害を受けるだろう。
「しかし、それでは我が軍は!」
叫ぶフラルに、嗜虐的な笑みを浮かべるサラーフは続ける。
「そうだな、我もそのようないわば捨て駒を、精兵たる第一軍にさせるには忍びない。貴様等には他の軍が道を攻略するのについていき、城壁までたどり着いたら城壁を落としてもらうとしよう。その役割に相応しいものは他にいる。なあ、ハミール?」
名を呼び掛けながら、サラーフがハミールを見る。屈辱に身を焦がされながらも元サファール王家親衛隊将軍ハミールが応じようとしたその時、
「すまんが邪魔するぞ」
ぶしつけに、ある男がテント内に乱入した。
将軍たちが咄嗟に腰の剣に手を伸ばし振り向くも、そこにいたのは予想外の人物だった。
「ハラール様!?」
フラルが感激の声を上げるのにハラールは手を挙げて答える。
「おう、フラル。貴様も無事だったか、何よりだ」
着の身のまま、おんぼろの麻服しか身につけていない姿でハラールはカラカラと笑う。その変わりない姿を見て将軍たちは安堵の息をもらし、剣から手を離した。
「ハラール。無事で何よりだ。が、なぜ貴様がここにいるのか説明がほしいところだな」
心に小さくない動きを覚えながらも、サラーフは冷静に問う。
「全く……可愛げのない弟子だな。無事生還した師匠にもう少し別のかける言葉があろう?」
「今が戦時でなければな。戦場においては何をおいても状況把握を即座にすべし。貴様から教わったことの一つだ」
にやりと不敵な笑みでこたえるサラーフに、ハラールはやれやれと首を振る。
「もっと人間味というものについても教育すべきだったな。まあ、重要な話もある。先を急ぐとするか」
そう切り出すと、ハラールは要点をかいつまんでユーリイの提案を場の者に話していった。
「信じられん。偽りか、さもなくばその男の正気を疑うところだ。……だが、真実だとすれば悪くない話だ」
ウルードが端的に場の者の考えを代弁する。
「そうですね。初日からの戦いぶりでこの地の敵の手強さはわかっています。わざわざこのような難敵と闘うよりは、地を移し、油断している阿呆の寝首を掻く方がはるかに楽です。その上、その後の侵攻を考えず、その場限りで奪い取る地の条件を見ればヴィラティアの方が勝っています。経済的にもそうですが、あそこを取ればヴィラティア以東の制海権は我らのものとなる。何より敵は貢ぐという形でこちらへの恭順も示している。難敵だとわかっている以上、あえて戦うこともないでしょう」
顎に右手を添えてフラルが自身の考えを開陳する。
「そうだな、異教徒の領土を大きく切り取るという今回の親征本来の目的とは異なるかも知れんが……略奪する狩り場としてはヴィラティアの方が面白そうだ。噂通りの栄えようなら、お宝も食い物も女もいいのが揃ってるだろう」
一人下品な笑みを浮かべながら頷くウラル。他の者とは少々異なる意見ながらも、先の二人の意見に反するものではない。
「気に食わんな」
場にユーリイの提案への賛同の空気が漂う中、サラーフがぽつりと呟く。小さな呟きながらも、そこにこもった威圧感にハラールを除く将軍の顔に緊張が走る。
「我は欲深いゆえな。そのような何を得するのか分からぬ話は理解に苦しむ」
「向こうの利益はわかりきっているだろう。この地の安寧だ」
サラーフの疑問にハラールが答える。しかし、その答えをサラーフは鼻で笑い飛ばす。
「戦場に生れ、戦場で育ち、奪い取ってきた我には分らんな。平和などに何の意味がある。所詮この世は食うか食われるか。より強くあれば、より富む。それがこの世の理。なればより強い我はこの地を奪う」
感情的なサラーフの言葉にハラールは内心で笑う。確かに若かりし日の自分もこのような考えをしていた。いや、根の部分では今の自分も同じ考えである。
「しかし、その考えならこの地で戦う理由にはなるまい。より富む別の地を奪ってもよかろう?」
「言ったろう? 気に食わん、と。この相手は我が自分の描いた筋道通り動くと思っておる。そこが気に食わん」
子供じみた、だが明快な答え。ハラールは思わず笑いを洩らす。
「くくっ、皇帝のものとは思えん言葉だな」
「どこがだ? 皇帝とは一番偉きもの。故に一番自分の感情のままに振舞うことを許されたものだ。誰よりも感情的に、誰よりも自分の我を通し、誰よりも快楽を貪り、この世を謳歌する。そうしてこそ皇帝であり、だからこそ我は皇帝となった」
確かにそうかもしれない。そうサラーフの言葉に共感しながらも、ハラールはまだ問答を続ける。本来ならここで終わりにしていいところだが、囚われの身から解放された恩義がある。加えて、内心ユーリイとユーグのことを気にいってもいた。それに、いずれ真の闘争を望めるかもしれぬ相手をここで摘み取りたくもなかった。
「なるほど、お前らしい言葉だ。だがしかし皇帝とは国を導くもの。なれば、国のために最善の道を選ばねばならん時もあろう?」
サラーフが眉をひそめる。
「ふん? お前がこの答えに対しても反論してくるとはな。だが、我は何も感情だけでこの地で戦い続けようとしてるわけではないぞ。ハラール、貴様は敵の首領と語ったのだろう。その男をどう感じた?」
意外な問いかけに今度はハラールが眉を上げる。
「ふん? そうさな、ふむ。強い、男だな。歪んだ借り物の誓いではあるものの、この地を守るという強い芯を感じた。そしてその想いを守るだけの力も、智恵も持っている。芯は違えど、お前と比しても遜色のない熱を感じた」
「それだ」
してやったりと言わんばかりの顔でサラーフが指摘する。
「熱を持った男。そして有能な男。そのような者をこのまま放っておいたらどうなる? より力をつけていくだろう。いつか我にとって脅威となるやもしれん。そうなる前に叩かねばならん」
それまでただサラーフとハラールの議論を聞いていた将軍たちの間に動揺が走る。ここでの継戦に否定的だった彼らも、サラーフの言葉に初めてここで戦闘を続けるべきとの思いが芽生えたのだ。
なるほど、無欲を解さぬサラーフらしい言葉だ。そう思いながらもハラールは続ける。
「だがあの男に外へ向く欲などない。あの男にあるのはこの地を守るという閉じた願いだけだ」
「ふん、人がどのように変わるかなどわかりはしない。欲に身を任せた時、憎しみに囚われた時、大切なものを失った時。他の者にとっては些細なことであろうと、その者にとって重大なきっかけがあれば人間などいかようにも転ぶ。そのようなこと言われなくともお前は重々承知だろう? それにその男がどのような者かなど関係ない。熱のある有能な男。そのような者の周りには放っておいても勝手に人が集まるのだ。そして動くのを強いられる時も来るだろう。この我のようにな」
まあ、我はいかに人が集まろうと自分の意志以外で行動したことはないがな、などと続けながらサラーフはハラールを見やる。ふう、とハラールは溜息を吐く。
「やれやれ、昔からお前には何を言っても無駄だったな」
「当然だ。我は我の思うままに行動する。その結果がいつも正しく、たとえお前が相手だろうと変わらん。もっともお前の言葉が正しいと我が判断した時は別だがな」
不敵に笑むサラーフがふと続ける。
「それにしてもお前ともあろうものが随分、敵のことを気にかけるではないか」
サラーフの指摘にハラールはバツが悪そうに頭を掻く。
「まあ、なあ。今回の相手は久しく見ないほど熱のある相手だったもんでな。それに決着をつけたい相手もいるからに」
「ほほう? お前にそこまで言わせるか。それに決着をつけたい相手か。そういえば聞いたぞ。貴様ともあろうものが一騎打ちで負けたそうではないか。その上、間抜けにも囚われ、さらには解放されるというおまけ付きか」
おちょくるサラーフの言葉にその場の者が噴き出す。副官であるフラルまでもが笑っていた。
「あ、あれは、横槍が入ったからだ! それさえなければ当然、わしが勝っていた!」
「くくっ。言い訳とは見苦しいぞ、お前ともあろう男が」
楽しげにサラーフは目を細め、ハラールを見る。他の将軍達もだ。ハラールはむう、と悔しげに口をつぐむ。しかし、誰も心からハラールを馬鹿にしているわけではない。彼の実力はその場の全員がよく知っている。
「しかし、横槍があったとはいえ、お前を打ち負かすほどの戦士に、お前にそこまで語らせる男か。ふん、殺すには惜しいな」
思わぬサラーフの言葉にハラールが反応する。
「では?」
「勘違いするな。是非とも配下に加えたいと思っただけだ。なんならこの地を任せてもよい」
「ならば恭順の意を示していることだしここは」
ハラールの言葉を遮りサラーフは宣言する。
「それはならん。予定通りこの地は攻め滅ぼす。そいつらを配下にし、この地を与えるのはその後だ。どちらが上かははっきりさせておかんとな」
どこまでも傲岸にサラーフは人差し指をテーブルへと叩きつけた。
Ⅴ三日目
翌朝、サラーフ軍陣内をいつもとは異なるざわめきが覆っていた。
「何事だ?」
喧噪に休息から覚まされたサラーフは苛立たしげに伝令へと問う。
「は、はっ。それが兵達の中に腹痛を訴えるものが多く出ているようでして」
「何?」
予想外の報告にサラーフは眉をひそめる。
「やられたな」
断りもなくハラールが皇帝のテントに入り込んでぼやく。
「どういうことだ? 状況は?」
サラーフは無作法なハラールを咎めることもなく状況を確認する。
「兵の多くが腹痛を訴えている。訴えている者が最も多いのは我が第一軍だ」
「……毒か」
短く推察の答えを口にするサラーフにハラールが同調する。
「だろうなあ。これだけの数となると偶然とは思えん。我が第一軍で被害が大きいのは初日の夜襲で兵糧を焼かれていたからだろうよ」
「あとは指揮官たるお前が無様にも捕まっていたからだろう? 我は食料は持ってきたものを使うよう指示していたからな。第一軍ではお前がいなかった分、その命令が徹底されにくかったわけだ」
苦境に陥りながらもサラーフは苛立ちを胸に秘め胸中に抑え込み、ハラールをからかう。
「むう、言葉もない……が、目の前に投げ出された食料が転がっていてはその命令も無益だろう。略奪は戦の醍醐味。そこに敵のものがあれば、奪い、食らい、犯す。現に第一軍以外でも被害は出ておる」
「まあな。それでこそ戦だ、仕方あるまい。しかし、いろいろやってくれる」
半分ほどの喜悦、そして半分ほどの憤怒を胸にサラーフは笑む。見る者を惹きつけ、屈服させる力に満ちた笑み。これほど強烈な笑みを浮かべる男をハラールは他に知らない。だからこそハラールはサラーフに全てを教え、仕えることに甘んじている。
「奴等も戦いをやめる気などないのではないか?」
凶悪な表情を消し、サラーフが手を広げる。
「いや、たまたまタイミングが悪かっただけだろう。あいつらは心から停戦を望んでおるよ」
「ふん、そうかな。まあ、どちらにせよ、手を緩めるつもりはない。随分入れ込んでいるようだが、当然貴様も働いてくれるんだろうな?」
挑発的なサラーフの視線にハラールは答える。
「そうさな。いささか残念ではあるが……やると決まった以上は徹底的にやらせてもらうとしよう」
残念というのは果たして心からの言葉だったのか。ハラールの瞳に浮かんでいたのは狩りを楽しむ獣の喜悦だった。
※
それぞれの軍の統率をしていたのだろう。ハラールより少々遅れて他の軍の将軍とフラルが皇帝サラーフのテントへと集まってきた。ハラールに関しては軍の指揮はフラルに放り投げていたのだろう。その証拠に報告と対策を練るこの場にフラルが来ている。本来、将軍でなければこの場には参列できないはずだが、ハラールは自身が捕えられていた昨夜、代理出席していたフラルが皇帝に認められたのをいいことに、これからは面倒な役目をフラルに押し付けるつもりらしい。こういうのも果たして転んでもただで起きないといっていいものかどうか。
「昨日の晩で今日の早朝か。ご苦労なことだが、早速各軍の状況を聞かせてもらおう。第一軍から順にだ」
サラーフの言葉にハラールがフラルへと顎をしゃくる。フラルは一瞬不満そうな顔を浮かべるものの、ハラールの尻拭いはなれているのか。諦めたように起立し、報告を始める。
「それでは僭越ながらハラール様に代わって第一軍の状況を報告させていただきます。被害は大きく、現在残っている一万七千の兵のうち七千が腹痛を訴えています。これは我が軍が初日に最前線にいたことと夜襲で兵糧を焼かれたためでしょう。小隊長にはありのままを報告し、兵糧を申請するよう伝えてはいました。が、自らの失態を隠すため報告せず、配給を減らしたのでしょう。その結果、空腹を覚えた兵が畑に残されていた食物を口にし、毒を摂取するにいたったと思われます。付け加えるなら我が軍の指揮官がへまをして敵軍に捕まり、指揮系統が混乱したのも被害が増した一要因と思われます。我が軍の報告は以上です」
最後にしっかりと面倒事を押し付けてきたハラールへの嫌味を付け足すのを忘れずフラルが報告を終える。着席したフラルの頭をハラールがわしわしと掴み、なんだ最後の言葉はなどと言い、フラルが事実じゃないですかと不満を漏らしている。その光景にサラーフは忍び笑いを漏らしていたが、ウルードは呆れたように頭を振る。そして無視を決め込み、立ち上がった。
「では続けて第二軍の状況を報告させていただきます。我が軍については第一軍よりは被害は小さく、現在の兵数二万九千のうち千ほどが腹痛を訴えています。我が軍については第一軍のような積極的に敵の食料を摂取する要因がなかったことが被害の差の原因だと思われます。しかし、初日に摂取したであろう第一軍に比して、摂食が遅れているため、症状の出も遅いのだとすれば、今後さらに腹痛を訴えるものも出てくる可能性もあります。我が軍の報告は以上です」
冷静なウルードの報告にサラーフが頷く。そう、第一軍が畑に残された食料を摂取してから発症まで一日ほど間があると思われる。であれば、第一軍よりも遅れて摂取した者がいれば、その者は今後、腹痛を訴えてくるかもしれない。厄介だな、とハラールが呟く。ハラールのように言葉に出さないものも他の将軍達も、苦虫を噛み潰したように顔をしかめている。その空気を破るようにウラルが音を立てて立ち上がる。
「では第三軍についても状況を報告させていただきます。我が軍は現在の兵数三万のうち三千ほどが腹痛を訴えています。原因、状況などについては二軍とほぼ同じだと思われるため割愛させていただきます。第二軍より少々被害が多い点については――まあ、我が軍ですから仕方ないでしょうな」
悪びれもせず笑うウラルに困った奴らだと笑い返すサラーフがハミールへと視線を移す。その視線から悔しげに眼を逸らしてハミールが立つ。
「サファール王家親衛隊について報告させていただきます。我が軍は現在の兵数一万ほどですが、腹痛を訴えている者はいません」
ほとんどの者がハミールの報告には興味が無さそうに、明後日の方向を向いていたが、その報告内容にハミールへと向き直る。
「いない、だと?」
ウラルが訝しそうに問い返す。
「はっ。我が軍では皇帝の命を守り、敵の食料を摂取する者がいなかったためかと思われます」
しぶしぶといった様子でハミールが答える。その答えを聞いた一同が吹き出す。
「なるほど、なるほど。流石宮廷育ちの親衛隊様は育ちが良くていらっしゃる!」」
嘲笑を隠そうともせず、ウラルはハミールに応対する。その言葉を聞いてハミールは歯噛みする。こうなるのがわかっていたから、答えたくなかったのだ。そう、ハミールのサファール王家親衛隊だけはサラーフ軍中にあって立ち位置が違う。他の第一軍から三軍に関しては、奴隷上がりの者や傭兵、反旧サファール王朝の諸侯などサラーフが皇帝になる前からのサラーフの部下、あるいは同志だ。それに対して、ハミールが率いるのはサファール王家親衛隊。そう、サラーフではなくサファール王家親衛隊だ。つまりサラーフが打倒した前王朝につかえていた兵なのだ。よって、サラーフ軍内で最も軽んじられている。さらに言うならば、馬鹿にされているのだ。なぜそのような彼らがこの遠征に連れてこられたのか。国に残せば内乱の火種となりかねない、建国直後で体制が整っていないための数合わせ。要因は様々にあるが、ハミールはサラーフが目論んでいる策謀をわかっている。
「いや、しかし助かった。サファール王家親衛隊には今日、重要な役割を果たしてもらわねばならなかったからな」
にやにやと底意地の知れぬ笑みでサラーフが話す。
「貴軍には本日、第一軍に代わって隠し道を攻略してもらわねばならないからな。これは、まことに重要な任務だ。今日中に頼むぞ。これは厳命だ」
ハミールはガギリと音が出そうなほど歯を噛み締める。それでも彼は頷くしかない。
「はっ!」
そう、これこそがハラールがこの遠征にサファール王家親衛隊を引き連れてきた理由だ。犠牲が多く出そうな、いわば捨て駒としての役割をサファール王家親衛隊に押し付けるため。そうすれば、サラーフは自らの腹を痛めず戦闘を有利に進められる上、体良く前王朝の関係者を処刑できる。わかってはいても軍人たるハミールにはこの命令に逆らうことができない。一軍を預かるものとして部下を守ることもできない自分の無力さ。それが歯痒く、情けない。屈辱と嘆きに苛まれるハミールに、サラーフは残虐な笑みを深める。
「それで、今後の方針はどうするのだ?」
屈服した相手を見下す愉悦に浸るサラーフにやれやれと首を振ってハラールが問う。愉しみを遮るその声にサラーフはつまらなげな目を向けた。
「そうだな。まず体調不良の兵をこの狭い地に残しても邪魔なだけだ。今後の戦いでも使い物になるかもわからんしな。本国に帰すとしよう」
サラーフの言葉に頷きながらも、ウルードが確認の問いを返す。
「良きお考えかと思います。しかし一万以上の兵を返すとあっては今後の侵略に支障をきたすと考えますが?」
「もちろんただ帰しては今後に関わるからな。入れ替えに本国からあと十万ほど援軍を送ってもらうとしよう」
「十万!?」
予想外の数にサラーフ以外の全員が声を上げる。援軍を呼ぶまでは想像の範疇だが、その兵数が予想よりはるかに多い。その場を代表し、ハラールが苦言を呈す。
「それでは本国の防衛に支障がでるぞ。まだ国内を完全に統治できているわけでもない。それに東のチャウニンも山を越えた北のドラークもいるのだぞ」
そうサラーフ帝国は建国されたばかりでまだ国内の情勢も不安定だ。それを統治するための武力が国内には必要だ。さらには東にチャウニン、北にドラークという脅威がある。サラーフと同等の国力を持ち、異なる文化で独自の技術を持つチャウニンは油断ならない後門の狼だ。そしてそれ以上に危険なのが山を越えた北のドラーク。半分以上が凍土に覆われたサラーフ以上の不毛の国土ながらも、故に他の民族が住まない広大な大地を縄張りとする彼らは国力でサラーフに勝る。本国を留守にしては彼らがいつ攻め込んでくるのか分かったものではない。
「問題なかろう。旧王朝の間抜けにどうにかされるほど本国を任せたイザルは無能ではない。チャウニンは油断できぬ相手だが、背後にも島国パンネという危険を抱えている上に、東の砂漠越えに危険と時間を伴う。ドラークについては冬の今は国内で手一杯で他には手を出しづらかろう?」
むう、とハラールが唸る。確かにサラーフの言う通りだ。だが、だがしかし。
「だが、しかし万一ということもある。我らのように無理を通してチャウニンかドラークが侵入してきたらどうする? ただでさえ建国されたばかりの我が国は狙われておるかもしれんのだぞ」
「その時はあの地を捨てればよかろう」
「な」
サラーフの言葉に全員が言葉を失う。
「もともと我らは奪えるところから奪い、戦地を渡り歩いてきた侵略者だ。なれば、今回もより富める場所から場所へと奪い、侵略していけばよかろう」
もっとも略奪者たる我は奪いはしても、自分のものは簡単にはやらんがな、とサラーフは妖しくも美しい笑みを浮かべた。事も無げに語るその様子。奴隷の身から奇跡的に手に入れた王国を失うことをものともしない。常により略奪する先を見る。そうだ、我らの王はそのような男だった。ハミールを除く場の一同が口元に笑みを浮かべる。
「しかし十万もの軍をいかがするのです? この地にそれだけの援軍が来たところで戦える兵数は限られますが」
フラルが冷静に問う。
「当然そうだ。せっかくいい提案と情報をいただいたんだ。援軍にはヴィラティアを落としてもらうとしよう」
ぽかんとフラルが口を開ける。そんな間抜け顔のフラルを放って、まあ援軍が来るころにはここは落としてるがな、とサラーフは嘯く。
「ククククッ……ハッハッハッハ!」
耐えきれんといった様子でハラールが呵呵大笑する。それにつられてフラルも、ウルードも、ウラルも笑い声をあげる。
「そう、そうだ! それでこそ我らが王だ!」
ハラールが叫び称える。サラーフは当然だとばかりに、肘をついた右の拳に鷹揚に頬を載せる。その中にあってハミールただ一人だけが、獣の檻に放り込まれたように背筋に冷たいものを感じていた。
※
「報告します、サラーフ軍に捕らわれていたアーチン達が帰還しました」
伝令が司令室のユーリイへと報告する。
「すぐにここへ通してくれ」
期待の色を声から滲ませてユーリイは指示する。その指示に答えて、伝令は外へと走る。
「あの男がうまくやってくれましたかね」
ユーグも開戦以来見せることのなかった穏やかな顔を見せる。
「そうであることを願うばかりだね」
ユーリイが答えると外から声がかかった。
「アーチンです」
ここ二日聞かれることは無かったが聞きなれた声。確かにアーチンだ。
「入ってくれ」
ユーリイの声にアーチン達が入室する。体に心配したような怪我は見受けられないものの、表情が暗い。それを見たユーリイとユーグの表情にも緊張と陰りがよぎる。
「まずは無事で何よりだ。よく戻ってきてくれた」
「はっ、身に余る言葉です」
傭兵でありながら騎士のようにアーチンが答える。そのアーチンにユーグが頭を下げる。
「あなたの一矢で私もひいてはアストテランも救われた。心から御礼申し上げたい」
「それは何より。まあおかげで死ぬかと思いましたがね」
相好を崩したアーチンが軽口をたたく。
「まあそんな話はさておき、お伝えしなければならないことがあります」
重いアーチンの口調に二人は頷く。
「敵皇帝サラーフからの伝言です。『我が部下ハラールを無事に返してくれたこと、心から御礼申し上げる。だが、貴殿の期待には添えん。体勢が整い次第、戦を再開させていただく。なお、ハラールの礼として我が方で捕虜としていた貴殿の部下を返させていただく。また、今後捕虜としたものも無条件で返させていただく。では、貴軍の幸運を祈る』とのことです。また敵将軍ハラールからは『期待に添えずすまん。だがやるとなった以上、全力でやらせてもらう』とのことです」
重く語るアーチンにそれ以上に沈鬱にユーリイが俯く。
――失敗した。
これで状況はかなり苦しくなった。まだ温存している策はあるものも、どれもその場しのぎのものにすぎない。数は減じたものも、十万もいた敵軍を葬り去りえるものはない。ハラールを解放したのは間違いだったのではないだろうか。このような結果に終わった今となって、そんな考えがユーリイの頭をよぎる。
「ユーリイ様」
細く、ユーグがユーリイの名を呼ぶ。その声にユーリイは顔を上げる。ユーリイを気遣うユーグと目が合う。ユーリイは苦笑する。全く、部下に気遣われていては指揮官失格だったな、と。
「終わってしまったことは仕方ないな。まだ策はある。援軍の民兵も近いうちに来るはずだ。なんとか力をあわせ、援軍が来るまで持ちこたえるとしよう」
自らを奮い立たせるように力強くユーリイが言う。そう、援軍さえ来れば話は別だ。十万の敵だろうと撃退しうる。
「はい」
ユーグはユーリイを安心させるように笑みで頷く。
「君の弓にも期待してるよ、アーチン」
「今度は捕まらん程度に気張らせてもらいますよ」
薄笑いで答えるアーチンがそこでふと問いかける。
「そういえばうちらの大将はどうしたんで?」
※
「進め! 何としても今日中に城壁まで辿り着くのだ!」
悲痛なハミールの号令が響き渡る。その命令がもたらすものをわかっていてもハミールは命令するしかなく、またサファール王家親衛隊の兵達も命に従うしかなかった。
隠し道をなんの策も警戒もなくただ進むサファール王家親衛隊の兵が一人、また一人と張り巡らされた罠に倒れていく。別れ道にも兵を分散して進軍を続け、その歩みが止まることはない。そして、別れ道からは兵が戻ってこないこともある。その先の罠の餌食になったのか、モンスターの餌食となったのか、本軍から窺い知ることはできない。
しかし、それでもサファール王家親衛隊の進軍が止まることはない。騎士としての責務もある。騎士たるもの命令には逆らえない。否、主君を失った今、彼らは騎士ではないのかもしれない。従うべき命令もないのかもしれない。それでも彼らは進軍を続ける。続けなければならない理由がある。
故国に残された家族がいる。旧王朝に仕えた騎士の家族として、妻達は迫害されているかもしれない。それでも、家族は生きている。まだ生きているのだ。しかし、ここで自分達が命令に逆らえば家族はどのような目にあうだろうか。処刑されるだろうか。否、その方がまだましかもしれない。奴隷上がりの新たな自分たちの主君。あの男なら家族を奴隷として売るかもしれない。凌辱するかもしれない。拷問するかもしれない。想像するだけで恐ろしい。
『貴様等が命令に忠実に従えば、残された家族は名誉の戦死を遂げたサラーフ帝国兵の遺族ということにしてもよいのだがな?』
サファール王家親衛隊の兵の頭に蛇のような笑みを浮かべる皇帝の姿が思い起こされる。憎き主君の敵、忌むべき相手。それでもサファール王家親衛隊は、その男の命令には逆らえない。
「ふむ、順調に進んでいるではないか」
安全な後方から現れた本陣の伝令が最後尾で指示を出すハミールに語りかける。
「はっ。今日中に攻略せねばならぬゆえ」
ぎりぎりと皮が破けそうなほどに手を握りしめ、ハミールは答える。
「うむ、良い。その意気だ。報告を怠るなよ」
小馬鹿にしたように言葉を残し、伝令は去っていく。伝令の行く先には、昨夜まで随伴することになっていた第一軍の姿はない。ハミールは今朝の軍議を思い出す。
『本陣の立て直しにはまだ時間がかかりそうだ。だが元サファール王家親衛隊と第一軍の体調に問題のないものには早急に隠し道の攻略に向かってもらおうか。今日中には攻略したいのでな』
敵の毒の策略への対応が話された後、サラーフは言った。
『あー、それなんだがなサラーフ。我が第一軍はサファール王家親衛隊が道を攻略し、城壁攻めを始めてから援軍として駆け付けるようにさせてくれんか』
その言葉にハラールが提案した。
『ふむ? なぜだ?』
訝しむサラーフにハラールが答えた。
『うむ、何かきな臭さを感じるでな。隠し道を攻略されることは敵にとっては致命傷だろう。寡兵の敵には二か所を防衛するほどの余裕はないはずだ。だからこそ、何の対応もないのが臭い。フラルから聞いたが、昨日はあらかじめ仕掛けられた罠こそあったものの敵による妨害がなかったようだな』
『……確かにな。これほどの策略をめぐらす敵だ。矛盾を感じる』
『だろう? おまけに昨日、敵指揮官は牢中で策があるとご親切にわしに教えてくれとる。ならば我が軍の進軍は策とやらの有無を確認してからでも遅くなかろう』
『無駄に時を費やすのは気に食わんが……ふん、正論だな。よい、その方針でいくとしよう』
『ということだ。すまんなハミール。先鋒は任せたぞ』
一部始終を思い出し、ハミールは唇を噛む。ハラールは他の将軍と違い、サファール王家親衛隊をあからさまに小馬鹿にしたような対応は取らない。また騎士としてあの男の力量にハミールは微かな尊敬も感じている。だが、結局あの男も根の部分ではウルードやウラルと変わらない。サファール王家親衛隊を捨て駒にしたのだ。なんの策があるか分からない。だから自分の第一軍は行けない。まずサファール王家親衛隊を行かせろ、と。
結局この軍にあって自分たちの味方など一人もいないのだ。いっそ裏切って敵に加担し、サラーフ軍と戦えればと思わなくもない。そうすれば、旧サファール王家に仕えた騎士としての本分を全うすることができる。だがそれはできない相談だ。自分達には両親を、妻を、子供を犠牲にして戦うことなどできない。我らは守るものを捨てて欲望に身を任せるサラーフ達とは、いや獣共とは違う。大切なものを守りたい。例え騎士としての生き様を捨て、憎き敵の手駒として使われようと、最後まで愛する者のために生きる人間でありたいのだ。
※
「第三軍、準備整いました」
ウラルが片膝を地につけ、右拳を左の掌に当て報告する。前日のウルードと同じ姿勢、しかしウルードと比してどこか不格好で、違和感があり、滑稽だ。
「うむ。これで整ったな」
そんなウラルの姿も見慣れているのだろう。それを咎めることもなく、サラーフは鷹揚に頷く。
サラーフの指揮により、サラーフ軍は大きく陣容を変えていた。
最後尾、もはや戦闘に加われないほど城門から離れた位置に毒による病人とその護衛の一万。護衛の兵は現段階で被害の少ない第二軍と第三軍から割かれた。この集団は病人がある程度回復したら、そのまま本国に帰還する。
中軍に第二軍。前日は第三軍がここに駐留していたが、今日は第二軍と交代している。脇に畑があり、ある程度広いとはいえ本道もサラーフ軍全軍が戦えるほど広くはない。前日の戦いで少なからず消耗した第二軍は戦闘に加わらず、ここで体を休めている。しかし、戦いに変化が起きた時にはすぐに動ける体制だ。
第二軍の前面に第一軍。彼らは元サファール王家親衛隊が隠し道を攻略した連絡が届いたら隠し道を通じて、城壁を攻める。
そして最前面に第三軍。今日の城門攻めは彼らの役目だ。前日の第二軍の攻めで備えと気力の消耗した敵城門を攻める。
「よい、任せたぞ、ウラル。遠慮することはない。できるようであらばサファール王家親衛隊が隠し道を突破する前に正面を落として見せよ」
当然、サラーフは昨日の今日で城門を正面突破できるとは思っていない。あくまで本命は隠し道を攻めるサファール王家親衛隊、そして第一軍だ。しかしそれでも、主攻のウラルを焚きつける。
「はっ。前王朝の遺物の力など借りるまでもありません。我が奴隷軍の力、異教徒に存分に見せてやりましょう」
わかっていながらウラルも請け負う。本命は隠し道。しかし、彼が正面を突破すれば本命の出番などない。城門を守る主力は戦いのたの字も知らぬ民兵。前日の二軍の攻めで、相当に消耗しているだろう。地に埋められた木杭の罠は使い切り、死体と落とされた丸太で城門前の足場は悪くなっているが、逆に考えれば足場が高くなり城壁上までは近くなっている。前日に比べれば、戦闘の条件は良い。
「我らが城門を突破し、略奪する様、ゆるりとご覧ください」
下品な笑みを面に表し、ウラルは言う。
「期待しているぞ」
答えるサラーフの相貌はいつもと変わらず威厳に満ちているものの、どこかウラルと同じく薄汚さを増したように見えた。サラーフの前を発ったウラルは騎乗し、今か今かと戦いの時を待ちかねていた第三軍のサラーフ兵へと向き直る。
「さあ、我らの力を見せるときが来た! 敵は民兵ながらも卑劣な手段で第二軍の猛攻を耐えしのぎ、第一軍に甚大な被害を与えた下賤の輩だ! 卑劣で、手段を選ばず、汚く、勇猛だ! ……我らと似ているな?」
笑みを浮かべ、ウラルが兵を見渡す。そのウラルにバラバラな兵装に身を包んだ第三軍の兵がにやにやと下婢た笑みで答える。第一軍は元奴隷軍の精鋭の集まりで、いわば奴隷軍正規部隊。第二軍は初期から奴隷軍に加担していた諸侯ウルードの部隊。そしてこの第三軍は奴隷軍の一般兵の部隊。ある意味、最もサラーフ軍らしい部隊だ。
「だが奴らと我らで致命的に違う点がある! それは我らは奪う側で、奴らは奪われる側ということだ! 手段は問わん! 目前の城門を突破しろ! 突破したら、後は自由だ! 欲望のままに振舞うがいい! いつも通り好きに奪い、犯し、殺せ!」
「ひゃっはーーーー! 大将太っ腹ーーーー!」
ウラルの言葉に奴隷兵は歓声を上げる。その兵に口角を上げてウラルは発破をかける。
「行くぞ! 獲物は早い者勝ちだ! それじゃあ、よーい、スタートォ!」
手を振り下ろしてかけられた、ウラルのふざけた掛け声で奴隷兵が我先にと城門へと駆けだす。頭を押さえる弓兵がいないため、アストテラン兵がこれでもかと矢を放つ。奴隷兵は面前にかざした盾で矢を防ぐ。腕や腹に矢傷を負う者も多いが興奮で痛みが薄れているのか。構わず彼らは走り続ける。中には胸や頭を貫かれ倒れるものもいるが、構わずに奴隷兵は倒れた仲間を踏み砕き走る。
――その先にある獲物を奪いに行く。
※
「なんなんだ、あれは!?」
矢を恐れぬ奴隷兵の姿にアストテランの民兵は恐れを抱き、弓を引く手が鈍る。しかし、民兵を指揮するコヴァーリと城壁上へと登ったアストテラン騎士団の声に従って懸命に矢を放ち続ける。しかし、奴隷兵は全く止まらない。ただ前進、ただただ猛進してくる。
城壁下へと辿り着いた奴隷兵が城壁を上ってくる。ある者は前日の第二軍同様、梯子をかけて登ってくるが、それに漏れた多くの者は鉤縄を使って登ったり、それすらない者は素手で城壁を上ってくる。各々が勝手に城壁超えを目指し、そこに統率などありはしない。故に敵軍の被害は前日と比して格段に大きい。だがそれに反比例するように、その進撃は前日と比してあまりに早い。
「丸太を落とせ! 早く! 補給も急げ! すぐになくなるぞ!」
アストテラン民兵は取りついた奴隷兵をそれ以上登らせないため、丸太を次々に落とす。下敷きになる奴隷兵も多いが、次第に奴隷兵の足場が高くなっていく。
道脇の木を奴隷兵が登ってくる。
「矢、放て! 絶対に城壁上まで登らせるな!」
矢を放ち、木を登る奴隷兵を撃ち落とす。しかし、木の反対側を登る者には中々当たらない。
「ヒャハハハ!」
やがて城壁上の高さまで木を登った奴隷兵が城壁上へと飛び降りる。
「まずい! 来るぞ!」
アストテラン民兵の悲鳴が木霊する。しかし、奴隷兵が城壁に降りる前に、一本の矢が奴隷兵の体を貫く。城門内に建てられた櫓の上のアーチンだ。彼の強弓が引かれる度に奴隷兵が次々に撃ち落とされる。しかし、彼一人で攻めのぼる奴隷兵全てには対処できない。
「も、森だ! 脇の森からも敵が!」
アーチンがいる櫓から離れて建てられた櫓の見張りが声を上げる。道脇の森、何と奴隷兵はそこに入り込み、城壁を、木を、登ってきているのだ。人が喚声を上げて、戦をしている近く。モンスターが中々近寄ってこないという理屈は成り立つが、それでも正気の沙汰ではない。オーウィン傭兵団が仕掛けた罠もあったはずだが、また数を頼みに突破されたのだろう。動揺が民兵を襲うが、ユーグが声を上げる。
「道以外の敵については騎士団が対処する! 皆は道から攻めのぼる敵にのみ集中せよ! 騎士団! 森から来ると言っても、入り込める範囲には限界がある! 落ち着き、対処せよ!」
「はっ!」
騎士団が左右に割れる。彼らは森から攻め入ろうとする奴隷兵に弓を射る。騎士である彼らの弓は民兵のものより強く、また命中率も高い。まれにそれを搔い潜り、木から城壁上に辿り着く者もいるが、鎧で体を守った騎士はそうそう深手を負わない。奴隷兵の剣などものともせず、軽装な奴隷兵を切り捨てる。
「いかん! 城壁下にかなり足場ができているぞ!」
落とした丸太は転がるものもあり、ただ城壁下に積み重なっているわけではない。それでも、これほど矢継ぎ早に落とせば、次第に積み重なってくる。前日から積み重なっている敵の死体もかなりの数になってきている。アストテラン民兵を指揮してきたユーグとコヴァーリが顔を厳しくする。
「ユーグ、コヴァーリ」
名前を呼ぶ声に、二人が振り向く。すると、いつの間に城壁上に上ったのか。そこにはユーリイがいた。
「ユーリイ様」「あんちゃん」
「あれをやる。それまで引き続き指揮を頼む」
緊張からか、ユーリイの顔面は蒼白だった。二人はそのような手を取らさざるをえない、自らの無力に臍を噛むも他に手立てもない。
「ユーリイ様、私が代わりに」
ユーグの言葉をユーリイは手で遮る。
「気持ちは嬉しいけど、これは私がやらなきゃいけないことだよ」
乾いた笑みでユーリイは言うと、顔に決意を浮かべた。
「あれをやる! 一番櫓、用意!」
ユーリイが城門内のアーチンがいる櫓に声をかける。それを聞いた櫓上の弓兵が慌ただしく動き出す。櫓の兵が一人、梯子を下りていく。
「壺、用意!」
続けてユーリイは城壁内に控える民兵に指示する。その声を聞いた民兵のうち五名ほどが顔を引き締め、脇の木小屋へと駆け入る。そして小脇に抱えられるくらいの大きさの壺を一人一つずつ運びだしてくる。彼らはその壺を持って、城壁上へと登る。
「一番櫓! 準備はいいか!?」
問いかけるユーリイにアーチンが頷く。
「壺! いいな!?」
城壁に登った五人の民兵が頷く。
「よし! やるぞ! 絶対に外すな! 壺を投げろ!」
ユーリイの声に五人の民兵が壺を投げる。三つの壺は前日第二軍を足止めした木杭に投げつけられ、二つの壺は城壁下の丸太に叩きつけられるように投げ降ろされる。それぞれ目標に命中した壺が割れると間髪入れずにユーリイが叫ぶ。
「一番櫓! 放て!」
声に櫓上のアーチンが矢を放つ。赤い線を描いた矢が壺の投げられた周囲へと次々に放たれる。
――一瞬で、火が燃え上がった。
「ぎゃあああ!」
火種の近くにいた奴隷兵が炎に呻く。城壁下にいた奴隷兵は逃げようとするも味方が邪魔で身動きが取れない。また後ろは木杭とそれに刺さった死体が燃え盛り道を塞いでいる。一番厳しい季節は過ぎたとはいえ、まだ春に届かない冬の乾燥した空気中。油を含むよく乾いた死体は木杭の火を吸収して燃え盛った。
「今だ! 丸太を落とせ!」
「おおお!」
ユーリイの指示に民兵が鬨の声を上げる。ここぞとばかりに丸太を落とす。城壁に取り付いていた奴隷兵は絶え間ない丸太落としに軒並み餌食となる。落とされた丸太も火種となり、火が燃え移る。丸太の下敷きになっていたものでまだ命のあった者こそ哀れだった。鳴き声を上げるも、身動きも取れず火に攻められる。やがて丸太の下でのたうちながら自身も火種となっていく。
「敵を脇へと逃がすな! 森に逃げ込もうとする者に矢を放て! 道脇へと矢を集中しろ!」
逃げ惑う敵兵を見とがめたユーグがすかさず指示を出す。
「おおお!」
森脇へと逃げようとする奴隷兵には矢がこれでもかと叩きこめられる。逃げ場を失った城壁下は阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。人の油が燃える匂いが立ち上がり、苦しみもがく悲鳴が場を覆い、炎にのたうつ人が黒く、炭化していった。やがて火勢は最高潮へと達し、城壁上のアストテラン民兵が顔を出せないほどになった。
「い、いやだ! やめろ! やめてくれ!」「ひいいい! たす、助けて!」「ぎゃああ! 熱い! 熱い!」
あれほど果敢に城壁を攻めた奴隷兵が、今は哀れを誘う鳴き声を上げている。身を切るような痛ましい悲鳴が城壁上のアストテラン民兵に呪いのように纏わりついた。神の御名を呼び許しを乞う者、がたがたと身を震わせる者。アストテラン民兵も自らが生み出した地獄絵図に苛まれていた。
「戦なんだ。気に病むな。やらなければ、私達がやられていた」
ユーリイは自らに言い聞かせるように言った。
「これは戦だ。敵は全てを奪っていく。土地も、家族も、何もかも。大切なものを守るため、私達は戦わなければならない」
話す声は震えていた。肉の焦げる異臭とそれ以上の何かに胃から込み上げようとするものをユーリイは堪える。体を襲う震えを鉄の自制心で押さえる。
「辛い役目をさせてすまなかった。しかし、君達は私の命令に従っただけだ。罪を感じる必要はない。責任はすべて私にある」
ユーリイの声に応える声はない。それでも、全てを背負おうとする領主の姿に、領民は唇を噛み締めた。領主に全てを背負わせるわけにはいかない。いまだ続く絶叫に震えながらも、声は出なくとも、領民はそう心に思った。
※
ウラルはわなわなと体を震わせた。眼前では部下が火に焼かれている。なんなのだ、これは? 怒りを通り越した疑問が頭を占める。それは絶え間なく頭を苛むが、答えなど出るはずもない。ぎりぎりと噛み締めた歯が割れそうだ。皮が破けそうなほど握りしめた拳。その左の拳で彼は自分の額を殴った。冷静になれ! 考えろ! 自分は第三軍指揮官だ!
考える。火計。攻め続ければ敵の士気は下がり、また足場ができ、戦況はこちらに有利になっていくと考えていた。いや、間違いではない。敵の士気は必ず下がっていく。籠城戦の常だ。だがしかし、足場に関してはこれで振り出しに戻ってしまった。敵がなぜ岩などではなく、丸太を落としていたのか。もちろん森の広がるこの地で手に入りやすいというのもあっただろう。しかしそれだけではなかった。初日の夜襲で火計が用いられた時点で気付くべきであった。
後悔はいい。今、考えるべきは攻略法。
……無い。あれに関してはどうすることもできない。雨の日を狙う。考えられるとすれば運頼みのそれ位のものだ。あるいは投げられた壺。恐らく油だろう。それが尽きるまで攻め続けるのみ。しかし、これだけの準備を凝らす相手。恐らく備蓄は相当なものだ。
攻略法は無い。ならば、せめて対処法を考えるしかない。敵は火計を用いるものの、森は燃やさないようにしている。道脇の森から攻めるのは有効だ。だが当然、城門の攻め手を絶やすわけにはいかない。そちらに関しては……勢いを弱めるしかない。さらに攻めを強め、相手の火種を尽きさせるという手法もなくはないだろうが、物資の底が見えない以上、そんな危険は冒せない。ならばせめて、こちらの被害を抑える戦い方をするしかない。幸いこの初手の火攻めで木杭は燃え尽きた。つまり城壁下の兵の逃げ道を塞ぐ後方の火種は消えた。次からの火計は退却がきく。油で後方に火をつけるかもしれないが火種のない油だけならすぐに燃え尽きる。弓による妨害はこちらも弓兵を用いればよい。我が軍の戦い方ではないが、仕方ない。正攻法で継戦し、隠し道が攻略されるのを待つ。攻略され攻め手が増えたら、犠牲を恐れず攻勢を強め同時攻撃によりこれを落とす。ウラルはそう構想を練り直すと、軍の再編を進めた。
※
「ようやく見えたか」
呟くハミールの目にはアストテランの城壁が見えていた。しかし、その声には目標に辿り着いた喜びよりも疲弊の色が濃い。一日足らずで罠の張り巡らされた道を攻略する。それを成し遂げた代償として、サファール王家親衛隊はその半数、五千の騎士を失った。
「おお、辿り着いたか!」
後方からの伝令が元サファール王家親衛隊の疲労など気にも留めない喜びの声を上げる。
「それでは早急に陣形を整え、攻め上がるのだ。罠の有無を確認せねばならん。なに、何だったらそのまま落としてしまっても構わんのだぞ?」
人をおちょくったような笑みを浮かべ、伝令が言う。ハミールは伝令を切り捨てたい衝動を唇を噛みしめ耐えた。
「私は後ろで諸君の勇士を見させてもらうとしよう」
言い残して伝令が後方に下がる。もし罠があったとき、巻き込まれるのを避けるためだろう。戦士の風上にも置けぬ輩が! ハミールは内心毒づくも虚しいだけだった。
「小隊長を集めてくれ」
「はっ」
脇の副官に声をかける。ハミールはこれからの城壁攻めについて頭をめぐらす。
ほどなくして生き残った小隊長たちが集まった。
「よく、生き延びてくれた」
開口一番、ハミールの口から洩れたのは言葉にしようともしていなかった本音だった。
「はは、運が良かっただけですよ」
苦笑で小隊長たちは返す。そうだな、とハミールも苦笑する。そう、本当に運が良かっただけだ。そして、罠にかかって死んだ者は運が悪かったということだろう。
「だが生き残ったからには、死んだ者の分も戦うとしよう」
「そう、ですね。そうでなければ礎となった彼らが浮かばれない」
哀愁を漂わせ、ハミール達は静かに決意する。
「具体的な戦略についてだが、基本の城壁攻めだ。第一、二隊が城壁を攻め三、四隊が弓で援護する。第五隊は必要な部隊の援護をする予備隊だ」
「本当に基本通りですね」
「ああ。結局のところは基本通りの正攻法が最も隙がなく、強い。幸い敵は正面に集中しているはずだ。こちらにはそれほど敵はいないだろう。ならば正攻法の力押しで押し切るのみ。だがまた何かしらの罠があるかもしれん。注意は怠るな」
ハミールの言葉に小隊長たちは頷く。
「もはや仕えるべき主君も持たぬ我らだが、騎士であることには変わりない。ならば騎士として恥じぬ戦いをしよう。そして、野蛮なサラーフ共の鼻を明かしてやろうではないか」
その言葉に小隊長たちは笑う。
「仮にも皇帝に向かってそれはまずいんじゃないですか」
「なに、どうせ聞いている者などいない」
「まあ、確かに」
ひとしきり内に秘めたものをさらけ出し笑った後、ハミールが指示する。
「それでは各自、取りかかってくれ」
「はっ」
応え、小隊長が走る。迅速に指示を出し、部隊が陣容を整えていく。無駄なく早い。流石は元、とはいえ王家の親衛隊を務めていた騎士と言うべき手際だった。
「全隊、準備整いました」
伝令の言葉にハミールが頷く。
「誇り高きサファール王家親衛隊の騎士に告ぐ! 我らが意地を! 誇りを! 敵に、味方に、示そうぞ! 守るべき者のために戦おう! 大切なものを守る意志は何より強い!」
ハミールの言葉に騎士の心が震える。何かをのむような静寂が過ぎ、やがて唱和の声が響き渡った。
「突撃!」
ハミールの号令に従って、手筈通り第一隊と第二隊が城壁に突撃する。城壁上のオーウィン傭兵団が矢を放つも、第三隊と第四隊の矢に頭を押さえられる。
「大将! もういいんじゃないですかい!?」
城壁上でかがみ込みながらオーウィン傭兵団の傭兵が言う。
「あんだけ手間暇をかけた罠、できれば敵の増援が来てから使いたかったが……仕方あるまい。欲をかいて城壁を突破されました、じゃお話にならん」
同様に頭を下げているオーウィンの肯定に傭兵は頷く。
「よーし、いいぞ! やれ!」
その声にサファール王家親衛隊の視覚外、左右の森の影の城壁に立つ傭兵達がせーの、と綱を引く。太い綱がぎしぎしと軋み、やがて。
ばきっ、と何かが割れるような音をハミールは聞いた。不審に思い左右を見ると、脇の木が大きくなっている。いや、これは大きくなっているのではなく。ハミールが上を見上げると自分の体よりも太い森の木々が自分を押しつぶそうとしていた。ハミールの頭に妻と子供の姿が思い起こされる。
「サテュラ、ハスル……」
囁くようにハミールは最後に呟いた。すまない、と。
※
「報告! 隠し道から城壁を攻めた元サファール王家親衛隊、全滅です!」
ビキッ、とサラーフの額を青筋が走った。
「全滅?」
「は、はっ! 全滅です!」
「くく……くくくくくっ」
笑い声をこぼしながらも、笑顔を見せながらも、サラーフは笑っていない。元サファール王家親衛隊が使い捨てるための部隊であったとしても、それはそれで貴重な戦力であり、このような初戦で使い切っていいものではない。ましてあれはサラーフのモノだ。先の内乱で奪い取った、サラーフの所有物なのだ。生かすも、殺すも、その用途を決めるのは所有者であるサラーフでなければならない。断じてサラーフの許可なく奪われていいものではない。
「くく……くくく」
サラーフは笑う。頬を引き攣らせ、肩を震わせ、体を小刻みに揺らして笑う。口角とまなじりを吊り上げ、端正な顔を歪め、壮絶にサラーフは笑う。笑い、笑って、怒りを表す。
「ふふふ、はーっはっはっは! 奪われるだけの獲物の分際がぁ!」
サラーフが振り上げた拳を椅子の肘置きへと力任せに叩きつける。壮絶な音に顔を上げた伝令は皇帝の相貌を見てひい、と腰を砕いた。サラーフの殴りつけた頑丈な木製の肘置きが、地が、空気が震えていた。
「やられたな」
張りつめた空気なぞ露知らずといった飄飄さで、馬に乗ったハラールが姿を現し様に言う。しかし、流石のハラールも声は重かった。
「何かやるとは思っていたが、流石にここまでのものとは思わんかったわい」
「……一体何が起きた?」
まだサラールの総身から発せられる怒りは治まりを見せない。が、ハラールの姿に冷静さを取り戻したか。サラーフは状況を確認する。
「どうやったか知らんが隠し道脇の森の木々を倒したようだ。サファール王家親衛隊は全員、その木の下だとさ」
「サファール王家親衛隊が全員、だと? 一体どれだけの木を倒したというのだ」
「この目で見たわけではないんでわからんが、伝令の言うところによると道を全て塞ぐほど、ということだ。おかげでせっかく攻略したあの道はもはや使い物にならんそうだ」
「……どれだけの仕込みをしているのだ」
怒りは収まらない様子ながらも、いっそ呆れたようにサラーフはぼやいた。
「全くな。寡兵ながら見事にこちらの手を防いでくれおる。正面の火計に隠し道の倒木の計。よくもまあ準備したもんだ」
同意し、ハラールは自らの顎髭を撫でる。
「感心するのはいいが、あれをどう攻略する?」
苛立たしげにサラーフは人指し指で小刻みに椅子の肘かけを叩き続ける。
「まだ残ってる西側の隠し道については……攻略するだけ無駄だわな。同じことの繰り返しで悪戯にこちらの被害を大きくするだけだ。防ぎようもない。正面の火計についても同様に防ぎようはない。こうなるとこちらは被害を抑える戦い方で、正攻法で城門攻めを続けるしかないな」
ハラールの答えにサラーフは不満そうに鼻を鳴らす。
「あちらの目論見通り時間をかけて攻めろと? 気に食わんな」
「かと言って他に仕様もあるまい?」
ハラールの正論にサラーフはぎり、と歯を噛む。確かにその通りだ。正面の丸太落としとその後に来る火計は城壁下からは防ぎようがない。他の攻め場所も失った今、もはや時間をかけた攻めで、敵の疲弊を待つ常道しか道はない。敵は頼るべき本国を頼れず、ビラルからの援軍についてもヴィラティアへ進軍させたサラーフ本国からの援軍によりたち消える可能性が高い。となれば、いずれアストテランは落ちる。援軍のない籠城などいつまでも続くものではない。略奪は本国からの援軍に任せ、こちらはじっくりと攻める。それで問題はない。ないのだが、当初の目論見ほど本軍は進攻できないだろう。また万が一、援軍が敗北すれば、今回の戦果はこの地、アストテランのみということになりかねない。なにより、ここまでやられっぱなしでいるというのはサラーフのプライドが許さなかった。いかに敵に地の利があり、隠し道などの備えがあったとしても、こうも手の内で踊らされるのは不愉快だ。
「あの火計さえなければ、第三軍で被害を顧みず攻め落とすという手もあるんだがな……」
やれやれとぼやくハラールの言葉にサラーフの六感が反応した。
「火計……そうだな、火計か」
「何か思いついたのか?」
期待のこもった眼でハラールがサラーフを見る。サラーフは鼻を鳴らして答える。
「業腹だがな、思いついたというほどのことでもない。略奪者たる我は本来自分のモノになるものを壊すのは好まんゆえ、このような手は使わんのだが……そうも言っていられまい」
不本意そうに話しながらも、サラーフの目は歪んだ喜悦に濁っていた。悪戯の過ぎるペットを懲らしめてやろう、と。
そうして今日も一日が終わっていく。サラーフ軍にとっては貴重な時間が、アストテラン軍にとっては一刻も早く過ぎ去ってほしい地獄の時が流れていく。
Interlude
【フローラントとビラル国境付近】
ビラルからアストテランへの援軍五万は、アストテランまで百五十キロル、今の行軍速度でアストテランまであと一週間ほどの地に到達していた。
フローラントの救援要請をビラルが受けて二週、ビラルは早急に派兵を決め、軍を編成、出立させた。ビラル中部の首都から四百キロルの行軍を援軍は既に踏破している。
「アイレーン隊長、アストテランからの早馬が来ています」
「わかった、今行く」
伝令の言葉に長髪の女が応える。風に流れる鮮やかな赤髪、戦場に似合わぬ細身と美貌。しかし誰あろう、彼女がビラル援軍の指揮官だった。
聖女アイレーン。
少女の身でありながら、神学校を首席で卒業。かつてガスコーの町をモンスターの大群より救い、南の大陸より迫った蛮族を撃退したビラルの救世主である。
「長旅、ご苦労だった。早速だが状況を聞かせてほしい」
アイレーンはアストテランからの使者、マリヤを開口一番そう慰め、先を促した。
「はっ、サラーフの軍勢は十万を数えます。我が軍だけで戦線を維持することは難しいかと思われます」
十万という数にアイレーンの周囲の騎士がざわめき立つ。なにしろ彼らの倍の兵数なのだ。
「落ち着け。守城戦ならば倍の敵であろうと守るのはたやすい。それにアストテランの軍もいるのだ」
騎士を制し、安心させるようにアイレーンはマリヤに笑顔を向けた。落ち着きはらったアイレーンの態度に騎士達はぴたりと静まる。その様子を見るだけで、いかに彼女が屈強な騎士達に信頼されているかがうかがえる。
「アイレーン隊長! 本国よりの鳥です!」
新たな報告が場を壊す。壊した声の主である騎士がアイレーンに手紙を渡す。ビラルでは有事の連絡に鳥を用いる。鳥の足に文を結びつけ、送るのだ。これは早馬などよりはるかに早い画期的な連絡手段である。
「隊長、本国で何か異変が?」
訝しんで脇の騎士が文を読むアイレーンへと問いかける。
「サラーフ軍の別動隊が帝国を出立したらしい。どうも狙いは我がビラルのようだ」
文を握りつぶし、アイレーンが告げる。
「何ですと!?」
先の比ではないざわめきが場を支配する。アイレーンも黙考し、場を制する者がいないため喧騒は治まらない。
「我がアストテランは! 今も! 異教の輩の脅威にさらされています! 一刻も早い救援をお願いしたく存じます!」
ざわめきを遮るように、マリヤが叫ぶ。その言葉にビラルの騎士たちが様々に顔色を変える。気まずそうに眼を逸らす者、悔しそうに拳を握り締める者、鬱陶しそうにマリヤを見やる者。
「我が軍は寡兵ながら夜襲を敢行! 敵先鋒一万を討ち取っております!」
援軍を呼び込むためにマリヤは懸命に頭を働かす。必ずビラルの援軍を連れてくること。それがユーリイから課された彼女の使命だ。そのために必要とあらば、何を話してもよいと言われている。両刃の剣となりうる最後の策についても、だ。
「我が方には様々な備えがあり! 援軍の皆様が来られれば! 異教徒の撃滅も可能かと思われます!」
新たな喧騒が起こる。地方の一軍ごときが異教徒の先鋒一万を討ち取った? 嘘だろう? 倍を数える異教徒を撃滅できる? 口から出まかせではないのか? それぞれに騎士が疑いの言葉を発する中、アイレーンが目を細めた。
「詳しく話を聞かせてもらいたい」
第三章 アストテラン会戦Ⅱ――持久戦――
Ⅰ四日目
日が昇る。アストテラン軍とサラーフ軍、四日目の戦いが幕を上げた。
「状況はどうだい?」
ユーリイがユーグに尋ねる。
「はっ。敵は二日目の城門攻めの軍に戻りました。攻めは昨日火計を受けてからと変わらず、常道の城門攻めです」
「ふむ……他に変わった動きはないかい?」
「はっ。流石にもう手がないのか、特に動きは見られないとのことです」
ユーグの言葉にユーリイは胸を撫で下ろす。これで後は援軍が来るまで持ちこたえることが出来ればこの地を守れると。
しかしそんな憶測を裏切るように、外で怒号が上がった。
「何事だ!?」
ユーリイとユーグは慌てて司令所の外へ走り出る。城壁内の民兵は恐怖の表情で上を指差していた。その先を辿るように宙を見上げると、空を赤い線が走っていた。
「消せ! 消すんだ! 俺達の町が! アストテランが燃えちまう!」
その声にユーリイが辺りを見る。まだ燃え盛っている物はないものの、ちろちろと木建ての家に火が付き始めていた。
火矢が城壁内に叩き込まれているのだ。
城壁内の民兵は持ち場を離れ、手前勝手に火を消そうと躍起になっていた。城壁上の民兵はコヴァーリとアストテラン騎士団の指示によって戦いを継続しているものの、城壁内からの弓による援護を失い苦戦している様子だった。
「静まれ!」
内心、誰よりも動揺していながらもユーリイは言い放つ。初めて耳にするユーリイの怒鳴り声に、動揺する民兵の動きが止まる。
「第五、六隊! 何としても火が点くのを防げ! 伝令! 休息に回っている兵と城内に避難している非戦闘民を呼んでくるんだ! 急いで消火作業に当たらせろ! 第四隊! 井戸と用水路から水を運び、火種になりそうなものにかけるんだ! 油を保管している倉庫と食糧庫、弓兵上の矢除けの屋根、城門守備用の丸太を優先しろ! 第一から三隊は引き続き城壁外の敵に向けて矢の援護だ!」
矢継ぎ早に出されるユーリイの指示に民兵はぽかんと動きを止める。
「急げ!」
見せたことのない有無を言わさぬユーリイの迫力に、慌てたように民兵は指示通り動き始める。
「ユーリイ様……」
気遣うようにユーグはユーリイの名を呼ぶ。
「ユーグ、君は城壁上に上り戦線を支えてくれ」
思考を巡らし沸騰した頭でユーリイは告げる。そのまま消火にあたろうとするユーリイにユーグが話す。
「敵が矢を放てる範囲と数は限られています。狙いを外し、森に火をつけてしまっては、自軍が火に囲まれてしまうからです。敵は森の方向には狙いを向けられず正面にしか火矢を放てません。かつ弓の腕があるものにしか火矢を放たたせないようにするでしょう」
いつもは寡黙なユーグは珍しく饒舌に続ける。
「確固たる狙いもなく、ただ散発的に放たれる火矢のみではそう簡単に火はつきません。加えるならば、城門正面はもともと大通りになっており、火種は限られています。矢除けの屋根には多くの矢が当たるでしょうが、逆に言えばそこさえ防げばあとはどうとでもなります。道脇の畑から放たれる火矢が通り脇の家に当たるかもしれませんが、油などもなくただの火矢のみです。消化は十分に可能かと考えます」
一気にまくしたてられる言葉にユーリイの熱せられた頭が冷えていく。守るべき地に犯される蛮行に胸の怒りは滾ったままだが、頭に上った血は体に下りた。
「ユーグ、君にはいつも助けられる」
「いえ。町をよろしくお願いします」
「ああ、敵軍は頼んだよ」
二人は背を向ける。互いへの信頼か、後ろを顧みることなく一目散に二人は駆けた。
※
「ふむ? まだ火が上がらんな。ハラール、もっと火矢の数を増やせ」
にやにやと嗜虐の笑みを浮かべ、サラーフは言う。
「無理を言うな。万が一、狙いを外せばこちらが火に巻かれるのだぞ」
応えながらハラールは壇上から淡々と火矢を放っていく。その下では第一軍の精兵が同じようにして城壁内へと向けて火矢を放っていた。
「しかし、大したものだ」
ハラールが感嘆の声を漏らす。
「何がだ?」
サラーフが問いかける。
「敵軍が、だ。我らに向かって矢が飛んでこない。万が一、矢を受けた我らが狙いを過ち、火矢を森に放つことを恐れているんだろう。森に火がつけばこちらも困るが、向こうも困るからな。同じ軍でも程度が低ければこうはいかんぞ」
「ふん、確かに。憎らしいが敵ながら大したものだ。未だに火が上がる様子も見れんしな。消火活動も仔細なく行われているようだな」
「ああ、城壁内の敵も統率がとれているということだな」
「ふん。もっともこうして火矢を射掛けるかぎり、数の少ない敵は休息を取ることもできまい。士気は急速に落ちていくはずだ。しばらくは奴等をいたぶってやることにしよう」
サラーフの嗜虐の笑みが止むことはない。そしてその笑み同様、火矢が止むこともなかった。そう、日が落ちようとも止むことはなかったのだ。
※
「くそ、まだ終わらねえのか!」
アストテラン民兵の罵る声も弱々しい。それも仕方ないことだろう。日が落ちたにも関わらず、サラーフ軍が放つ火矢は途絶える様子を見せなかった。流石に昼より数は減っているものの、消火作業がある以上、休むことはできない。
ユーリイは唇を噛み締める。状況は最悪だ。兵数の多い敵は交代で休憩を取ることができるだろうが、兵数で大きく劣るこちらはそれにも限度がある。何より自分たちの住む場所が焼かれようとしているのだ。休憩しろと言われても、心を休めることなどできはしない。なにしろユーリイ自身ですらそうなのだから。
「兵と非戦闘民の半数は休息を取るんだ! 非戦闘民の残り半数は消火作業を続けてくれ!」
ユーリイが指示するも、民の反応は芳しくない。火が広まりはしないかと気が気でないのだ。
「休まないと明日以降を戦えない! 今は無理をしてでも休むんだ!」
叫びのようなユーリイの指示に民はようやく動き出す。しかし、その足取りは重い。
ユーリイは是非ともしがたい現状に顔を歪めるがどうすることもできない。残った西の隠し道からの強襲。だめだ、敵は二日目の強襲以来、奇襲に備えた布陣を崩していない。それに反対の東の隠し道を失った今、逃走経路が一つになってしまっている。万が一にも騎士団か傭兵団も失えば、指揮を執る者が不足し、民兵は崩れる。危険すぎる。策ももはや最後の一手以外は使い切ってしまった。今は耐える以外に道はない。そう、耐えるのだ。援軍が来るまで耐える。ここまでくればこちらが崩れるのが先か、援軍が来るのが先か。時間の問題だ。
大丈夫だ。手は打っている。援軍は来る。それまで何としても持ちこたえてみせる。
祈るように、すがるように、ユーリイは自信にそう言い聞かせることしかできなかった。
Ⅱ五日目
五日目。
日が変わっても、サラーフ軍の火矢が絶えることはなかった。アストテラン民兵は戦士でないながらもよく戦っているが疲労の色は隠せない。今までは一日交替で休めていたのに、消火作業により休息を削られているのだ。それに今まで自分達が積み上げてきた、守ってきた場所を、家を失うかも知れぬ重圧。それが彼らの頭にずっしりと重くのしかかっている。
「交代だ! 作業をしていた者は休憩に入ってくれ!」
叫ぶユーリイの足がよろめく。
「ユーリイ様もです。後は私に任せてください」
倒れかかったユーリイの腕を掴み、ユーグが告げる。
「アストテランが焼かれようとしているんだぞ! 休めるわけがあるか!」
叫んでからユーリイはしまった、という顔をした。案の定、ユーリイの叫びを聞いた周囲の民は不安に顔を陰らせていた。重く、暗い空気が場を支配する。
「気持ちは分かります。しかし、今のでわかったでしょう。ユーリイ様も疲れてらっしゃるのです。指揮官であるあなたが倒れてしまっては、勝敗は決します。眠れなくともいい。せめて横になってください」
ユーリイを真っ直ぐに見つめ、ユーグは訴える。その眼を見て、抗おうとしたユーリイは手を握り締め、面を伏せた。
「すまない……後を頼む」
肩を震わすユーリイの背にユーグが首を垂れる。
「お任せください。この身命に代えても、ここを守って見せます」
頼もしいユーグの言葉もユーリイの不安を拭いきれはしなかった。
歩み去るユーリイの背に、皆を励ますユーグの声が響く。
自らの不甲斐無さにユーリイは臍を噛むしかなかった。
※
「お休みのところ失礼します」
簡易なベットに横になり、目を閉じていたユーリイの下に伝令が声をかける。
「何事だ!?」
また何かしら戦況が変わったのかと不安がユーリイを襲う。しかし、興奮冷めやらぬ様子で伝令が話す内容はユーリイの期待をいい意味で裏切っていた。
「本国の援軍からの早馬です。今日にでも本隊もこちらに到着するとのことです」
瞬間、ユーリイは言葉も出なかった。間抜けに口を開け、その後、暗く淀んでいた目に輝きが戻る。
「そう、そうか。そうか」
意味もなく、ユーリイは言葉を繰り返す。本命の援軍ではないが、これはこれで重要な戦力だ。たとえただの民兵であろうと、今の相手の火矢による消耗戦では大きな意味を持つ。これで再び、兵にまとまった休息を取らせることができる。家を燃やされる恐怖についても火消し手の数が増えることと、援軍による高揚で紛れるだろう。
安堵がユーリイの心を弛緩させた。しかし、すぐにユーリイは気を引き締めた。
肘を足に乗せ、組んだ手に口を当てる。この援軍が戦況に与える影響はどのようなものか。先に思ったとおり、こちらにとってはいいことづくめだ。だが、本当にそれだけだろうか。ここで思考を止めてはいけない。敵軍まで視野を広げなければならいない。
この援軍によって、敵軍がこの消耗戦を続ける意義は薄れる。火もつかず、こちらの士気も削げないとなっては、この戦術の意義は半減以下だ。すると、どうだろうか。ここまでこちらの策に応じて、様々な対応を迅速に行ってきたこの相手のことだ。またぞや、何らかの手を打ってくるだろう。その手はどのようなものか? ……わからない。これ以上、敵に出す手などあるのだろうか? 無いようにも思える。
だが、しかし、この敵はこの上なく危険だ。ならば、手を出させる余地を与えてはならない。出す手がわからないのならば、その手を出させなければいい。このまま、意味を失った火矢攻めによって、時を消耗させるのだ。
「援軍からの早馬に伝えてくれ。敵軍に援軍が来たことを悟らせたくない。極力、気配を殺して来てほしいと。同様にみんなにも援軍が来たことを敵に悟られないよう気をつけるように伝えてくれ。この敵は援軍に気付いたらどのような手を打ってくるかわからない。絶対に援軍を悟られないようにする必要がある」
ユーリイの言葉に弛緩していた伝令の顔が引き締まる。
「は、わかりました」
その夜、援軍はアストテランの地に密かに入った。
ユーリイは彼らを機密性の高いアストテラン城内に招きいれ、歓待した。アストテラン民兵はユーリイの厳命により、声をあげて喜びを表せないものの、安堵の表情を隠しきれなかった。そして、防衛を援軍の民兵に任せ、久方ぶりの安らかな休みについたのだった。
Ⅲ八日目
八日目。火矢による攻撃から五日がすぎていた。しかし、アストテランの民兵が崩れる様子は一向に見えなかった。
「なぜ崩れぬ!」
だん、とサラーフは椅子の肘かけを叩いた。絶え間ない火矢による攻めから五日。ろくに休憩も取れず、敵軍の疲労は蓄積し、士気はぼろぼろのはずだ。しかし、敵軍にそのような気配は未だに見えない。
「もしかしたらだが……何らかの増援が着いていたのかも知れんな」
ハラールがぽつりと呟く。
「何だと? そんな気配はなかったぞ」
サラーフが眉を上げる。
「隠したのだろう。悟られてはこちらが手を変えると読んでな」
サラーフの額にびきっと青筋が走る。
「では何だ? 我はまたこの敵に踊らされていた、と?」
ハラールが困ったように頭をかく。
「そうなる……さなぁ」
サラーフがぎりぎりと歯を食い締める。
「……く、くく。初めてだそ。ここまで馬鹿にされたのは」
手の皮を突き破るほどサラーフは拳を握り締める。実際、その手からは血が滴っていた。
「思い通りいかんのも仕方あるまい。この敵はかつてないほど優秀だ」
余裕のない怒りを見せるサラーフにハラールが声をかける。しかし未だかつて経験させられたことのない恥辱にサラーフの怒りは収まらない。サラーフの煮えたぎる頭には無駄と察しながらハラールは呟きを重ねる。
「それに森に囲まれ戦場を制限された、こうも特殊な戦場ではな」
しかし、意外にもその言葉にサラーフの顔色が変わる。ハラールを見やり、サラーフはぽつりと呟いた。
「制限? そうか、制限か」
サラーフの目が怪しい色を帯びる。そうだ、敵も、自分も、勝手に戦場を制限している。
「ハラール、お前はただのモンスターごときに後れは取るまいな?」
「ん? 当然であろう。竜とかならともかくそこらのウルフや害虫など……おい、まさか」
得意気に答えていたハラールが、言葉の途中で顔を引き攣らせる。
「そのまさか、だ。明日、第一軍は森を進軍。正面から離れた城壁に奇襲をかけるぞ」
「冗談はやめてくれ! 城壁に辿り着く前に壊滅するぞ!」
「そうはなるまい。敵は森を開墾し、さらには隠し道を夜間進軍までしている。それほど強力なモンスターはいないはずだ」
取り乱すハラールをサラーフがとりなす。
「とは言っても、森中でモンスターと戦うのは危険にすぎる!」
「多少の犠牲は許す。指揮官である我と貴様さえ無事なら問題はない」
「まあ、わしに限って大事はないが……っておい」
さらりと話された聞き捨てならない一言にハラールが反応する。
「今とんでもないことを言わなかったか? 我らが皇帝様よ」
「なに、ここまで我を小馬鹿にしてくれたウジ虫の顔を直接見てやりたくなってな」
怒りとやはり変わらぬ笑みで、サラーフは嘯くのだった。
第四章 アストテラン会戦Ⅲ――アストテラン城壁内攻防戦――
Ⅰオーウィン傭兵団
開戦から九日目。
「サラーフ軍の様子はどうだ?」
尋ねるユーリイにユーグが答える。
「昨日までと変わらぬ火矢攻めです。ただ、火矢の数が昨日より少ないそうですが……」
「……流石に火矢が尽きてきたか?」
楽観的な言葉を口にしながらも、ユーリイの表情は厳しい。
本当にそうだろうか。アストテランだけでなく、さらにその先までを侵略しようとしていた敵の備えがそこまで少ないものなのか? 否、いざとなれば矢などその場しのぎでも作ることができる。敵は兵を持て余しており、材料になりうる木も落ちているのだ。矢の不足ではない。矢の問題でないとするならば……射手か! 弓を射る兵士が減ったのか! ならばその兵はどこに消えた!?
「敵軍に紛れ込んだアラム人の間諜から至急の報告です! 敵の一軍が森に入ったと!」
ユーリイの思考がそこに思い至ったのと、伝令が入ってくるのは同時だった。
「何だと!?」
さらに開け放たれた扉から外で立ちあがった悲鳴が飛び込んでくる。二人が伝令を突き飛ばすようにして外へ出ると、城門から東に一キロル近くは離れてるであろう矢倉上の見張りが何事かを叫んでいた。その叫びが各櫓を伝って届く。
「森だ! 敵軍が森を進軍している! 早く救援を! 敵は一万程度! もう城壁下まで迫ってるようだ!」
馬鹿な! 森を進軍するなど! 常識ではありえぬ用兵だ! ユーリイは茫然自失で考える。森を進軍し、万が一モンスターの群に襲われようでもものならば、その軍は全滅しかねない。そんなリスクは冒せるものではない。百歩譲って、数の揃った軍を積極的にモンスターが襲うことはないだろうという公算は成り立たなくもない。しかし、リスクがあまりに大きすぎる。そんなもの作戦ではなく、もはや博打だ。しかし今、その博打は成功しようとしている。敵は城壁下までた辿り着きつつある。
――発見の遅れが痛い。アーチンを始めとし、矢倉上の兵には目をいい者を揃え、常に敵軍の動きを見逃さぬよう伝えてきた。しかし、城門を攻められれば注意はそちらに向いてしまう。また、未だ六万を優に数える敵軍が味方を目隠しとして用い、その陰で少々の軍が動いた所で、こちらからは把握しきれない。森もあれだけの大木が生い茂っているのだ。その木の下の影を敵が進軍したところでこちらからは発見しづらい。
常識はずれの用兵だが、ただの無謀なものではない。確かな計算と、そして成功時に得るものの大きい博打兵法だ。
「ユーリイ様。私が救援に向かわせていただきます」
変わらぬ凛としたユーグの声がユーリイを正気に戻す。ユーグに目を向けたユーリイは、その瞳に決死の覚悟を見た。
「その間に皆を城まで避難させてください。そして守城戦の準備を」
門上以外の城壁には最低限の備えと兵力しかない。そんなところまで回す余剰の兵力はなかった。とても一万の敵軍を止めることはできない。まず間違いなく援軍が辿り着く前に城壁を突破される。となればユーグの言うとおり、援軍が敵奇襲部隊の足止めをしている間に民を城に避難させ、守城戦に移るしかない。しかし、一万の軍の足止め。そして守城戦。足止めの部隊は敵の海原に残される上に、退く場所がない。城は敵軍を拒むために閉ざされてしまう。……全滅は免れえない。
「いいや、ユーグ。お前はここで民兵の撤退戦を指揮するんだ」
何か手はないのか。必死に考えをめぐらすユーリイの意識を、横からかけられた声が引き戻す。見ると余裕を漂わせた常のものと異なる空気をまとったオーウィンがそこにいた。
「お前はアストテランの民を率いての、これからの籠城戦にまだまだ必要だ。生きて雇い主様を守んな」
似合いもせぬ静謐さを漂わせ、オーウィンは言う。
「さて、雇い主様よ」
いつもと変わらぬオヤジ臭い笑顔に、常とは異なる光を目に浮かべ、オーウィンはユーリイを見据えた。
「最後の命令をもらおうか」
ぎくん、とユーリイの鼓動が止まる。何を……何を言っているのだオーウィンは。口を開け、目を見開くユーリイにオーウィンは溜息をつく。
「何を呆けてる! 今にも奴等は来るぞ! 早く決断しろ!」
鬼に取りつかれたように豹変したオーウィンがユーリイの胸倉を掴む。
「今さら躊躇うな! 思考を止めるな! 諦めるな! あんたの指揮下ですでに何百と死んでる! ここで終ったら、あんたは地獄でそいつらに何て言い訳するつもりだ! ここで全て失うか! 幾百を犠牲に逃げ延び、戦うか! すぐに決めろ!」
「何で……君はそこまで」
ユーリイの口から洩れたのはかつてオーウィンに問われ、自分がオーウィンに問い返した言葉だった。ぎりと歯を噛むも、オーウィンはユーリイから手を離す。
「……俺は、俺達はな、元騎士だ。主君を守ることも、主君のために死ぬこともできなかった亡霊だ」
予想外の告白にユーリイとユーグは言葉を失った。
「だから……二度目は、今度こそは、守らせてくれ」
初めてのオーウィンの嘆願。それは自らの死を願うものだった。馬鹿な。ユーリイは思う。この私がそんなことを、領民への死を命令するのか?
「なあ、あんたは何でだった?」
言葉を失ったままのユーリイにオーウィンは問い返した。
「守るため、だ」
そう、守るため。ただ守るために戦おうと思ったのだ。父親が作り上げたものを知っている。あの日、置かれた手の重みが今も頭に残っている。それを、裏切ってはならない。
だから、アストテランを、領民を守るために戦いを選んだ。そう、アストテランと領民を守るために。その私が領民に死んでこいなどと、言えるわけがない。
「なあ、あんたは指揮官だ。指揮官なら味方を生かすため敵を殺せ。そして多数を生かすために小数を殺せ。全てを守ろうとすれば全てを失う。あんたは全てを失うつもりか?」
焦りを胸に抱きながらも、オーウィンは優しく問いかける。その問いにユーリイは歯を噛み締めた。ぎりぎりと噛みしめた口の端からは血が流れた。領民を守るため、そう、そのために、
「オーウィン、私の為に死んでくれ」
あくまで、自分のため、ユーリイは告げた。
「そう、それでこそ我が主君だ」
オーウィン達の死を、あくまで自ら背負うその命令にオーウィンは苦笑を見せた。
「援軍は必ず来る。かつてあんたが救った領民を信じろ。ユーグ、騎士団の馬を借りていくぞ」
背を向け、手を挙げて、オーウィンはユーリイとユーグに別れを告げる。
「オーウィン傭兵団、行くぞ! これが最後の戦いだ! 民兵が撤退するまで何としても時を稼ぐ!」
「おおおおおーーー!」
力強いオーウィンの号令。それに傭兵達は今まで見せたことのない唱和で返した。まるで騎士のように気高く、整った唱和で。
サラーフの奇襲部隊の迫る城壁の元へとオーウィン傭兵団が馬で駆けていく。それを見送り、ユーリイは目を閉じる。
そして、決然と目を見開いたユーリイは城壁へと向き直った。
「弓兵! 第一から三隊、引き続き援護だ! 第四から六隊、大通りの突き当りまで退がれ! 退がったら、そこから援護せよ! 城壁上の兵は今少し粘るのだ!」
撤退するのだ。何としても。オーウィン達の覚悟に報いるためにも。何より、この地を、この民を守るために。
――必ず、撤退する。
※
『ウオオオオオオォォォォォ―――――――――ンン!』
耳を劈く雄叫びと共にハールウルフがサラーフ軍に襲い来る。
つがいか。左右からタイミングを合わせたかのような挟撃。人間の数倍はあるかという体格のハールウルフの下敷きになった兵は胸から絞り出すように息をもらし、昏倒する。獰猛な二匹の獣は鋭利な爪と牙を振り乱す。革鎧をまるで紙細工のように引きちぎり、矮小な人間は木の幹まで吹き飛ばされた。
「ふん!」
右のハールウルフに、ハラールが鋭い斬撃を打ち込む。ハールウルフは真後ろに飛び、太い森の木に足で着地する。そして、その幹を勢いよく蹴ると、剣を振り切ったハラールに即座に飛びかかる。人間では不可能な森中でのモンスターの予測不能の挙動。しかし、ハラールは落ち着き払ったまま、返す剣で突進するハールウルフを迎え撃った。
「ぬうん!」
ギイィン、と鈍い音が鳴り響く。ハールウルフの爪の一本が宙を舞い、右腕に赤い線が走る。対するハラールの左頬にも浅く血が流れた。
『オオオオォォ――――ン!』
自身の血が流れたことに獣は目を血走らせる。狂ったように暴れ、手近の兵を襲う。兵の悲鳴が上がる中、ハラールは溜息をついた。
「……所詮、意志を持たぬ獣か。槍を借りるぞ」
ハラールは部下に声をかけると、剣を鞘に納め、槍に持ち替えた。そして散歩するかのように無造作に、暴れるハールウルフへと歩み寄る。
「おい」
突如、背後で発された殺気にハールウルフは反転する。そして怯えを噛み殺そうと、ハラールへと牙をむけた。必殺の牙を剥いてのハールウルフ決死の突撃。
「ぬん!」
その開けられた口腔へとハラールは槍を突き出した。ハールウルフの一シャーンもあろうかという自重とハラールの怪力の載った刺突が、ハールウルフの喉を容易く貫いた。
『ギャアアァア――――ン!』
獣は断末魔を上げて、地を転がる。震える体で、尚も獣は立ち上がろうとしたが、それを封じるようにハラールの鞘から繰り出された斬撃が、ハールウルフの頭を叩き割った。
ハラールは感慨もなさげに、剣を振るい、獣の血を払った。そして、もう一匹に向き直る。
『ウオオオオオオォォォォォ―――――――――ンン!』
伴侶を奪われたハールウルフは慟哭を上げ、ハラールへと向かった。木々を駆け、取り囲むサラーフ兵の頭を超える。
「槍、立てよ」
サラーフの短い指示。それでいつの間にかハラーフの周りに整然と隊列を整えていたサラーフ兵は一斉に槍を天へと向けた。もはや勢いを止めえぬハールウルフは自ら死地へと飛び込む。
『オオオオオオオオオオォォ――――ン!』
ハールウルフの体は掲げられるように、天で磔にされ、辺りに血の雨が降り注いだ。
「所詮、突撃するしか脳のない獣。向かってきたところを迎え撃てばよい」
嘲笑うようにサラーフが言う。事も無げに溢しているが、ハラールの周囲の兵の隊列を整えていたのは、人外であるモンスターの動きすら読んでいたということ。その読みにハラールは苦笑する。
自身は愛情を持たぬサラーフが、つがいの復讐に走る獣の行動を読むとは、と。
そして、サラーフ軍は進軍を再開する。
「ふっ、こうも楽々と進めるというのも興醒めだな」
ハールウルフに襲われたばかりだというのにサラーフは余裕を見せる。既に二度のハールウルフの襲撃に遭遇し、少なくない犠牲を出してはいるものも、サラーフの口には笑みが浮かんでいた。犠牲はあったもののモンスターは万の軍勢をもってして叩き伏せている。それに軍勢を警戒し、避けているのだろう。予想よりもモンスターとは遭遇していない。結果として行軍は順調に進んでいる。
「馬鹿を言うな。敵でもない畜生相手にこれ以上、無駄な血を流しても仕方あるまい」
ハラールはやれやれとぼやく。
「しかし、ほれ。こうも何もないからもう城壁に着いてしまったぞ」
そう言うサラーフの目には確かにアストテランの城壁が捉えられていた。ようやく気づいたのだろうか。城壁内の矢倉から声が上がるが、もはや遅い。ここまで来れば援軍が来る前に数に物を言わせて城壁を超えるのみ。
そう考えるサラーフの周囲に矢が飛んでくる。矢倉と城壁上からの矢だ。しかし、これだけ木の茂る森に向けての矢などほぼ問題にならない。加えて、矢の数は少ない。やはりここまで兵を割いている余裕がないのだろう。
周囲の城壁上の兵が集まってきたのか。矢の数が次第に増えていくが、万の軍勢を足止めするには程遠い。
「矢にかまうな! 進軍せよ! 援軍が来る前に城壁を落とすぞ!」
密かに森中に進軍して以来、初めてのサラーフの号令に兵の鬨の声が返る。その声はこの戦が始まってから最も力強いものだった。常に先手を取られ、振り回されていた自分達が初めて先手を取ろうとしてるのだ。士気は鼓舞するまでもなく高い。
サラーフ軍の先鋒が城壁へと接触した。
「第一から三隊は左翼! 四から七隊は中央! 八から十隊は右翼! 全軍で攻め上れ! 指示を待つことはない! 一刻も早く城壁を落とせ!」
サラーフの指示に各隊が迅速に動く。そして全軍で城壁を登る。敵は矢の数からしてせいぜい三百人程度だろう。これだけの兵力差があれば矢の援護など必要ない。数に任せ早々に落とすのみ。
梯子を登るサラーフの軍勢で城壁が覆い尽くされていく。城壁上のアストテラン民兵は崩れることもなくよく粘った。矢を放ち、丸太を落とす。しかし、やはりこんな外れにはそこまでの備えはなかったのだろう。丸太による攻撃もすぐに尽きた。それにあまりに多勢に無勢。もはや潮時と悟ったのだろう。
民兵は撤退した。そして、あまりにあっけなく、これまであれほどサラーフ軍を拒んでいた城壁は、落ちた。
「ふん、幕切れは興冷めだったな」
城壁を超え、アストテランの地に侵入したサラーフが嘯く。しかし、言葉とは裏腹に顔にはにたにたと嗜虐的な笑みを浮かべている。そんな余裕を見せるサラーフの耳に城壁内からの悲鳴が届く。
「何事だ!?」
サラーフとハラールも急ぎ、城壁を超える。城壁の中では兵が混乱に包まれていた。
「火、火が! また火が来るぞ!」
「こっちに来るんじゃねぇ!」
声を上げるサラーフ兵。うち幾人かはぬめりと何かに濡れている。周りの兵は濡れた兵から距離を置こうと逃げまどい、兵の足並みは乱れに乱れている。油か! サラーフは当たりをつける。
「敵に踊らされるな! 火をつけるつもりなら、すでにやられている! 油をかけられた者は他の兵から離れよ! 固まるなよ! まとめて燃やされるぞ! 油に濡れていない者は広い間隔で隊列を組め!」
サラーフは瞬時に指示を出す。精兵たる第一軍の兵の半数ほどはその指示に従おうとする。しかし、もう半数の混乱は止まらない。これまで幾度も味方が火計の餌食になるのを見た。サラーフ兵の多くは火に対する恐怖を心の深くに植え付けられていた。
恐怖も御せぬ小者が! サラーフは自らの手足に苛立ちを覚えるも、続く指示を出す。
「城門に向け進軍せよ! 内から城門を落とすぞ!」
せめて目標を与え、動きに指向性を持たせる。サラーフの狙いはあたり、兵は油にまみれた者とその周囲の兵を除き、同方向に動いた。しかし先陣が乱立する家屋の合間を抜け始めたその時、火矢が一つ離れて立つ家へ叩きこまれた。
「ひい! 戻れ! 火が、火が来るぞ!」
実際はそんなに早く火が燃え広がるわけはない。しかし、まざまざと今まで地獄絵図を作りだしてきた火矢が放たれるのを見せつけられたサラーフ兵は怯えを露にした。
「馬鹿共が」
顔を歪ませてサラーフは呟く。
「そう言うな。あれだけの火計を見せつけられてきたのだ、仕方あるまい」
たしなめるハラールをサラーフが睨む。それを受けたハラールは頭をかく。
「わしが行くとしよう」
ハラールは城壁を下りると、混乱する兵の群を堂々と抜けていく。その揺るぎなき姿に、周囲の兵はハラールを見る。やがて兵の波を抜けたハラールが声を上げる。
「勇猛なる我が将兵よ! いつもと同じだ! 我が背を追え!」
短い、何の変哲もない号令。しかし、その太く強い檄はサラーフ兵の肺腑に染みわたる。そして、内から火矢の炎より熱き激情を彼らの心に灯す。
「ゆくぞ!」
言下にハラールが駆ける。燃やすもののない道を走る。どこから放たれるのか。幾本もの矢がハラールへと放たれるが、ハラールは頑丈な鎧に当たるものは当たるに任せ、鎧に覆われていない部分に迫るものは一体どのように反応しているのか、過つことなく切り捨てる。しかし、他の矢よりはるかに重き矢がハラールへと迫る。ハラールは足を止めることなく切り捨てるが、初めて顔に表情を見せて、矢の先を見る。
「我が名はオーウィン! ハラール殿に一騎打ちを申し込みたい!」
矢の先のアーチンを見ようとしたハラールに、正面から決闘の申し込みがなされる。顔の喜悦をそのままにハラールはオーウィンを見て、立ち止まる。
「ほう。あの男以外にお前のような男がいるとはな」
オーウィンを見たハラールが愉快そうに話す。一目見ただけで何かを感じ取ったのか、値踏みするようにオーウィンをねめつける。
「だが、やめておけ。彼我の実力差がわからぬほど愚かではなかろう? 貴様も強いが、わしには敵わん。投降を勧めるぞ」
本当に忠告するつもりがあるのか。ハラールは今にも舌舐めずりをしそうに笑みを深める。
「ハラールの言う通りだ」
しかし、いつの間に追いついたのか。ハラールの言を兵の間を抜けてきたサラーフが引き継ぐ。
「貴様、あの弓使いの傭兵団の団長だな?」
アーチンの潜む方角、そして分散して潜む傭兵の気配を察知してサラーフは問う。
「そうだが」
時間を稼げるなら文句はない。オーウィンはサラーフの会話に付き合う。
「森の様々な罠は貴様等の手によるものか?」
「そうだが?」
「ふむ。貴様、我が配下となれ」
傲慢にサラーフは命令する。
「なんだと?」
オーウィンは片眉を上げる。
「我は優秀な者を愛でる。貴様は我が目に適った。故に我がモノとしてやろう。見たところ傭兵の類であろう? 報酬は今の三倍を約束するぞ」
「ほう、三倍ね」
ふーむ、とオーウィンは顎に手をやる。
「俺はネセウス教徒なわけだが?」
「我は人種や信仰などには構わん。有能か、無能か。問題はただそれのみ。能力さえあれば、あとはどうでもよい」
言い切るサラーフ。オーウィンはほう、と頷く。
「それじゃあ、あんたは俺に具体的にはいくらの値をつけてくれるのかな?」
オーウィンが食いついたと見たか。サラーフは人差し指を立てた。
「一年、百ディネル」
流石のオーウィンも言葉を失った。三倍どころではない。貨幣が異なるため明確には比べられないが十倍は堅い値だ。普通に生きる分には一月三百セリルもあれば十分。贅沢をしても十年は遊んで暮らせる。
「そこまで評価してもらえるとは光栄だな」
「我は才ある者には代価を惜しまん。働き次第では上乗せも考慮しよう」
ふーむ、どうしたものかな、と一人考える素振りを続けるオーウィンに先を促そうとサラーフが口を開いたとき、オーウィンが先を制した。相手の様子を見るに引き延ばしもここらが限度だろう。
「しかし、俺には金よりもっと欲しいものがあるんだがな」
「何だ? 物によっては検討しよう、言ってみろ」
煮え切らないオーウィンに若干苛立ちながらも、サラーフは寛容に問い返す。
「ここだよ」
「ここ?」
「アストテランさ。ここをもらいたい」
「何?」
ピクッ、とこめかみをひくつかせるサラーフにオーウィンはいけしゃあしゃあと告げる。
「だから、あんた出てってくれないか」
「……我はそのような冗談を許さん。撤回するなら今のうちだぞ」
怒りを隠さずサラーフはオーウィンを恫喝する。その形相は味方であるサラーフ兵ですら悲鳴を上げそうなほど怒りに歪んでいた。
「悪いがお断りだ。これでも傭兵であると同時に騎士なんでね。二度も主君を失うわけにもいくめえよ」
「下らぬ忠誠で命を捨てるか」
侮蔑の目で蔑むサラーフをオーウィンは皮肉る。
「部下をモノとしか見れん輩にはついていきかねる。ならば、部下を守るために思い悩める主君のために生きるというのも悪くはないだろうさ」
「所詮、奪われるだけの愚か者か……ハラール」
もはやオーウィンを一瞥もせず、サラーフは背を向ける。
待ちかねていたハラールは喜悦を隠そうともせず、オーウィンの前へと進み出る。
「時間の無駄だ。一分で片づけろ」
サラーフの言葉でハラールはオーウィンへと躍りかかった。
ハラールの強烈な振り下ろし。うねりを上げるその一撃をオーウィンは掲げた剣で受けた。耳を叩く金属音を上げてオーウィンの剣が軋む。オーウィンは歯を噛み締めて、強烈な一撃を受けとめた。しかし力に抗いきれず、腕が徐々に下がっていく。かろうじて剣先を下げ、オーウィンは剣を流す。そのまま敵の首を薙ごうとするが、振りあげられた剣に攻撃を弾かれる。その二合でオーウィンの手を痺れが襲った。
馬鹿力が。内心で毒づきながらオーウィンは剣を振るい続ける。しかし、ハラールはオーウィンの剣戟を軽々と打ち払う。対して、オーウィンはハラールの剛剣に徐々に耐えきれなくなっていく。痛烈な右袈裟切りを受けたオーウィンの体勢が大きく崩れる。その隙を突くハラールの剣戟がオーウィンの右胴へと迫る。
「アーチン!」
オーウィンの号令にアーチンの弓の弦が鳴った。風を切って、アーチンの放った矢が、オーウィンの頭を越えて出るハラールの顔へと迫った。
しかし、ハラールは斬撃に添うように身を沈めた。アーチンの矢は虚しくハラールの頭があった場所を通り過ぎる。
「がっ!」
対してハラールの剣は甲冑を切り裂き、オーウィンの胴の五分までを切り裂いていた。
「このわしに同じ手が通じるわけなかろう」
つまらなそうにハラールは言い捨てる。
隊長、とそこかしこでオーウィン傭兵団の叫びが木霊する。
崩れ落ちるように、オーウィンがハラールへと倒れこむ。ハラールの体に触れたオーウィンの目に、決死の光が宿った。
「冥土の土産……もらっていくぞ!」
ハラールの左腕を掴んだオーウィンは、ハラールの肘を内へと曲げる。否、曲げようとした。
「その執念、見事だ。貴様は真の騎士であったぞ」
オーウィンの両腕での間接技を、左腕一本でハラールは堪えていた。
「この化け物が……」
ハラールの賛辞にか、あるいは二度目にして騎士としての本懐を遂げたことへの安堵ゆえか。
オーウィンは笑みを浮かべたまま、その首を切られた。今度こそオーウィンの体が地に伏せる。
「さて、強情な隊長には退場いただいたわけだが」
サラーフは隠れ潜むオーウィン傭兵団に語りかける。
「貴様等はどうする? 仕官は個別に受け付けているが?」
二度までも生き恥をさらすわけにはいかない。サラーフの甘言に、オーウィン傭兵団は誰一人動く様子はなかった。
「……そうか。それほどまでに愚かだというならば、全員殺すとしよう」
サラーフの宣告に、サラーフ兵は砂糖に群がる蟻のように隠れ潜む寡兵の傭兵へと襲いかかった。
【アストテランから南西に十キロルの地】
「アイレーン様!」
「ああ、わかっている」
ビラル援軍指揮官アイレーンは脇の将官の叫びを遮る。
最早、目前に迫ったアストテランの様子がおかしい。敵のものと思わしき歓声とアストテランの民のものと思わしき悲鳴。アストテラン内から立ち上がる煙。これらが意味するものは、つまり。
「もはや手遅れでは……?」
同様にアストテランの異変に気付いた騎士達が囁き合う。その様子は不吉な目前の光景に相応しく、暗く後ろ向きなものだ。
アイレーンの脳裏をめまぐるしく思考がめぐる。確かにそうかもしれない。アストテラン内で煙が上がっているということは、城壁をすでに突破されている可能性が高い。そうであるならば、このまま進軍すれば多勢の敵中にむざむざと飛び込むことになる。
しかし、ここでアストテランを見捨てれば、間違いなく彼の地は敵の手に渡る。敵の侵略の前線基地が出来上がってしまうのだ。フローラントには今、敵軍を止める余力はない。敵は容易く侵略の手を母国ビラルまで伸ばすだろう。さらにサラーフ帝国は別動隊も母国へと進軍させている。アストテランが敵に渡れば敵軍は二方面から母国へ侵攻することが可能になる。
そのサラーフ帝国の二方面侵攻を阻止するため、即座にアストテランへと駆け付けるか?
それともそうなった際に対応するための戦力を温存するため、ここは退くか?
「マリヤ、援軍は必ず来るのか?」
進軍と退却の間で揺れるアイレーンは、確認の問いを使者であるマリヤにする。
「必ず来ます! ゆえにそれまでアストテランを守らなければなりません! どうか早急に援護を!」
マリヤの答えは今まで聞いたものと変わらない。
しかし、その言を信じていいのだろうか? アストテランの数々の策略を語った彼女の言葉が本当であったならば、なぜ彼の地はこれほどまでに早く窮地に陥っている? それは彼女の言葉が虚言だからなのではないか? あるいはもし本当だったとしても、それはそれで敵軍の強大さを物語っている。そのような敵に兵数の劣る軍勢で当たっても勝てるとは思えない。だが、だからこそ、この敵はここで止めておかねば大いなる禍根を残すのでは……。
「援軍は必ず来ます! それまで持ちこたえれば、侵略者を撃退できます!」
訴えるマリヤをアイレーンは見る。彼女の訴えが本当であるならば、確かに勝機はある。城壁を突破されようとも、アストテランにはまだ城がある。籠城戦ならば、今の戦力でも十分持ちこたえられる。
「アイレーン様、こうしている間にも我が領民は危険にさらされています! 早急な救援を!」
マリヤの言葉にアイレーンは思う。自分達が駆けつけなければ、アストテランの民はどうなる? あの響き渡る悲鳴は、どうなる?
「神は等しく人を作られた!」
気付けばアイレーンは叫んでいた。その叫びにビラルの騎士達が背筋を正す。
「なれど、この世に弱者あり!」
それは騎士達が神殿騎士となった日の文言だった。騎士達の胸に誓いが蘇る。
「なれば、弱き者が虐げられる時あらば、汝が子羊を守らん!」
アイレーンの言に合わせ、神殿騎士達は抜き放った剣を横に薙ぐ。
「なれば、弱き者を虐げる者あらば、汝が悪逆を駆逐せん!」
神殿騎士達が縦に剣を振り下ろす。
「汝、信仰の剣とならん!」
剣で描いた十字に誓うよう、神殿騎士達は胸の前で剣を立てた。わずかな間を置き、アイレーンは号令を発する。
「神殿騎士団、行くぞ!」
「おおおおーーーーー!!」
アイレーンの声に騎士達は唱和する。胸に迸る熱を口から溢れさせる。その熱に身を任せ、騎士達は全速でアストテランへと向かった。
【アストテラン城門から南、一キロル】
最後まで遠方からの狙撃で粘っていたアーチンが、幾十の矢に体を貫かれ倒れた。
一刻の戦闘で、オーウィン傭兵団は一人残らず全滅した。だが、その顔はみなどこか安らかだった。
「気に食わんな」
オーウィン傭兵団の死に顔にサラーフは毒づく。
「騎士として守る者のために死ねたのだ。……本懐であろうよ」
ハラールの弁護をサラーフは嘲笑う。
「そんなものはただの自己満足というものだ。自身の命あってこそ、欲しいものをこの手に掴める。欲望のままに生きることができる。今から、我がこやつらの自己犠牲とやらの無為を証明してやろう」
無情な言を告げ、サラーフがアストテラン城を見やる。当然ながらアストテラン民兵はまだ撤退を終えていない。城門の攻めも全力をもって当たらせている。そう簡単に撤退など許しはしない。ここで撤退する敵の背後をとれば、この戦は終わりだ。
「ハラール」
皇帝は剣の名を呼ぶ。ただそれだけで全ては伝わった。
「ああ、終わりにするとしよう」
頷いたハラールが剣を掲げる。
「我が精兵達よ! 時は来た! 今まで貴様等は何をした? 虚を突かれ動揺し、無様にも多くの同胞を奪われた! その後も毒により持てる力を奪われた! 貴様等が何をした!? 壁の外から敵を眺め、森の獣と僅かな傭兵を刈り取っただけだ!」
将軍の思わぬ言葉に一軍の精兵は押し黙る。その言葉は紛れもない事実で、情けないことに、それに反論することができない状況が彼らの今の立場だ。
「それが、そんなものがお前らの役目か!? 違う! 断じて否! 我らはサラーフ第一軍! 皇帝の刃! 我らが剣は、我が皇帝に逆らう敵対者を切り裂くもの! さあ、舞台は整った! 戦だ! 真正面から、正々堂々の、正真正銘の戦だ! 今こそ見せよう! 我らが力を! 我らが剣を! 我らを侮辱した輩にそれを見せつけろ!」
ハラールの鼓舞に、今までの屈辱を、欝憤を、兵達はその胃の腑から吐き出した。アストテランを震わす侵略の叫びにサラーフは満足気に顎を引く。
「全軍、突撃!」
将軍ハラールを先頭に、第一軍が進撃する。
サラーフ必殺の刃が、ついにその牙を剥く。
Ⅱアストテラン騎士団
【アストテラン城門前】
「城壁、放棄! 第一から六隊、追撃の敵を弓で押さえろ!」
ユーリイは今か今かと待ち望んだ号令をようやく発することができた。
ようやく、本当にようやく、城壁上の民兵も撤退の手筈が整った。
城壁上に残っていた最後の民兵がありったけの丸太を落とし、火を放った。その隙に城壁上の民兵は壁の内側へと逃げ込む。矢による援護もあり、城壁上の兵はなんとか後軍との合流を果たした。
「籠城線に移る! 迅速に城へと退避!」
破砕鎚が城門を打ち砕こうとする音がアストテラン兵の背を追いたてる。それでも、民兵にも関わらず、かろうじて規律のとれたまま撤退が進む。
――助かった。ユーリイは安堵に僅か頬を緩めた。
しかし、右方から地鳴りのように軍勢が迫る音が迫り来る。
茫然と、ユーリイは口を開いた。それが示すのは致命的な答え。
――間に合わなかったのだ。
「ユーリイ様! 私達が時間を稼ぎます! 急ぎ撤退を!」
茫然自失の体のユーリイにユーグは言い残す。
ダメだ!
それが意味することをこの上なく理解するユーリイは思わず叫ぼうとする。しかし、その背には進撃の軍靴に崩壊しそうなアストテラン兵。そう、間に合わないということが意味することなど、とうにユーリイは理解していたはずだった。
言葉にならない声に口を開けるユーリイにユーグは笑みを浮かべた。
「ユーリイ様に仕えられたことは、私にとってこの上ない幸福でありました」
もはや選択の余地のないユーリイは、別れの言葉に顔を歪める。生まれてからずっと共にあったユーグ。帝国でも屈指の剣技を誇りながらも、彼はユーリイを主として仕えてくれた。彼がいたことでユーリイがどれだけ助けられてきたか。
それが失われる。叶うならば押しとどめたかった。涙を流したかった。思考を放棄すらしたかった。けれど、アストテランの領主としてそれは許されなかった。
「すまない」
噛み締めた口から零すそんな謝罪だけが、ユーリイに許されたせめてもの個人的な感情だった。
「騎士に謝る主がどこにおりましょう?」
ユーグは苦笑して、ユーリイの背を押す提案をする。
「こういう時は、私達の道を飾る命令をするものです」
そう、その通りだ。オーウィンにも教えられたばかりではないか。ユーリイは指揮官だ。なればこそ、どのような状況であれ果たさなければいけない役目がある。
「アストテラン騎士団に告ぐ! 民が城に撤退する時を稼げ! 民を守る剣とならんことを!」
震えを隠せないものの、はっきりと、誰にも聞こえる大きな声で、ユーリイは死を命じた。それに騎士団はいつもより大きい唱和で応える。民を守る。それが彼らにとって最も重んじられる役割だ。最後に全ての騎士が団長であるユーグに習い、胸の前で剣を立て、低頭する。
「それでは」
最後にユーグとユーリイは視線を交わす。痛みに瞳を閉じようとするユーリイに、ユーグは民をお願いしますと、信頼の眼差しを向けた。
「アストテラン騎士団、行くぞ!」
ユーグは毅然とユーリイに背中を見せる。その背に騎士団が続くのを鎮痛に見送りながらも、ユーリイも彼らに背を向けた。
「急げ! 何としても城への籠城を果たす!」
津波のような軍勢の足音が、もはやすぐそこに迫っていた。
【アストテラン城門から南、三百メルトル】
「当然、そうくるわな」
僅かな、哀れなほど僅かな軍勢が乗馬もせず突進してくるのを見て、ハラールは呟いた。
そして先頭を切るアイスブルーの青年を見て嘆息する。
どうも、決闘の約束は果たせそうもない。
追撃戦である状況、そしてハラール自身の身体状況がのんびりと一騎打ちする余裕を与えてくれない。よってハラールは、
「ばはあああぁぁァアアア!」
全霊を込めた剣の振りおろしでユーグを迎え撃った。
二度目の邂逅。しかし、一度目と異なり、一騎打ちとはならない。
「おおおおォオオォオオオオオ!!!」
続く一軍兵の斬撃も自らの将軍を模ったような剛剣でアストテラン騎士団を迎撃する。
切り結んだアストテラン騎士団の剣がへし折れたのではないかというほどの金属音が鳴り響いた。
「はあああああああ嗚呼アアァアア!!!」
第一撃の勢いのままに剛剣は振るわれ続ける。その衝撃にアストテラン騎士団の剣を持つ手が震え、頑強な鎧は力任せに断ち割られた。
暴風の如き一気呵成の攻め。その勢いを止めえるものなどない。
将軍ハラールが先陣を切る時、サラーフ第一軍はその本領を発揮する。
突破、粉砕、破壊、撃滅、そして蹂躙。
圧倒的、暴の化身。
それがサラーフの刃たるサラーフ第一軍の本来の姿、真骨頂!
しかし、その足は止まった。否、止められた。
その要因は様々にあるだろうが、まずは多勢に押し込まれぬよう、広場ではなく、両脇に家のある一本道でアストテラン騎士団がサラーフ第一軍とぶつかったこと。他には、騎士団が頑強な鎧に身を包んでおり討ち取るのが容易でないこと、殉死の覚悟からくる高い士気。
そして最後の原因に、無敵たる将軍ハラールが止められている事実に、サラーフ第一軍は戸惑いを禁じ得なかった。
「期待通りとはいかなかったが、こうなっては仕方あるまい」
常人では反応することも敵わぬ斬り合いの中、ハラールが告げる。
否応なし。
ユーグはハラールの言葉に応じることなく剣を振るう。それは無言の肯定だ。
「なんだったら投降すれば今後の可能性は残るかもしれんが?」
神聖な決着を望んでいたユーグへのハラールの誘惑。
しかし、それはユーグにはありえない。
先祖が、父が、そしてユーリイが守ってきたこの地を渡すなど!
「はああァァア!」
誘いへの答えは両手での斬撃。それをハラールはかろうじて受ける。そして、
「バアア嗚呼ああァアァ!」
息つく間もなき連撃。ハラールの片手での剣戟はその速度を、回転力を上げる。そのスピードは初日の一騎打ちのそれを上回っていた。
反面、それは過日の途方もなき力を感じさせるものではなかった。
『左腕を痛めている?』
その原因、ユーグはハラールが片手で剣を振るうことに気付く。
連日、ハラール率いる一軍が後方に控えていたことは、対峙していたユーグにもわかっている。
では後方に待機していたはずのハラールが負傷しているその理由は。
「オーウィンはどうした」
問い掛け、というよりは確認するようなユーグの呟き。
「わしが斬った」
それにハラールは剣戟をもって端的に答えた。
「騎士として立派な最後であったよ」
「……そうか」
軽くも速い剣戟がどこか勢いを減じたユーグを攻め立てる。
『騎士のお前には受け入れがたい作戦かもな』
もう幾日前になるだろうか。オーウィンに言われた言葉をユーグは思い出していた。
――何が騎士か。
味方を見殺しにし、守ることもできない男が。
そんな自分が騎士など笑わせる。
それならば傭兵であろうと、敵を受け止め、ハラールに手傷を残したオーウィンこそ真の騎士ではないか。
彼は手段を選ばずとも、開戦からずっとサラーフ軍を受け止め続けた。
どのような手立てだろうと、形であろうと、自分の手と名誉を汚そうと。
主君の命を、主君の望みを、アストテランの住人達を、彼は確かに守り続けたのだ。
自分の命を投げ打つ、その最期の瞬間まで。
そう、自分ではなく彼こそ真の騎士だった。
なれば。
そんなオーウィンの死を無駄にしないためにも。彼同様、騎士たるためにも。
騎士を名乗るのであれば、必ずこの敵はここで止めて見せる!
「はあああああああああっ!!!」
ユーグには珍しい全霊の叫びを込めた、思いの丈を込めたような両手での斬り下ろし。
その重さに、想いに、片手で受けたハラールは後方に吹き飛ばされた。
「将軍!?」
動揺の声を上げるサラーフ第一軍。しかし、ハラールは最早それに構わない。
「いい。いいぞ、今のは」
顔を上げ、ハラールはユーグを血走った目で見た。
「想いのこもった、確かなお前の剣だった」
ハラールの口角が楽しくて仕方ないといったように歪んでいく。
「もっとだ。もっとお前を教えてくれ。わしも応えよう。だから」
耐えかねたように、言葉の途中でハラールはユーグに斬りかかる。
「もっと語り合おうではないか!」
真の姿を見せ始めたユーグを前に、ハラールも内に秘めた獣の喜悦を顔に浮かべていた。
【アストテランから東に三キロルの地】
「まずいんじゃねえか?」
響く歓声と悲鳴にアルが呻いた。
「……そのようですね」
アーリアもアルの言葉に同意した。しかし、それだけだった。
「おい、それでどうするんだよ?」
煮え切らない返事にアルは問いかける。
「どうもこうもありません。作戦通り待機です」
「なんだと?」
抑揚のない声で答えるアーリアに、アルは眉を上げる。
「ですから、待機です」
「正気か!? このままじゃヤバいのは見ればわかるだろう!?」
「それでも待機です!」
苛立ちを露に怒鳴るアルに、アーリアも叫び返した。アーリアが顔に貼り付けた無表情の仮面は剥がれ落ちている。そのアーリアを見て、アルは冷や水をかけられたように押し黙る。
「今、私達が出ても蹴散らされるだけです。私達だけでは、敵にとってさしたる脅威ではありません。他軍との連携があってこそ、私達は意味のある働きができるのです」
アーリアの言葉は正しい。アルは理解するものの、口を閉ざしたままではいられなかった。
「だが、それもアストテランがあってこそだ。あそこが無くなれば、俺達だけ残っても意味はない。……帰る場所を失うぞ」
「わかって、います」
アルの言葉も正しい。アーリアは力なく項垂れる。待機を支持するアーリアの言葉も、それを否定するアルの言葉も正しい。それが意味するのは、つまり、そういうことだ。
アルが、がりがりと髪の毛を掻きむしる。
「アーリア、あんたはフローラントのどこか別の町に逃げろ」
「え?」
思いがけない言葉にアーリアは目を丸くする。
「俺達は帰る場所もないし、アストテラン以外に行くところもない。でもあんたは違うだろ。あんたは優秀な商人だ。こんなとこで無駄死にすることはない。それにあんたみたいな、いい女が死ぬのはアストテランにとってもこの上ない損失だ」
神妙に話しながらもアルは最後にウインクをした。それを見たアーリアも笑みをこぼす。
「そんなに褒められると照れますね。お心遣いありがとうございます。でも、私は誠実を第一に商売させていただいてます。ですから、受けた恩を返さず逃げることなんてできませんわ」
「……本当にいい女だな」
「あなたも素敵な殿方だと思いますわ」
「はっ、そいつは照れるな」
アーリアは口に手を当て、アルは頭をかき、揃って忍び笑いをこぼした。
「さて、それでどうする? このまま、手をこまねいてると戦が終わっちまいそうだが?」
「そうですね。それでは最後に」
言葉の途中でアーリアが何かを見つめ、言葉を止める。不審に思ったアルはアーリアの視線を追う。すると、アストテランの後方で砂塵が立ち上っているのが見えた。
「最後に、何だって?」
「いえ、これからのためにもう一働きするとしましょう」
先ほどまでとは異なる、希望に輝く笑顔で二人は顔を見合わせた。
【アストテラン城門から南、三百メルトル】
「ばはははハハ嗚呼!」
旋風が如き剣戟の嵐。
獣の本性と、それを強めるかのように積み上げられた研鑽に裏打ちされたハラールの剣は、片手でありながらも、いやそれゆえか、過日よりも回転と多彩さを増してユーグを攻め立てる。
その圧倒的な剣速の連撃は、もはや何人にも止めえぬように見えた。
例え味方ですら、その間合いに飛び込めば死を免れえないだろう。
しかし、
「ハアアアッ!」
連撃を断ち切るかのように、ユーグが剣戟に剣戟を合わせる。
鍔迫り合い、とはならなかった。
両手で振り切られた剣に込められた力に、想いに、ハラールが弾かれる。
しかし、それでもハラールは即座に再びユーグへと躍りかかる。
「……あのバカが」
遠く、後方からその戦いを見るサラーフは苦々しげに毒づいた。
間違いない、ハラールは先の傭兵団団長との一騎打ちで左腕を痛めている。最後の関節技を左腕のみで堪えた時だろう。右腕のみで剣を振ってるのが、その何よりもの証拠だ。そうであれば替えの利かない駒であるハラールは前列に出さないところだが、戦闘狂はそのことを隠して戦闘に参加してしまった。
しかも悪いことに、個人の闘争に没入し、将軍としての役割は放棄しているときた。
そのことに気付きサラーフはため息を吐くも、今更どうしようもない。
「フラル」
傍らに残っていたハラールの副官をサラーフは指名する。
「はっ」
ハラールの有様を咎められるとでも思ったか、フラルの表情は硬い。加えるなら、皇帝の命であろうと、ああなったハラールを止めることなどフラルには不可能だ。
「第八隊を率いて敵の背後をとれ。同時に九、十隊は敵民兵の足止めに向かわせろ」
しかし、そんなことはフラルよりもハラールと付き合いの長いサラーフの方がよく知っていた。そのためサラーフはハラールの危険を減らすためにも、即座に戦を締めにかかった。また同時に、予想以上の足止めに、敵民兵への対処も忘れない。
「承知しました」
その的確で明確な意図のこもった命令をフラルは即座に承服する。
各隊を従え、フラルが動き出す。
が、そこでサラーフとフラルのいる後軍に向かって矢の雨が降り注いだ。撤退する敵の民兵からの騎士団へのせめてもの置き土産。
しかし家などの障害物を挟んだ遠方から、しかもろくに狙いも定めず民兵が放った矢では、効果は薄い。が、進軍の出鼻を挫くには十分だった。
「ふん、悪あがきだな」
苛立ちを隠すようにサラーフは毒づき、矢の飛来先を見る。
そこでサラーフは驚愕に目をむいた。
――砂塵。
アストテラン城の後方で舞い上がるそれが何を意味するか。数々の戦を乗り越えてきたサラーフには、当然それが理解できた。
まずい!
サラーフは親指の爪を噛む。あの砂塵の量、敵援軍の騎兵は万を数える。加えて援軍が騎兵だけということはあり得ない。間違いなく歩兵もいるはずだ。となれば騎兵が万を数える以上、総兵力は少なくとも三万、順当に考えれば五万は数えるだろう。
ダメ押しをするなら、援軍はあのビラルの神殿騎士団である可能性が高い。となれば、城壁超えのため下馬し一万を切っている今の第一軍ではとても対抗できない。
どうする? サラーフには判断が求められている。それも迅速な。このまま城を落としに行くか、一度退き体勢を立て直すか。
「……ありえん」
僅かでもそんな保留の案を思い浮かべた自身をサラーフは笑った。ここまで時を費やしたうえに、さらに無駄な時を浪費などできるはずもない。今までの犠牲も無為になる。
援軍はせいぜいが五万。今撤退しているアストテランの民兵と合わせてもおそらく六、七万といったところ。こちらもまだ七万近い兵力を有している以上、形勢は互角。加えて砂塵の位置から、おそらく到達までにはまだ幾許かはかかるだろう。ならばその間にアストテランの民兵を撃滅し城を奪取すれば、こちらが有利。
「城門の第二軍を急がせろ! 各隊も先程の指示を速やかに果たせ!」
遅ればせながら、砂塵に気付きざわめく兵にサラーフは指示を与える。その常と変らない揺るぎない自らの皇帝の姿に第一軍の兵卒は統率を取り戻した。
そして、そうなった以上、敵の大海に残されたアストテラン騎士団の命運は決まったも同然だった。
Ⅲアストテラン民兵
【アストテラン城門から西、一キロル】
「あれを見ろ!」
絶望的な空気が蔓延していたアストテラン民兵の間に、しばらくなかった明るい声が響き渡った。
撤退の指揮に追われていたユーリイもその声に顔を上げる。
「あれは!」
騎馬の上げる砂塵。
まず間違いなくビラルの援軍だ。マリヤ、よくやってくれた。ユーリイは使いの騎士への賛辞を内心で上げる。
これで状況は変わった。
戦える。アストテランはまだ戦える。だから、いや、しかし。ユーリイの中ではこの状況に葛藤が生まれる。それは、
「それじゃあ、あんちゃん行くとするか」
ちょっと散歩に行くか、といったような何気ない調子でコヴァーリはユーリイの背中を叩いた。呆気にとられるユーリイの脇でアストテランの男達がコヴァーリに続く。
「そっすね。これで何とかなるって話でしたよね?」
「そうそう。それにさっきは諦めたとはいえ、やっぱ仲間を犠牲にするってのは気持ちいいもんじゃない」
ユーリイの悩みに答えを与えるように男達は踵を返す。
そう、援軍によって選択肢は二つになったのだ。
このまま城に避難するか、足止めに残ったアストテラン騎士団の救援に駆けつけるかに。当然、前者は民の安全が高まる代わりに騎士団は犠牲となる。後者では騎士団が助かる
可能性が出る代わりに民の危険が増す。
その天秤に悩む領主に、民達は自らを危険に晒す選択肢を支持した。
「俺、オーウィンさん達も結構好きだったんすよ。これで騎士団の人達までってのはキツイッす」
若い青年が冗談めかした笑いから、耐えきれなくなったのか表情を歪めて言う。
「賛成だ。それに元々はよそもんのオーウィン達が命懸けでここを守ってくれたのに、俺達アストテランの人間が逃げるわけにはいかねえべよ。それに」
言葉の先を別の民兵が引き取る。
「可能性があるなら助けるべきだ」
そうだ、そうだ、そうだ、とその言葉への賛意が広がっていく。
それぞれに守る者も、待つ者も、失えないモノもある。
それでも、皆の顔は今、撤退してきた元の場所に向けられた。
「それに、だ。ユーリイぼっちゃんからユーグまで奪わさせるわけにはいかねえだろ」
初老の民兵がユーリイの頭に手を置くと、他の年長者もそうさな、と諸手を上げる。
幼くして父を失いながらも、アストテランに尽くし、守ってきてくれた幼い領主。
そのユーリイからこれ以上、奪わせるわけにはいかないと。
「ほら、あんちゃん」
背を叩くコヴァーリに、頭に置かれた手の優しさにユーリイは思わず涙を滲ませた。
しかし、すぐに彼は毅然と顔を上げる。
『今さら躊躇うな! 思考を止めるな! 幾百を犠牲に逃げ延び、戦うか! すぐに決めろ!』
必要な犠牲を速断しなければならないなら、守るための援軍も速断しなければならない。――そうだろ? オーウィン。
「これより、騎士団の救出に向かう! 皆、力を貸してくれ!」
どれくらいぶりかの希望を秘めたユーリイの願い。
それを支えようとするかのように、領民は声を張り上げて応じた。
【アストテラン城門から南、三百メルトル】
「サラーフ様、撤退していた敵民兵が逆襲してきたと九、十隊より報告です」
その知らせを聞いてサラーフは眉を上げる。
援軍を確認しやれる、とでも思ったか。
バカが、とサラーフは内心で吐き捨てるも、対応は必要だ。
退く敵の進軍を乱すのと、正面から戦うのではまるで意味が違う。正面衝突となれば、九、十隊二千のみでは多勢に無勢。各個撃破の憂き目にあいかねない。となれば戦力の集中が必要だ。
問題は、先行する両隊を退かせるのか、こちらの本隊が出向くのかだ。敵、援軍の迫る今、これはその前にアストテラン軍を崩壊させ戦力を削ぐ好機でもある。ならば、本隊が赴き、敵指揮官の首とその後ろの城を狙うのが妥当だろう。
しかし、そう考えるサラーフの即断を妨げるのが敵騎士団の奮戦だ。もはや完全な包囲を受けながらも、敵軍は未だに粘っていた。騎士は分厚い鎧に包まれているために止めが刺し難いのはわかる。にしても、これは異常だ。一万に囲まれた五百如きがここまで粘れる道理はない。
――ない、のだがその道理もあのような男を前にすれば覆るということか。
「バハハアァア!」
サラーフの視線の先では、我を忘れ、もはや剣と同一化したようなハラールが剣を振るい続ける。
その姿はもはや騎士というよりも獣のそれに近い。
闘争のみに生きるかのようなハラールの戦いぶりは、戦神のそれだ。
だが、それでも、そのハラールをもってしても、あの男は止めえぬというのか。
「ハアアアッ!」
ユーグの両手の剣戟がもう幾度目か。ハラールを吹き飛ばす。
その衝撃ゆえか、ハラールの額からは血が流れていた。
「ハラール様!」
数人の騎士がそのハラールを助けに割って入る。
しかし、ユーグの剣が閃くと、その騎士達はまるで無抵抗であるかのように造作なく斬り伏せられる。
「バアアァア!」
そして再び襲いくるハラールへとユーグは剣を構える。
そのユーグを、苛立ちとそれに勝る興奮の瞳でサラーフは見据えた。
ハラールと切り結びながらも、押し寄せるサラーフ一軍の兵をまるで路傍の草のように刈り取り続ける姿はまさしく悪鬼。あそこまでの個の力はもはや理不尽ですらある。集団の戦いである戦争において、もはやあれは完璧な異物だ。
だが、事実は事実。どれほどの不合理であろうと、不条理であろうと、理不尽だろうと、あれは確かに存在している。
あれがハラールを、サラーフ兵を受け止めるから、敵騎士団は戦線を維持できている。あれがサラーフ兵を斬るから、敵騎士団は士気を保てる。あれが立っているから、敵騎士団は希望を持てる。
あれほどの男、欲しくならないわけがない。
渇望の目でサラーフはユーグを見るも、その瞼を閉じた。
今はそのような場合ではない。ハラールが万全なら何としても生け捕らせるところだが、今のハラールにそれは期待できない。ならばこのまま数で包み込むしかない。ないのだが、そうなれば九、十隊の元には本体は動かせない。そうすれば、敵騎士団は民兵を守るためこちらの背を討つだろう。もはや疲弊し切った相手だが、あれはこちらが背を向ければその背に斬りかかってくるだろう。となれば仕方無い。
「両隊を退かせろ。ここで迎え撃つ」
サラーフは指示を出す。本意ではないが他に手もない。アストテランの軍勢についてはここで、一軍で対処する。敵援軍はもはや予断を許さぬ距離まで接近している。しかし、こちらの体制も整いつつあるのだ。
サラーフが見やるアストテランの城門では、破砕鎚が城門の最後の断末魔のように一際高い破壊音を響かせた。
【アストテラン城門から西、三百メルトルから】
敵が退いていく。
それはそうだろう。いかに民兵と正規兵の差があるとはいえ、兵数はおよそ二千対一万。正面からぶつかり合えばこちらに分があるのは明白だ。
しかし、この局地的な戦いで勝利を収めたのは一体どちらだったのか。それは両軍の状態を見るだに怪しかった。
サラーフ軍は退いていくものの、その後退は整然としており乱れも少ない。
対して敵を退かせたはずのアストテラン軍では、そこかしかで苦鳴が響く。初日の奇襲で混乱していた敵ではなく、万全の態勢で進軍している正規軍と当った以上、それは当然といえば当然の結果なのかもしれなかった。
「追うぞ! 本隊との合流を許すな!」
それを意識させてはならない。自覚してしまえば民兵の追い足は鈍る。自信を失い、それが士気の低下へと繋がり、攻撃という選択肢に躊躇いが生じる。
敵を退かせたという事実はそれだけで自信となる。敵の背を追う方はいやがおうにも士気は上がる。ならばそれに任せ、今はその背を討つ。
――例えそれが相手の意図通りなのだとしても。その先へ罠が待ち構えていようと。
一度騎士団の救出に向かうと決めた以上、今はそうするしかない。躊躇して中途半端な行動をとれば、もはや騎士団だけでなくこちらも全滅する。ここまで来てしまえば、もはや共に生き延びるか、共に全滅するか、それしかない。どちらかが助かるという選択肢は、救出に出向いた段階で捨てたのだ。
騎馬で駆けるユーリイの目についにサラーフ第一軍本軍の陣営が映る。
出迎えるのは、待ち構えていた弓の掃射。
「頭上、盾構え!」
指示を出しながらも、ユーリイの足は止まらない。掲げた盾に当たるものは任せ進む。首筋に矢を受けたユーリイの愛馬は、その痛みを怒りと荒れ狂う激情へと変えてサラーフ兵を踏み潰す。
第一軍の中央の台上でユーグへと渇望の目を向けていたサラーフが、左方から攻め上がるユーリイへと目を向ける。
ユーリイは槍をついてくる歩兵を斬り捨てながら、台上で戦況を座視する煌びやかな戦装束のサラーフを見据える。
戦闘が始まって九日。
ついに両軍の指揮官は相見えた。
傲岸不遜にユーリイを見下すサラーフを、ユーリイは決心の瞳で見上げる。
両将が視線を交わす北上で、城門が破られる破砕音と大群が雪崩れ込む軍靴の波。狭いアストテラン領内は幾万の敵軍勢で満たされていく。
ここにいたって、このアストテラン攻防戦は最終局面へと突入した。
Ⅳ援軍
アストテラン軍とサラーフ第一軍の兵が正面からぶつかる。
一万強対一万弱。
アストテラン側はアストテラン民兵五千に加え、本国からの援軍一万。連日の戦で数を減らしているとはいえ、未だにその数は優に一万三千以上。
対してサラーフ第一軍は初日の夜襲、その後の毒の被害、加えて今日のオーウィン傭兵団とアストテラン騎士団の連戦によりその数は一万を割り込み九千に近い。
数字上ではアストテラン軍に有利。
しかし、アストテラン側は民兵なのに対し、サラーフ側は正規兵、しかも精兵。
加えて、アストテラン側の本国からの援軍は士気も高くなく、戦場は戦える兵数の限られる市街地。
さらにサラーフ第一軍はようやくの正面からの戦いに猛り狂う。
よって、アストテラン軍が押し込まれるのは自明の理だった。
だが、それでもアストテラン軍は崩壊を免れている。。
それはひとえに、自ら先頭で戦うユーリイの姿があればこそだった。
連戦に息を切らしながらも、ユーリイは馬上から剣を振り下ろす。その剣は一人のサラーフ歩兵の頭を割ったが、衰えた剣腕のせいか、剣は頭の半ばで止まり、抜けなかった。
「もらった!」
その隙を突き、脇から別の歩兵が槍を突き出す。
「グッ!」
槍は辛うじて頭をずらしたユーリイの頬を掠める。
「この野郎!」
そのサラーフ歩兵をコヴァーリが手斧で力任せに横合いから切り裂いた。
「あんちゃん、本当に退がれ! 息も切れてるし、あんちゃんが死んじまったら全部終わりだ!」
コヴァーリもいつにない余裕のなさでユーリイに意見する。
「そうだね、でもダメだ」
しかし、それをユーリイは首を振って拒んだ。
「あんちゃん!」
「私が退がったら、援軍の民兵はもうもたないよ。それに」
ユーリイは家屋の向こう、小さいながらも戦の音が響き渡る方角を見やる。
「今なら、まだ間に合う」
その意味するところを、アストテラン騎士団の生存の可能性にコヴァーリは反論を飲み込む。
「まったく大馬鹿が」
顔を逸らして、コヴァーリは声を張り上げた。
「お前ら、絶対に領主様を守りきれ! 騎士団もすぐそこだぞ!」
「オオオオォォオ!!!」
その呼びかけにユーリイの周りをアストテラン民兵が取り囲む。
まだ戦える。
しかし、その希望を打ち砕くようにサラーフ第二軍の軍靴はアストテラン軍へと近付いてきていた。
※
ユーリイを見てサラーフは舌なめずる。
大層な計略家かと思いきや、前線にも出れるとは。
――欲しい。
あれも、そしてサラーフと戦う騎士も、ぜひとも手駒に加えたい。
数では相手が勝り、油断ならない戦場ながらもサラーフは悪い癖が出ていた。
奴隷軍からの成り上がりのサラーフは理解している。
戦は人だと。人材により勝敗が決まるのだと。
なればこそ、サラーフは優秀な人材に固執する。
それゆえ、今も積極的にユーリイを弓による狙撃や囲い込みで押し殺すことをしていない。それはこの拮抗した盤面ではぬるく思われもしたが、第二軍が敵の背をとろうとしている今、問題ないように思えた。
しかし、第二軍の軍靴が止まる。
何事か。問うまでもなく、答えは来た。
西からの蹄の音。
その津波が如く押し寄せるは当然、ビラルの援軍だった。
【アストテラン城門から西、一キロル、大通り】
「総員、抜剣!」
アイレーンの指示に従い、神殿騎士は鞘から剣を抜き放つ。
目の先では城門から侵入してくる異教徒の軍勢。
その大群に突撃するか、退くか。
選択は速断だった。
その軍勢が向かう先では剣戟、喚声、戦の音。
つまり、守るべき子羊は未だ退くことなく戦っている。
なれば、その盾たる神殿騎士団が退くことなどありえなかった。
そして、指揮官たるアイレーンのその判断が無くとも、神殿騎士たる兵の心は定まっている。
自らの神に反する異教徒の群れ。それを見た彼らがとる行動は。
「みな、私に続け!」
撃滅だ。
【アストテラン城門から南、三百メルトル】
サラーフ軍、第一軍一万弱、第二、三軍共に二万強。
対するアストテラン民兵一万強、ビラル援軍五万。
盤面の数字上はほぼ互角。
サラーフ軍には連戦の疲労があるものの、これまでの戦いは交代で休息を取り、城壁を突破した士気の高さもある。
対するビラル援軍も長旅による疲労はあるものの、戦闘による損耗はなく、異教徒討伐という名目による士気は高い。だが一万が民兵というのは、城壁や城というアドバンテージが無い今、紛れもない弱みと言える。加えて騎兵以外の歩兵が到達するまではまだ幾許か時を要するだろう。
よって、後は二軍と三軍の侵入を待てばよい。
「七隊、側面より敵援軍に矢を放て」
しかし、サラーフは戦況を鑑みてぬかりなく手を打つ。
二軍、三軍に任せれば問題ないだろうが、敵はあの神殿騎士団。その騎兵隊ともなれば、その突破力は失われた第一軍の騎兵隊と遜色ないだろう。側面よりの援護で少しでも馬脚と敵の意識に乱れを加えた方が良い。
まして第一軍が対峙するのは民兵であり、例え兵数が相手の半数だろうと問題はない。
そう判じた上での、サラーフの指示だった。
戦況が混迷を極めたここに至っても、サラーフは冷静だった。
戦局は予断を許さぬ状況にあった。最早勝敗の天秤はどちらに傾いてもおかしくない。
しかしだからこそ、サラーフは自身の采配が全てを決めるということを理解していた。ここに至れば戦術で勝利を手繰り寄せるのが指揮官の務め。
目前の盤面。敵の民兵は統率もとれており、十分に戦力足りうる。しかし、それだけでありそれ以上ではない。かろうじて第一軍と戦うことができようと、それを突き破る突破力はない。ゆえに戦線を維持するだけならば、五千もあれば十分ことは足りる。
ゆえにビラル援軍の対処。それが危急の課題だ。二軍、三軍でそれを打ち破れるかに全てがかかっている。
だが、そのサラーフの描く盤面は覆った。
「報告、アスト川対岸に敵対勢力ありとのこと!」
その耳を疑う報告にさしものサラーフが言葉を失う。
「何だと!? どこの軍だ!? 規模は!?」
しかし、即座に意識を切り替え、サラーフは確認を取る。駒は全て出揃い、これ以上紛れ込むものなど無かったはずだ。
「敵は女、子供混じりながらも一万! なお我が国の装束に身を包んでいるとのこと!」
――旧王朝の残党か!
サラーフは報告のみでそれを理解した。そして事の重大性も。
挟撃を受けること。
それは戦場において最も避けねばならぬことの一つだ。
兵の意識は散らされ、士気が下がり、ゆえに被害は拡大し、そのためさらに士気が下がるという負のスパイラル。
加えるならば今回はあれほどの狭路に閉じ込められる上に、逃げ道を断たれる形となる。
まだこんな隠し玉を用意していたのか。
サラーフはギリッ、と歯を噛み締めるものの即座に指示を出す。
「ウラルに危急の伝令! 即座に対岸の敵勢力を撃滅、後に転進、第二軍の援軍に駆けつけさせろ! ウルードにもだ! 三軍が駆け付けるまで何としても神殿騎士団を食い止めさせろ!」
「「はっ!」」
それぞれに伝令が去るのを見届けサラーフは計算する。
挟撃は最悪の事態。しかし、それはあくまで挟撃が成功すれば、の話だ。伝令によれば敵の後軍は女子供交じりの一万。そんなもの、こちらが前面に集中していれば背も突けるだろうが、潰そうと思えば即座に潰せる。今まで姿を隠していたのがその何よりの証拠だ。
なれば、先に潰してしまえば何の問題もない。
問題はそれまで二軍が神殿騎士団を食い止められるかだが、こちらは二万強対五万。そして戦場はこの入り組んだ城下内。ならば、ウルードと二軍であれば十分持ちこたえられる。
算段をつけ、サラーフは目前のアストテラン民兵と未だ持ち堪えていたアストテラン騎士団を見る。
――もはや猶予はない。なれば、どれほど惜しい駒であろうと、いい加減に叩き潰さねばならない。
【アストテラン城門から東、一キロル】
「ふん、こけおどしの雑兵ではないか」
遠く、自軍の背後をとった軍勢を見て、サラーフ第三軍の将、ウラルは笑った。
退路を断たれ挟撃を受けると報告を受けた時は、あまりの事態に卒倒しそうであったが、こうしていざ敵を見てみれば何のことはない。川を挟んで対峙する敵軍は装備も統一されておらず、挙句、女子供まで混ざったまさに烏合の衆だ。
たとえ一万でも退却を許されず、あの狭道で挟み打ちとなればまずい事態となったが、それは挟撃が成立すればの話。背後の軍が突破できるのであれば何ら問題はない。いかに川という地の利が防戦に向こうとも、あれほどの弱敵であれば問題ではない。
「さて、皆に朗報だ。なんと獲物が自ら狩り場に飛び込んできた! 相手には女も混ざってるようだ!」
その言葉にサラーフ第三軍の兵は爆発的な雄叫びを上げた。今回の親征に兵を慰める女は帯同していない。無駄な人員の増加は進軍の妨げになるし、兵糧も消費する。何より、そのようなものは征服地で調達すれば良かったからだ。しかし、それが予想外の抵抗で移動も含めればもうどれだけ女日照りだったろうか。
獣の如きサラーフ第三軍の奴隷兵の禁欲はもはや限界に達していた。そこに現れたこのごちそう。耐えられるわけがない。
「さあ、狩りだ! 貴様らも長い戦に飽いて、乾いただろう! それを癒したければ、目の前の獲物を自ら奪い取れ! 早い者勝ちだ! 犯し、奪い、喰らえ!」
「ウオオオオオオオオオォオォーーーー!!!」
号令一下、奴隷兵は我先にとアスト川へと飛び込む。渡河は動きを制限され、この上無い危険を伴う。現に飛び込んだ奴隷兵は川向こうの敵軍から矢を浴びせられ犠牲となっている。にも関わらず、彼らの足は止まらない。見る間にアスト川は奴隷兵で満たされる。
あの獲物を手にするのは俺だ! 仲間意識などもはや薄く、ただ自分の欲望を満たすために、奴隷兵は次々と進撃する。その血走った眼に、旧サファール王朝援軍は思わず腰が引ける。それを好機と奴隷兵はどんどん距離を詰める。
奴隷兵の先頭が川の対岸にあと少しで届こうかという時、敵陣営で銅鑼の音が響き渡った。弓兵と槍兵の入れ替えの合図か。ウラルはそう読むも、敵軍に動きはない。
「気をつけろ! 何かある!」
ウラルの脳裏に浮かんだのは先日自軍を襲った火計の悲劇だ。ウラルの胸中で不安が増すのにつれて、爆音がアスト川で響き始める。
「き、岸へ逃げろお!」
川の上流へ目を向けた奴隷兵が叫んだが、もはや手遅れだった。
轟音とともに渡河中の奴隷兵は水に飲み込まれ、姿を消した。
「な……」
言葉を失うサラーフ第三軍に追い打ちのように矢の雨が降り注いだ。
悲鳴が響き渡り、第三軍の被害が広がる。
それは、第三軍にとって、そして何よりこの戦場において致命的な損害だった。
勢いづいて川を渡っていた兵は現存の第三軍の半数近く。それが失われた上に、今の計略がある以上、この川は渡れない。ならば、第三軍は敵の後軍を始末できない。かといって放置すれば、目前の軍は自由に動き回れる。それを留めるためには第三軍がここで睨みを利かせねばならない。だが、そうなると。
それが示す結論を理解しウラルは歯を噛み締めた。
だが、最早、どうすることも叶わない。
ただ彼にできるのは一、二軍に伝令を送ることだけだった。
Ⅴサラーフ第二軍
噂に違わぬ突破力。
馬脚はこちらの歩兵を踏み砕き、振るわれる大剣は兵を紙屑のように引き千切る。
加えて、訓練された神殿騎士団の馬と兵は矢如きに怯えも躊躇いもない。また騎士は鎧に覆われ傷すら容易に与えられない。馬ですら装甲を身にまとっている始末だ。
前線の歩兵は成す術もなく踏み躙られ、戦線が決壊する。
流石だ、ウルードは怒りと賛辞のないまざった賞賛を送る。
しかし、ウルードはその実力に瞠目こそすれ、揺るぎはしない。
平原で対峙すれば、その脅威の対処に頭を痛めただろう。しかし、ここはいかに大通りとはいえ、街の中。衝突面は限られ、空間は兵で満たされている。なればその密集を崩すのは容易ではない。加えて、
「矢、放て」
後軍からの矢の援護はいくらでもできる。
いかに効果が薄いとはいえ、鎧にも隙間はあり、まして馬には剥き出しの部分も多い。ならば、雨あられと矢を振らせれば多少の効果は期待できる。また、第一軍から放たれてるのだろう援護の矢も効果的だ。遠方から放たれるそれに傷を与えるという意味での効果は薄い。しかし、それは側面にも敵がいると神殿騎士団に知らせることで大きな心理的動揺を敵に与えている。
流石は我が皇帝。
若輩ながらも自身が認めた主君の采配に笑みを溢し、なればこそ、この初めての親征を成功させなければならないとウルードは決意を新たにする。
しかし、城壁の彼方、鳴り響く轟音。
水のうねり、乾いた土地で生まれ育ったウルードにはそれがなにを意味するかわからなかった。
しかし、同じくそれを耳にしただろう神殿騎士団は勢いづく。
「諦めろ! 貴様らの後軍は水に飲まれ崩壊したぞ!」
さらに、高い女の声がサラーフ兵の動揺を誘うように大声で触れ回る。
「構うな! 貴様らは目前の敵を討てばよい!」
しかし、旧王朝の時代から諸侯であるウルードに付き従ってきた兵は、ウルードの言葉で動揺を消す。
相手の言葉が事実か、ウルードに判断はつかない。しかし、耳に残る三軍の悲鳴と混乱は信じたくはないが、と苦悩するウルードに伝令が届く。
「第三軍、敵の計略により半壊! 敵、後軍の突破、及び我が軍への援軍は不可能とのこと!」
その信じがたき報告に周囲の兵がざわめく。その波紋は悲鳴となり、広がる。
それを止めるべきウルードは、天を仰ぎ、目を閉じた。
しばし、ウルードは考える。しかし、もはや選べる選択肢は多くなかった。そしてその中で彼が選ぶべき、彼が取るべき選択は。
「騒ぐな! 騎士たる者、戦にあれば騎士らしく振舞え!」
一喝、それで落ち着きをなくしていた兵が止まる。
「さあ、貴様らの生き様が試される時が来た! 先祖に恥ずかしくない姿を見せたくば、目前の敵を見事討ち取って見せよ!」
そして続く鼓舞に兵は神殿騎士団へと立ち向かう。
その姿を満足げに、反面、惜しむように見つめウルードはかたわらの騎士の名を呼ぶ。
「バクル」
「はっ」
長年、戦場を共にしたいかにも武人といった雰囲気の初老の騎士は常と変らぬ謹厳さで応じる。
「しばし、ここを任せたぞ」
唐突な、そしてまるで部下を見捨てるかの如き発言。
「はっ」
しかしそれにもバクルは肯定を返し、ウルードの背を見送った。
【アストテラン城門から南、三百メルトル】
「なんだと!?」
ウルードに渡ったのと同様の伝令を受けたサラーフは声を荒げた。
「サラーフ、撤退だ」
サラーフの怒りとは対照的に、唐突に姿を現したハラールが冷たいほど静かに告げた。
「何だと!?」
激昂するサラーフに構わずハラールの隣でウルードが続ける。
「あなたならわかるでしょう? この戦にもはや勝機はありません」
「ふざけるな! まだ、まだ手はあるはずだ!」
サラーフの叫びにもハラールがただ続ける。
「敵の援軍はやはり神殿騎士団とのことだ。今は騎兵のみとのことだが、後に歩兵軍も到達するだろう。そうなれば二軍のみでは対抗できん。そして聞いての通り三軍は半壊、敵の後軍を突破することは叶わん。となれば、あとは刈り取られるだけだ」
サラーフは形相を変える。
「そもそも、貴様が指揮を放棄し、個の戦いに興じたりなどしていたから!」
見苦しい八つ当たり。わかってはいてもハラールは受け止める。
「そうだな、言い訳のしようもない。この戦では、わしは足を引っ張るのみだった。個の戦いに執着し、指揮官としての役割を放棄し、あげく敵を破ることもできなかった。指揮官としてわしは未熟だった」
認め、ハラールは頭を振る。
「ウルードに止められなければ、未だに奴との語らいにのめり込んでいただろう」
闘争に没入していたハラール。それを止めるのは何人にも不可能だ。だから、ウルードはハラール本人に、それをさせた。この戦、我らの負けです。そのウルードの告げた事実がハラールにかろうじて残っていた指揮官としての自覚を取り戻させた。
「しかしだからこそ、将軍として、指揮官として、最後を間違えるわけにはいかん」
ハラールは獣としての欲望を支配し、決然と言った。
そのハラールの言葉は痛いほどサラーフにも響く。ハラールの自戒はサラーフにもそのまま当てはまった。コマとしての敵への執着に、手を緩めた。そもそもハラールが我を失ったというのなら、その段階でサラーフがハラールの手綱を握らねばならなかった。
サラーフの相貌は激しく歪んだ。それはいつもの余裕を絶やさぬ笑みで表す怒りではなかった。目を見開き、口角は下がり、目や口から血が迸りそうなほどに歯を噛み締める。顔の血管が浮き立ち、敵と、そして自身への怒りが顔から溢れ出ているかのようだった。
「サラーフ」
慰めるようにハラールは名を呼び、試すような眼でサラーフを見た。醜く歪んだ美貌を地に向けるサラーフからビキッと音が響き、プッとサラーフは何かを吐き捨てた。怒りに噛み砕いたのだろう。それは何あろうサラーフの血にまみれた奥歯だった。
「撤退だ」
小さく、けれど確かに口に出されたその言葉に、ハラールは重々しく頷いた。
そんな二人のやり取りを最後まで見守っていたウルードは満足そうに笑んだ。
「ここでサラーフ様とハラール様を失うわけにはいきません。ここは私に任せ、お二人は撤退してください」
粛々とウルードは進言する。その言葉の意味するところを二人は当然すぐ理解した。
「すまんな、ウルード」
ハラールは即座にそう返す。
そう他に選択肢などない。ウルードの判断は正しい。
ここで失ってはならないのは一に皇帝たるサラーフ。二にサラーフ軍の筆頭将軍にして武威を示すハラール。
ならば殿を務めるのはこの場でウルードを置いて他にない。
「いえ、戦場で死ぬのは武人として名誉なこと」
笑みさえ浮かべて、ウルードは言い切った。
「サラーフ」
ハラールは促すようにサラーフの名を呼んだ。そう、命令するのはあくまで皇帝たるサラーフであるべきだ。
「ウルード、最後に望みはあるか」
低い声を洩らしてサラーフは尋ねた。
死を命じたことなど数多くある。戦において人など所詮駒。サラーフはそう理解し、断じているからこそ、今までもこれからもそうしていく。そこに迷いが入る余地などない。
だがそれでも、今回のは今までと異なり、自分の失態が原因だった。
そして、失うには惜しい駒もある。
サラーフ軍においては珍しい旧王朝からの諸侯。
そして他のどの諸侯よりも早くサラーフに協力した貴族がウルードだった。
『お前みたいな若造がこの軍の頭だというのか?』
最初にサラーフを見た時、ウルードは無礼にもそう口にしたか。
一体、なぜそんな男が最後まで自分に仕えようとするのか。
「それでは我が家族と領地。それをお願いしたく存じます。あと、部下の家族についても同様に」
「わかった」
そう請け負い、サラーフはウルードに背を向ける。一刻を争う今、もはや交わす言葉もかける言葉もありはしなかった。
「サラーフ様」
同様に背を向け、ウルードは皇帝の名を呼んだ。
振り返る自らの主君に顔を向けることなく、ウルードは言う。
「我らが国を頼みます」
その願いと、ウルードの背に、サラーフは思い出す。
そう、そうだったな。お前が俺に仕えたのは。
「ああ。後は案ずることなく役目を果たせ」
言い残し、今度こそ最後の主が離れていくのをウルードは背で感じ、口元を綻ばせた。
――部下の想いを汲むなど、まったくあの方らしくない。
【アストテラン城門から東、一キロル】
「ウラル様! 皇帝よりの伝言です!」
「内容は!?」
伝令の叫びにウラルも怒鳴り声で問い返す。
「敵の後軍を足止め、後に森を抜け撤退! アラルの泉に集結せよ、とのことです!」
伝令を聞いた兵からため息とも取れない声が漏れた。
――負けた。
ウラルを含め、全員が理解する。そしてその伝令の厳しさも。
ウラルは考える。ここに至っても皇帝の指示は正しい。神殿騎士団が攻め上がる今、後ろを敵に取られている状況で勝ち目はない。殲滅されるのは時間の問題だ。ならば、少しでも被害を抑えての撤退がもはや最上の手だろう。その中で最優先されるのは皇帝サラーフ、そして筆頭将軍ハラール。
しかし敵軍がむざむざ二人の逃走を許すわけがない。なれば足止めする殿が必要だ。しかし、この状況でそれは限りなく盾として犠牲となることを意味する。二軍のウルードは恐らく、それを受け入れるだろう。
だが、ウラルは違う。美味しい目は見させてもらっているし、奴隷時代からの付き合いでそこそこの仲間意識もある。だがだからといって、自分が皇帝達のために犠牲とならねばならない理屈はない。
「退くぞ! 森を川の上流に抜けて撤退だ!」
「ウラル様!? 命令は足止めですよ!?」
血相を変える伝令にウラルは言う。
「足止めは今までしてただろう?」
「命令の意味は皇帝が撤退するまでの足止めです! 今、敵の後軍に皇帝の退路を塞がれれば皇帝の命が危険にさらされます!」
ウラルは鼻で笑う。
「退路を塞ぐ? あの軍が? そりゃないだろ。どう見ても寄せ集めの背をつくしかできない雑草だ。こっちが退けば追ってきやしないだろうさ」
伝令は一瞬言葉に惑うも、なおも言い募ろうとした。しかし、その口が開かれることはなかった。その前に、ヒン、とウラルの剣が閃いていたからだ。
「それにお前がいなけりゃ皇帝に命令違反がばれることもない」
返り血を浴びたウラルは、地に落ちた首にそう別れを告げた。
【アストテラン城門から西、三百メルトル】
「待たせたな」
二軍に戻ったウルードはバクルの労を労うように声をかけた。
「いいえ」
寡黙なバクルは言葉少なに首を振った。
その前で戦っている兵数は少ない。伝令により殿として必要な数以上の兵は撤退を指示されたのだろう。
「ウルク様に兵一万を預け、撤退していただきました」
「すまん、助かる」
あの頑固息子を撤退させるのは骨が折れたろうが、流石はバクル。うまくやってくれたらしい。ウルードは副官に頭を下げた。最後に言葉を交わすことは叶わなかったが、生き残れるというのであれば、それで十分だった。
心残りもなく、自軍の騎士へ向き直ったウルードの前では、全てを察しているのだろう。すべての兵がただ黙してウルードの言葉を待っている。
「さて戦局は貴様らもわかるだろう。残念ながら騎士として勝利の栄誉を我らは皇帝に捧げることができなくなった」
わかりきってはいたが、将軍から告げられた受け入れがたい事実にサラーフ第二軍の兵は歯を噛み締める。
「されど、我らが栄誉を示すため、最後の機会は残った。皇帝の命を守るため、宿敵の神殿騎士団と対峙する。騎士としてはこの上ない死に場を得た。かくなる上は、主君のため、己が栄誉のため、我らが爪痕を深く刻みつけようぞ!」
ウルードの決死の宣告にも、サラーフ第二軍の兵は瞳に炎を宿した。彼らはサラーフ帝国建国以前より、騎士として修練を積んできた。なればこそ、栄誉を誇る気持ちも、騎士としての誇りもサラーフ陣内では最も強い。彼らが最も恐れるのは死ではなく、己が死に様が騎士道に反すること。
「さあ、迎え討て! 一騎たりとて、皇帝の背に近づけるな!」
ウルードの号令に従い、残った殿の二軍兵、一万が圧倒的な突破力を誇る神殿騎士団を迎え撃つ。
サラーフ二軍歩兵は荒れ狂う神殿騎士団を相手に崩れることなく立ち向かっていた。もはや躊躇うことなどない。死の決まった彼らに残されたのはただ一つ。騎士として主君の命を守ること。そして、一人でも多くの敵を討つこと。そう腹が決まってしまえば、恐れなどあるはずもなく、何人周りで仲間が死んでいこうと、崩れるわけもありはしなかった。
玉砕覚悟の足止め。ウルード指揮下の第二軍兵はその数を一万から五千まで減らしこそいたものの、その死に際の粘り強い抵抗と高い殉死の精神に、神殿騎士団もその戦列を突破することができずにいた。
「ウルード様! 本隊は森を抜けて脱出を果たしました!」
そしてようやく訪れた伝令の言葉にウルードは満足げに頷いた。
「そうか」
これで自分の役目は果たした。ウルードの胸を安堵が満たす。
「それなら、これで」
ウルードは空を見上げる。その空は澄み渡るほどの青だ。ああ、全く、本当に、死ぬにはいい舞台だ。
目線を下げた先には数えきれない部下の死。
前王朝を裏切ってからも、いや、その前から自分につき従ってくれたかけがえのない同胞達だ。
よくやってくれた。
内心で感謝を伝えるも、餞の言葉は戦士の世界へと旅立った彼らには届くかどうか。
そう、それを伝えようとするなら、自分もまた同じ場所に行くしかないだろう。
しかし、そこに行くとしてもまだやり残したことがある。
「バクル」
「はっ」
最後の時が近づいても、実直な部下は変わらぬ姿で返事を返してくれた。そのありがたさを噛み締めながら、ウルードは言う。
「行くか」
「はっ、どこまででも」
馬を駆るウルード。その背にバクルと側近の騎士達がつき従う。
さあ、最後の戦いだ。
※
「アイレーン様!」
「ああ」
最後まで聞かず、アイレーンは頷いた。
聞くまでもない。あれ、は空気でわかる。
決死の突撃。
幾度も受けたことがあるそれに、アイレーンは目を伏せる。
なぜ、退いてくれないのか。あれは獣とは違う。それどころか、きっとこの世界で一番
美しい意志を胸に抱いた人の群れだ。散らしたくはない。
しかし、散る前だからこそ、あれはあれほどまでに美しいのかもしれなかった。
――敵でなければ、わかりあえただろうか。
アイレーンのそんな思いも戦場では虚しいだけ。本当に、戦はやるせない。
「第一陣、崩壊! 敵の勢いが止まりません!」
悲鳴のような報告にアイレーンは目を閉じる。
奪いたくはない。けれど、奪わねば、あれはより多くをこちらから奪っていく。
そのことを知っているからこそ、アイレーンはその手に剣を取ったのだ。
「行くぞ」
哀愁を払うように眼を見開き、アイレーンは全てを終わらせに立つ。
※
失うものなき突撃。
文字通り全てを賭けた全霊のそれを止めることは並大抵ではかなわない。
「はあああああああああっ!!!」
まごうことなき強敵である神殿騎士達を、ウルードは一刀のもとにその剣と鎧ごと叩き切った。
ウルードは凡人だ。天性の才と膂力、そして闘争への飽くなき欲求を持つハラールとは比べようもない。しかし、幼い頃から貴族として、人の上に立つ者として、何より人の前に立ち導く者として、修練に修練を重ねたその武技は十二分以上に将軍たりうるものだ。
そのウルードの命を賭した突貫は神殿騎士団といえど、容易には止めえなかった。
しかし、それも多勢に無勢。
一人、また一人とウルードの背からは部下が消えていく。
それでも、後ろなぞ振り向かない。それを顧みることなどない。
それはウルードの背を引くものではなく、ウルードの背を押すものだ。
後ろの部下の忠信に報いるのは、倒れゆく体に手を差し伸べることなどではない。
失った全ての部下の分まで、彼らの生きた証を、敵軍に傷痕として刻みこむこと。
それが騎士として彼らが残せる最後の矜持。
その想いを胸に神殿騎士団の波を切り開くウルードの前に、その場に似つかない者が立ちふさがる。
それは少女、と言っても過言ではない精緻な顔立ちの女だった。
「邪魔だ、女ァ!」
ウルードは雑草を切り分けるように剣を薙ぎ払ったが、その斬撃は少女が左手で操る短剣に流された。そして、
「なにっ!?」
攻撃後の隙を突くように右の手から繰り出されるレイピアの刺突をウルードは体を逸らして、鎧の表面で流した。火花と金属質な悲鳴が鎧から上がる。
不本意ながらも、守勢に回されたウルードの足が止まった。
「どけ、女を斬る趣味はない」
足を止められつつも、その技量を認めつつも、ウルードはそう口にした。その言葉通り、女を斬るのは騎士たる彼の本意ではない。一度止まってしまった今、見逃すのもやぶさかではない。
「そうもいきません。これ以上、被害を増やしたくはありませんから」
「……そうか」
ならば、女といえど斬るのみ。そう心に決めるも、僅かなしこりを残すウルードに女は言う。
「それに私はこたびの援軍の指揮官。そう聞いても私との決闘を避けますか?」
思わぬ宣言にウルードはしばし言葉を失った。そして、
「くっクククッ」
圧倒的優勢な敵の指揮官が自らの身を危険に晒し、自身の目前に現れた。
――なんと愚かなことか。
そう思いながらも、ウルードが笑い声を漏らした半分の理由はそれに対する失笑とは別のものだ。部下の命を守るため、前面に出てきたアイレーンにどこかで好感を覚えたのも笑いの理由の一つだっただろう。
「いや、それでは遠慮なく斬らせてもらおう」
女であれ何であれ、敵の指揮官。しいては部下の仇。もはやウルードに躊躇う理由などありはしない。
「可能なようでしたら。でも、その前にあなたのお名前をお伺いできますか」
不敵な台詞を口にしながらも、自らが手にかけるものを心に刻むため、アイレーンは尋ねる。
「サラーフ親征軍第二軍将軍ウルード」
その名乗りを受け止め、アイレーンはウルードを見つめる。
「ビラル神殿騎士団、聖アラストゥス軍将軍アイレーン」
名乗り返しを受け、ウルードは剣を立てた。
「参る」
ウルードの短い宣言が、開戦の合図になった。
短剣ごと斬り伏せる剛剣だった。
そのウルードの斬り下ろしを、アイレーンは相手よりもはるかに短い剣でいなす。それの意味するところを理解するウルードは警戒を深める。
短剣での防御。小回りが利く故にそれは非常に相手の攻撃に合わせやすい。
反面、圧倒的に重量が軽く、遠心力による威力もつけにくいそれで長剣の攻撃をさばくには、相手の斬撃に耐えうるだけの握力、腕力、そして技量が必要だ。
華奢な見かけからは想像もつかないほどの膂力と実力をアイレーンは秘めている。
それを警戒しながらも、攻撃の手を緩めることもなく、ウルードは考え続ける。
アイレーンの短剣とレイピアによる二刀流のわけを。
これが貴族同士の決闘とでもいうのであれば、その装備にさほど違和感はない。
しかし戦場でとなれば、その装備はあまりに場違いだ。
頑丈な鎧で身を守る騎士が何十、何百と周囲にひしめく戦場では、その装備はあまりに軽い。幾百の鎧を斬り裂き、敵を葬り続けるには、あまりにも貧弱な装備だ。
ありえない。
なればこそ、なぜ敵はそのような装備をしているのか。
疑問の渦中にあるウルードだが、その解に至る余裕をアイレーンは与えてくれなかった。
アイレーンの呼吸が変わる。
受けに徹することで、ウルードの斬撃を見切ったか。
短く、攻撃の切れ間に、息を吐き、アイレーンはレイピアによる刺突を繰り出す。
どうしても鎧が薄くなる関節部、隠しきれない顔を狙う正確無比な攻撃。
速い!
長剣を操るウルードに比して、そのリズムは一テンポどころか、二テンポも三テンポも速い! 圧倒的な速度差。
剣が軽いというだけではない。斬撃と刺突。曲線と直線の軌道の差もあまりに大きい。
これを狙っての軽い剣の二刀装備か!
舌を巻きながらも、ウルードは攻撃を避ける。いいや、正確には流す。
速度では敵わない。しかし、速度を選んだことにより、アイレーンの剣の攻撃は重さで圧倒的に劣る。
レイピアがダメージを与えられるとしたら、鎧の関節部か、鎧のない部分。
ならば、狙われた部位を外し、威力を流すように受ければ、鎧で防ぎうる攻撃だ。
大抵の人間は圧倒的なスピード差になすすべもなく早い段階で敗れるだろう。
しかし、ウルードは初撃を交わし、その後も受け流すことで、アイレーンの攻撃のスピードに対応してきている。もはや不意を打たれることもない。
だが短剣の守りを長剣のスピードで抜けることも難しく、互いに決め手を欠く。
――それに甘んじるほど、ウルードは大人しくなかった。
アイレーンがウルードの剣を見切って全ての攻撃を受け流しているならばまた、ウルードもアイレーンの剣を見切った。
どれほど速かろうと、どれほど技量が卓越していようと、アイレーンの剣は軽い。装甲の薄い部分を狙われ負傷しようと、一撃でその剣が命に届くことはない。
なれば!
アイレーンの刺突がウルードの左肩関節へと閃く。
ウルードはもはやそれを避けようとはしない。
構うことなく、全霊の力を込めて剛剣をアイレーンへと振り下ろした。
防御を捨て例え腕を持っていかれようと、相手を打ち砕く。
肉を切らせて骨を断つ!
覚悟の、乾坤一擲の、一撃。
――しかしそれは、今までアイレーンの前で散っていった数多の武人と同じ選択にすぎなかった。
「フッ!」
鋭く、アイレーンは息を吐いた。
刺突を繰り出す腕に捻りを加える。その過程でウルードの左肩を狙った剣は首へと軌道を変える。
そして常なら引き戻すために留める腕を、抉りこむように肩まで突き込んだ。
それらが生んだのは回転力と突進力。
そして、相乗する破壊力!
アイレーンのレイピアがウルードの喉へと届いた。
鉄の鎧を貫き、レイピアはウルードの首裏まで突き抜ける。
「ガハッ!」
血を吐き出して、ウルードは後方へ吹き飛ばされた。
「ウルード様!」
決闘を見守っていた副官のバクル、側近の騎士達が悲鳴を上げる。
終わった。
瞳を伏せるアイレーンの前ではしかし、信じえぬ光景。
荒々しく首を貫かれたウルードが、それでも立ち上がる。
「ガッ!」
血を吐きながらも、首に生やしたレイピアの空隙からヒューヒューと息を漏らしながらも、自らの剣を杖代わりにウルードは立つ。
そして首のレイピアを自らの手で引き抜いた。
『私はサラーフ軍第二軍将軍ウルード! ここで倒れることはできん!』
最早言葉にならない叫び。
しかし凄絶な笑みを浮かべて、ウルードは剣を振りかぶり、前に踏み出した。
その姿に神殿騎士ですら息を飲んだ。
アイレーンも恐れと、そしてそれ以上の悲しみに首を振り、替えのレイピアを抜く。
だがそれまでだった。
ウルードは二歩目を踏み出すこと叶わず、地へと倒れた。
そしてそのまま動かない。
「ウルード様!」
再びの悲痛な叫び。
「勝負はつきました! 退きなさい!」
「アイレーン様!?」
アイレーンの呼びかけ。それに神殿騎士団が声を上げる。異教徒を逃がすことなど、神殿騎士団にはありえない。
しかし、それは杞憂に過ぎなかった。
「おのれえ!」「ウルード様の仇!」
将軍を討たれたサラーフ第二軍の騎士は復讐の、あるいは殉死の光をその目に宿して神殿騎士団へと斬りかかる。
「かくなる上は一人でも多く、ウルード様の道連れを増やせ。全騎、突撃!」
最後の指示を出して、副官バクルはアイレーンへと向き直る。
「言葉はいらぬ。我らの最後の剣、その身に刻みこませてもらおう」
バクルは低くアイレーンに告げた。
最早、止めることは叶わない。
アイレーンの制止は虚しく、ただ剣戟の音だけが戦場の最後を彩った。
※
「逝ったか、ウルード」
ハラールはぽつりと呟き、弔うように剣を立てた。
鬨の声は沈み、剣戟が絶える。熱が静まり、争いの臭いが大気に溶けていく。
数多の戦場を潜り抜けたハラールは全てを感じ取り、戦が終わったことを、残してきた二軍が全滅したことを、理解した。
そしてそれは、ハラールと並走するサラーフも同様だった。
ウルード、馬鹿な男だった。
命さえあれば次がある。逆にいえば、それがなければ何も残らない。だというのに、ウルードは率先して殿を申し出た。
なんと愚かな男か。
そう、サラーフは出会った当初もウルードに同様の感想を持った。
初め、ウルードは宰相の命を受け、サラーフ率いる奴隷軍の鎮圧に訪れた。
ウルードの手勢は精兵が一万。片やサラーフの手勢は奴隷兵が五千。戦は時の運とはいえ、ウルードが優位にあったのは間違いない。
その中、ウルードは危険を顧みずサラーフ陣営を訪れた。
『お前みたいな若造がこの軍の頭だというのか?』
『貴様、その素首斬り落とされたいか?』
『奴隷上がりとはいえ礼儀のなってない奴だ』
『喧嘩を売りに来たのなら言い値で買うぞ?』
『まあ待て。私はお前達を助けに来たんだぞ?』
『何?』
『一緒に私を戦わせてくれ』
『信用できんな。なぜ宰相を裏切る?』
『宰相も王族も、もはやこの国にも、人々にとっても害悪にすぎん。ならば、除去せねばならん』
『……その目、演技なら大した役者ぶりだ。しかし、その理屈なら我らがこの国と民にとって害となったらどうするつもりかな?』
『決まってる。その時はお前達も斬り捨てるまでだ』
そう、そうだったのだ。
ウルードは彼の地を愛し、その地に生きる人々のために生きた男だった。
だからこそ、その場所が腐敗していくのに耐えられなかった。
ゆえにいち早く旧王朝を見限り、サラーフの元に来た。
――あれは人ではなく、自らの国に仕えていたのだ。
だというのに、なぜ自分のような我欲に塗れた男に最後の瞬間まで仕えようと思ったのか。
その答えは今もってわからず、そして永久に失われ、いや奪われてしまった。
サラーフの血潮が沸き立ち、肺腑が煮えたぎった。その感情をサラーフは知らない。
――覚えていろ。この借りは必ず返す。
それはサラーフが覚えた初めての真の怒りだった。
終章 アストテラン終戦、新たなる再興
「ユーグ様! ご無事ですか!?」
ビラルの援軍から駆けだしたマリヤが尊敬する騎士の安否を問う。血濡れのアストテラン騎士団の鎧の群れ。その周りには夥しい数の死体が積み重なっていた。それの多くはサラーフ兵だが、アストテラン騎士団も半数以上が死に絶え、残った者も片腕を失うなどその惨状たるや筆舌に尽くしがたかった。
そしてマリヤの声に幽鬼のように立ち尽くしたアストテラン騎士達の目が向く。
さしもの神殿騎士団もその異様な迫力に息をのんだ。
「……マリヤか」
ゆらりと幽鬼の一人が振り返りマリヤの名を呼ぶ。返り血で鎧を染め上げたその姿にマリヤは一瞬、戸惑いを現す。しかし、次の瞬間には抱きついていた。
「よかった、ご無事で」
疲弊の極致にあったユーグはマリヤを受け止めきれず背から地面に倒れ込む。しばし呆然とするユーグだったが、やがて憑き物が落ちたように笑みを浮かべた。
「お前のおかげだ。よく援軍を連れてきてくれた」
ユーグはマリヤの頭に優しく手を置く。
「も、もう。子供扱いしないでください」
口ではそう言いながらも、マリヤは頬を染めて俯いた。その光景に生き残ったアストテラン騎士は我に返ったように息を吐き出して地に倒れ込み、笑い声や泣き声を上げた。
「あなたは?」
ビラルの援軍から抜け出たアイレーンがユーグに問いかける。他の騎士の物よりも太作りな剣と、豪奢な鎧。そして何よりも疲弊しながらも感じられる強者のプレッシャーにアイレーンは思わず尋ねていた。
ユーグもまたアイレーンの佇まいと、その雰囲気を感じ取り居住まいを正す。
そして口を開こうとしたところで、
「ユーグ!」
先刻別れたばかりなのに、随分久しぶりに感じられる声がユーグの名を呼んだ。
その声にユーグは振り返り、その名を呼ぶ。
「ユーリイ様」
互いの無事を確認し、二人は言葉もなく佇んだ。
「失礼ながら、あなたがこの地の領主ですか?」
再び、アイレーンが今度はユーリイに尋ねる。
「ええ、私がアストテランの領主、ユーリイです」
「これは失礼しました。私はビラル神殿騎士団聖アラストゥス軍将軍アイレーンです」
アイレーンは馬を下り、胸に右手を置き、拝礼する。その名乗りを聞いたユーリイの背後のアストテラン民の間にざわめきが走る。聖女アイレーンの高名は遠く離れたアストテランの地においても広く知れ渡っている。
「これは……。頭をお上げください。聖女様にお目にかかれるとは光栄です」
言葉遣いこそ礼を欠かぬよう正したものの、思わぬ相手の素性にさしものユーリイも動揺を隠せなかった。
「それではお言葉に甘えさせていただきます」
凛とした美貌に浮かぶ柔らかな笑み。それだけで見る者を惹きつける存在感と魅力。やりにくい相手だ、ユーリイは思った。これが素のものであれ、計算されたものであれ、これほどのカリスマを持つ相手に下手なことはできない。彼女と敵対することがあれば、それだけでこちらが悪ということになりかねないだけの何かを彼女は持っている。
「この度の救援、まことにありがたく存じます。皆様の御威光もあり、辛くも侵略者を退かせることができました」
ユーリイは無難な言葉を重ねる。マリヤが果たしてどこまで話しているのか。それが問題だ。
「いえ、ここまで守り切ったユーリイ様のご采配があってこそです。異教徒の大軍相手に、わずかな騎士と民兵のみで、よくぞ今まで耐えてくれました」
「私の采配など。騎士団も、民も、そして傭兵団も、全ての者がこのアストテランを守るために全霊を尽くしてくれました。その皆の力があってこその結果です」
形式的なやり取り。ユーリイは表面を笑顔で覆いながらも、内心では冷や汗をかいている。果たしてビラルの援軍は、もう一つの援軍について知っているのか。
「そう謙遜なされなくてもよろしいでしょうに。それだけでは、あの異教徒の軍を相手に守り切ることはできないはず。それにマリヤさんからいろいろとお話は聞いています」
異教徒を強調した上で、含みのあるアイレーンの言葉にユーリイは面持ちを改める。この相手は知っている。その上で、こちらの出方をうかがっている。
「そうですね。少々小細工は弄させてもらいましたが、それも皆の協力あってのこと」
それでも、のらりくらりとユーリイは確信を避ける。触れずにすむならその方が良い。
「いやー、間に合ったみたいだな」
そんなユーリイの思惑とは裏腹に、アルがその場へと現れた。その背には続々と援軍のアラム人が続いている。
「アラム人!?」
話を聞いていた一部のビラル騎士を除く全てのビラル兵がにわかにざわめく。中には早くも剣を鞘から抜いている者もいた。黒い肌に赤色の目。アルの出で立ては、アラム人を見たことがない者でも、一目でアラム人、すなわち敵と分かるものだ。
「おい。それはどういう了見だ?」
殺気立つビラルの援軍に、アルは睨みを利かせる。手で背のアラム人を抑えているものの、目の光は交戦も辞さぬ色が見えた。
そんな両者をユーリイとアイレーンがそれぞれ手で制する。
「さて、問題は彼らです。あなたが呼び寄せた彼ら、旧サファール王朝派の援軍。あなたは彼らをどうするおつもりですか?」
鋭い目でアイレーンはユーリイを見る。それは試すような、あるいは何かを推し量るような眼差しだった。
「どうもこうもない。彼らはアストテランへの亡命を希望している。そして、すでにアストテランへの協力を示してくれた。ならば私は受け入れるだけだ」
ユーリイの言葉にビラル援軍の各所で悲鳴のように非難の声が上がった。
「ふざけるな!」「異教徒を受け入れるだと!?」「そいつらは敵だ! 我が神に背くものだ!」「多くの仲間がそいつらに殺された! その報いにそいつらの血を流せ!」
アイレーンは顔に苦渋を滲ませるも、それを止めることはしない。神殿騎士団の団長としては、異教徒を責める言は止めえぬのだ。このままでは神殿騎士団による虐殺が起こりかねないほどの敵対心が膨れ上がるが、アイレーンにはそれを防ぐことは叶わない。
「彼らは我が領民だ!」
アラム人の前に立ち、神殿騎士団へと向き直り、ユーリイは言い切った。
その勢いに唖然と口を開く騎士達だが、それで非難が止むはずもない。
「悪魔に魂を売り渡すか!」「領民、だと!? 貴様正気か!?」「殺せ! 異教徒は皆殺しだ!」
止まない暴言にアラム人側も堪忍袋の緒が切れるか。剣の柄へと手が伸びる。
「神は等しく人を作られた」
ユーリイが神殿騎士に向かって語る。
「なれど、この世に弱者あり」
神殿騎士にとっては特別な意味のある言葉。
「なれば、弱き者が虐げられる時あらば、汝が子羊を守らん」
先程も耳にした言葉。
「あなた達はそう誓ったのだろう」
ユーリイの言葉にアイレーンは目を見開く。どこか信じられないものを見るように、信仰者が天使を見つけたかのように、アイレーンはユーリイを見た。アラム人を弱き者と、守るべき子羊とネセウス教徒の領主が口にするなど。
しかし、他の神殿騎士は苛立たしげに舌を打った。
「なれば、弱き者を虐げる者あらば、汝が悪逆を駆逐せん!」
アイレーンの脇に控えていた神殿騎士が一歩前に踏み出る。
「汝、信仰の剣とならん!」
その神殿騎士は剣を抜き、目前に捧げる。
「子羊とは迷える信仰の子、すなわちネセウス教徒を指す。そして悪逆とは、その子羊を虐げる者、つまり今回ならばこの地に侵攻してきたアラール教徒だ」
神殿騎士はアラム人に剣を向ける。流石に耐えかねたか、アルが剣を抜いた。
「そして、我らは信仰の剣! この剣は悪逆を討ち、我らが神を守るためにある!」
その言葉を皮切りに神殿騎士が抜刀する。それに対抗するようにアラム人も剣を抜く。
「いかに神殿騎士団といえど、他国の領民を害する権利など無い! 剣を納めろ!」
決然とユーリイは一喝した。その迫力に神殿騎士団は虚を突かれる。しかし、立ち直った神殿騎士達が何かを叫ぼうとしたのを、
「ユーリイ様の仰る通りです。私達に他国の領民を害する権限などありません」
アイレーンが静かに制止した。
「し、しかし、団長!」
「主はカリオテの民も受け入れられた。かつての裏切りの民は、主に仕える敬虔な信徒となった」
アイレーンはネセウス教聖書の一節をそらんじた。その言わんとしたことを察したビラルの騎士は黙り込む。
「剣を納めなさい。今、我らにはそのようなことよりも、他にしなければならないことがあるはずです」
アイレーンの命令に、神殿騎士はしぶしぶと剣を納める。しかし、心から納得していないことはその表情からも明らかだった。
「我が部下の非礼をお許しください」
「いえ、教会の剣たる神殿騎士団にあっては仕方ないことと存じます」
真摯なアイレーンの謝罪にユーリイも素直に応じる。団長が話の通じる相手でよかった。ユーリイの内心を安堵が満たした。
「ところでこの森を抜ければ、裏側からヴィラティアに回りこめるのですよね?」
「そうですが……どうかしたのですか?」
「ご存じでないかもしれませんが、ヴィラティアにサラーフ軍の別動隊が迫っているのです」
思いがけない事実にユーリイは驚く。しかし、驚いた理由はアイレーンが思う理由とは別物だ。サラーフ……なんと食えない男か。
「それはお心安らかでないことでしょう。ご指摘の通り、確かに森を抜ければ裏からヴィラティアへと抜けれます。急ぎ、救援に向かってください」
「ありがとうございます。それではご挨拶もそこそこですが、向かわせていただきます」
そう会話を区切るとアイレーンが城門へと手を示す。それを合図にビラル援軍が進軍を再開する。中にはアラム人を睨む者も多く、剣呑な空気は最後まで揺らぐことはなかった。
「アラム人を受け入れるとなると多くの問題が生じると思われますが?」
進軍の喧噪にまぎれ、アイレーンはユーリイに話しかける。
「すでに先立って多くの難民を受け入れてきました」
ユーリイの思いもよらぬ言葉にアイレーンは目を丸くした。
「問題は、起きなかったのですか?」
声にも驚きは隠せない。
「起きなかった、とは言えません。けれど、それを乗り越えての絆があればこそ、アストテランも私も今回、救われました」
援軍を率いてきたアルを見て、ユーリイは頭を下げる。それを見たアルは頭をかき、首を振った。
「どうすれば、どのようにして、問題を乗り越えたのですか?」
「具体的にどのようにして、とは私にも分かりませんし、答えられません。ただ行き場のない相手を受け入れ、生業を与えた。彼らはそれをこなしてくれました。そして、元からの領民は抵抗はあったものの、彼らと交流を持ち、受け入れてくれました」
「そのようなことがありえるのでしょうか?」
アイレーンは納得しかねるように目を伏せる。
「現に私達はそのようにして、今のアストテランを築けました。奉ずる信仰や言葉が違えど、同じ人間。互いに分かり合うことはできる、と私は考えています」
「同じ人間……ですか。私達は、本当に分かり合うことができるのでしょうか?」
「できる、と私は思いたい。ネセウス教圏の人々も元をたどれば、別の民族であり、相争っていた。それが今は、お互いを同じネセウス教徒として認めています」
「しかし、同じネセウス教圏の人々ですら、利権をめぐり争っています」
「それでも、こうしてあなた方は救援に駆けつけてくれました。分かりあうことが難しいというのなら、せめて同じ目的のため協力することはできるはずです」
「本当にそのようなことが」
「少なくとも、私はこれまでも、これからも、できるよう努めていくつもりです。それが、領主としての私の務めですから」
アイレーンは眩しいものを見るように目を細めた。
「あなたは素晴らしい人ですね」
聞いたユーリイは目を見開いてアイレーンを見る。
「まさか聖女様にそんなことを言われるとは……光栄ですね」
照れたようにユーリイは頭をかく。
「……許されるなら、あなたとはまたゆっくりお話したいものです」
アイレーンはアストテランを離れていこうとする自らの軍を寂しげに見やる。
「いつでも歓迎しますよ。私はずっとここにいますから」
「ありがとうございます。それでは失礼いたします」
「御武運を」
アイレーンが騎乗し、駆ける。それを見送り、ユーグがユーリイの脇に歩み寄った。
「それで、これからどうするおつもりですか?」
援軍に駆け付けた一万のアラム人を見てユーグは問いかける。
「……今までも難民は受け入れてきた。その数がちょっと増えただけさ」
苦笑するユーリイに、ユーグは微笑みかける。
「また、責任が増しましたね」
「できれば楽をさせてもらいたいんだが」
「そうはいきません。あなたが私達の領主なのですから」
軽口を交わしながら、ユーリイは領民へと向き直った。その数に、内心で溜息をつきたくなる。しかし、久方ぶりに見せる領民の自然な笑顔にユーリイは微笑む。
「そうだね。最大の危機は乗り越えた」+
呟くユーリイの目には、歩み寄ってくるアルやコヴァーリ、アーリアの姿が映った。
「君達もいてくれる」
仲間の姿への安心感と、欠けた姿への痛みがあった。そこに今まであったオーウィンの姿は無い。つまりは、そういうことだろう。
『指揮官が内心の不安を表に出すなよ』
かつてオーウィンに言われた言葉がユーリイの脳裏をよぎる。ああ、わかってるよ。
「だから、これからもうまくやれるさ」
見ててくれ、すぐにアストテランを再建する。
みんながずっとこの笑顔を浮かべられるようにしてみせるさ。
領民を見るユーリイの背をいつものようにコヴァーリが遠慮なく叩いた。痛みに顔をしかめたユーリイが文句を言おうとすると、今度はアルがその背を叩いた。その様子にユーグとアーリアが笑いをこぼす。そんな彼らの元に領民が殺到する。歓喜の声が響き渡り、笑顔が溢れた。
そこには、確かに守られた平和なアストテランがあった。
投稿作品です。
視点移動が多い点、萌えがない点など気になっております。
感想、意見など参考にさせていただければと思っていますのでよろしくお願いします。